2013年09月12日

50年昔の高崎を考察する(1)

50年昔の高崎を考察する(1)

50年昔の高崎を考察する(1)


昭和38年(1963年)

その意味では、「50年後」なんて、あっという間かもしれない。

つまり、「50年昔」がつい昨日のようなのだから・・・・・

僕が中学三年で「群馬音楽センター」がその2年前に竣工。

まだ和田橋はなく辺りは専売公社工場と高崎市役所、警察署に保健所はあっただろうか。

それと国立病院、その向こうは公社等の社宅だったような。

ところで、みなさんは「中央プール」というのが二中と三中の間にあったのを知ってます?

誰に聞いても、記憶にないというが、僕らが小学校の頃はもっぱらそこだった。

そして、昭和38年といえば世相はまさに闇鍋状態であった・・・・・

国内では政治家の汚職、そして力道山がヤクザに刺殺されたり、

吉展ちゃん誘拐殺人事件事件、迷宮入りとなった「草加次郎事件」等々。

国外では、ケネディ米国大統領暗殺事件と、ベトナムのクーデター

東京オリンピックの前の年のことだった。

さて、その当時の横丁というか、高崎市民の暮らしぶりはどうだったか。

その頃はヒロポン中毒で背中には「唐獅子牡丹の刺青」・・・・・

ご存知、畳屋の“セーちゃん”。

まあ、ご存知といったところで高砂町、そこの横丁だけの話だが。

「年端とりたかねえなぁ、えぇっ、背中の唐獅子牡丹がキャベツになっちまっちゃあ俺もおしめぇだぜ!!」

そう言って、

「おうっ、飲めっ!!」

と、とにかく威勢のいいおあ兄さんだったそんな畳屋のセーちゃんだったが今は鬼籍の人。

黄泉の国の横丁でもきっと啖呵を切っているのではないだろうか誰彼なしにと・・・・・・

僕の“横丁”にはそういう意味では「エライ」人が随分と居た。

全身カラクリモンモンの鳶頭の「新井さん」とか、なぜか「団子屋のマーボー」と呼ばれていて、

僕ら横丁のガキにはどことなく不気味だったオッサン。

そして縄抜けの「真ちゃん」とか・・・

このオジサン、若かりし頃は警察に捕まっても必ず脱走を繰り返したとか。

あぼん屋の「ナミチャン」なんて云う人も居た。いわゆる「聴覚障害者」とかです。

で、「あぼん屋」なんだけど、多分「しゃぼん屋」ではないかと・・・・

つまりあの時代、「石鹸」には結構不自由していて、手作りのそれをそうした人が流し売りしていた。

たしか、使い古しの「乳母車」か何かにその「しゃぼん」を詰め込んで。

戦後は右も左も・・・「エライ」時代だった。

昭和31年、“赤線”が消え・・・ここ“横丁”の街はは北関東きっての「歓楽街」と名を馳せた。

そんなわけで横丁の長屋には「お水」のお姉さんがどことはなしの色香で一方の風情を織り成していた。

もちろん僕らがその風情を楽しんでおったわけではないのだが・・・・・

あの時代、何処の「横丁」にも、横丁という横丁にはコップ酒場があった。

大体が、酒屋がそのコップ酒を供していた。今で云うなら「コンビ二」の趣で、カウンターで飲む。

ちょいとしたカウンターらしきものがしつらえてあり、

そこで、南京豆かなんかをツマミにして頂いているようだった。

それというのも、良くは知らないが、何でも「料飲法」という無粋な法律があって・・・・・

「座らせて飲ませてはいけない」決まりがあったようだ。

そんな立ち飲みの酒場で「エチルアルコホール」のきついのが一杯も入れば、

それは、「矢でも鉄砲でも持って来い」のご時世、横丁での酔っ払いの喧嘩は日常茶飯事。

しかし「料飲法」とは、いつの世も“御上”と云う奴は「庶民」には横柄だ。

昭和30年代・・・買防でパクラレル、お姉さん。選挙違反でしょっ引かれる、小父さん。

