2020年02月11日
ジャパンハンドラー黒幕の正体
ジャパンハンドラー黒幕の正体
「ところで終戦直後の天皇家の財産は37億5000万円だった。日銀物価価格統計により現在の貨幣価値の311倍で換算すると7912億円である。」
この数字の十数倍近くをスイス銀行に送り込んで終戦工作に天皇は入ったのである。
敗戦前の国家予算は100億円を切っていた。
天皇は自らの生命を守るためと、このスイスの秘密預金を維持し、さらに増やすために戦後工作に入るのである。
天皇の「キリスト教入信」対策は、この二つの大事なものを守りぬくべく実行された。
国民は依然として雑草のような民草であった。
日本郵船の大株主は天皇家と三菱財閥であった。
アメリカへ大量の移民を運んだのは、この日本郵船の船であった。
天皇家と日本郵船の深い関係は、明治時代から続いていた。
この会社の船で娼婦たちが海外に「進出」させられた。
詳しくは山田盟子の『ウサギたちが渡った断魂橋』に書かれている。
日本の偉人中の偉人と評価の高い福沢諭吉は、
「賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可するべきこそ得策なれ」(『福沢諭吉全集』第十五巻)
と主張した。
娼婦を送り出す船会社が、天皇家と三菱に大いなる利益をもたらすということを計算したうえでの「得策なれ」の主張であった。
日露戦争のころ、アメリカに行くのに約二百五十円の大金が要った。
現在、日本に密入国しようとする中国人が、中国マフィア(蛇頭)に支払うくらいの金額だった。
やっとアメリカに渡ったものの、新聞や雑誌や『渡米案内』の甘言広告とは違い、辛酸の極みの生活が移民を待っていた。
男たちは鉄路の重労働やタマネギ畑で働かされ、女たちのほとんどは娼婦の館にほうり込まれた。
このときの莫大な金は、福沢が言う「至尊の位と至強の力」すなわち、皇室と三菱の懐に入った。
同じ手口を皇室と三菱は考えた。
ペルシャ(イラン)からアヘンの輸入であった。皇室と三菱は、三井も仲間に入れることにした。
三井を入れなければ内乱が起きる可能性があったからだ。
三井と三菱は隔年でアヘンをペルシャから入れ、朝鮮に送り込んだ。満州という国はこのアヘンの金でできた。
天皇一族はこの利益を守るために秘密組織をつくった。
厚生省という組織に、昭和天皇は木戸幸一(後に内大臣)を入れ、アヘン政策を推進させた。
1938年12月に興亜院がつくられ、阿片政策を統括した。
その翌年から「土薬公司」ができた。日本でもケシ栽培をし、朝鮮に送り込んだ。
中国でも熱河省でケシ栽培をした。
この利益も皇室の財産の形成に大きく貢献した。
天皇家が味をしめたのは日清戦争であった。
この戦争で清国から奪った賠償金は三億六千五百二十五万円...
このうちの二千万円が皇室の財宝となった。
天皇家はこの戦争で味をしめた。
1945年8月、敗戦となった。
「降伏後における米国の初期の対日方針」の中で、「皇室の財産は占領目的の達成に必要なる如何なる措置においても免除せられることなかるべし」と明記されている。
この年、GHQの財務調査官たちは、昭和天皇の個人資産を1億ドル以上と査定した。
それでは、1945年10月にGHQが発表した皇室財産の内容をみよう。
「土地・建物・木材・現金・有価証券(美術品・宝石は含まない)は37億2000万円。」
当時の財閥の住友吉左衛門は1億1738万円、三井高広は9628万円。
皇室財産は、GHQの公表分であるが日本の財閥の約30倍。しかし、この数字は正確ではない。
天皇も、三井も、三菱も、敗戦前にほとんどの金をスイスの秘密銀行に入れたからである。
皇室の銀行支配も徹底していた(戦前)。皇室は日本銀行の47%の株を持っていた。
紙幣を発行するたびに、公定歩合を調整するたびに、莫大な利益が皇室に流れた。
ポール・マニングは、『米従軍記者が見た昭和天皇』の中で次のように書いている。
「昭和天皇がヨーロッパの金融市場で影響力を持つことができたのは日本銀行ほど厳しい規制を受けない民間銀行である横浜正金銀行の株を保有していたからである。
彼は全発行株数の22%に当たる22万4912株を保有する最も重要な大株主であり、二番目の大株主は2万2000株しか保有していなかった。」
大方、これがこの国の真実だろう。この国の隅々で繰り広げる不正。
この情報社会、それを知るのは終わる間際か...
そして僕等も終わってゆく。戦禍に惑った父母たちのように。
「天皇のロザリオ」鬼塚英昭著より...
