2010年08月18日
トットのおじちゃん
トットのおじちゃん
昭和37年4月29日・・・・・・・
トットのおじちゃん。
「おまえは橋の下から拾ってきたんだ」
いつも聞き分けのない僕を父も母もからかうようにそう言った・・・・・・
僕は「一人っ子」。あの時代そう言う子供は結構いた。
可笑しなもので両隣が一人っ子なのだ。
そう、両隣とも「橋の下から拾ってきました(笑)。
まだ小学校の二、三年頃だったろうか、よく母の実家、田舎だが夏休みになると両親に連れられていった。
「まっちゃんによく似て色白で可愛い子だね・・・まっちゃん、おやげないね」
実母は満津子という名前だった・・・・・・
母、養母の実家、つまりはお婆ちゃんの家だが、そのころ、おばあちゃんちは村ではただ一軒の万屋を商っていた。
もちろん農業もやっていて、主に、桃、梅を栽培していた。
「今日泊まっていってもいいだろ、冨美子姉ちゃんと寝るんだ」
お婆ちゃんちには10歳と、8歳違いのお姉ちゃんがいた。
冨美子姉ちゃんは桃原、梅原によく僕を連れて行ってくれた。
桃原で採りたての桃を湧き清水に浸しておいて食べる。
なんとも言えない美味しさ「天津」と言ったか・・・・・・・・
今ではその強烈な酸っぱさが故、品種改良され、その美味さを味わうことはできない。
お婆ちゃんちにはその頃、オート三輪があった。
自転車のハンドルのようなのがついた大きなやつだ。
荷台に、桃とか梅をいっぱいに積んで市場まで持って行くのが僕は楽しみだった。
桃原は今の剣崎の桃が丘一帯にあった・・・・・・
僕が8歳くらいのときにはもう冨美子姉ちゃんは18歳になっていたので・・・・・・・
多分、自動車の免許は持っていたんだろう。
っていうか、あの時代は警察に行けばくれたんだとか、昭和32年(笑)。
で、冨美子姉ちゃんの運転で桃原を縦横無尽に走った。
<トットットット・・・・・>
そのオート三輪の排気音が今でも僕の耳に残っている・・・・・・
おばあちゃん血の伯母ちゃん、つまり僕の実母なのだが、そのおばちゃんは、
昭和24年から脊椎カリエスでもう10年から床に臥していた。
つまり僕を産むとすぐに病に臥したまま・・・・・・・・
伯母ちゃんはお婆ちゃんちの奥の部屋でずっと寝たきりだった。
僕ら子どもは移るかもしれないからとその部屋に入れてもらえる事はなかった。
僕の記憶からも、そのおばちゃん、実母に会った記憶がなかった。
おばちゃん、きっと僕の声を聞いてどんなに抱き締めたかったことだろうか・・・・・
僕が小学校4年の時にその時はやってきたのだったが。
<トットットット・・・>
「あっ、トットのおじちゃんだ」
僕の家の前で、トットットット・・・とその音が止る。
トットのおじちゃんが来るといつも柔道の道場に連れて行ってくれる。
おじちゃんは、武徳殿という高崎公園の中にある武道館で柔道を教えていた。
「おじちゃんは強いんだぞ・・・ほらっ、黒帯だ」
僕にはよく分らなかったが、とにかく強いらしかった。
トットのおじちゃんは映画にもよく連れて行ってくれた・・・・・・
トットのおじちゃんと最後に観た映画は「力道山物語」だった。
まだこの街が砂利道だらけで映画館の前には「力道山物語」の幟がはためいていた。
そして、お婆ちゃんが死んだのは僕が小学校3年の時・・・・・・・・
トットのおじちゃんの機嫌がやけに悪かったのを覚えている。
トットのおじちゃんは酒が一滴も飲めない。
そのせいかどうか、昭和32年、73歳で死んだお婆ちゃんの振舞い酒に賑やかな客が気に入らなかったようで、
ほとんど怒った事のないトットのおじちゃんが、おばあちゃんを丸い棺桶に納める時すごい顔をしていた。
