2010年10月21日
キグレサーカスが事業停止
キグレサーカスが事業停止
前橋公演も中止だとか。
キグレサーカスにはいっぱい思い出がある・・・・・
キグレサーカスが事業停止…新型インフル打撃
読売新聞 10月20日(水)18時35分配信
民間信用調査会社の帝国データバンク札幌支店は20日、サーカス興行業「キグレサーカス」(札幌市中央区)が、19日付で事業を停止した、と発表した。
負債総額は約5億8800万円で、今後、任意整理に移行する見通しという。
同支店によると、同社は1942年に創業、77年に法人化されたサーカス興行団で、日本三大サーカスの一つとして知られていた。
しかし、入場者数の低迷に加え、2009年10月からの埼玉・川越公演を新型インフルエンザの流行が直撃し、大幅な損失が発生。その後、資金繰りが悪化し、今年9月末には従業員35人を解雇したという。
サーカスの団長
記憶が確かであれば「沖電(沖電気)」のところの高崎線立体高架橋の工事。
ソレが始まったのが、昭和40年代初めではなかっただろうか・・・・・・
当時、沖電の周り中は「田圃」だらけで、昭和47年頃に、
その沖電横の広場で「キグレ大サーカス」の楽団をやったのを憶えている。
キャバレー「ニュージャパン」のバンドマンで、
その時僕はチェンジのコンボでドラムを叩いていた。バンマスは同い年の「田中」。
この田中が器用な奴でフルバンでペットを吹いて、コンボではテナーをやる。
みんなはその田中を「デカタナ」と呼んでいた・・・・・・・
デカタナと言うからには「チビタナ」もいた。
その「チビタナ」は同じ田中という姓でフルバンでテナーを吹いていて、「チビタナ」と言うだけあって実際チビだった。
しかし「デカタナ」が当時の成人平均身長を越すほど者でもなかった。
精々が1メートル60センチがそこそこの「デカタナ」なのだから、「チビタナ」は・・・・・
正真正銘の「チビタナ」であったことは言うまでもない。
「あちらのお客さん六七番テーブルの。バンドさんにチップだって・・・はいっ」
社交のお姉さんがバンマスのデカタナにさりげなく。
<社交のお姉さん=当時は「ホステス」とは呼ばず“社交”と呼んでいた>
「あとで席に来るようにですってこのバンドさん全員」
ステージの合間にテーブルにつけと言うのだ。
「なべちゃん、プーチ(チップ)すげえぞ。頭、チェーマン(1万円)だぜ」
「あのクーキャ(客)ヤバクねえか」
と、スーべ(ベース)の加部ちゃんが言う。
「ヤバそうだな・・・どっかのザーヤク(ヤクザ)じゃあねえのか」
「だって、プーチ貰っちゃたもの・・・こんなに。行かねえ分けにいかねえだろ」
ターギ(ギター)の桑さん。
かなりの体格。しかも皮製のスーツにハンチングで、おまけに体中を「金ぴか」に飾り立てている。
「オーウッ、座れ座れっ。遠慮すんな」
「こちらのお客さん・・・ほら、東口に今度来るでしょ。あのキグレ大サーカスの団長さんなんですって」
「オイッ、心配すんなぁ、俺はこれじゃあねえからよ」
「ガハハーッ」と笑いながらそう言うとほっぺの横を「スーッ」と人差し指で切る。
「まあ似たようなもんだけどな」
そう言うとまた、「ガハハーッ」と笑い女の子の肩を抱いて上機嫌だった。
そうか・・・サーカスの団長さんか。
やはりこれくらいでないと団長さんやってけないんだろうなと変にみんな感心していた。
「実はよう、今度の高崎の公演でな、みんなにバンドやって貰いてえんだ。楽団連れてきても金かかるし、みんなにやってもらえればアゴアシいらねえしな」
サーカスのバンドか・・・なんか面白そうだな。
約2ヶ月間の公演で間休みなしだと言う・・・・・
「給料はずむぞっ、なんたってアゴアシなしだからな。一人7000円でどうだ。7000円 !! 」
「ハッ、ハーセーーンッ !!??? 」
「なんだ、ハーセンとは !?? 7000円だよ、7000円、分けのわかんねえこと言ってんじゃあねえよ、7000円 !! 」
その団長、僕らがきょとんしているので、面倒臭そうに言った。
「やっ、やっ、やります、やりますっ、なぁっみんな」
「オウッ、やってくれるかーーーそいつは助かる。朝九時には入ってくれ、一日3回公演もちろん飯つき。六時にははねるからこっちには問題ねえだろっ。さあ、飲め飲め、さあっ」
そんなこんなで「キグレ大サーカス」の楽団をやることになった。
「九時、六時かぁ、チョッときついけど稼げるな」
当時は同い年の連中、サラリーマンでだいたい月給十万いけば御の字だった。
僕らバンドマンは大体14、5万は稼いでいた。昭和47年頃の話だ。
