2010年06月06日
沖縄が好きだという青年。
沖縄が好きだという青年。
ひょんなことで知り合った昭和44年生まれの青年・・・・・・
昭和44年生まれといえば今年で41歳になる。
リアルタイムでこの国の戦後を全く知らない世代。
彼の母親は僕の姉と同じ年代、昭和18年生まれだという。彼が中学生の頃父とは離婚、妹が一人。
妹は結婚していて子供もいて・・・・・
「おふくろですか・・・・・?
好き勝手していてどうしょうもないですよ。」
そう言って、母親の日常を僕に話す。
実はその青年、とってもしっかりモンなのだ。
「結婚ですか?
もうあきらめてます(笑)。
考えたこともなかったですよ、今まで。
自分の生活がやっとだって言うのに、結婚したって食わせていけないし。」
昭和44年生まれ・・・・・・
そんな青年、彼が生まれたころの、その時代の話をした。
「今の時代の原点かな、昭和40年代は」
学園自治闘争の頂点だった東大安田講堂騒動。
それが“東大”だったというところもかなりシンボリックな騒ぎだった・・・・・
昭和40年代と言えば大学進学率も、とくに田舎の僕らの町ではクラスでも二人か三人。
総体的にも2割に満たないそれだったに違いない、そんな時代だ。
まさに、今に言う“格差社会”。経済高度成長という中の、それは持つもの、持たざるものということではなしに、
ある意味“学歴”と言う社会構造にある種、無頓着だったのかも知れない僕らの親たち。
当然その親たちは戦中戦前とまさしく“平民”でその意味では最下層の大衆だった。
僕らの時代でさえ高校進学はせずに工業系大企業に就職していった友達もその“大学進学率”と同じくらいいた。
中には“夜学”に通いながら高卒とした友人もいた。
「たしかに大変な時代に生まれたんだな、君たちは・・・・・・
でも今と大きく違うのは、あの頃は給料が一挙に“倍”になったりする時代で、
昭和48年のオイルショックに始まる狂乱物価、そして田中角栄までは格差社会とはいっても、
中卒で大工とか職人になった連中のほうが高卒、大卒のサラリーマンより何倍も稼いでた。
早い話、“腕”で稼げた。僕もその時代はキャバレーのバンドマンで大卒初任給が5万円前後の時に20万円くらい。
とにかく、その頃発売されたトヨタカローラがたし47万円。○専手形だったけど半年くらいで買った。」
「へーーーっ、今友達の大工なんか日当1万円行かないってこぼしてますよ」
ため息をつきながらその青年はつぶやくようにそう言った・・・・・・
「その時代のツケが今なんだろうな。
その当時、学生運動する連中は親丸抱えの学生生活だから“革命”なんて言ってられたんだ。
親の仕送りのない連中は“アルバイト”でそれどころではない。学校が閉鎖されると喜んでバイト三昧だった。
そんな学園紛争、学生運動で何が変わった?、世の中どう変わった?、なにもかわってないどころかますます悪くなっている。
学生自治からの学園紛争から、反戦運動・・・・・ベトナム戦争の。
アメリカが負けて撤退して、それでも年がら年中戦争、戦争。この国だけが別世界。
世界同時革命とかで中東でゲリラ、潜伏の日本赤軍革命家も今じゃあ還暦の望郷でここに老いを晒してる。
結局、世の中、何にも変わらなかった。昔のまま、いや、悪くなった。
“格差”。あの時代のそれは“社会的職業格差”でも所得は“逆格差”だった。
公務員が僕らを羨ましがった。
実態は、公務員になるようなやつは“力”のないやつと言う風潮さえあった(笑)。
しかし、オイルショック以降の赤字国債は“ゼロ”から30年で800倍・・・・・」
その青年は沖縄が好きだという。
俗に言う“フリーター”だが、一人モンの成せる業か、
年に一度は必ず2、3週間ほどの期間沖縄に滞在するという。
今年の夏は三度目かの東アジア、インドまで足を伸ばすとか。
そう言いながら、青年は数枚の写真を僕に見せた・・・・・・
バックパッカーである。
この国の歪な時代、歴史をリアルタイムで生きてきた僕らはそんな青年にどんな言葉を遺せばいいのだろうか。
日に日に成長が手にとるようにわかるわが娘にどんな風景を遺せばいいのだろうか・・・・・・
僕らの父母の時代とは違って、曲がりなりにも言論があり、人権があり、選べる情報は山ほどあり、
そんな甘い世界にいて、僕らに遺せるものはなんだろうか。
次第しだいに“ニガク”、“スッパク”なる世界を感じながら僕らが遺せるその風景は、
僕らの父母は偉大な風景を僕らに遺してくれた。
ここに60余年、揺るぎのない“平和”というそれを、例えそれが“ここ”だけのものであったとしても、
“ここ”に戦場がなかったということだけは事実なんだから。
「沖縄はどうなっちゃうんだろうか」
青年は今の沖縄がとても気がかりだという。
実は僕は沖縄だけは知らない・・・・・・
彼が言うには、ソコにある米軍基地の凄まじさは尋常ではないと。
「やっぱり、ない方がいいよね。米軍基地」
そういう青年だが、彼は政治の話は好きではないと(笑)。
「でも、鳩山さんって、なんであんなこと言っちゃったんだろう・・・・・・???
