2016年04月10日

「銅鑼湾ブルース」


「銅鑼湾ブルース」


「銅鑼湾ブルース」

香港の中間層、ほとんどが夫婦で中小の商いをやっている。
僕のパートナー「王家昌」は両親が潮州出身で商人でした。奥さんは福建で父親は軍属。
彼は僕と同い年で29歳の時、当時楽器の並行輸入を手伝ってくれていた香港人の友人の紹介で僕のもとへやってきた。

「日本語の勉強するアルネ、もひとつ商売の情報欲しいアルネ」

カタコトの日本語で王家昌はそう言って南部中国人特有の大きな団子鼻をヒクっとさせて笑った。
王家昌はその時既に奥さんと香港島の銅鑼湾、松坂屋の近くの高層マンションの一階のモールでブティックを2店舗経営してました。
屋号は「日本時装」で会社名は「住友」でした(笑)。

「日本時装」とはいわゆる「日本の流行ファッション」ということらしい。
会社名の「住友公司」は日本の「住友」に倣ったのだとか・・・・・

「住友、有名アルネ、だからパクったアルネ」

当時、香港ドルは50円前後で香港のブローカーから日本の「カワイイ」を仕入れてい。
で、その頃から日本では原宿竹下通りが流行りだして香港でも先を競って「原宿詣で」が始まったようだ。
当然、日本もそうだったけどブティックの経営者は団塊世代で、彼はしきりに日本の情報収集をした結果日本行きを決断したとか。
そんなこんなで、「王家昌」は僕の姉の家に下宿。ワーキングビザは無理だったので3ヶ月滞在の観光ビザを取得し日本へ。
で、不法就労だったけど僕の知り合いの「深夜レストラン」を紹介してあげてアルバイト。
昭和53年、その時代で一ヶ月働いて20万円くらいの収入があった。それは彼が支払う香港のサラリーの3倍だったようだ

彼は香港でも日本語学校に通っていて、3ヶ月の滞在でかなり学習したようだ。
で、香港へ帰って一ヶ月と経たないうちに今度は奥さんを伴って僕のところへ来た。

「日本の“カワイイ”を仕入れたいんだけど手伝ってくれませんか?」と。

当時僕も原宿の関係者に知り合いがいたので彼を紹介すると・・・・・

「渋谷にオフィス借りたいんだけど、借りてくれない?」

で、僕名義で渋谷の明治通り沿いのワンルームを借りて、電話も設置して日本での「住友」がスタート(笑)。
とにかく日本の「カワイイ」は飛ぶように売れるんだとか。それもファッション全般でアクセサリーまで。

「香港は一年が夏だから夏物集めてくれない?」

そんな彼の注文で日本ではシーズンオフになる夏物を原宿のマンションメーカーからカートンごと。
で、軽井沢が終わる頃には軽井沢のブティック、売れ残りをひとダンボールいくらで。

「絶対に“日本製”のタグが付いてないとダメです」

まあ、当時はまだほとんどが日本製だったけど安いものには一部韓国製があって弾かれた。

つづく


「銅鑼湾ブルース」





Posted by 昭和24歳  at 09:53 │Comments(0)

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