しかし、バンドマンには、もっともな話だがボーナスはないので実際のところはそう大差はなかったのかもしれない。
でもこの辺のバンドマン。当時20代、30代の堅実な奴は当然昼間のゴトシ(仕事)・・・・・・・
それも、結構まともな企業に勤めていて相当な稼ぎがあったようだ。
どう言う訳か、国鉄の職員、つまり「ポッポ屋」とか消防署、「火消し」の職員が多かった。
文句を言わずに昼間も勤めをすれば結構な収入になったことは確かだった。
そこへ行くと僕らはいい気なもんで「ミュージシャン」を気取った太平楽、後生楽で、
好きなことに明け暮れていた青春時代。
それは丁度浅間山荘事件で世の中騒然としていたにもかかわらず・・・・・・
考えてみればいい気なもんだったと今になって反省するが時は既に遅し(笑)。
それにしても、象の糞やキリンの小便には閉口した。臭いのなんのって半端じゃあない。
特に難しかったのが「空中ブランコ」の決めの時のドラムの「タイミング」。
そのタイミングが外れようもんならえらいいきおいで叱り飛ばされる。
もっとも空中ブランコの兄さん姉さん慣れてるとは言え「命がけ」なのだ。
ところが台本では「外す」はずの「ピエロ」の決めが、決まっちゃったりすると、ピエロの兄さんからお小言。
しかし大変だったけど面白かった「キグレ大サーカス」。
そう誰もが経験できる話ではないが、そう自慢できる話ではないことも確かだ。
今では「コンピュータ」で何でもかんでもやっているらしい・・・・・・・
何年か前にも高崎のキリン麦酒工場跡地にその「キグレ大サーカス」がきた。
その大サーカスもその頃の趣は消えていた。
だいいち会場のチケット売りのお姉さんも、芸人さんも「東京ディズニーランド」のそれとほとんど違いがない。
僕らの時代、サーカスと言えば美空ひばりの「角兵衛獅子」ではないが、なんかおどろおどろしさを感じていた。
「言うこと聞かねえとサーカスに売っちゃうぞ」
なんて子どもの頃親父に脅かされたものだった。
そんな平成の「キグレ大サーカス」のテントの入り口で切符を買いに列に並ぶ子連れの僕がいる。
ふとあの時の団長さんの怖い笑顔がよぎった。
キグレサーカスが事業停止
前橋公演も中止だとか。
キグレサーカスにはいっぱい思い出がある・・・・・
キグレサーカスが事業停止…新型インフル打撃
読売新聞 10月20日(水)18時35分配信
民間信用調査会社の帝国データバンク札幌支店は20日、サーカス興行業「キグレサーカス」(札幌市中央区)が、19日付で事業を停止した、と発表した。
負債総額は約5億8800万円で、今後、任意整理に移行する見通しという。
同支店によると、同社は1942年に創業、77年に法人化されたサーカス興行団で、日本三大サーカスの一つとして知られていた。
しかし、入場者数の低迷に加え、2009年10月からの埼玉・川越公演を新型インフルエンザの流行が直撃し、大幅な損失が発生。その後、資金繰りが悪化し、今年9月末には従業員35人を解雇したという。
サーカスの団長
記憶が確かであれば「沖電(沖電気)」のところの高崎線立体高架橋の工事。
ソレが始まったのが、昭和40年代初めではなかっただろうか・・・・・・
当時、沖電の周り中は「田圃」だらけで、昭和47年頃に、
その沖電横の広場で「キグレ大サーカス」の楽団をやったのを憶えている。
キャバレー「ニュージャパン」のバンドマンで、
その時僕はチェンジのコンボでドラムを叩いていた。バンマスは同い年の「田中」。
この田中が器用な奴でフルバンでペットを吹いて、コンボではテナーをやる。
みんなはその田中を「デカタナ」と呼んでいた・・・・・・・
デカタナと言うからには「チビタナ」もいた。
その「チビタナ」は同じ田中という姓でフルバンでテナーを吹いていて、「チビタナ」と言うだけあって実際チビだった。
しかし「デカタナ」が当時の成人平均身長を越すほど者でもなかった。
精々が1メートル60センチがそこそこの「デカタナ」なのだから、「チビタナ」は・・・・・
正真正銘の「チビタナ」であったことは言うまでもない。
「あちらのお客さん六七番テーブルの。バンドさんにチップだって・・・はいっ」
社交のお姉さんがバンマスのデカタナにさりげなく。
<社交のお姉さん=当時は「ホステス」とは呼ばず“社交”と呼んでいた>
「あとで席に来るようにですってこのバンドさん全員」
ステージの合間にテーブルにつけと言うのだ。
「なべちゃん、プーチ(チップ)すげえぞ。頭、チェーマン(1万円)だぜ」
「あのクーキャ(客)ヤバクねえか」
と、スーべ(ベース)の加部ちゃんが言う。