きっと・・・トットのおじちゃん、色んな思いがあったのかもしれない。お婆ちゃんに。
「あっちへ行ってろっ !!」
と僕を叱った・・・・・
“そういう時代”
僕には昔のことはよく分からない。大正元年生まれの、子年だ「トットのおじちゃん」は・・・・・・・
お祖父ちゃんは日清、日露戦争へ高崎十五連隊から出兵したと聞いていた。
大正元年。
一体どんな時代だったのだろうか。
欧州の戦争で好況に沸く皇国「日本」。そして昭和に入って「世界恐慌」から、太平洋戦争。
「トットのおじちゃん」
束の間の青春だったのかも知れない。
「トットのおじちゃん」は毎日のように高崎の僕の家にきていた。
<トットットット・・・>
と排気音を鳴らしながら・・・・・・
僕が小学校3年の頃には丸ハンドルの「マツダ」のオート三輪に替えていた。
僕はその「オート三輪」が自慢だった。
当時、昭和32年頃にオート三輪なんて言うのがあるなんて高崎では珍しかったからだ。
「トットのおじちゃん」は僕が学校から帰るのを待ってましたとばかりに・・・・・・・
そのオート三輪に僕を乗せて市場やお得意さんを回った。
「マルヨさんには似てねえな・・・」
「ああっ、オッカア似だからな」
トットのおじちゃんは目配せをするようにいつも小声でそう言った・・・僕に聞こえないように。
ずっと不思議に思っていたが、僕にはそのことが何のことだかはあまり分からなかった。
と言うより、知りたくなかったのかも知れない。
「マルヨさん、今度バナナとモヤシこっちに廻してくんねえかい」
「モヤシはいいが、バナナは統制かかってるしな」
マルヨとは、トットのおじちゃんの市場での屋号、仲買もやっていたのでみんながそう呼んだ。
よくは知らないが戦友とかがこの地域のバナナの権利を持っていて相当いい商売をしていたらしい。
もともとその戦友、今風に言えばベンチャー企業化か、モヤシの製造を始め・・・・・・・・
そのモヤシを作るときの蒸気かなんかで青いバナナを蒸すんだと言っていた。
・・・ホントにそうだったかどうかは分からない、あくまでも僕のおぼろ気な記憶である。
そんなことが昭和34年くらいまで毎日のように続いただろうか。
ある日、母とトットのおじちゃんが喧嘩をしていた。
喧嘩とは言っても兄と妹の口喧嘩のレベルだったんだろうが・・・・・・・
それにトットのおじちゃんは母の小言を全く相手にしていなかった。
何せ10歳も年が離れてる・・・母、38歳、トットのおじちゃん48歳なのだから。
「あんまり・・・この子、連れまわさないでよ。お父ちゃんが最近煩くて」
どうやら、トットのおじちゃんがしょっちゅう僕を何かと言っては連れて歩くのが父には面白くないらしい。
父は、実に生真面目な国鉄の職員・・・ほとんど僕の顔をまともに見たことがない。寝顔ぐらいじゃあないだろうか。
今にして思えば、僕が「なつかなかった」のかも知れない。
その父との思い出は生涯たったの2回・・・・・・
父の兄、叔父が亡くなった時に父の実家、静岡県沼津に行った時。
蒸気機関車で丹名トンネルをくぐって顔を煤で真っ黒にして、それを父が手拭で拭いてくれたり・・・・・・
沼津の海では父の見事な泳ぎっぷりに驚いたこと。
父は最期まで僕にはどことなく遠慮がちだった。
そしてそんな父は、同年代の「トットのおじちゃん」に嫉妬していたのかも知れない。
母と、トットのおじちゃんとの喧嘩。トットのおじちゃんはいつも最後にぼっそっと。
「テメエの子、かわいがっちゃあ悪いか !!???」
そんな時僕はいつもキューッっと胸の奥が痛くなるのを、今でも覚えている。
それにしても、あの時代の人たち・・・・・・・
僕ら世代もそうだったけど、戦災孤児、生き別れ、混血児 etc........