「ところで終戦直後の天皇家の財産は37億5000万円だった。日銀物価価格統計により現在の貨幣価値の311倍で換算すると7912億円である。」
この数字の十数倍近くをスイス銀行に送り込んで終戦工作に天皇は入ったのである。
敗戦前の国家予算は100億円を切っていた。
天皇は自らの生命を守るためと、このスイスの秘密預金を維持し、さらに増やすために戦後工作に入るのである。
天皇の「キリスト教入信」対策は、この二つの大事なものを守りぬくべく実行された。
国民は依然として雑草のような民草であった。
日本郵船の大株主は天皇家と三菱財閥であった。
アメリカへ大量の移民を運んだのは、この日本郵船の船であった。
天皇家と日本郵船の深い関係は、明治時代から続いていた。
この会社の船で娼婦たちが海外に「進出」させられた。
詳しくは山田盟子の『ウサギたちが渡った断魂橋』に書かれている。
日本の偉人中の偉人と評価の高い福沢諭吉は、
「賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可するべきこそ得策なれ」(『福沢諭吉全集』第十五巻)
と主張した。
娼婦を送り出す船会社が、天皇家と三菱に大いなる利益をもたらすということを計算したうえでの「得策なれ」の主張であった。
日露戦争のころ、アメリカに行くのに約二百五十円の大金が要った。
現在、日本に密入国しようとする中国人が、中国マフィア(蛇頭)に支払うくらいの金額だった。
やっとアメリカに渡ったものの、新聞や雑誌や『渡米案内』の甘言広告とは違い、辛酸の極みの生活が移民を待っていた。
男たちは鉄路の重労働やタマネギ畑で働かされ、女たちのほとんどは娼婦の館にほうり込まれた。
このときの莫大な金は、福沢が言う「至尊の位と至強の力」すなわち、皇室と三菱の懐に入った。
同じ手口を皇室と三菱は考えた。
ペルシャ(イラン)からアヘンの輸入であった。皇室と三菱は、三井も仲間に入れることにした。
三井を入れなければ内乱が起きる可能性があったからだ。
三井と三菱は隔年でアヘンをペルシャから入れ、朝鮮に送り込んだ。満州という国はこのアヘンの金でできた。
天皇一族はこの利益を守るために秘密組織をつくった。
厚生省という組織に、昭和天皇は木戸幸一(後に内大臣)を入れ、アヘン政策を推進させた。
1938年12月に興亜院がつくられ、阿片政策を統括した。
その翌年から「土薬公司」ができた。日本でもケシ栽培をし、朝鮮に送り込んだ。
中国でも熱河省でケシ栽培をした。
この利益も皇室の財産の形成に大きく貢献した。
天皇家が味をしめたのは日清戦争であった。
この戦争で清国から奪った賠償金は三億六千五百二十五万円...
このうちの二千万円が皇室の財宝となった。
天皇家はこの戦争で味をしめた。
1945年8月、敗戦となった。
「降伏後における米国の初期の対日方針」の中で、「皇室の財産は占領目的の達成に必要なる如何なる措置においても免除せられることなかるべし」と明記されている。
この年、GHQの財務調査官たちは、昭和天皇の個人資産を1億ドル以上と査定した。
それでは、1945年10月にGHQが発表した皇室財産の内容をみよう。
「土地・建物・木材・現金・有価証券(美術品・宝石は含まない)は37億2000万円。」
当時の財閥の住友吉左衛門は1億1738万円、三井高広は9628万円。
皇室財産は、GHQの公表分であるが日本の財閥の約30倍。しかし、この数字は正確ではない。
天皇も、三井も、三菱も、敗戦前にほとんどの金をスイスの秘密銀行に入れたからである。
皇室の銀行支配も徹底していた(戦前)。皇室は日本銀行の47%の株を持っていた。
紙幣を発行するたびに、公定歩合を調整するたびに、莫大な利益が皇室に流れた。
ポール・マニングは、『米従軍記者が見た昭和天皇』の中で次のように書いている。
「昭和天皇がヨーロッパの金融市場で影響力を持つことができたのは日本銀行ほど厳しい規制を受けない民間銀行である横浜正金銀行の株を保有していたからである。
彼は全発行株数の22%に当たる22万4912株を保有する最も重要な大株主であり、二番目の大株主は2万2000株しか保有していなかった。」
大方、これがこの国の真実だろう。この国の隅々で繰り広げる不正。
この情報社会、それを知るのは終わる間際か...
そして僕等も終わってゆく。戦禍に惑った父母たちのように。
「天皇のロザリオ」鬼塚英昭著より...
Posted by 昭和24歳
at 21:10
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