2010年01月10日
“個”を生きようとしない村人・・・・・
個”を生きようとしない村人・・・・・
極貧の家に生れた愛川吾一は、貧しさゆえに幼くして奉公に出される。やがて母親の死を期に、ただ一人上京した彼は、苦労の末、見習いを経て文選工となってゆく。厳しい境遇におかれながらも純真さを失わず、経済的にも精神的にも自立した人間になろうと努力する吾一少年のひたむきな姿。本書には、主人公吾一の青年期を躍動的に描いた六章を“路傍の石・付録”として併せ収める。
小説もそして脚本による演劇、映画も・・・・・
時として己の“生き人”を教えてくれる。
静かに“映画”を見たいですね。
演劇であれ、映画であれ、その全ては役者にかかっています。
今の映画はつまらない・・・・・
実につまらない。
なんなんだろう・・・・・
その“その”つまらなさは?
やはり60年も生きてしまったからだろうか。
10代の頃に見た映画、
路傍の石、次郎物語、そして橋のない川・・・・・・
その年代でしか感じられないものがあった。
それは、恋に憧れていた頃の時代・・・・・
恋をしていた頃の時代、結婚した頃の時代、
そして子どもが出来た頃の時代・・・・・
そしてそして、そして今という時代。
名画に出合った時・・・・・
その映画がいうその時々の社会の理不尽さや、
人生のはかなさ空しさ切なさ・・・・・
そして、時として底知れぬ慟哭と怒りを覚え、“自分なら”と自問自答させる。
そんな映画は今はもうない・・・・・
それはもう今という時代がそうしたものを作らせないのかも知れない。
-----------------------------------------------------------------------------
山本周五郎の言葉。
「この世で生きてゆくということは、損得勘定じゃあない。短い一生なんだ、
自分の生きたいように生きるほうがいい。」
そして・・・・・
「能ある一人の人間が、その能を生かすためには、
能のない幾十人という人間が、眼に見えない力をかしている。」
<ほんとだなぁ・・・・・と思う。>
-----------------------------------------------------------------------------
“初蕾”山本周五郎・・・・・
宮沢りえ、東山紀之・・・・・主、共演の映画だが、
“さぶ”
藤原竜也、妻夫木聡・・・・・
何れも当代最も露出の多いタレント(俳優と呼ぶのかも知れないが)、
そのあまりにもの美形さと日常の行動が希代の作品を“つまらなく”させてしまっている・・・・・
そう感じるのは、僕のこの歳のせいなのか、それともただ単に、
僕が“へそ曲り”であるからなのか(そうかも知れない)。
この手の映画はできれば“オーディション”かなんかでキャスティングして欲しい。
もちろん“どこどこ劇団”のやらせ系のものでないやつで・・・・・
>“個”を生きようとしない村人・・・・・
タイトルとはかけ離れた書き込みになってしまった(笑)。
それを書きたいのに書けないもどかしさ・・・・・・
子どもの授業参観に出席しての感想なんですが・・・・・
それが、書き出せない。
>“個”を生きようとしない村人・・・・・
「集団の中に埋没してしまっている」
それって、「集団の中にいる安心感」なんだろうか。
しかし今やその集団も「個」を守ってはくれやしないのが現実・・・・・
つまり組織の崩壊。大企業のそれですら「組合」は解体されたも同然。
その現実は、日本社会党の崩壊、そして自民党の崩壊だろう・・・・・
かつては集団の中で嬉々としていたモノが、今では悶々とする。
まさに「弱肉強食」の競争社会、自己責任社会。
そしてその集団からはじき出された「個」は「個」に戻れず彷徨する。
その「個」とは自覚だ。「生きる」という自覚・・・・・
つまりその「生きる」という自覚がなければ彷徨するしかない。
自覚しなければならない最低限の「プライド」も失い、たた、上目づかいに社会に背を向けるだけ・・・・・・
