2008年10月07日

予算委員会だそうだ!!

予算委員会だそうだ!!




<静香ちゃん>

山本拓って誰~レだ!!??

朝日新聞より引用開始

自殺した松岡利勝・前農水相の事務所費問題について、山本拓・農水副大臣=自民=が福井県坂井市で20日に開かれた演説会で、

「芸者の花代として使った、と聞いた」

などと発言していたことがわかった。その後、「話した内容は事実ではなかった」として、発言を撤回した。

演説会で山本副大臣は事務所費問題に触れ、

「たいした話ではない。赤坂の芸者に行く際に、花代は領収書がもらえないんですよ。それを事務所費で払っていたという話だった」

などと発言したという。山本副大臣は21日、朝日新聞の取材に「松岡さんとは昔から友だちで、若い頃一緒に遊んだ仲間。

『政治とカネ』に絡んで参院選で自民党に逆風が吹いているので、会場の人を和ませるために冗談を言った。まともに取られたのは心外だ」と話した。
<引用終わり>

山本拓って誰~レだ!!??

そうです!!
あの極端に右巻きの奈良県選出の衆議院議員“高市早苗”の亭主・・・・・・
まあ、その動き方は「マダム・回転寿司」、今では回転したままで干からびちゃった小池百合子元防衛大臣、前・自民党総裁候補者と似ている。
新進党だか、なんだかから自民党に寝返った政党渡り雌鳥・・・・・・

しかし、昨日の予算委員会での“山本拓”てえのは品がなかった。
その、自殺した松岡勝利元農相のときの農水副大臣で、それが、あの松岡勝利農相事務所日問題の「芸者の花代として使った、と聞いた」発言・・・・・

まっ、この山本拓さんも新進党から自民党への寝返り組みで、つまり夫婦そろって細川時代の新党ブームで国政に。
因みに、山本拓、国政ではないがバリバリの世襲政治家三代目。

ところで、その“予算委員会”なんだけど・・・・・・

なんか、パッとしないというか、バカバカしいというか、とにかく今アメリカが大変なことになっているという緊張感がまるでない。
アメリカなんてどうでもいいんだけど、株価1万ドル割れ、日本の東証も1万円割れ、どうでもいいんだけど・・・・・・
為替が1ドル100円を割りそう・・・・・1ドル50円くらいでアメリカ政府の表向きの日本からの借金がチャラになるとか・・・・・

まあ、日本政府も日本の銀行も国民から税金やら、預かり利息の国策不払いで円やらドルやらで現ナマだけでも300兆円くらい持っているらしい。
つまり、国民の社会保障には四の五の言ってほとんど使わず、どうも金を溜め込むのが大好きな政府、自民党のようだが・・・・・・
悲しいかな、敗戦国、なんだかんだ言われてアメリカに毟り取られている。

まあ、金で済んでいるうちはいいが、そのうちこんな状況じゃあ、「戦争」なんていうことにもなりかねない。
早い話、アメリカにとって、借金チャラにするには「戦争」が一番の特効薬なんだから。

それにしても、今度のアメリカの国策、金融機関救済に“75兆円”税金投入というんだけど・・・・・・
低所得者に住宅ローン組ませてそれを証券化して、つまり人の借金を「証券」にして売り出すという「ベニスの商法」。
日本の年金組合も数百億円も損したとかニュースで言っていたけど、ほとんどが一般大衆には全く関係のないところでの話・・・・・・

それにしても、大儲けしたやつらそのまんまなんだろうか。たしか、日本のバブル崩壊のときなんかアメリカの“SEC”、証券取引委員会とかは、

「イカサマは許さない、全部、お縄にする」

とか言ってたけどどうなるんだろうか?

しかし、予算委員会・・・・・・

つくづく思うんだけど、麻生太郎って、総理大臣「似合わない」ね(笑)。

もしかして、相当頭悪いのかもしれない・・・・・・
答弁、答えになってない。

まだ、福田さんのほうがましだったような、安倍さんのほうがましだったような(笑)。

つまり、福岡の豪族、財閥の御曹司の頭では世間話はできない。

それにしても、民主党、いまさら菅直人、岡田克也、前原誠司でもねえだろう・・・・・

「代表経験者が質問」だって!!

みんな、シクジッタ連中ばっかじゃあねえか!!

しっかりしろよ民主党!!!!!

しかし、亀井静香ちゃん、流石でしたね。役者が違う・・・・・・

  


Posted by 昭和24歳  at 20:58Comments(0)

2008年10月07日

僕の細道“八間道路”


それは僕の初めての外国だったのかも知れない・・・・・・

僕の細道“八間道路”

幼い頃、母に手を引かれて夕方の買い物はいつも八間道路だった。

それは昭和のその頃どこの横丁にもあった商店街の賑わい。
東小学校の通り、“東一条通”と“八間道路”の交差する角には天田自転車店、その辻向かいの小商い・・・・・
そして“神田菓子店”とたしか、ナントカ園とかいったお茶屋さんだったか?