その時代に翻弄されたのは、生まれた時代が悪かったのか。
ソレを思うと今の僕たちは数万倍幸せなはず。
今でも、トットのおじちゃんにも、父にも時々、夢で逢っている。
今度いつ逢えるかな・・・・・・・・
トットのおじちゃん
昭和37年4月29日・・・・・・・
トットのおじちゃん。
「おまえは橋の下から拾ってきたんだ」
いつも聞き分けのない僕を父も母もからかうようにそう言った・・・・・・
僕は「一人っ子」。あの時代そう言う子供は結構いた。
可笑しなもので両隣が一人っ子なのだ。
そう、両隣とも「橋の下から拾ってきました(笑)。
まだ小学校の二、三年頃だったろうか、よく母の実家、田舎だが夏休みになると両親に連れられていった。
「まっちゃんによく似て色白で可愛い子だね・・・まっちゃん、おやげないね」
実母は満津子という名前だった・・・・・・
母、養母の実家、つまりはお婆ちゃんの家だが、そのころ、おばあちゃんちは村ではただ一軒の万屋を商っていた。
もちろん農業もやっていて、主に、桃、梅を栽培していた。
「今日泊まっていってもいいだろ、冨美子姉ちゃんと寝るんだ」
お婆ちゃんちには10歳と、8歳違いのお姉ちゃんがいた。
冨美子姉ちゃんは桃原、梅原によく僕を連れて行ってくれた。
桃原で採りたての桃を湧き清水に浸しておいて食べる。
なんとも言えない美味しさ「天津」と言ったか・・・・・・・・
今ではその強烈な酸っぱさが故、品種改良され、その美味さを味わうことはできない。
お婆ちゃんちにはその頃、オート三輪があった。
自転車のハンドルのようなのがついた大きなやつだ。
荷台に、桃とか梅をいっぱいに積んで市場まで持って行くのが僕は楽しみだった。
桃原は今の剣崎の桃が丘一帯にあった・・・・・・
僕が8歳くらいのときにはもう冨美子姉ちゃんは18歳になっていたので・・・・・・・
多分、自動車の免許は持っていたんだろう。
っていうか、あの時代は警察に行けばくれたんだとか、昭和32年(笑)。
で、冨美子姉ちゃんの運転で桃原を縦横無尽に走った。
<トットットット・・・・・>
そのオート三輪の排気音が今でも僕の耳に残っている・・・・・・
おばあちゃん血の伯母ちゃん、つまり僕の実母なのだが、そのおばちゃんは、
昭和24年から脊椎カリエスでもう10年から床に臥していた。
つまり僕を産むとすぐに病に臥したまま・・・・・・・・
伯母ちゃんはお婆ちゃんちの奥の部屋でずっと寝たきりだった。
僕ら子どもは移るかもしれないからとその部屋に入れてもらえる事はなかった。
僕の記憶からも、そのおばちゃん、実母に会った記憶がなかった。
おばちゃん、きっと僕の声を聞いてどんなに抱き締めたかったことだろうか・・・・・
僕が小学校4年の時にその時はやってきたのだったが。
<トットットット・・・>
「あっ、トットのおじちゃんだ」
僕の家の前で、トットットット・・・とその音が止る。
トットのおじちゃんが来るといつも柔道の道場に連れて行ってくれる。
おじちゃんは、武徳殿という高崎公園の中にある武道館で柔道を教えていた。
「おじちゃんは強いんだぞ・・・ほらっ、黒帯だ」
僕にはよく分らなかったが、とにかく強いらしかった。
トットのおじちゃんは映画にもよく連れて行ってくれた・・・・・・
トットのおじちゃんと最後に観た映画は「力道山物語」だった。
まだこの街が砂利道だらけで映画館の前には「力道山物語」の幟がはためいていた。
そして、お婆ちゃんが死んだのは僕が小学校3年の時・・・・・・・・
トットのおじちゃんの機嫌がやけに悪かったのを覚えている。
トットのおじちゃんは酒が一滴も飲めない。
そのせいかどうか、昭和32年、73歳で死んだお婆ちゃんの振舞い酒に賑やかな客が気に入らなかったようで、