こんな俺でも、信じちゃってたよ、普天間返還、代替地は最低でも県外っていうの」
1年近いバイトで150万円くらい貯めたとか・・・・・・
もうすぐ41歳。
「あっという間だった。
どうなっちゃうんだろ、オレ・・・・・・」
自分を、そんな風にいうその青年への言葉が見つからなかった。
沖縄が好きだという青年。
ひょんなことで知り合った昭和44年生まれの青年・・・・・・
昭和44年生まれといえば今年で41歳になる。
リアルタイムでこの国の戦後を全く知らない世代。
彼の母親は僕の姉と同じ年代、昭和18年生まれだという。彼が中学生の頃父とは離婚、妹が一人。
妹は結婚していて子供もいて・・・・・
「おふくろですか・・・・・?
好き勝手していてどうしょうもないですよ。」
そう言って、母親の日常を僕に話す。
実はその青年、とってもしっかりモンなのだ。
「結婚ですか?
もうあきらめてます(笑)。
考えたこともなかったですよ、今まで。
自分の生活がやっとだって言うのに、結婚したって食わせていけないし。」
昭和44年生まれ・・・・・・
そんな青年、彼が生まれたころの、その時代の話をした。
「今の時代の原点かな、昭和40年代は」
学園自治闘争の頂点だった東大安田講堂騒動。
それが“東大”だったというところもかなりシンボリックな騒ぎだった・・・・・
昭和40年代と言えば大学進学率も、とくに田舎の僕らの町ではクラスでも二人か三人。
総体的にも2割に満たないそれだったに違いない、そんな時代だ。
まさに、今に言う“格差社会”。経済高度成長という中の、それは持つもの、持たざるものということではなしに、
ある意味“学歴”と言う社会構造にある種、無頓着だったのかも知れない僕らの親たち。
当然その親たちは戦中戦前とまさしく“平民”でその意味では最下層の大衆だった。
僕らの時代でさえ高校進学はせずに工業系大企業に就職していった友達もその“大学進学率”と同じくらいいた。
中には“夜学”に通いながら高卒とした友人もいた。
「たしかに大変な時代に生まれたんだな、君たちは・・・・・・
でも今と大きく違うのは、あの頃は給料が一挙に“倍”になったりする時代で、
昭和48年のオイルショックに始まる狂乱物価、そして田中角栄までは格差社会とはいっても、
中卒で大工とか職人になった連中のほうが高卒、大卒のサラリーマンより何倍も稼いでた。
早い話、“腕”で稼げた。僕もその時代はキャバレーのバンドマンで大卒初任給が5万円前後の時に20万円くらい。
とにかく、その頃発売されたトヨタカローラがたし47万円。○専手形だったけど半年くらいで買った。」
「へーーーっ、今友達の大工なんか日当1万円行かないってこぼしてますよ」
ため息をつきながらその青年はつぶやくようにそう言った・・・・・・
「その時代のツケが今なんだろうな。
その当時、学生運動する連中は親丸抱えの学生生活だから“革命”なんて言ってられたんだ。
親の仕送りのない連中は“アルバイト”でそれどころではない。学校が閉鎖されると喜んでバイト三昧だった。
そんな学園紛争、学生運動で何が変わった?、世の中どう変わった?、なにもかわってないどころかますます悪くなっている。
学生自治からの学園紛争から、反戦運動・・・・・ベトナム戦争の。
アメリカが負けて撤退して、それでも年がら年中戦争、戦争。この国だけが別世界。
世界同時革命とかで中東でゲリラ、潜伏の日本赤軍革命家も今じゃあ還暦の望郷でここに老いを晒してる。
結局、世の中、何にも変わらなかった。昔のまま、いや、悪くなった。
“格差”。あの時代のそれは“社会的職業格差”でも所得は“逆格差”だった。
