2020年11月10日
絶滅危惧種「団塊世代」
絶滅危惧種「団塊世代」
『人生100年』とかだが、だとすると30年後(2050年)には絶滅危惧種戦後世代3000万人が消える。
食いもんそのものではなくどちらかと言えばそれは食堂の類なのだ。
僕はどちらかというとそんな風なのが好きかなと…
どうでもいいことだけど僕ら世代はその必然性に育ってきた。
「終戦」と云う言葉を急いで忘れようとしている大人たちの生活文化の中。
文化と言うほどのものではないが(笑)。
「駄菓子屋」に「お好み焼屋」は、僕ら戦後っ子にとって、それは日常そのものであった。
着色料、添加物たっぷりの駄菓子、「ソースイカ」に衛生も糸瓜もないサッカリンたっぷりの「舐め紙」。
そして極めつけの芸術作品でありながらも、小学校の門前で小汚いガキ連中を相手に屋台で商っていた「お新粉細工」屋。
新粉を色とりどりに捏ねて、鶏だの兎だのとそれでこしらえてくれる。
戦前は何処かの和菓子職人だったのだろうかものの見事な芸術作品が瞬く間に仕上がる。
「腹壊すからそんなもん食うんじゃあねえ」
と、親たちは呆れていたが、下校時ともなるとそのガキ連中(僕等)が、テカテカのお下がりの「詰襟」と下駄に足袋で、
「5円玉」握り締めて目を輝かせてお新粉屋のオジサンの屋台を囲んだ。
丁度、配給も終わって、そろそろ米穀台帳なしに米が買える時代、それは昭和33年頃だっただろうか、そのお新粉屋の屋台と入替わり立ち代りに、焼きそば屋、飴細工屋、針金細工屋が店を張った。
そう、それこそが僕ら団塊世代の原点だったのはないかと思う今日この頃。
終戦、まだ干支がひと回りようやくした頃の時代だった。
「夜泣きラーメン、食堂」なんて云ったら、盆暮れあるかないかの「御馳走」。今ではとても想像はつかないが、朝飯を炊くにしたって「竃」炭を熾して薪をくべる。電気釜なんて言うのはそれからしばらくしてからの話だで秋刀魚、煮もの、味噌汁は「七輪」。
家族団欒の、食事とか何とか言ったってあの頃はそれこそ家中で喧嘩騒ぎで飯を食う騒ぎ、兄弟姉妹の四、五人もいようもんならわずかなオカズを取りっこで親父の怒鳴り声とオフクロの小言が耐えることがなかった。
しかし、あの時代を懐かしがるなんて言うのはずいぶんと勝手な話でまあ、僕ら子どもで世間の様子には頓着はなかったが、朝鮮動乱も片付いたか片付かないかの頃で、下手をすれば、また「戦争」かなんて言う物騒な時代だったらしい。
内風呂なんてある家は当然向こう三軒両隣あるはずもない銭湯も老若男女、大衆の社交場で貧乏比べを笑い飛ばしていた「愉快」な時代だった。
便所は、汲み取り式。肥溜め屋が野菜の肥料集めに一軒一軒回ってくる。
梅雨近くになると、役所の消毒車(自動車ではない、リアカー)に消毒液噴霧ポンプを積んで、これまた一軒一軒消毒して周る。
蝿帳に蝿取紙、蚊帳に蚊取り線香、「停電」なんて日常茶飯事。
コンメ喰って、腹痛起こして死んじまったり、イボ、ハタケ、タムシ、10円ハゲに鼻水はたらたら、シモヤケ、アカギレ・・・・・
今の親が見たら卒倒してしまいそうな健康状態の僕等、もちろん、よっぽどでなければ「医者」なんて行かない・・・と云うより、当時は殆どが「往診」。
ベーごま、めんこは子ども達の経済養成所。
如何にして勝つか、如何にして身上を残すか、「ベーごま」では、持ち駒で一番強いのを「身上丸」と云って財産にしていた。
そんな連中、戦後っ子が、勝負強かったはずなのに今ではその「経済」も、OECD最下位の落ち目の三度笠だ。
恐らく、今、閣僚席、永田町に生息する「霊長類」にはそうした体験、そうした時代的経験は無かったのでは。
田名部、元農水大臣」がいつか国会で云っていたとおり、商売、勝負に経験が無い。貧乏人、下々と遊ぶことはまかりならん。
子どものうちから、金勘定するなんて品が悪いとか言って、もっとも、大人になってから「労働」もせずに「金勘定」ばっかしているのだから、何おか況やだが。
このところ高崎も「絶メシ」とかピーチクパーチク五月蝿いんだが。
ホントの「絶メシ」は「絶メシ」になっちゃっている。
焼きとりで言えば「万作」なんってぇのもそうだろう、唯一昭和の名残を感じさせるのが「ささき」。
ラーメンで言えば「ジンギスカン」、最近はハイカラな名前になっちゃってるけど(笑)。
未だ、その名残は僕を「癒す」のに十分な「風情」がある。
東京では、目白の「丸長」。ラーメン屋だがその手の「雑誌」に載ることはなかったが最近載ってしまったようだが、新築して「丸長ビル」?