「派遣村」、201人が所在不明=2万円支給後、無断外出続出-東京
時事ドットコム
年末年始に住まいのない求職者を支援するため、国と東京都が設置した「公設派遣村」の入所者201人が、求職活動費の現金を支給された後に所在不明になっていることが8日、分かった。
都は6日午前に求職活動に必要な交通費や食事代、日用品代などとして、1人当たり2万円を支給。その後施設から無断で外出する利用者が増えたという。
都は昨年12月28日~1月4日まで、渋谷区の国立オリンピック記念青少年総合センターに「派遣村」を設置。4日以降も継続して大田区の臨時宿泊施設を宿泊先として提供していた。
都によると、7日午後6時現在の臨時宿泊施設の利用者は名簿上は557人だが、実際の宿泊者数は356人のみで、155人が外出手続きをしたまま戻っていないほか、手続きをしていない46人の行方も分からなくなっている。(2010/01/08-14:47)
なんでこういうことになってしまうのか・・・・・・
それが事実なのかどうかは確認できない。
しかし、もし事実だとしたらそこにある善意(国に善意があるわけではない)。
それを見守る国民の心の善意は全く無視されたことになってしまうのではないか。
“個”を生きようとしない村人・・・・・
極貧の家に生れた愛川吾一は、貧しさゆえに幼くして奉公に出される。やがて母親の死を期に、ただ一人上京した彼は、苦労の末、見習いを経て文選工となってゆく。厳しい境遇におかれながらも純真さを失わず、経済的にも精神的にも自立した人間になろうと努力する吾一少年のひたむきな姿。本書には、主人公吾一の青年期を躍動的に描いた六章を“路傍の石・付録”として併せ収める。
小説もそして脚本による演劇、映画も・・・・・
時として己の“生き人”を教えてくれる。
静かに“映画”を見たいですね。
演劇であれ、映画であれ、その全ては役者にかかっています。
今の映画はつまらない・・・・・
実につまらない。
なんなんだろう・・・・・
その“その”つまらなさは?
やはり60年も生きてしまったからだろうか。
10代の頃に見た映画、
路傍の石、次郎物語、そして橋のない川・・・・・・
その年代でしか感じられないものがあった。
それは、恋に憧れていた頃の時代・・・・・
恋をしていた頃の時代、結婚した頃の時代、
そして子どもが出来た頃の時代・・・・・
そしてそして、そして今という時代。
名画に出合った時・・・・・
その映画がいうその時々の社会の理不尽さや、
人生のはかなさ空しさ切なさ・・・・・
そして、時として底知れぬ慟哭と怒りを覚え、“自分なら”と自問自答させる。
そんな映画は今はもうない・・・・・
それはもう今という時代がそうしたものを作らせないのかも知れない。
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山本周五郎の言葉。
「この世で生きてゆくということは、損得勘定じゃあない。短い一生なんだ、
自分の生きたいように生きるほうがいい。」
そして・・・・・
「能ある一人の人間が、その能を生かすためには、
能のない幾十人という人間が、眼に見えない力をかしている。」
<ほんとだなぁ・・・・・と思う。>
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“初蕾”山本周五郎・・・・・
宮沢りえ、東山紀之・・・・・主、共演の映画だが、
“さぶ”
藤原竜也、妻夫木聡・・・・・
何れも当代最も露出の多いタレント(俳優と呼ぶのかも知れないが)、
そのあまりにもの美形さと日常の行動が希代の作品を“つまらなく”させてしまっている・・・・・
そう感じるのは、僕のこの歳のせいなのか、それともただ単に、
僕が“へそ曲り”であるからなのか(そうかも知れない)。
この手の映画はできれば“オーディション”かなんかでキャスティングして欲しい。
もちろん“どこどこ劇団”のやらせ系のものでないやつで・・・・・
>“個”を生きようとしない村人・・・・・
タイトルとはかけ離れた書き込みになってしまった(笑)。
