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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーション  at 

2021年11月08日

高崎の巨星墜つ

高崎の巨星墜つ


未だ戦後の趣がそこかしこに遺る昭和42年所謂空前のエレキブームからグループサウンズブームがこの地方都市を席巻し始めていた。そこに高崎市立第3中学校の同級生を中心に当時は不良の代名詞と言われた「エレキバンド」が結成された。
当時は猫も杓子もエレキ、エレキで、そう高崎には藤五、スズラン、八木橋を筆頭にデパートと呼べる百貨店が6店、それになんといってもすれ違うのにも大変な「中央銀座通り」が南北に1キロほど走っていた。そこのど真ん中なったのが「みゆきダンスホール。近隣、パチンコ屋、映画館、レストランはもちろん「高崎ハム」「八百為」「天華堂」等々他、「釜屋呉服店」、「うろころ呉服店」他用品店とその賑わいは今のイオンモールも尻尾をまいて逃げ出すほどの勢いだった。

その中銀のセンターに幅を利かせていた「みゆきダンスホール」開店は戦後すぐ社交ダンスが始まりだったようだがご案内の団塊世代、とにかく昭和30年の大合併で高崎市の人口12万5千人、そこに言われる「団塊世代の人口は12万5千人推したという。
そんな時代に夜な夜な青春パワーを持て余した少年少女が競って「みゆきダンスホール」でジルバにマンボからモンキーダンス、ゴーゴーに興じた。
その舞台の主役が「ザ・プラネッツ」。とにかく人気絶頂で、「俺、東京へ行くから」とリーダだった丸山隆(ドラムス・故人)、岩井登(リードギター・故人)、富岡博美サイドギターボーカル(現役復帰)と、突然脱退。
ま、そこで困り果てあぐねたのが残されたその後のリーダー高木賢次郎(ボーカル)中島憲治(ベース)、鳩首会談の結果当時東京でドラマー修行中だった渡辺一(18歳)につてをたどって参加を要請、結果メンバーに。さて、あと一つの大きな難題はリードギター探しだった。

そこに忽然と現れたのが天才少年ギタリスト「兼谷時夫(18歳)」まぁ、その腕前ときたら、普段は茫洋としている趣だがひとたびギターを抱えるとロダンの「考える人」のように固まり、そしてかき乱すかのようにエレキギターを弾きだす。
なんといっても周囲を唖然とさせたのがクリームのホワイトルーム」、バニラ・ファッジの「キープ三―ハンギングオン」それにジミヘンの「紫の煙。これらを、言わゆる完コピって言うやつ。

「渡辺君、ドラムそういう風に叩いていねぇと思うんだけど、もっとレコードちゃんと聴いてくれる」とチクリと刺す。

ま、そんな兼谷時夫のお陰で僕のドラムも上達したと思う。

で、リーダ―でボーカルの高木賢次郎が兼谷時夫いう、「時夫ちゃん、プラネッツのオープニングはストーンズの”タイムイズオンマイサイドなんだけど出来るかな?」。

兼谷時夫が鼻で笑うかのように答える「あっ、良いよ、で、歌は大丈夫?」

有楽町サンケイホールでのザ・プラネッツ。兼谷時夫のイントロで始まった、タイムイズオンマイサイド間奏からエンディングまで気負う風もなく「フン」と、シラケた風にも見える、まさしく天才と言えるその立振舞い。

昨夜の「お通夜」兼谷時夫の「眠る男」をみる。これまでのステージのひとコマひとコマが走馬灯のように駆け巡った。時にスローモーションで。



  


Posted by 昭和24歳  at 11:22Comments(0)

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