2009年12月05日

青春の光と影

青春の光と影

青春の光と影 





 昭和45年、未だ明治大正の匂いを感じさせる高崎駅舎お券売で「高崎始発=上野行き」の片道480円の切符を買った。
 上りは決まって7番線か8番線、改札をぬけて高架を渡り階段をかけおりるとそこには電気機関車が今にも発車するかのように轟音をたてて僕を急かせる。僕は急いで乗り込むと木製の硬い座席に身を埋めるようにして僕は発車のベルを待った。

 僕には、取分けて故郷を離れるなどと云う感傷はなかった。と云うのも、僕の生まれ育った関東平野の北端、ここ「高崎」から「上野」へは高崎線で距離にして100キロちょっとでしかなく、鈍行でおおよそ2時間の所だからだ。それにこれまでも何度となくここは往復している。まあそれがかえって人生の節目、少々大袈裟だがそれをあいまいなものにしてしまっているのだろう。
 
 ただそれは、ひとつの時間の終わり。そして新しい時間の始まりのような一抹の不安と寂しさが過ぎっていたのはたしかだった。
 その一抹は今までの喧騒が嘘のように消えた「青春」と云う時代が崩れ去った音なのかもしれないと、その時ふと思った。

 21才、今ににして思えばそれが青春なんだろうが、その当時はすでにそれを捨て去っていたように思っていた。生意気にも。
 大方の同級生はこの高崎というそこそこの地方都市で「サラリーマン生活」をしているか家業を継いでいた。やはりその同級生たちも、そこの「ほんのり」としたそれでいて「とげとげしい」青春に区切りをつけ「地道」とでもいうのだろうか。互いが覚めた言葉を投げあうように暮し始めていた。

「もう、若くねえからな」と。

 しかし、そんな時代にもやはり夫々の生き方というか人生の分岐点「標」が誰にもあった。というのもまだ同級生の中ではストレートで大学へ行った連中でも3年、一浪でもしていれば2年だ。そんな彼等はまだまだ青春真っ盛りで時はオイルショック、ニクソンショックとはいえ高度成長の黄昏。学生運動もすでに収束していて、なにか、そこはかとなく気抜けのしたぼんやりとした時代はやはりひとつの時代の終わりを確実に告げていた。

 時は恰も、「青年は荒野をめざす」。自分探しというか、遠い将来への不安だろうか、あの時代の僕ら世代は手探りするようにヨーロッパ、アメリカを夢見た。それは、五木寛之を貪り、小田実に傾き、横尾忠則に嵌り「自由」という、実は全く意味不明の思想と言っては大袈裟が過ぎるが、ようやく自分で稼いで、自分の道を探れる、漠然としているが夢の始まりの終わりの頃だったようだ。今にして思えば。
  
 ご多分に漏れず僕も多分そんな「欠片」の一人ではなかっただろうか。あの、二十歳そこそこの時代の一年は一生かけても体験できないような事を瞬時の内にやってしまっていた。思えば、あの頃の経験、体験を肥しに今を生きている、そう思えてならない。
 やはりそれが「夢」の時代というものなのではだろうか・・・・・・
 現実と云う「地獄」の一歩手前で夫々が聞きかじり、受売りの中で大きな夢を語り合う。喧々諤々、まるで自分だけを中心に世界が動いているような錯覚の中で好き勝手を叫びながら、結局は、こんな狭いこの国の中の僅か2%足らずの「青春」で世の中が動くはずも無いのにである。
 そう。だからこそ、それが「夢」なのだ。「夢」を見たからこそ現実もほどほどに受け止められる。それが「青春の時代」と云うものだろう。

 僕のそれもそうだった。「夢」などという大それたものではないが、いやっ傍目には大それた大馬鹿者に映ったかも知れない。いや映っていた。
 そんな僕の中のロックミュージシャンの夢は、もちろん当時は「ロックミュージシャン」などとそんな洒落た言葉はなかったが、ただの「エレキ小僧」だった僕は世間では不良のなり損ない、鼻つまみ者。15の時から大人に混ざっての「エレキバンド」。ダンスホールにパーティーに。
 そして時はまさに空前の「エレキブーム」の到来で街中が猫も杓子も「テケテケテケ―――」と、アストロノウツの「太陽の彼方へ」とか、ベンチャーズの「ダイアモンドヘッド」とか。テレビでは連日連夜「エレキ、エレキ」。
 そんな時代が嵐のように過ぎ去った。それが昭和45年春も宵・・・・・・

 高崎から東京に出るには上野までは行かずに「赤羽」で降りる。なぜならその頃の僕の東京は渋谷か新宿だったからだ。
 赤羽は当時は高崎線と東北本線。それに京浜東北線が高架を走っていた。赤羽を降りるとさらに狭い高架通路を渡って木戸で改札を受けて「省線」のホームに出る。僕等は何故かそれを「省線」と呼んでいた。赤羽と池袋を往復する赤茶けた戦前から走っている電車だ。窓も椅子も木製のやつでその車内は独特の油臭い匂いがしていた。
 しかし僕等にとっては、それこそが「東京」の入口、憧れの匂いだったのだった。

新聞で知った、「渋谷ジャンジャン」のオーディションをまず受けるための東京だった。はっきり言って「宿なし」であった。もちろん東京で学生生活をしている友だちの部屋に転がり込むことにしていた。
省線、赤羽線で池袋。そこで山手線に乗り換え高田馬場で西武新宿線にさらに乗り換え、新井薬師へ・・・・・

その夜はその友だちと大酒をかっくらって壮大な夢を語り合ったのは言うまでもない。
誰にでもあるであろう。そんな青春の一頁が。そして光と影が。そして僕はいまもそんな「光と影」の中に生きている。





昨夜、中三の末娘と「夢」の話をした・・・・・
僕のその頃の夢の話をした。

「夢・・・・・見なくちゃ勿体ないぞ、今、夢を見なくていつ夢を見るんだ」

僕は娘にそういった。

いっぱい夢を見て、そのうち、ほんの少しでもいいから叶う・・・・・

「まいっか!!
今のパパがそれだ」

それが人生だよ。もちろん大きな夢がかなって、大成功している人もいる。それに越したことはない。
その頃の時代の友だちが一人いる。

そんな「夢」、レールがしかれているかもしれない。時代時代のどこかで太い糸で結ばれてるいのかもしれない。
でもそれがわかったら、誰も努力なんてしなくなる。わからないからこそ人生が楽しいんだ。
末娘、いよいよ受験。それも夢の一歩・・・・・・



Posted by 昭和24歳  at 11:40 │Comments(0)

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