今では都市計画とかですっかり新改築されて小洒落た自転車店の趣の“天田自転車店”だが、
その天田自転車店、先代がどちらかで自転車店修行ののちに戦後すぐ、そこに商いをはじめたとか聞いた。
神田菓子店は僕の娘たちも東小学校時代には結構お世話になったが・・・・・
僕らの時代は神田菓子店といえば“高級菓子店”の趣で、
お使い物などに母が時々お邪魔するくらいでそれは高嶺の花だった。

お菓子といえば僕らの時代はそう、駄菓子屋が花盛りで、
戦後のそれは今日日の不況どころの騒ぎではない、それどころか食糧統制の時代で・・・・・・・
砂糖、塩、米が配給からようやく専売になった頃。

駄菓子屋のそれはその後大いに騒がれた“サッカリン”、“チクロ”にまみれた、
今ならそれこそそんなものがスーパーに並ぼうものなら今日の“食品偽装”どころの騒ぎではないだろう(笑)。

そんな駄菓子の中で僕の“ベスト3”は、

第一位・・・・・・ソースイカ
第二位・・・・・・ボタンキョウ
第三位・・・・・・いもようかん

ご案内の、サッカリン、チクロまみれの駄菓子・・・・・・
それをたらふく喰らってきた僕らのジンバラはそう考えると相当に鍛え上げられているようだ(笑)。
ちっとやそこらのことではそう簡単にはくたばらない。
僕ら世代が言われる“後期高齢者”になった日にゃあ食いもんには鍛え上げられた爺婆がそこいら中に屯する、
想像しただけでも恐ろしいというか可笑しいというか・・・・・


とにかく母に連れられ毎日のようにお使いに行った八間道路の魚屋。
それは八間道路というより今は珈焙屋とかいう小じんまりとした珈琲ショップになっているところの角をちょいと入った、
そう、実は旧道、“大類里街道”の角にあった魚屋、残念、屋号を失念してしまった・・・・・・
その魚屋さん、今は・・・・・あそこは旭町になるんだろうか、真町になるんだろうか、
都市計画で拡張された東一条通の一角に暖簾を構えている。

あの時代の夕飯といえばほとんどが旬の魚、僕は実は魚は好きだが食べるのが得意ではなかった。
さんまも実に美味しいのだがどうもあの骨が苦手、それとあのハラワタを上手くよけられず、
僕が食べたのは尻尾のほうばかり・・・・・

「頭のほうを食わねぇとエラクなれねえぞ!!」

と、いつも父に言われていたことを思い出すが、
頭のほうをいつも専門に食っていた父がそれほどエライ人になっていたとは当時も思っていなかったので、

「エラクなれなくてもいいもん」

と、僕はもっぱら母が上手い具合に骨を取り除いてくれた尻尾のほうを食っていた。

田村という屋号の畳三畳を横に並べたほどの八百屋が、その珈焙屋の対面、そこ、八間道路にあった。
野菜はいつもそこで買っていた・・・・・・

その先には江戸吉という鮮魚店、をざき文具店(どういうわけか“お”ではなく“を”)、松源自転車店、宗塚青果店、
路地をはさんで山口精肉、浦野履物店、春山豆店、すかや・・・・・

“すかや”

それはすでにない。
しかし僕はなんといっても“そば”は『すかや』だった。
因みに、ラーメンは『成吉思汗』、餃子、焼きそばは『らっちゃん』、スパゲティは『シャンゴ』、やきとりは『ささき』だ(笑)。

実は、その“すかや”にアルバイトを高校生の頃やっていた知り合いがいた・・・・・
その知り合いが言うには、「“すかや”の漬け汁はそんじょそこらの漬け汁とは漬け汁が違う」と、たいそう自慢げに言っていた。
聴けば「たしかに!!」であった。“すかや”のそばの美味さはどうやらその漬け汁にあったようだ。
もちろん、あそこでおばさんたちが手際よく茹で上げるそばの美味さもあったのだろうけど・・・・・

八間道路には同級生もかなりいた。

ざっと数えただけでも田口君(理容所)、春山さん(豆菓子店)、藤木君(喫茶もりえ)、浦野さん(下駄草履店)、柴田さん(葬祭店)、宗塚さん(八百屋)、田口君(御茶屋)、宮口君(豆腐店)、阿部君(鳶職)、
高橋君、武藤さん、新井君(クリーニング店・先日逝去)、・・・・・・
まるで“ちびまるこ”の世界ではあるが、とにかく東小学校が1000人からいた時代の話なのだから・・・・・

その“1000人”からの小学生の数からも、その八間道路の賑わいが想像できる。

そうそう、その八間道路には当時ではハイカラな喫茶店“モリエ”なんていうのがあった。
僕が小学校3年の時(昭和32年)にはすでにあったのだから超ハイカラ、僕の同級生上記の藤木君の家が商っていた。

澤田模型店・・・・・・あの時代の僕らには夢の世界がそこにはあった・・・・・
エンジンつきの模型飛行機やら鉄道模型、まだプラモデルが出現する以前の話だから、
小学生だった僕らはその澤田模型店の前で指をくわえて立ち尽くすのが精々だった(笑)。

いつしかボクシングジムに変わっていた、なんと言ったか、そこには“銭湯”があった。
僕が通った銭湯は旭町の“東湯”、もっと小さい頃母と行ったのは椿町の“椿湯”だったが、いつしか知らぬ間に、
煙突からは煙が消え、そして煙突も・・・・・今ではその面影すらない。

そうだ、“すかや”のチョイト先の“上野医院”はご案内だろうか。
その上野医院のご子息、僕よりも5つ、6つ上だったろうか、第一次小泉内閣のときの副官房長官だった・・・・・
東小-高崎二中-高高-東大-厚生省-参議院議員(福田系・現在落選中)。
ちなみに政治家といえば、福田康夫前内閣総理大臣独占選挙区にあっていつも悪戦苦闘する“中島正希”民主党候補。
このお方も東小(昭和28年生まれ)が母校、次期総選挙での健闘をご期待したいところです。


僕の細道“八間道路”

その先は電車通り(昭和28年廃線)、そして銀座通り・・・・・・・
えびす講には八間道路を抜けて電車通りから“うろころ”、銀座通りへ。

まさに八間道路は僕にとって“新世界”への入口だった。
エレキ人生を目指して初めて東京へ、一人で旅立ったのも八間道路の交差点・・・・・・


  


Posted by 昭和24歳  at 15:51Comments(0)

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