2011年07月02日
ギター工房再起動Ⅲ
ギター工房再起動Ⅲ
USA SCHCTER のセールスマンMr.Jinbo と・・・・・・
<シカゴ・コンベンションセンター>
ギタービルダー亀岡直樹君の巻
ジンボとはシカゴ最後の「NAMM」に行った・・・・・・
行ったとは言っても一緒に行ったわけではない。
ジンボたちはLAからヨレヨレのダッジで出発寸前までかけてやっと調整の終えたばかりの、
50本のシェクターを積み込むとルート66をまるで歌の文句のようにシカゴへ。
因みにあの「ルート66」は今はないが、やはりアメリカに憧れた青春時代を持つ僕らの世代にとっては、
テレビドラマそのものの「ルート66」をひたすら走ることを夢見てしまうのである。
その時は僕は日本の優秀な技術スタッフ亀岡君と成田からシカゴ・オヘア国際空港へと向っていた・・・・・・
ところで亀岡君はものすごく優秀な技術を持っているが、ものすごく変わり者。
そのシカゴへの出で立ちはTシャツにボロボロのGパン、そして極めつけは履き旧しのビーチサンダル。
会社へもよく雪駄だの下駄などで来ていたからそうでなかったのがせめてもの救い(^^ゞ
しかし亀岡君にビルドアップされたシェクターに感動した多くのプレイヤーがいたことを僕は忘れない。
そんな亀岡君も大好きだった内田勘太郎さんの試作モデルを最後にシェクターを去った・・・・・・・
どうやら僕の経営姿勢に問題があったようで、この仕事に嫌気が点したらしい。
そんな亀岡君とは入社以来ほとんど話しらしい話はしたことが無かった。
しかし亀岡君の一途な仕事ぶりから、アメリカのシェクターから一人技術者を送れというので亀岡君を送り込んだ。
実は亀岡君は僕ばっかりでなく他のスタッフともそんな調子だからどうも「ウマ」というか「ソリ」というかが合わない。
内緒の話だか僕もちょうど亀岡君にいらいらしていた所だったので、そんなアメリカサイドのオファーには渡りに船、
「丁度いい」っ、てなもんで亀岡君に行ってもらう事にした。
亀岡君も素っ気無いが、僕も亀岡君には素っ気無かった。
「亀っ、ロスに行ってくれ」
と言う僕の注文に・・・・・・
「アッ、あ~っ」
と言う返事。その一週間後亀岡君は成田から機上の人となっていた。
さて、亀岡君が機上の人となって一週間が過ぎた頃、USAシェクターの社長「ジョー」から電話。
いやっ、まずい。「なんだ、奴は」、なんて言って来たのかと嫌々電話に出ると、あの特徴のある甲高い声で。
「ユーッ、ヤツ最高だぜ」
そのジョーの一声に一瞬耳を疑ったが、確かに腕はあるけどと思いつつもこっちでのこともあるし、
〈ほんとうかよ〉
とおもいながらも・・・・・
「なかなかいい腕だろ」
と、僕が言うと、
「最高だぜ、ユー、あんなに一生懸命仕事する奴はこっちにはいないぜ」
と、弾んだ例の調子の声でジョーは言った。
そりゃそうだろうこっちにいる時だって亀岡君の仕事振りは半端ではなかった。
おかげで他のスタッフ、定時には帰れないは、朝は早く来なければと、いつも僕にこぼしていた。
その仕事ぶりは実に凄まじかったのだから・・・・・・
それにしても僕はほっとした。もしかしたら亀岡君はいつも自然体なのかもしれない。
ピュアで、夢中で、自分の世界を持っていて。そう言えば亀岡君はロッケンローラーだった。 ア
ナーキーの藤沼さんの大ファンで、亀岡君は自分の作ったギターを藤沼さんに使ってもらっていることを、
密かに大喜びしていた。密かに。
ロスでは恋もしたらしい。焼き肉屋の韓国人の女の子で「ツ・ユンジュ」と言う名前で、よく通っていたと聞いていた。
しかしそれは亀岡君流の恋で、きっとあの仕事ぶりに負けずとも劣らない恋心だったに違いない。
ついに告白することもなかったとも聞いた。
そして、彼女が亀岡君が自分に恋をしているなんてことも知る由も無かったようだ。
いやっ、じつに亀岡君らしい。今何処でなにをしているか。もしギターを作っていないならもったいないなぁ。
