2008年06月18日
中流の崩壊と通り魔事件。
中流の崩壊と通り魔事件。
悲しいかな日本国民の本質かも知れない・・・・・・
大衆の怒りの矛先は時の権力に向かうのではなく立場を同じくするその大衆に向かう。
総じて、7人死亡、10人負傷の「荒川沖駅通り魔事件」の犯人、“金川真大(24)”も、
先の、7人死亡、11人負傷の「秋葉原通り魔事件」の“加藤智大容疑者”(25)も報道ではいわゆる「普通」・・・・・
彼らはともに24、25歳と同年代。
そして共通するのは「大人しい」と「アキバ」、そしてさらに「友達がいない」など。
こうした、「大人しい普通の子ども」、いや、“加藤智大容疑者”の方は中学時代までは成績はトップクラスで運動も抜群だったとか・・・・・
そんな子どもがなぜ、どうして“殺人鬼”に変質してしまったのか。
「家族で一緒に食卓を囲むことがない」
しかし初めからそうだったわけではないだろう。
彼らが生まれた時は両親ともその誕生を喜び、彼らが幼い頃は笑顔で「食卓を囲み」・・・・・・
そんな、どこにでもあるような幸せな団欒があったはずだ。
もちろん事実はわからない。仕事に忙しい父親だったとすればそれは徐々に壊れていったかも知れない。
そして母親は子どもたちとの深い関わりの中で「シツケ」と「教育」をある種のはけ口にし知らず知らずの内に子どたちとの溝を深めていったのかも知れない。
「家庭内暴力」
あの「積み木くずし」現象に見られた時代のように子どもたち心が荒み母親に暴力をふるう。
今でもあるようだ去年の5月・・・・・・
切断した母親の頭部を通学かばんに入れて会津若松署に出頭した、17歳高校生、少年の猟奇的母親殺人のように。
そして両親いずれかによる殺人にいたるケースも多い、“児童虐待”が過去最高との今朝の新聞報道。
このような事件の背景にあるものは「家族の崩壊」、そして「社会の崩壊」ではないか。
その現実を認めたくない「理由は他にある」という論調だが、そこにある事実はやはり「社会の崩壊」ではないだろうか。
その社会とは、その社会を構成する国民一人ひとりであり、家庭であり、広く言えば“国”であろう。
「一億総中流」と言われたのはいつのことだっただろうか。
「中流」、「中産」、どちらでもよい・・・・・
いつの時代も社会に明暗はある。しかしその「一億総中流」といわれた時代は総じて「明」が際立っていた。
そこにはブルーシート、ダンボールハウスの“ホームレス”もなかった。“ネットカフェ難民”もいなかったし、“グッドウィル”もなかった。
この日本社会はいつから転落して行ったのだろうか・・・・・
数万人の“ホームレス”、“ネットカフェ難民”、“自殺者”、“独居老人”と孤独死、そして数百万人の“ワーキングプア”等々。
それでいてそこにある日本経済は「史上空前の好況」をいう空虚。
超高層マンションの日陰にブルーシート、ダンボールハウスでボランティアの炊き出し。
このアンバランスこそが「弱肉強食」による社会崩壊ではないのか。
気がつけば、「秋葉原通り魔事件」ばかりではない。
未解決の通り魔殺人事件が、殺人事件に至らないまでも傷害事件の頻発・・・・・・
「世の中が嫌になった、会社が悪い、親が悪い」と言って、なぜそれが見ず知らずの普通に暮らす同じ立場の大衆に怒りの矛先を向けるのか。
本来ならその矛先は「世の中」を作る「為政者」に向かうべきだろう。
強者には立ち向かえず、弱者を無差別に、不意に襲う卑劣さへの怒りは例えようがない。
このような事件では、いつどこで誰が被害者になるかも知れないという恐怖社会。
普通の家庭の崩壊が誘引・・・・・・
つまり「一億総中流」の崩壊。
産業の海外流出。そしてあらゆる物資の輸入での価格崩壊。国内産業の低迷。
国内経済の停滞でありながら大企業業績の好況と家計所得の減少・・・・・
その相関関係の不具合はなんのためか。
今こそ僕らは良く考える必要がある。国民一人ひとりが良く考える必要がある。これ以上社会を壊さないためにも。
悲しいかな日本国民の本質かも知れない・・・・・・