ほとんど怒った事のないトットのおじちゃんが、おばあちゃんを丸い棺桶に納める時すごい顔をしていた。
きっと・・・トットのおじちゃん、色んな思いがあったのかもしれない。お婆ちゃんに。
「あっちへ行ってろっ !!」
と僕を叱った・・・・・
“そういう時代”
僕には昔のことはよく分からない。大正元年生まれの、子年だ「トットのおじちゃん」は・・・・・・・
お祖父ちゃんは日清、日露戦争へ高崎十五連隊から出兵したと聞いていた。
大正元年。
一体どんな時代だったのだろうか。
欧州の戦争で好況に沸く皇国「日本」。そして昭和に入って「世界恐慌」から、太平洋戦争。
「トットのおじちゃん」
束の間の青春だったのかも知れない。
「トットのおじちゃん」は毎日のように高崎の僕の家にきていた。
<トットットット・・・>
と排気音を鳴らしながら・・・・・・
僕が小学校3年の頃には丸ハンドルの「マツダ」のオート三輪に替えていた。
僕はその「オート三輪」が自慢だった。
当時、昭和32年頃にオート三輪なんて言うのがあるなんて高崎では珍しかったからだ。
「トットのおじちゃん」は僕が学校から帰るのを待ってましたとばかりに・・・・・・・
そのオート三輪に僕を乗せて市場やお得意さんを回った。
「マルヨさんには似てねえな・・・」
「ああっ、オッカア似だからな」
トットのおじちゃんは目配せをするようにいつも小声でそう言った・・・僕に聞こえないように。
ずっと不思議に思っていたが、僕にはそのことが何のことだかはあまり分からなかった。
と言うより、知りたくなかったのかも知れない。
「マルヨさん、今度バナナとモヤシこっちに廻してくんねえかい」
「モヤシはいいが、バナナは統制かかってるしな」
マルヨとは、トットのおじちゃんの市場での屋号、仲買もやっていたのでみんながそう呼んだ。
よくは知らないが戦友とかがこの地域のバナナの権利を持っていて相当いい商売をしていたらしい。
もともとその戦友、今風に言えばベンチャー企業化か、モヤシの製造を始め・・・・・・・・
そのモヤシを作るときの蒸気かなんかで青いバナナを蒸すんだと言っていた。
・・・ホントにそうだったかどうかは分からない、あくまでも僕のおぼろ気な記憶である。
そんなことが昭和34年くらいまで毎日のように続いただろうか。
ある日、母とトットのおじちゃんが喧嘩をしていた。
喧嘩とは言っても兄と妹の口喧嘩のレベルだったんだろうが・・・・・・・
それにトットのおじちゃんは母の小言を全く相手にしていなかった。
何せ10歳も年が離れてる・・・母、38歳、トットのおじちゃん48歳なのだから。
「あんまり・・・この子、連れまわさないでよ。お父ちゃんが最近煩くて」
どうやら、トットのおじちゃんがしょっちゅう僕を何かと言っては連れて歩くのが父には面白くないらしい。
父は、実に生真面目な国鉄の職員・・・ほとんど僕の顔をまともに見たことがない。寝顔ぐらいじゃあないだろうか。
今にして思えば、僕が「なつかなかった」のかも知れない。
その父との思い出は生涯たったの2回・・・・・・
父の兄、叔父が亡くなった時に父の実家、静岡県沼津に行った時。
蒸気機関車で丹名トンネルをくぐって顔を煤で真っ黒にして、それを父が手拭で拭いてくれたり・・・・・・
沼津の海では父の見事な泳ぎっぷりに驚いたこと。
父は最期まで僕にはどことなく遠慮がちだった。
そしてそんな父は、同年代の「トットのおじちゃん」に嫉妬していたのかも知れない。
母と、トットのおじちゃんとの喧嘩。トットのおじちゃんはいつも最後にぼっそっと。
「テメエの子、かわいがっちゃあ悪いか !!???」
そんな時僕はいつもキューッっと胸の奥が痛くなるのを、今でも覚えている。
それにしても、あの時代の人たち・・・・・・・
僕ら世代もそうだったけど、戦災孤児、生き別れ、混血児 etc........
