2010年01月09日

綾小路きみまろ

綾小路きみまろ



鹿児島県曽於郡松山町(現・志布志市)出身。5代目鈴々舎馬風門下。あん摩マッサージ指圧師の国家資格を保有[1]。鹿児島県立末吉高等学校、拓殖大学商学部卒業。身長165cm、体重70Kg。血液型はO型。「落語協会」会員[1]。

漫談のスタイルは立川談志、上岡龍太郎、ビートたけし、毒蝮三太夫等によって確立された毒舌漫談というジャンルであるが、中高年世代が持つ人生の悲哀をユーモラスに語るのが特徴で、とりわけ中高年(メインは40代後半以降)に人気が高いため中高年のアイドルとも言われる。しかし本人は「毒蝮三太夫さんの様に『クソババア』とは言えない」と述べている(漫談の基本スタイルやきみまろ自身がいつも口にしているセリフについては#きみまろの漫談スタイル、#きみまろの口癖を参照の事)。

山梨県南都留郡富士河口湖町に別荘「きみまろ亭」を持つ。2003年にサラリーマン川柳からの盗用疑惑が持ち上がる。一時のブーム沈静化後にはテレビ出演する機会が減ったが、地方では1日に2回公演・3回公演と精力的に営業を行ない、2004年山梨県の長者番付で2位となる。2004年に清水國明とともに、富士河口湖町の特別町民の第1号として表彰された。

カツラを使用している事をマスメディアで自らカミングアウトし、本人もカツラ(ヘアピース)を認めている。因みに、揉みあげは地毛で、あとは「ズッポリ」だという。また、髪を後ろで束ねている部分については、下半分が地毛で上半分がカツラの髪であるとSmaSTATIONで香取慎吾に明かしており、万が一のときにカツラが完全に取れてしまわないようにするためである。









抱腹絶倒、間違いなし!!
きみまろって、腹筋の運動に最高です!!!
若い人も後学のために・・・・・・


  


Posted by 昭和24歳  at 15:21Comments(0)

2010年01月09日

新宿“アシベ”


新宿“アシベ”



飯田久彦オリジナル




新宿駅南口の跨線橋、甲州街道を明治通り方面に下る。
突き当たりは当時はナントカ言うお寺で明治通りで行き止まりだった。
“新宿アシベ”はその新宿よりカドの松井ビルの地下にあった。


♪ルイジアナママ♪(最新版)



弘田三枝子、最新バージョン!!


僕がよく従兄弟に連れて行ってもらったのは昭和35年ころ・・・・・
弘田ミエ子とか中尾ミエとか伊藤ゆかりが伊藤敏道とリリオリズムエアーズなんかをバックに歌っていた。
そうそう、尾藤イサオがブルーコメッツをバックに、内田裕也がブルージーンズをバックに・・・・・

伊藤ゆかりといえば、僕は“夢見る想い”が好きだった。
オリジナルはイタリアの『ジリオラ・チンクェッティ』。僕より2歳年上・・・・・
たしか伊藤ゆかりも。

まっ、伊東ゆかりといえば♪ボーイハント♪です!!




♪大人になりたい♪


ご機嫌な中尾エミ、伊東ゆかりメドレー


1964年のジリオラ・チンクェッティ
http://www.youtube.com/watch?v=PtbW7zYmYfM&mode=related&search=

2005年のジリオラ・チンクェッティ
http://www.youtube.com/watch?v=UbfYrzkIObk&mode=related&search=

僕が東京を離れるころ新宿高島屋“タイムズスクェア”がオープンした。
毎日のように目白から新宿、渋谷と営業しながらそんな時代の様変わりになんとなく溜め息をついていた。
と言うのも、キディランドの並びにあった原宿のK楽器青山店が閉店・・・・・
そして次々にエレキ専門店がエレキ量販店に変貌するそんな時代。

でも“新宿アシベ”は半世紀も前のその姿をそこに留める。

最後に見に行ったのが昭和43年だったか、“ゴールデンカップス”のプログラムだった。
『長い髪の少女』がヒットする寸前だったと思う。キーボードにミッキー吉野が加わり、
その時代では珍しいサウンドを聴かせるグループサウンズだった。
その時のベース、ルイズルイス加部さんが僕の知り合いと未だ横浜でバンド活動をしていると言うから驚きだが、
あの時代のバンドにしては抜群のテクニックをもっていた。