亀岡君と僕の唯一のコミュニケーションは・・・・・・
そう言えば亀岡君は大のプロレスファンで、「猪木命」と言うほどアントニオ猪木のファンでもあった。
作業場の壁という壁には「アントニオ猪木」のポスターや切り抜きが貼ってあった。
僕が仙台からの出張帰りの日たまたま新幹線の中で後ろの席にその「アントニオ猪木」さんがずいぶんと酩酊した様子でいた。
するとアントニオ猪木さんがトイレに立ったので、〈ヨシッ、今だっ〉と思い立ち・・・・・・・
実は恐る恐るであるがアントニオ猪木さんがトイレから出てくるのを待伏せた。
「すみませ~ん。あのーっ、サインをお願いします」
と、僕が声をかけるとアントニオ猪木さん・・・・・・
「ウッ、ウ~ン。ウィッ」
と、少し屈むようにして壁によりかかり・・・・・
「サインだッ」
と、ギロッと僕を上目遣いに睨むではないか。
「アッ、いやっ、もしできましたら・・・・」
と、僕。猪木さんは「フーッ」と言いながら、「ああっ、いいよ」と二つ返事。
「有り難うございます。実は僕の息子が猪木さんの大ファンなもので、きっと大喜びします。有り難うございます」。
と、僕が言うと、猪木さんは面倒くせぇなあと言う風に、ドテっと新幹線の洗面所の壁に寄りかかると・・・・・
「名前はっ、名前」
「ハイッ。直樹といいます」
猪木さんは「これでいいかな。直樹君へ」と僕の差し出したノートに書いてくれた。
亀岡君にその経緯の一部始終を話すと・・・・・
「エッ、おれ社長の息子にされちゃったんすか。エ~ッ」
と、本気でいやな顔をしている。
「なんだっ、じゃあいらねえのかっ!?? 」
と、僕がむっとした風に言うと、
「えぇっ ??? 」
と、言いながら、ぺたっ、と壁に貼って・・・・・・
「どうも」
と、ペコッ、と頭を下げるともう仕事にかかっていた。そんな亀岡君だった。
ギター工房再起動Ⅲ
USA SCHCTER のセールスマンMr.Jinbo と・・・・・・
<シカゴ・コンベンションセンター>
ギタービルダー亀岡直樹君の巻
ジンボとはシカゴ最後の「NAMM」に行った・・・・・・
行ったとは言っても一緒に行ったわけではない。
ジンボたちはLAからヨレヨレのダッジで出発寸前までかけてやっと調整の終えたばかりの、
50本のシェクターを積み込むとルート66をまるで歌の文句のようにシカゴへ。
因みにあの「ルート66」は今はないが、やはりアメリカに憧れた青春時代を持つ僕らの世代にとっては、
テレビドラマそのものの「ルート66」をひたすら走ることを夢見てしまうのである。
その時は僕は日本の優秀な技術スタッフ亀岡君と成田からシカゴ・オヘア国際空港へと向っていた・・・・・・
ところで亀岡君はものすごく優秀な技術を持っているが、ものすごく変わり者。
そのシカゴへの出で立ちはTシャツにボロボロのGパン、そして極めつけは履き旧しのビーチサンダル。
会社へもよく雪駄だの下駄などで来ていたからそうでなかったのがせめてもの救い(^^ゞ
しかし亀岡君にビルドアップされたシェクターに感動した多くのプレイヤーがいたことを僕は忘れない。
そんな亀岡君も大好きだった内田勘太郎さんの試作モデルを最後にシェクターを去った・・・・・・・
どうやら僕の経営姿勢に問題があったようで、この仕事に嫌気が点したらしい。
そんな亀岡君とは入社以来ほとんど話しらしい話はしたことが無かった。
しかし亀岡君の一途な仕事ぶりから、アメリカのシェクターから一人技術者を送れというので亀岡君を送り込んだ。
実は亀岡君は僕ばっかりでなく他のスタッフともそんな調子だからどうも「ウマ」というか「ソリ」というかが合わない。
内緒の話だか僕もちょうど亀岡君にいらいらしていた所だったので、そんなアメリカサイドのオファーには渡りに船、
「丁度いい」っ、てなもんで亀岡君に行ってもらう事にした。
亀岡君も素っ気無いが、僕も亀岡君には素っ気無かった。
