2009年12月15日

トンネルを抜けるとそこは雪国だった。

トンネルを抜けるとそこは雪国だった。

トンネルを抜けるとそこは雪国だった。

まあ、「雪国だった」っていうことは、
今は「雪国」じゃあないっていうことか・・・・・・




中学の頃は日曜日になると上越線・・・・・・
高崎始発で越後中里へスキーに行った。
ループ式の清水トンネル・・・・・

トンネルを抜けるとそこは雪国だった。

越後中里はその「駒子」の越後湯沢のふたつ手前。
あいさには、加山雄三で有名な「岩原スキー場」、通称「いわっぱら」がある。

越後中里スキー場は越後中里駅の改札からゲレンデになっている。
真正面には斜度30度強の「ジャイアントコース」がある。

リフトを登り終わると、一大パノラマ。
湯沢高原スキー場、岩原高原スキー場、石内スキー場がまるで手が届くようにしてある。

初めて行った時、高崎のスポーツ店でスキー一式を借りた。
もちろん竹のストックだ・・・・・
そのうち東京の大学生の従兄弟に「HEAD」とかいうお下がりを貰って、
靴も紐のやつでなく金具で止めるやつ、真っ黒のカッコイイやつ・・・・・・

高校へ行くようになってエレキ狂いでスキーは行かなくなってしまったが、
ウエデルンをびしっと決めるまでは行かないが・・・・・・
今でも半日も滑ればスラロームはしなやかにこなせるのではないか。
でも、骨折しちゃうかも(笑)。

とにかく滑るのは得意だった・・・・・・
スケートも、受験も。
お陰で滑り止めも効かないくらいで、学校というものには縁がない。

昭和40年頃の、越後は風情があった。
民宿も囲炉裏を囲んでの・・・・・
まだ一杯呑む年ではなかったのだが、今思えば惜しいことをした。
それで、何故か今も「いろり」が好きなのかもしれない。アソコとアソコ・・・・・

軒の高さをはるかに越える「雪」。

高崎には越後人が多い・・・・・
あの田中角栄さんも、高崎の井上工業という会社に入社し、
上野の営業所で給仕をしながら夜学に通ったのだという。

高崎の米屋さんは大体が越後人だ。
材木屋と糸マイ商は信州人・・・・・・
そんなわけで、小渕恵三の実家は信州の糸マイ、
中曽根康弘は信州の材木屋。

因みに、福田赳夫(福田康夫の父)は天領金子の庄屋の倅、
尾身幸次は沼田の地主、
ヤクザ発祥の上州・・・・・
どういうわけか、笹川尭が国定忠治の膝元で、競艇場をシマにしている。
オコチチャッタけど。ハラホロヒレ~

ここ高崎には雪はほとんど降らない。
しかし、今は新幹線・・・・・・
30分も乗って、

「トンネルを抜けるとそこは雪国だった。」

である。しかし今や川端康成の風情はない・・・・・・
一時は地震で大騒ぎ。
南魚沼の絶品の「コシヒカリ」も危機に瀕している。
越の寒梅の蔵元も危なかったとか。

久しく「越後弁」を聴いてないなぁ・・・・・・
「だ~すけさ」とか「そ~らすけ」とか。
まあ、越後は「イチゴ」らすけ。



Posted by 昭和24歳  at 12:23 │Comments(0)

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