大衆の怒りの矛先は時の権力に向かうのではなく立場を同じくするその大衆に向かう。
総じて、7人死亡、10人負傷の「荒川沖駅通り魔事件」の犯人、“金川真大(24)”も、
先の、7人死亡、11人負傷の「秋葉原通り魔事件」の“加藤智大容疑者”(25)も報道ではいわゆる「普通」・・・・・
彼らはともに24、25歳と同年代。
そして共通するのは「大人しい」と「アキバ」、そしてさらに「友達がいない」など。
こうした、「大人しい普通の子ども」、いや、“加藤智大容疑者”の方は中学時代までは成績はトップクラスで運動も抜群だったとか・・・・・
そんな子どもがなぜ、どうして“殺人鬼”に変質してしまったのか。
「家族で一緒に食卓を囲むことがない」
しかし初めからそうだったわけではないだろう。
彼らが生まれた時は両親ともその誕生を喜び、彼らが幼い頃は笑顔で「食卓を囲み」・・・・・・
そんな、どこにでもあるような幸せな団欒があったはずだ。
もちろん事実はわからない。仕事に忙しい父親だったとすればそれは徐々に壊れていったかも知れない。
そして母親は子どもたちとの深い関わりの中で「シツケ」と「教育」をある種のはけ口にし知らず知らずの内に子どたちとの溝を深めていったのかも知れない。
「家庭内暴力」
あの「積み木くずし」現象に見られた時代のように子どもたち心が荒み母親に暴力をふるう。
今でもあるようだ去年の5月・・・・・・
切断した母親の頭部を通学かばんに入れて会津若松署に出頭した、17歳高校生、少年の猟奇的母親殺人のように。
そして両親いずれかによる殺人にいたるケースも多い、“児童虐待”が過去最高との今朝の新聞報道。
このような事件の背景にあるものは「家族の崩壊」、そして「社会の崩壊」ではないか。
その現実を認めたくない「理由は他にある」という論調だが、そこにある事実はやはり「社会の崩壊」ではないだろうか。
その社会とは、その社会を構成する国民一人ひとりであり、家庭であり、広く言えば“国”であろう。
「一億総中流」と言われたのはいつのことだっただろうか。
「中流」、「中産」、どちらでもよい・・・・・
いつの時代も社会に明暗はある。しかしその「一億総中流」といわれた時代は総じて「明」が際立っていた。
そこにはブルーシート、ダンボールハウスの“ホームレス”もなかった。“ネットカフェ難民”もいなかったし、“グッドウィル”もなかった。
この日本社会はいつから転落して行ったのだろうか・・・・・
数万人の“ホームレス”、“ネットカフェ難民”、“自殺者”、“独居老人”と孤独死、そして数百万人の“ワーキングプア”等々。
それでいてそこにある日本経済は「史上空前の好況」をいう空虚。
超高層マンションの日陰にブルーシート、ダンボールハウスでボランティアの炊き出し。
このアンバランスこそが「弱肉強食」による社会崩壊ではないのか。
気がつけば、「秋葉原通り魔事件」ばかりではない。
未解決の通り魔殺人事件が、殺人事件に至らないまでも傷害事件の頻発・・・・・・
「世の中が嫌になった、会社が悪い、親が悪い」と言って、なぜそれが見ず知らずの普通に暮らす同じ立場の大衆に怒りの矛先を向けるのか。
本来ならその矛先は「世の中」を作る「為政者」に向かうべきだろう。
強者には立ち向かえず、弱者を無差別に、不意に襲う卑劣さへの怒りは例えようがない。
このような事件では、いつどこで誰が被害者になるかも知れないという恐怖社会。
普通の家庭の崩壊が誘引・・・・・・
つまり「一億総中流」の崩壊。
産業の海外流出。そしてあらゆる物資の輸入での価格崩壊。国内産業の低迷。
国内経済の停滞でありながら大企業業績の好況と家計所得の減少・・・・・
その相関関係の不具合はなんのためか。
今こそ僕らは良く考える必要がある。国民一人ひとりが良く考える必要がある。これ以上社会を壊さないためにも。
Posted by 昭和24歳
at 16:41
│Comments(1)
こちらをごらんになっては。
通り魔は昔のほうがはるかに多いですよ。
戦前や昭和30年代をなめてはいけません:P