2008年10月07日

僕の細道“八間道路”


それは僕の初めての外国だったのかも知れない・・・・・・

僕の細道“八間道路”

幼い頃、母に手を引かれて夕方の買い物はいつも八間道路だった。

それは昭和のその頃どこの横丁にもあった商店街の賑わい。
東小学校の通り、“東一条通”と“八間道路”の交差する角には天田自転車店、その辻向かいの小商い・・・・・
そして“神田菓子店”とたしか、ナントカ園とかいったお茶屋さんだったか?

今では都市計画とかですっかり新改築されて小洒落た自転車店の趣の“天田自転車店”だが、
その天田自転車店、先代がどちらかで自転車店修行ののちに戦後すぐ、そこに商いをはじめたとか聞いた。
神田菓子店は僕の娘たちも東小学校時代には結構お世話になったが・・・・・
僕らの時代は神田菓子店といえば“高級菓子店”の趣で、
お使い物などに母が時々お邪魔するくらいでそれは高嶺の花だった。

お菓子といえば僕らの時代はそう、駄菓子屋が花盛りで、
戦後のそれは今日日の不況どころの騒ぎではない、それどころか食糧統制の時代で・・・・・・・
砂糖、塩、米が配給からようやく専売になった頃。

駄菓子屋のそれはその後大いに騒がれた“サッカリン”、“チクロ”にまみれた、
今ならそれこそそんなものがスーパーに並ぼうものなら今日の“食品偽装”どころの騒ぎではないだろう(笑)。

そんな駄菓子の中で僕の“ベスト3”は、

第一位・・・・・・ソースイカ
第二位・・・・・・ボタンキョウ
第三位・・・・・・いもようかん

ご案内の、サッカリン、チクロまみれの駄菓子・・・・・・
それをたらふく喰らってきた僕らのジンバラはそう考えると相当に鍛え上げられているようだ(笑)。
ちっとやそこらのことではそう簡単にはくたばらない。
僕ら世代が言われる“後期高齢者”になった日にゃあ食いもんには鍛え上げられた爺婆がそこいら中に屯する、
想像しただけでも恐ろしいというか可笑しいというか・・・・・


とにかく母に連れられ毎日のようにお使いに行った八間道路の魚屋。
それは八間道路というより今は珈焙屋とかいう小じんまりとした珈琲ショップになっているところの角をちょいと入った、
そう、実は旧道、“大類里街道”の角にあった魚屋、残念、屋号を失念してしまった・・・・・・
その魚屋さん、今は・・・・・あそこは旭町になるんだろうか、真町になるんだろうか、
都市計画で拡張された東一条通の一角に暖簾を構えている。

あの時代の夕飯といえばほとんどが旬の魚、僕は実は魚は好きだが食べるのが得意ではなかった。
さんまも実に美味しいのだがどうもあの骨が苦手、それとあのハラワタを上手くよけられず、
僕が食べたのは尻尾のほうばかり・・・・・

「頭のほうを食わねぇとエラクなれねえぞ!!」

と、いつも父に言われていたことを思い出すが、
頭のほうをいつも専門に食っていた父がそれほどエライ人になっていたとは当時も思っていなかったので、

「エラクなれなくてもいいもん」

と、僕はもっぱら母が上手い具合に骨を取り除いてくれた尻尾のほうを食っていた。

田村という屋号の畳三畳を横に並べたほどの八百屋が、その珈焙屋の対面、そこ、八間道路にあった。
野菜はいつもそこで買っていた・・・・・・

その先には江戸吉という鮮魚店、をざき文具店(どういうわけか“お”ではなく“を”)、松源自転車店、宗塚青果店、
路地をはさんで山口精肉、浦野履物店、春山豆店、すかや・・・・・

“すかや”

それはすでにない。
しかし僕はなんといっても“そば”は『すかや』だった。
因みに、ラーメンは『成吉思汗』、餃子、焼きそばは『らっちゃん』、スパゲティは『シャンゴ』、やきとりは『ささき』だ(笑)。

実は、その“すかや”にアルバイトを高校生の頃やっていた知り合いがいた・・・・・
その知り合いが言うには、「“すかや”の漬け汁はそんじょそこらの漬け汁とは漬け汁が違う」と、たいそう自慢げに言っていた。
聴けば「たしかに!!」であった。“すかや”のそばの美味さはどうやらその漬け汁にあったようだ。
もちろん、あそこでおばさんたちが手際よく茹で上げるそばの美味さもあったのだろうけど・・・・・

八間道路には同級生もかなりいた。

ざっと数えただけでも田口君(理容所)、春山さん(豆菓子店)、藤木君(喫茶もりえ)、浦野さん(下駄草履店)、柴田さん(葬祭店)、宗塚さん(八百屋)、田口君(御茶屋)、宮口君(豆腐店)、阿部君(鳶職)、
高橋君、武藤さん、新井君(クリーニング店・先日逝去)、・・・・・・
まるで“ちびまるこ”の世界ではあるが、とにかく東小学校が1000人からいた時代の話なのだから・・・・・

その“1000人”からの小学生の数からも、その八間道路の賑わいが想像できる。

そうそう、その八間道路には当時ではハイカラな喫茶店“モリエ”なんていうのがあった。
僕が小学校3年の時(昭和32年)にはすでにあったのだから超ハイカラ、僕の同級生上記の藤木君の家が商っていた。

澤田模型店・・・・・・あの時代の僕らには夢の世界がそこにはあった・・・・・
エンジンつきの模型飛行機やら鉄道模型、まだプラモデルが出現する以前の話だから、
小学生だった僕らはその澤田模型店の前で指をくわえて立ち尽くすのが精々だった(笑)。

いつしかボクシングジムに変わっていた、なんと言ったか、そこには“銭湯”があった。
僕が通った銭湯は旭町の“東湯”、もっと小さい頃母と行ったのは椿町の“椿湯”だったが、いつしか知らぬ間に、
煙突からは煙が消え、そして煙突も・・・・・今ではその面影すらない。

そうだ、“すかや”のチョイト先の“上野医院”はご案内だろうか。
その上野医院のご子息、僕よりも5つ、6つ上だったろうか、第一次小泉内閣のときの副官房長官だった・・・・・
東小-高崎二中-高高-東大-厚生省-参議院議員(福田系・現在落選中)。
ちなみに政治家といえば、福田康夫前内閣総理大臣独占選挙区にあっていつも悪戦苦闘する“中島正希”民主党候補。
このお方も東小(昭和28年生まれ)が母校、次期総選挙での健闘をご期待したいところです。


僕の細道“八間道路”

その先は電車通り(昭和28年廃線)、そして銀座通り・・・・・・・
えびす講には八間道路を抜けて電車通りから“うろころ”、銀座通りへ。

まさに八間道路は僕にとって“新世界”への入口だった。
エレキ人生を目指して初めて東京へ、一人で旅立ったのも八間道路の交差点・・・・・・





Posted by 昭和24歳  at 15:51 │Comments(0)

上の画像に書かれている文字を入力して下さい
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

< 2024年03月 >
S M T W T F S
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            
過去記事

QRコード
QRCODE
アクセスカウンタ
読者登録
メールアドレスを入力して登録する事で、このブログの新着エントリーをメールでお届けいたします。解除は→こちら
現在の読者数 125人
プロフィール
昭和24歳
昭和24歳
オーナーへメッセージ

削除
僕の細道“八間道路”
    コメント(0)