それを書きたいのに書けないもどかしさ・・・・・・
子どもの授業参観に出席しての感想なんですが・・・・・
それが、書き出せない。
>“個”を生きようとしない村人・・・・・
「集団の中に埋没してしまっている」
それって、「集団の中にいる安心感」なんだろうか。
しかし今やその集団も「個」を守ってはくれやしないのが現実・・・・・
つまり組織の崩壊。大企業のそれですら「組合」は解体されたも同然。
その現実は、日本社会党の崩壊、そして自民党の崩壊だろう・・・・・
かつては集団の中で嬉々としていたモノが、今では悶々とする。
まさに「弱肉強食」の競争社会、自己責任社会。
そしてその集団からはじき出された「個」は「個」に戻れず彷徨する。
その「個」とは自覚だ。「生きる」という自覚・・・・・
つまりその「生きる」という自覚がなければ彷徨するしかない。
自覚しなければならない最低限の「プライド」も失い、たた、上目づかいに社会に背を向けるだけ・・・・・・
「派遣村」、201人が所在不明=2万円支給後、無断外出続出-東京
時事ドットコム
年末年始に住まいのない求職者を支援するため、国と東京都が設置した「公設派遣村」の入所者201人が、求職活動費の現金を支給された後に所在不明になっていることが8日、分かった。
都は6日午前に求職活動に必要な交通費や食事代、日用品代などとして、1人当たり2万円を支給。その後施設から無断で外出する利用者が増えたという。
都は昨年12月28日~1月4日まで、渋谷区の国立オリンピック記念青少年総合センターに「派遣村」を設置。4日以降も継続して大田区の臨時宿泊施設を宿泊先として提供していた。
都によると、7日午後6時現在の臨時宿泊施設の利用者は名簿上は557人だが、実際の宿泊者数は356人のみで、155人が外出手続きをしたまま戻っていないほか、手続きをしていない46人の行方も分からなくなっている。(2010/01/08-14:47)
なんでこういうことになってしまうのか・・・・・・
それが事実なのかどうかは確認できない。
しかし、もし事実だとしたらそこにある善意(国に善意があるわけではない)。
それを見守る国民の心の善意は全く無視されたことになってしまうのではないか。
“個”を生きようとしない村人・・・・・
Posted by 昭和24歳
at 14:20
│Comments(4)
同感!
美食に満ち足りた肌つやのよい青年が貧しい時代の人を演じても、
空気感がまるで違います (・・;
します。
善意が自己認識できる時間コストを満
足に代える行動です。
財を買う行為と何ら変わりはありません。
パチンコでもスロットでもたぶん同じ話
です。
社会的に役立つんだ、というボランティ
アのような高邁な話じゃないので勘弁
なところです。
善意だけでは存在しないのが善意で、
相対的な価値尺度のようで、極めて自
明性が高いのであえて申すに恥ずか
しい話です。
ああした花火大会などのゴミ拾いのボ
ランティア活動などでも、目立つのは
親子参加や孫連れなどのグループで、
休日の利用法として、ほとんどファミレ
ス、デパートに行くか、ボランティアに
行くかだけの違いであると考えられま
すm(_)m
僕が“へそ曲り”であるからなのか(そうかも知れない)。
よくわかってますね。
へそ曲がり、かつ自己中だからでしょう。
客観性のない、短絡的な思考も、派遣村の
文章からも読み取れます。
マスコミに踊らされず、もう少し色々と勉強なさった方がいいですよ。
するのがむしろ短絡的です。
こうに書けばアクセス者が増えるという観
点も役所叩き、派遣村のこと、政局とうと
う諸々の話がでてきます。
私は一度も短絡的だとか客観性がないと
感じたことはなかったんです。
技術力、読者獲得力(マーケティング力)を
して短絡的だとは思えません、むしろ緻密
です。
客観性のうえに成立しています。
おこがましい話にはなりますが極めて私
は凄いと思います。
ただ、経済的な観点を欠く議論は長期的
な意味で、読者の実利に誤る危険性が生
じると思います。
極めて余計な話でしたm( ̄)m