その時代に翻弄されたのは、生まれた時代が悪かったのか。
ソレを思うと今の僕たちは数万倍幸せなはず。
今でも、トットのおじちゃんにも、父にも時々、夢で逢っている。
今度いつ逢えるかな・・・・・・・・
トットのおじちゃん
Posted by 昭和24歳
at 08:55
│Comments(6)
僕ら世代もそうだったけど、戦災孤児、生き別れ、混血児 etc........
その時代に翻弄されたのは、生まれた時代が悪かったのか。<
たぶんそうだと思います(;¬¬)
そしてその子供たちにもお…そらく…
連○する可○性があります(;¬¬)
しというかほぼ確実にします(;¬¬)
そこに万が一経済的困窮が重なると
…ということなんです(;¬¬)
断ち切れないのでおそらくは
二つの理由で増える一方です。
①アダルトチルドレンが増える
②世間の問題に対する認知度が増す
よって時間が経過すればだんだん無
視されなくなる規模に問題は拡大する
と思います。
しかし、源泉が源泉なので複雑な問題
です。
看過されているというよりは、現状では
手がつけられない問題であると思いま
す。
ここだけならば…
欧米人が何であんなに子供っぽいのか
(汗)
といえば…
彼らはIRからすでに10世代以上に渡っ
て連鎖しているからです。
いけないらしいのですが、気合の
問題だと思います(;¬¬)
拝金資本主義は生活を消耗します・・・・・・
それは医療も社会保障も知りません。
社会保険も、医療保険も実は官僚の打ち出の小槌。
僕はもういいけど、子どもたちにはきっと重石。
娘が母親になる頃・・・・・<
全てが是であると思いませんが、断片的
には誠にそう感じられました。
これから、というのは二重の意味で難し
くなると思います。
一つは経済的に。
社会保障費用は膨らみ続けます。
さらにアダルトチルドレンも同様にです。
実は児童虐待の事件がおこるベストミクス
トな経済社会の下地が日本全体にあると
いうことです。。
気合…では駄目でしょうね(;¬¬)
であるだけに…
困難なはずです(;¬¬)
正直言うとですね…
困難だからどうでもいいと思いま~す
ま、ようは上記のように決定です(;¬¬)
国にお金ないから(;¬¬)
あぁ、地元(在住総5年ですけど)はチクショ
ウだなぁ(まだ天国ですけど、住んでてそう
思います
で僕も何日かまえにデータ見ましたけど…
http://mainichi.jp/area/gunma/news/20100807ddlk10020227000c.html
とま、つまり
「さっぱり駄目だ」
ということです(;¬¬)
以前申し上げましたように、雇用と住宅投
資はつまりは先行きを計る上で有用なデー
タですが、それらが伸びないのでつまりは
諦念です。
縮小均衡の経済では人口が流出しますか
ら、残念ながら色々な意味で先が見えます。
完全に尻すぼみです。
政権補正が剥がれました。
ほれみろ、てめえでてめえの首を絞めや
がった、だからいったんだい(;¬¬)w