「亀っ、ロスに行ってくれ」
と言う僕の注文に・・・・・・
「アッ、あ~っ」
と言う返事。その一週間後亀岡君は成田から機上の人となっていた。
さて、亀岡君が機上の人となって一週間が過ぎた頃、USAシェクターの社長「ジョー」から電話。
いやっ、まずい。「なんだ、奴は」、なんて言って来たのかと嫌々電話に出ると、あの特徴のある甲高い声で。
「ユーッ、ヤツ最高だぜ」
そのジョーの一声に一瞬耳を疑ったが、確かに腕はあるけどと思いつつもこっちでのこともあるし、
〈ほんとうかよ〉
とおもいながらも・・・・・
「なかなかいい腕だろ」
と、僕が言うと、
「最高だぜ、ユー、あんなに一生懸命仕事する奴はこっちにはいないぜ」
と、弾んだ例の調子の声でジョーは言った。
そりゃそうだろうこっちにいる時だって亀岡君の仕事振りは半端ではなかった。
おかげで他のスタッフ、定時には帰れないは、朝は早く来なければと、いつも僕にこぼしていた。
その仕事ぶりは実に凄まじかったのだから・・・・・・
それにしても僕はほっとした。もしかしたら亀岡君はいつも自然体なのかもしれない。
ピュアで、夢中で、自分の世界を持っていて。そう言えば亀岡君はロッケンローラーだった。 ア
ナーキーの藤沼さんの大ファンで、亀岡君は自分の作ったギターを藤沼さんに使ってもらっていることを、
密かに大喜びしていた。密かに。
ロスでは恋もしたらしい。焼き肉屋の韓国人の女の子で「ツ・ユンジュ」と言う名前で、よく通っていたと聞いていた。
しかしそれは亀岡君流の恋で、きっとあの仕事ぶりに負けずとも劣らない恋心だったに違いない。
ついに告白することもなかったとも聞いた。
そして、彼女が亀岡君が自分に恋をしているなんてことも知る由も無かったようだ。
いやっ、じつに亀岡君らしい。今何処でなにをしているか。もしギターを作っていないならもったいないなぁ。
亀岡君と僕の唯一のコミュニケーションは・・・・・・
そう言えば亀岡君は大のプロレスファンで、「猪木命」と言うほどアントニオ猪木のファンでもあった。
作業場の壁という壁には「アントニオ猪木」のポスターや切り抜きが貼ってあった。
僕が仙台からの出張帰りの日たまたま新幹線の中で後ろの席にその「アントニオ猪木」さんがずいぶんと酩酊した様子でいた。
するとアントニオ猪木さんがトイレに立ったので、〈ヨシッ、今だっ〉と思い立ち・・・・・・・
実は恐る恐るであるがアントニオ猪木さんがトイレから出てくるのを待伏せた。
「すみませ~ん。あのーっ、サインをお願いします」
と、僕が声をかけるとアントニオ猪木さん・・・・・・
「ウッ、ウ~ン。ウィッ」
と、少し屈むようにして壁によりかかり・・・・・
「サインだッ」
と、ギロッと僕を上目遣いに睨むではないか。
「アッ、いやっ、もしできましたら・・・・」
と、僕。猪木さんは「フーッ」と言いながら、「ああっ、いいよ」と二つ返事。
「有り難うございます。実は僕の息子が猪木さんの大ファンなもので、きっと大喜びします。有り難うございます」。
と、僕が言うと、猪木さんは面倒くせぇなあと言う風に、ドテっと新幹線の洗面所の壁に寄りかかると・・・・・
「名前はっ、名前」
「ハイッ。直樹といいます」
猪木さんは「これでいいかな。直樹君へ」と僕の差し出したノートに書いてくれた。
亀岡君にその経緯の一部始終を話すと・・・・・
「エッ、おれ社長の息子にされちゃったんすか。エ~ッ」
と、本気でいやな顔をしている。
「なんだっ、じゃあいらねえのかっ!?? 」
と、僕がむっとした風に言うと、
「えぇっ ??? 」
と、言いながら、ぺたっ、と壁に貼って・・・・・・
「どうも」
と、ペコッ、と頭を下げるともう仕事にかかっていた。そんな亀岡君だった。
ギター工房再起動Ⅲ
Posted by 昭和24歳
at 18:09
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