2009年12月16日

チャルメラ横丁の「孝行息子」。

チャルメラ横丁の「孝行息子」。
チャルメラ横丁の「孝行息子」。



昭和30年代です。

ご多分に漏れず、ここ地方都市・・・・・
復員兵隊の家族や、満洲帰還者家族。
もちろん戦争未亡人家族も。

闇米で旦那が逮捕された米屋の家族。
選挙違反でお父さんがしょっ引かれた友達の家族。

共同水道に共同便所・・・・・・
ガスなんかありゃあしない、竃にケンタをくべて。
風呂なんかありゃあしない・・・・・・
盥に行水、よくて銭湯。

蝿帳に芋の煮つけ、魚も肉も親父の給料日くらい。
断水、停電はしょっちゅう、年がら年中・・・・・・

夏はゴムぞうり、冬は足袋に下駄。
遠足には従兄のお下がりのズックと接ぎ当てのない・・・・・・
ソレも、お下がりのズボンにシャツ。
汽車に乗って碓氷峠越えの「小諸懐古園」でした。
小学校4年の・・・・・昭和33年。

夏、抜けるほどの青い空・・・・・
雨漏りの度に親父が屋根に登ってコールタールを塗る。
休みの日には親父は昼間っから酒を飲み俺を叱り飛ばす。
そんな親父をおふくろが叱り飛ばす。

かくれんぼ、三角ベースの野球、馬乗りに竹馬・・・・・・
38度線ごっこにベーゴマ、ビー球、メンコ。
真っ暗になるまで、泥だらけになって遊んだ遠い日。

アカギレ、田虫、ハタケにトラホーム。
デキモン問屋に蓄膿症。
教師には殴られるし、親父には蹴飛ばされるし・・・・・

それでも風邪をひいて熱を出そうもんなら、そんな親父も俺を抱きしめながら寝ていた。
おふくろは、りんごを擂ってくれたり、葛湯を作ってくれたり・・・・・・
だから、あの頃は風邪をひいて熱を出すのが楽しみだった(笑)。

貧しかったけど、時代そのものがとても温かかった。
みんなが怖かったけど、優しかった。


そんな時代のお話です・・・・・

あれは、昭和の三五、六年頃だっただろうか・・・。。

「来来軒」。

僕の横丁に住んでいた・・・・・・いや、住んでいたというか、それは「居た」と云う趣であった。
あの時代、それぞれに訳ありのご時世だったし、ご多分に漏れずその「来来軒ファミリー」もまさにそれそのものだった。
縦に二畳一間、正真正銘の「うなぎの寝床」の取ってつけたような、雨露しのげればの間借。

そんな「うなぎの寝床」に親子三人で暮らすなんて言うのも別になんとも思わなかった時代だったし、
周り中が似たか寄ったかの暮し向きの時代だったわけです(笑)。

その「うなぎの寝床」の店子の「来来軒」マスターファミリー・・・・・・
まっ、来来軒」、屋台ラーメンですけどそのオヤジ、マスターと言ったかどうかは知らないが、
そのマスター、なんでも出自は良かったようで、高崎の「大店」の「ボン」だったと言う噂はその近所には知れ渡っていた。
で、その「来来軒」、既に彼岸に旅立ったと風の便りに聞くが・・・
その昔、高崎商業高等学校の野球部では腕を鳴らし「甲子園」にも行ったと言う、兵だったらしい。

がその「来来軒」には僕よりも四歳年下の「息子」いた。
で、マスターには訳在りの小母さんが時々入替わりに寄せていたが・・・・・・・・
もちろん「クレイマー・クレイマー」を地で行くような趣であった。

その息子、学校から帰ると健気にも「来来軒」、親父の「屋台」の支度を手伝い七輪に炭を熾すのも慣れた手つき・・・・
けして「幸福」とは言ないが、これが滅法明るい横丁の少年だった。
まあ、何処も彼処も似たようなもの、生活環境だったのだから暗くなりようがなかったのだろう。

で、その「来来軒」のマスターと来た日には、兎に角「酒癖」が悪い。
それは「悪い」と言うよりも、多分、酒に「弱い」のではないだろうか・・・・・・・
つまり、弱いくせに酒好きで、飲むと人が変わるタイプの人・・・時に良く見かける(笑)。

で、その「来来軒」のマスター、仕事が終わった朝方には、その屋台を枕にいつも酔い潰れている。

「父ちゃん、父ちゃん、風邪ひくよっ」

と、孝行息子。何処までも健気に、

「父ちゃん、起きろよ・・・・・」

と、酔いつぶれた親父を介抱するのであった。
酔っ払った挙句喧嘩でもしたのだろうか、唸りながらブツブツ言ってる「来来軒」。

「しょうがねえなぁ・・・父ちゃん」

 そう言って、いたわるように呟く息子

「父ちゃん・・・俺、学校、行って来るからね」

と、学校に行く時間になるとそんな孝行息子の優しい声が・・・・・・
路地に染み入るように流れる。

日清製粉の板塀。
そこの路地の奥まった所に「来来軒」の屋台はいつも置かれていた。


ある日僕はそんな孝行息子にしばらくぶりに出会った。

「元気ーーー!!」

と、無茶苦茶明るい昔の面影を残す「来来軒」の息子。
その孝行息子も、今では50も半ば過ぎ。

ラーメンは延びてはいけないが・・・・・・・
「幸せ」は延びれば延びるほどよいかも知れない。

その時僕の耳元にあの「来来軒」の“チャルメラ”がふとよぎった。

♪ピラリーラリ、ピラリラリーラリ♪

「来来軒」の息子、あの時のままの明るさと満面の笑顔で、僕に手を振る・・・・・・
僕は、その孝行息子にとっておきの元気を貰ったような気がして嬉しくなった。 

ふと目を閉じると、日清製粉の板塀に寄りかかるようにしてあった「来来軒」の屋台。
そんな高砂町、横丁の風情に孝行息子の・・・・・・

「父ちゃ~~~ん」

が聞こえていた。


チャルメラ横丁の「孝行息子」。

 




Posted by 昭和24歳  at 08:07 │Comments(0)

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