東京でバンドマン修業に入ったころその“新宿アシベ”は歌舞伎町の方に移転していた。
半年ほど加わったバンドのリードギターがそのアシベの近くの“レコーディング・スタジオ”でアルバイトしていたので、
時々はその新しい“アシベ”にも何度か見に行った。

しかし人生って早い。

エレキ小僧の時代が10代、バンドマンの時代が20代、エレキ作りの時代30代~40代・・・・・・
そして今の俺って?
結局、エレキ以外ない人生。気づいたら子どもたちがその僕の20代、30代を生きている。

さっき、優の次女と長男を保育園に送ってきた。
その長男、昨夜どうしても“りょうネエ”んちへ行くと泣いてきかなかいとかで9時ころに電話。
優が連れてきて帰ろうと言ってもぐずって帰らない。
優が怒って・・・・・

「りょうネエんちへおいてくよっ!」

っていったら、

「いいもんだぁ!」

とにかく、優にとっては初めて息子を手放して寝る夜。

「ほんとに泊まれるかな?」

「いいよ、泣き出したらつれてくから」

と僕が言うと、
優の方が寂しそうに、後ろ髪をひかれるようにして帰っていった。

息子はりょうとゲームに、といってもゲームができるわけじゃあないんだけど夢中になりながら・・・・・・
いつもながら寝息を立てていた。

今朝、優が保育園のカバンと着替えを持って次女を連れてやってきた・・・・・

「泊まれたの!すごいな太一は!!・・・・・
ママ寂しかったけど・・・・・太一は?」

「楽しかったよ、りょうネエとねんねして」

思わぬところでのわが息子の成長に戸惑い気味の優・・・・・・

そんな経験を26年前に僕たちがしたことを優は知る由もなかった(笑)。

どこまでも平和な庶民・・・・・・

今、わが娘たちこの曲にはまってます(笑)。




しかし、ニール・セダカ、若いですね!!
1939年生まれだから僕より10歳年上・・・・・・
さすが年のせいか?
歌いだしの部分、“ハイE”がでなくて“ハイC”で!

子どもってすごいですね、歌詞を耳でなぞって歌ってる。
しかもメロディーまでしっかり・・・・・

因みに幼少のころの僕がそうだったそうです(笑)。
年とともに衰えてます。今は譜面がないと全くダメです。

  


Posted by 昭和24歳  at 13:00Comments(0)

2010年01月09日

冷凍みかん・・・・・

冷凍みかん・・・・・



1955年(昭和30年)から小田原駅のキヨスクで販売するようになったのが初めである。





子どものころ汽車に乗るときいつも冷凍みかんを父にせがんだ・・・・・

ぼくは今でも何故か冷凍みかんが好きだ。
そうか、小田原駅で昭和30年に販売でしたか・・・・・・

実は昨夜みかんを食べながら娘と「冷凍みかん」の話をした。
ぼくの子どものころの思い出話をしながら・・・・・

「へ~、パパの子どもの頃に冷凍みかんなんてあったの?」

そう言われてみればそうだ。冷蔵庫なんてえモノはなかったし・・・・・
と思いつつ、初めて「冷凍みかん」を食べたのはいつだったんだろうと無性に気になりはじめた。

ところで、ハッキリ言って「冷凍みかん」ってそんなに美味いもんじゃあない(笑)。
冷凍することで果汁の糖分が消されてしまうとか・・・・・
でもなぜかその「冷凍みかん」が食べたくなる。

そっか、冷凍みかん、ぼくの初めての冷凍みかんは「小田原駅」だったのかも知れない。
昭和30年ぼくが小学校1年生、そのころは父の実家、静岡県沼津市へは法事やらなんやらで、
8月のお盆のころになると行っていた・・・・・・
当然、沼津の途中にその「冷凍みかん」発祥の地、小田原駅はある。

こうしてブログを書くことによって、54年目にしてやっと「冷凍みかん」の謎が解けた(笑)。


僕のみかんの食し方はまずオシリの方から皮を頭のボッチの所までその一房分ほどをむく。
そのあとうまい具合に指を刺しながらすっぽりとむけた時の心地よさ、満足感はなんともいえないものがある。

