2009年12月21日

北高崎駅

北高崎駅

昭和27年当時の記念撮影(元旦)。



>元国鉄の祖父に連れられて毎日のように北高崎駅に行っていました。原風景のように北駅は私の中にあります。驚きました。


そうですか・・・・・・
捨蚕さんのおじい様が北高崎駅に。もしやと思い父の古いアルバムを開いて昭和20年代末のころの写真を。
もしやこの中に捨蚕さんのおじい様がと(笑)。
僕の父はこの頃は40歳くらいでした。僕が生まれた昭和24年には父は38歳でしたから父の上司が捨蚕さんのおじい様だった可能性は十分にあるはずです。駅長さんとか助役さんとか。

というのも亡き父が北高崎に赴任になったのは敗戦の翌年、昭和21年でした・・・・・・
それまで、東京駅に勤務していた父は母の実家のある高崎への転勤願いを出したとか。つまり、東京を焼け出されていわゆる妻の疎開先への転勤だったわけです。

アノ時代は北高崎駅にも売店があって、僕の楽しみは何と言ってもその売店で父に何かをネダルことでした。
小学生の頃でしたけど、毎月父が買ってきてくれる「少年画報」が待ち遠しくてたまりませんでした。

そうそう楽しみといえば、北駅近くの「金華亭」のホルモン焼き・・・・・・
ときどき父が買ってきて七輪で焼いて食べたあの味が忘れられません。
その後、金華亭の食堂ができてからも何度か連れて行ってもらいました、あと、大橋にある「万來軒」でしたか。中華そば屋さんです。
それと、佐藤技芸前の小さな文房具などを扱うお店、駄菓子屋さんだったのかな、よく連れてってもらいました。
あと、実践女学校のところの踏切のすぐそばのお店にも・・・・・
駅の手前には小さかったけど市場もありましたね。電車山も、チンチン電車の廃線が昭和28年とかですからその頃はまだしっかり電車山は残っていましたね・・・・・・

しかし、偶然のめぐりあわせとでも言うんでしょうか、捨蚕さんの原風景とぼくのそれとがどこかで重なっている。
しかも、捨蚕さんのおじい様がポッポ屋、僕の父がポッポ屋そして「北高崎駅」。
まさに「事実は小説よりも奇なり」といったところでしょうか・・・・・・


あっ、ちなみにブログへの画像投稿ですけど、まず、デジカメ画像なりのデータをパソコンに取り込んでファイルサイズを縮小しておき、
ブログ記事投稿のところで、

北高崎駅

矢印のところをクリックすると画像挿入メニューが出ますから・・・・・・

1)ファイル選択(参照より)
2)オプション設定(ファイルサイズ・表示方法・回り込み)
3)挿入


これでOKです!!
写真楽しみにしています・・・・・・




Posted by 昭和24歳  at 12:21 │Comments(2)

この記事へのコメント
電車山の取材に北駅へ行って、職員さんに聞いてみたのですが、電車山のこと、全くご存知ありませんでした。
時代は変わったんですね。
Posted by 迷道院高崎迷道院高崎 at 2009年12月21日 23:21
説明不足ですいません、祖父は横川の保線区官舎から大橋に転居した時点(昭和16年頃だとおもいます)病気のため退職済みかとおもいます。一人息子の父が戦地にいったままで勤労意欲がなくなったのが実状かもしれません。それが 父が復員し結婚して孫が三人できて、そう昭和27年頃は姉と私の子守、毎日のように北駅に通っていた次第。  今の私より若かった祖父は国鉄の無料パスを持っていて汽車にもよく乗りました。           北駅の庭は今だに夢に出てきます、電車山は残っていましたが電車は走っていなかったとおもいます。佐藤技芸の前は秋山菓子店です、いま思えば女子高生がジヤムパンを食べていました。 話が終わりませんのでこの辺で。写真はもう少しお待ちください。
Posted by 捨蚕 at 2009年12月22日 10:07
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