「ヤバそうだな・・・どっかのザーヤク(ヤクザ)じゃあねえのか」
「だって、プーチ貰っちゃたもの・・・こんなに。行かねえ分けにいかねえだろ」
ターギ(ギター)の桑さん。
かなりの体格。しかも皮製のスーツにハンチングで、おまけに体中を「金ぴか」に飾り立てている。
「オーウッ、座れ座れっ。遠慮すんな」
「こちらのお客さん・・・ほら、東口に今度来るでしょ。あのキグレ大サーカスの団長さんなんですって」
「オイッ、心配すんなぁ、俺はこれじゃあねえからよ」
「ガハハーッ」と笑いながらそう言うとほっぺの横を「スーッ」と人差し指で切る。
「まあ似たようなもんだけどな」
そう言うとまた、「ガハハーッ」と笑い女の子の肩を抱いて上機嫌だった。
そうか・・・サーカスの団長さんか。
やはりこれくらいでないと団長さんやってけないんだろうなと変にみんな感心していた。
「実はよう、今度の高崎の公演でな、みんなにバンドやって貰いてえんだ。楽団連れてきても金かかるし、みんなにやってもらえればアゴアシいらねえしな」
サーカスのバンドか・・・なんか面白そうだな。
約2ヶ月間の公演で間休みなしだと言う・・・・・
「給料はずむぞっ、なんたってアゴアシなしだからな。一人7000円でどうだ。7000円 !! 」
「ハッ、ハーセーーンッ !!??? 」
「なんだ、ハーセンとは !?? 7000円だよ、7000円、分けのわかんねえこと言ってんじゃあねえよ、7000円 !! 」
その団長、僕らがきょとんしているので、面倒臭そうに言った。
「やっ、やっ、やります、やりますっ、なぁっみんな」
「オウッ、やってくれるかーーーそいつは助かる。朝九時には入ってくれ、一日3回公演もちろん飯つき。六時にははねるからこっちには問題ねえだろっ。さあ、飲め飲め、さあっ」
そんなこんなで「キグレ大サーカス」の楽団をやることになった。
「九時、六時かぁ、チョッときついけど稼げるな」
当時は同い年の連中、サラリーマンでだいたい月給十万いけば御の字だった。
僕らバンドマンは大体14、5万は稼いでいた。昭和47年頃の話だ。
しかし、バンドマンには、もっともな話だがボーナスはないので実際のところはそう大差はなかったのかもしれない。
でもこの辺のバンドマン。当時20代、30代の堅実な奴は当然昼間のゴトシ(仕事)・・・・・・・
それも、結構まともな企業に勤めていて相当な稼ぎがあったようだ。
どう言う訳か、国鉄の職員、つまり「ポッポ屋」とか消防署、「火消し」の職員が多かった。
文句を言わずに昼間も勤めをすれば結構な収入になったことは確かだった。
そこへ行くと僕らはいい気なもんで「ミュージシャン」を気取った太平楽、後生楽で、
好きなことに明け暮れていた青春時代。
それは丁度浅間山荘事件で世の中騒然としていたにもかかわらず・・・・・・
考えてみればいい気なもんだったと今になって反省するが時は既に遅し(笑)。
それにしても、象の糞やキリンの小便には閉口した。臭いのなんのって半端じゃあない。
特に難しかったのが「空中ブランコ」の決めの時のドラムの「タイミング」。
そのタイミングが外れようもんならえらいいきおいで叱り飛ばされる。
もっとも空中ブランコの兄さん姉さん慣れてるとは言え「命がけ」なのだ。
ところが台本では「外す」はずの「ピエロ」の決めが、決まっちゃったりすると、ピエロの兄さんからお小言。
しかし大変だったけど面白かった「キグレ大サーカス」。
そう誰もが経験できる話ではないが、そう自慢できる話ではないことも確かだ。
今では「コンピュータ」で何でもかんでもやっているらしい・・・・・・・
何年か前にも高崎のキリン麦酒工場跡地にその「キグレ大サーカス」がきた。
その大サーカスもその頃の趣は消えていた。
だいいち会場のチケット売りのお姉さんも、芸人さんも「東京ディズニーランド」のそれとほとんど違いがない。
僕らの時代、サーカスと言えば美空ひばりの「角兵衛獅子」ではないが、なんかおどろおどろしさを感じていた。
「言うこと聞かねえとサーカスに売っちゃうぞ」
なんて子どもの頃親父に脅かされたものだった。
そんな平成の「キグレ大サーカス」のテントの入り口で切符を買いに列に並ぶ子連れの僕がいる。
ふとあの時の団長さんの怖い笑顔がよぎった。
キグレサーカスが事業停止
Posted by 昭和24歳
at 09:50
│Comments(1)
団長さんのお話とっても面白く読みました
その当時もバイクショーはありましたか?
バイクショーの時の演奏はどんな感じでしたか?
なんか映画にでも使われるようなワンシーンですね?
素敵なお話です