僕は子どもの頃から房の皮はそのままに丸呑みをしてしまう。
大人になってからは“Lサイズ”のそれでも、3等分くらいにしてそのまま丸呑みにしてしまう。
それもけして綺麗にはむかない。筋のようなものがいっぱいついたままのやつ・・・・・
それを口に放り込み一気に噛み潰すと「ジュワーッ」とほとばしるように果肉で口の中がいっぱいになる。

「オイオイ、ちゃんとむかねえと腹壊すぞ」

と、よく父や母に叱られたが・・・・・・
正直言うとその「一房、一房」が上手く食えなかったのだった。
ぐちゃぐちゃと噛んで、ほとんど果肉を残したままその袋を吐き出す。

「きったないなぁ」

なんてよく姉たちにも叱られた。

そんなこんなで、以来、蜜柑は「丸ごと」食うことにしている。


昨夜の話である・・・・・・

「パパ、いい加減にしてよ!これで何個目!!」

と、この時期になるとママの小言が飛んでくる。

「パパは丸のみしちゃうんだもの・・・・・」

と娘が不機嫌そうに言う。

“Sサイズ”あたりになるとまさに丸呑み。
まるで「みかん早食い競争」の様で、一人でいっぺんに7、8個は食ってしまう・・・・・
まあ、それはなにもみかんだけに限ったことではなく林檎、梨、桃、苺etc・・・・・果物には目のないのだから仕方がない。

話は変わっちゃうけどぼくは「魚の食い方」が全くダメだ・・・・・・
骨のある魚。美味いのだが、秋刀魚も鰊も僕が食い始めると誰も手がつけられない、ぐちゃぐちゃ状態。
そこへ行くと、ママ、娘たちは見事、頭と骨だけを残し、まるで猫のようにそれを片付ける。

そんなわけで、僕の魚はいつも秋刀魚の開き、鯵の開き、ホッケの開き、鯖の開きと・・・・・
まあ、人生「開き直ってる」わけだからソレでもいいかなと(笑)。
だから生魚の焼いたやつは骨が折れ、草臥れる。もちろん生魚、刺身は大好物なのだ!!

これは多分、海に縁のない“DNA”のせいではないかと最近つくづく思う。
実は僕は「海恐怖症」なのではないかと時々思うことがある・・・・・
それというのも海水浴などでその目線よりも高い“海原”。水平線は見ようによっては僕の頭の上にある。

初めて海を見たのが5歳の夏・・・・・
父の実家、沼津へ父と二人で行った時のことだった。
熱海を過ぎると汽車は急に恐ろしいほどの波しぶきを立てた海岸沿いを走っていた。
海岸にせり出した丹那トンネルの窓からはやはりその波しぶきが僕の乗った汽車に・・・・・・・
まるで襲い掛かるようにそのしぶきをうならせた。

父に連れられて初めて“海”に入った。

「溺れた」

別に溺れたわけではないのだろうけど、息もできなくて、塩辛い水を飲んで、散々な思いをした「トラウマ」。
それ以来、僕にとって海は恐怖の対象でしかなくなってしまった。
そんなわけで「水泳」は全くダメ。意に反して娘たちは「水泳が大好き」で・・・・・・・
末娘に至っては「水泳部」のキャプテンだというのだから、父親の”DNA“は子どもには継がれないということがよく分かった。

ママの父親は、大日本帝国海軍の志願兵だった。
もちろんママも水泳は上手だ。

しかしそんなママの“DNA”は極めて「音痴」である・・・・・
長女も、次女も、末娘も「自覚のない音痴」なのである。
その末娘、最近、「カラオケに連れて行け」とせがむが、どうしたものかと思い悩んでいる所である。
大体僕はカラオケが好きではない・・・・・・

実は歌を歌うということはとってもいい健康法なのだ!!
腹式呼吸で、いっぱい息を吸い込み脳に新鮮な空気を送り込む・・・・・・
そしてババッチイ空気を美声とともに吐き出す。

でもカラオケボックスって、どう見ても空気は最悪でしょ!!???
もっと広いところで歌わなくちゃ体に毒です。

変な所に話が落ちてしまった。

あ、そうか、

わが家の娘たちが音痴で、ぼくが魚の食べ方が下手で、
みかんを丸のみしちゃうとかで・・・・・・

冷凍みかん・・・・・  


Posted by 昭和24歳  at 07:56Comments(6)

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