垣根越しの悪たれ、罵詈雑言、鍋釜が飛び交う夫婦喧嘩・・・・・

それでいて「離縁」なんて云う話は聞くこともない。

もっとも、

「出て行けーーーっ!!」

「ああ、出て行くよ!!」

は、横丁の風物。

実は僕がガキの頃は何度となくそんな親父とオフクロを目にしてはおののいたものだった(笑)。

その時代の住居といえば6畳一間の長屋に下手をすれば、三世代・・・・・

そして共同便所に、共同炊事場、共同水道、それが当時の横丁の長屋。

疫痢、赤痢、はたけに、田虫・・・チョイト運が悪ければ、トラホームに蓄膿とデキモン問屋。

町医者にしたって、ヤブもヘボもない・・・・・

国民皆保険がやっと始まる頃の話だから、医者なんかにはかかる筈もないし、殆どが往診。

もっとも、病院たって、別に「医療機器」があるわけじゃあないから、医者もこられても困っただろう。

あの頃、あの時代の“ガキ”だから、僕らの「ジンバラ」は今の“ガキ”の「ジンバラ」とは「ジンバラ」が違う。

当時の駄菓子ときたぁ日には食品添加物どころの騒ぎじゃあない・・・・・

しかし毎日買い物する魚屋、八百屋、変なものを出せばたちまち客足は他所へ行っちまうから、

そりゃあシナモンは確かだったに違いない。

考えてみれば、肉こそ食わなかったものの冷蔵庫と云う物が無かったお陰でいつも、

それはそれは旬の物・・・いつも新鮮な物を食べていたわけだ。

ここ高崎は、内陸、海なし県だから鮮魚は殆ど縁が無い。

そんなわけで秋刀魚、鯖、鯵の開き、鰹のナマリに、鯖の煮付け・・・

佃煮屋も「横丁」には必ず一軒あった、豆腐屋、八百屋は引き売り、納豆屋、卵屋は朝の目覚まし・・・・・

牛乳も、搾りたて、野菜も採れたて、卵も産みたて、梅干、糠漬け、沢庵に白菜漬け。

今頃は、チョイト漬き過ぎた紫紺の「ナス」と口の曲がりそうな「キュウリ」があれば3杯飯は行ける。

その時代の50年後の今朝も、そのナスと、キュウリのぬか漬けに大根の味噌汁・・・・・

しかし、このところキュウリが馬鹿高い、下手をすると一本100円からするから、

それはそれは、レトロな贅沢三昧となる。

今日日、大型冷蔵庫には消味期限すれすれの生鮮食品が汗をかいている。

「時代」という物は、随分と無駄を作るものだ・・・・・

まあ、このあたりのスーパーでも夕刻のピークを過ぎると半値で売ったりしている。

そんな刺身、その時間になるとあっという間に売り切れる(笑)。

「世の中は変わっていない」
「人間、そうは変わっていない」


風景が変わっただけかもしれない・・・・・

それに惑わされているだけかもしれない、と思う今日このごろ。

しかし、街中に「喫茶店」が全部消えてしまったのは寂しい。

あっ、一軒残っていた、「コンパル」が!!

50年昔の高崎を考察する(1)



Posted by 昭和24歳  at 07:34 │Comments(2)

この記事へのコメント
懐かしい話、楽しく読ませていただいてますっ☆
コンパルってまだやってたんですねっ…
思い出の店なんですっ…行ってこよっかな(^O^)
Posted by ひまわり at 2013年09月12日 08:59
ひまわりさん、どんな思い出でしょうか♡もしかして?
僕も昭和44年頃は終末、近くのダンスホールでバンドやってたもんですからいつも行ってました。それらい行ってないけど表はそのまんまの作りですねショーケースも。今度行ってみよ。高崎の中の「世界遺産」かも、たった一軒の「喫茶店」。
Posted by 昭和24歳昭和24歳 at 2013年09月12日 17:42
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