2009年08月19日
味噌おにぎり
味噌おにぎり
そうだ、僕らが子どもの頃のおやつと云えば・・・・・・
こんな夏には、竹の皮で梅干を包んだやつを、よく作ってもらった。
「これ喰え、腹こわさねえぞ・・・」
と、父は庭先の笊に干されたシソの絡まった梅干を、竹の子の皮に「ヒョイ」と包んで・・・・・・
その時代、横丁と言う横丁でで「ツーーーン」とした梅干の匂いが漂っていた。
昭和30年代とは言え、未だどことなく、「戦後」の臭いのする街の風景がそこそこに。
夏休みともなれば近所の同い年同士、七、八人が連れ立って、
毎日川遊びやら時には近くにある観音山「仙人隠れ」に化石拾い、沢ガニ捕り、堤防の芝ソリ・・・・・・
兎に角遊ぶことには事欠くことはなかった。
そんな時は決まって「味噌ニギリメシ」もちろん梅干入りの。
どう言う訳でいつも味噌ニギリメシだったのかといえば、あの時代ほとんどの家が麦飯もちろん白米とのミックスだが、
どうやら味噌の粘りが麦飯のツナギになっていたようだ。
それと、茄子、キュウリの糠漬・・・・・
「茄子の糠漬」は口ん中を紫にして、中身を穿り返していつまでも、いつまでも食いつづけていたもんだった。
腹が減ると、味噌のニギリメシ・・・
冬場は、「ジリ焼き」。うどん粉に味噌とか、砂糖を少し混ぜて、
たまに母親の手が空いたりしていると「炭酸」なんかを入れて、ちょいとフックラさせてくれた。
しかしその炭酸入りの「ジリ焼」、ふっくらするのは良いがその頃のうどん粉が悪いのか炭酸粉が悪いのか・・・・・・
よく親父とおふくろは夕飯かなんかのことで喧嘩をしていたので、
おふくろ、料理がそんなに得意ではなかったようだたのでもしかしたら、「こねかた」のせいかも知れない。
そのジリ焼に炭酸粉の塊が混ざっていて、それをかじった時の苦いこと苦くないこと、大変な思いをしたことを覚えている。
親父の機嫌のいい時なんかは、七輪で「カルメ焼き」なんかもしてくれた。
七輪に真鍮製の柄杓を小さくしたようなお椀状の小鍋・・・・・・
それをその七輪にかけ、ザラメを入れて小さなすりこ木のようなものでかき混ぜる。
ところで、今では、「うどんの手打ち」なんて商売になってるけど、昔は何処ん家も「手打ち」。
僕の家にも、今でもあるが「手回し」の「うどん鋤機」。
どうせ、水団なんか食わされた時なんかはは「米びつ」空っぽだったんだろうね(笑)。
そうだ、横丁には「突貫豆屋」なんて云うのも来た。
大豆を持ってくと、煎餅にしてくれる・・・のとか、今で云う「ポン菓子屋」だ。
米を2合升ぐらい袋に入れてもってくと、
「ドカーーーーン」
と云う音と共に豆菓子にしてくれる。モロコシのもあった。
そして紙芝居の、水あめ、べっ甲アメ、ニッキアメ・・・・・・・
5円で、水あめを、薄い煎餅と煎餅で挟んでくれる。
「黄金バット」を見ながら時間の経つのを忘れていた。
でも、不思議と・・・紙芝居屋のおじさん・・・・・・・
決まって「色めがね」をかけていたように憶えている。
今にして思えば、その紙芝居屋のおじさん、他人に知られたくない過去があったのかな?
朝は、卵屋と納豆屋の売り声で・・・よく目を覚ましたもんだ。
そう云えば3年生くらいまで、毎日のように寝小便をしていたのが恥ずかしい・・・・・・
終いには、パンツもなくなっちゃって、姉ちゃんのを穿かされたのにはまいった。
まさかその俺が・・・その僕が、還暦だなんて信じられない。
でもそれは事実なのだから仕方が無い。
ゆっくり、マッタリ・・・急がず生きよう・・・・・・
Posted by 昭和24歳
at 08:26
│Comments(4)
赤みそをつけて食べたり、焼きおむすびに
お味噌をつけて少し焼いたり・・・
お醤油味の焼きおむすびも好きです。
エンがアトピーでしたので、おやつに
おむすびや、野菜ステックを食べていました。今でも良く作ります。
ディノも小さい時祖母が味噌おにぎりを作ってくれました。キューリは畑からとってきて、お味噌をつけて食べました。もぎたてのなま暖かいキューリ懐かしいです。
日曜日の朝は‘なっと いかがでしょうかぁ~んっ’小柄のおばあちゃんが来ましたよねっ(*^o^*)
庭草を毟(むし)りて
昼餉(ひる)は
味噌むすび
具は入ってません。画と同じように三角じゃなく丸型。
箸休めの古漬けの糠漬けきゅうりが酸っぱくて。冷たい麦茶で「プッハ~!」
すると親父がそそられて、ビール瓶出してきて、味噌むすびかじりついては「プッハ~!」
「トッカン」も懐かしい。
お米を持っていって、シューシュー圧力かけて、グルグル回して、「さあ!いくど~!」と爆発させる。甘いシロップをさらっとかけて混ぜて…
現在もそれ自体は袋で売ってますね。だけどあのスチーミーかつレトロな機械が放つ「トッカン!」の大げさなパフォーマンスを、体験しないことには味が全く違うでしょうね!(今でもポテチなんぞより好きです)
私は小学2年の頃までひいばあちゃんがいまして、『何かなーい?』と言うと良く味噌のおにぎりを作ってくれました。
そういえばタケノコの時期には皮に梅干を挟んでよく舐めていました。ケバをよくとらないと盲腸になるよ!なんて言われていました。
あら町も表通りには「きなこや」や一本裏に入ると「なかじま」等の駄菓子屋があって学校帰りに通ってました。少し大きくなると「寺田のコロッケ」を買い食いしたり、「チェリオ」を飲んだり…
昭和24歳さんのブログを読んでいると、懐かしい昔の高崎がよみがえってきます。
ありがとうございます。