公務員が僕らを羨ましがった。
実態は、公務員になるようなやつは“力”のないやつと言う風潮さえあった(笑)。
しかし、オイルショック以降の赤字国債は“ゼロ”から30年で800倍・・・・・」
その青年は沖縄が好きだという。
俗に言う“フリーター”だが、一人モンの成せる業か、
年に一度は必ず2、3週間ほどの期間沖縄に滞在するという。
今年の夏は三度目かの東アジア、インドまで足を伸ばすとか。
そう言いながら、青年は数枚の写真を僕に見せた・・・・・・
バックパッカーである。
この国の歪な時代、歴史をリアルタイムで生きてきた僕らはそんな青年にどんな言葉を遺せばいいのだろうか。
日に日に成長が手にとるようにわかるわが娘にどんな風景を遺せばいいのだろうか・・・・・・
僕らの父母の時代とは違って、曲がりなりにも言論があり、人権があり、選べる情報は山ほどあり、
そんな甘い世界にいて、僕らに遺せるものはなんだろうか。
次第しだいに“ニガク”、“スッパク”なる世界を感じながら僕らが遺せるその風景は、
僕らの父母は偉大な風景を僕らに遺してくれた。
ここに60余年、揺るぎのない“平和”というそれを、例えそれが“ここ”だけのものであったとしても、
“ここ”に戦場がなかったということだけは事実なんだから。
「沖縄はどうなっちゃうんだろうか」
青年は今の沖縄がとても気がかりだという。
実は僕は沖縄だけは知らない・・・・・・
彼が言うには、ソコにある米軍基地の凄まじさは尋常ではないと。
「やっぱり、ない方がいいよね。米軍基地」
そういう青年だが、彼は政治の話は好きではないと(笑)。
「でも、鳩山さんって、なんであんなこと言っちゃったんだろう・・・・・・???
こんな俺でも、信じちゃってたよ、普天間返還、代替地は最低でも県外っていうの」
1年近いバイトで150万円くらい貯めたとか・・・・・・
もうすぐ41歳。
「あっという間だった。
どうなっちゃうんだろ、オレ・・・・・・」
自分を、そんな風にいうその青年への言葉が見つからなかった。
沖縄が好きだという青年。
Posted by 昭和24歳
at 08:15
│Comments(1)
例えば自殺者問題も我々は自分の時間や金をその解決にあてることは許しがたいという厳然たる事実があることからより複雑な問題です。
景気、つまり失業率や倒産件数と自殺者数の相関関係(×因果関係)ははっきりしていますが、現実世界で失業と倒産がただちに自殺に結び付かなければならない理由は明瞭ではありません。
しかしながら、メンタリティの問題として、医療問題に行き着くことに対する合意が形成されていて、一定の成果が挙がっていることには理解があります。
シンプルな解決方法として増刷が挙がることは正しいながら、増刷によって他に被害が移転することを計りにかけるような公正さを欠いています。
貯蓄の7割は65歳以上の年金需給世代、つまり弱者による保有だという点に留意されていません。
さらに政治プロセスの問題として、弱者救済を志向する政治的リーダーは軒並み支持を失う等の形で、短期間に失脚している現実があることも指摘されます。
それは機会の平等も正しければ正しいほど貧困を和らげることはできても撲滅には繋がらないことに対して、成果が無い、或いは知らない、果ては裏切られたとする見方に極端さが避けられないのは一般論をむしろ著しく欠如することによる悲劇で〜す。
確かに邦国の政治はずっとそんな調子ですが、まぁ代議士は面の皮が厚いなと(汗)、あいや、まぁ政治に関心を持てないなというのは私も同じ感想で〜す。