後は、恵比寿の「酒蔵」。そうあの『恵比寿ガーデンプレイス』の恵比寿だ。そこには行ったものでしかわからない風情がある。
しかしもう閉めてからかれこれ20年にはなるだろうが、その恵比寿マーケットの飲み屋街が最近TVで話題になっていた。
高崎のは東一条通り商店会が「昭和横丁」と銘打って週末イヴェントとして露店を、キッチンカーで開いてる。
毎週土曜日開催の『昭和横丁』、夕暮れ、三々五々物珍しさか、街中横丁がニギヤカだ。
絶滅危惧種「団塊世代」
『人生100年』とかだが、だとすると30年後(2050年)には絶滅危惧種戦後世代3000万人が消える。
食いもんそのものではなくどちらかと言えばそれは食堂の類なのだ。
僕はどちらかというとそんな風なのが好きかなと…
どうでもいいことだけど僕ら世代はその必然性に育ってきた。
「終戦」と云う言葉を急いで忘れようとしている大人たちの生活文化の中。
文化と言うほどのものではないが(笑)。
「駄菓子屋」に「お好み焼屋」は、僕ら戦後っ子にとって、それは日常そのものであった。
着色料、添加物たっぷりの駄菓子、「ソースイカ」に衛生も糸瓜もないサッカリンたっぷりの「舐め紙」。
そして極めつけの芸術作品でありながらも、小学校の門前で小汚いガキ連中を相手に屋台で商っていた「お新粉細工」屋。
新粉を色とりどりに捏ねて、鶏だの兎だのとそれでこしらえてくれる。
戦前は何処かの和菓子職人だったのだろうかものの見事な芸術作品が瞬く間に仕上がる。
「腹壊すからそんなもん食うんじゃあねえ」
と、親たちは呆れていたが、下校時ともなるとそのガキ連中(僕等)が、テカテカのお下がりの「詰襟」と下駄に足袋で、
「5円玉」握り締めて目を輝かせてお新粉屋のオジサンの屋台を囲んだ。
丁度、配給も終わって、そろそろ米穀台帳なしに米が買える時代、それは昭和33年頃だっただろうか、そのお新粉屋の屋台と入替わり立ち代りに、焼きそば屋、飴細工屋、針金細工屋が店を張った。
そう、それこそが僕ら団塊世代の原点だったのはないかと思う今日この頃。
終戦、まだ干支がひと回りようやくした頃の時代だった。
「夜泣きラーメン、食堂」なんて云ったら、盆暮れあるかないかの「御馳走」。今ではとても想像はつかないが、朝飯を炊くにしたって「竃」炭を熾して薪をくべる。電気釜なんて言うのはそれからしばらくしてからの話だで秋刀魚、煮もの、味噌汁は「七輪」。
家族団欒の、食事とか何とか言ったってあの頃はそれこそ家中で喧嘩騒ぎで飯を食う騒ぎ、兄弟姉妹の四、五人もいようもんならわずかなオカズを取りっこで親父の怒鳴り声とオフクロの小言が耐えることがなかった。
しかし、あの時代を懐かしがるなんて言うのはずいぶんと勝手な話でまあ、僕ら子どもで世間の様子には頓着はなかったが、朝鮮動乱も片付いたか片付かないかの頃で、下手をすれば、また「戦争」かなんて言う物騒な時代だったらしい。
内風呂なんてある家は当然向こう三軒両隣あるはずもない銭湯も老若男女、大衆の社交場で貧乏比べを笑い飛ばしていた「愉快」な時代だった。
便所は、汲み取り式。肥溜め屋が野菜の肥料集めに一軒一軒回ってくる。
梅雨近くになると、役所の消毒車(自動車ではない、リアカー)に消毒液噴霧ポンプを積んで、これまた一軒一軒消毒して周る。
蝿帳に蝿取紙、蚊帳に蚊取り線香、「停電」なんて日常茶飯事。
コンメ喰って、腹痛起こして死んじまったり、イボ、ハタケ、タムシ、10円ハゲに鼻水はたらたら、シモヤケ、アカギレ・・・・・
今の親が見たら卒倒してしまいそうな健康状態の僕等、もちろん、よっぽどでなければ「医者」なんて行かない・・・と云うより、当時は殆どが「往診」。
ベーごま、めんこは子ども達の経済養成所。
如何にして勝つか、如何にして身上を残すか、「ベーごま」では、持ち駒で一番強いのを「身上丸」と云って財産にしていた。
そんな連中、戦後っ子が、勝負強かったはずなのに今ではその「経済」も、OECD最下位の落ち目の三度笠だ。
恐らく、今、閣僚席、永田町に生息する「霊長類」にはそうした体験、そうした時代的経験は無かったのでは。
田名部、元農水大臣」がいつか国会で云っていたとおり、商売、勝負に経験が無い。貧乏人、下々と遊ぶことはまかりならん。
子どものうちから、金勘定するなんて品が悪いとか言って、もっとも、大人になってから「労働」もせずに「金勘定」ばっかしているのだから、何おか況やだが。
このところ高崎も「絶メシ」とかピーチクパーチク五月蝿いんだが。
ホントの「絶メシ」は「絶メシ」になっちゃっている。
焼きとりで言えば「万作」なんってぇのもそうだろう、唯一昭和の名残を感じさせるのが「ささき」。
ラーメンで言えば「ジンギスカン」、最近はハイカラな名前になっちゃってるけど(笑)。
未だ、その名残は僕を「癒す」のに十分な「風情」がある。
東京では、目白の「丸長」。ラーメン屋だがその手の「雑誌」に載ることはなかったが最近載ってしまったようだが、新築して「丸長ビル」?
後は、恵比寿の「酒蔵」。そうあの『恵比寿ガーデンプレイス』の恵比寿だ。そこには行ったものでしかわからない風情がある。
しかしもう閉めてからかれこれ20年にはなるだろうが、その恵比寿マーケットの飲み屋街が最近TVで話題になっていた。
高崎のは東一条通り商店会が「昭和横丁」と銘打って週末イヴェントとして露店を、キッチンカーで開いてる。
毎週土曜日開催の『昭和横丁』、夕暮れ、三々五々物珍しさか、街中横丁がニギヤカだ。
絶滅危惧種「団塊世代」
Posted by 昭和24歳
at 09:15
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