2009年09月30日
らっちゃん・・・・知ってるかい???
らっちゃん・・・・知ってるかい???
【メッセージ】
そういえばらっちゃんはどうなってるかなと思い、グーグルした結果偶然こちらのサイトをおじゃましましたが、あまりの懐かしさに涙ぐんでしまいました。私がらっちゃんに通っていたのは、昭和45年ころですが、当時は餃子ライスと卵スープ、ないし焼き肉丼と餃子と卵スープがとてつもなくうまかったのを覚えています。(当時はらっちゃんと小僧さんのような風貌の腕のいい若いスタッフの二人で切り盛りしていました。)もちろん焼きそばも醤油風味が抜群でしたね。もやしのしゃきっとした舌触りはまだ覚えています。
ありがとうございました。
まあ、昨日、こんなメールいただきました。
で、「らっちゃん・・・・知ってるかい???」なんですけど・・・・・
いわゆる、高崎のB級老舗っていうんでしょうか、昭和の味です。コレが消えっつあります。
実に悲しくもあり、淋しくあり・・・・・
で、中通りのらっちゃんです。
アレは、まだ飯塚に「とりせん」があった頃のお話です。
まあ、そろそろ「らっちゃん」閉める頃でしょうか・・・・・・
ご亭主と女将さんとで連れ立ってお買い物の御様子、散見されました。
その後、飯塚「とりせん」もお終いになり、「らっちゃん」もいつの間にか閉店のお運びでした。
まあ、昭和24歳のこの僕が還暦ですから、おそらくご亭主、喜寿・米寿はとにもかくにも・・・・・・
確か、お店のカウンターに座らせてもらった折のお話の中ではご亭主、長嶋茂雄とかと同年代だったとか。
で、その「らっちゃん」に限らず、中通り、つまり高崎の「銀座通り」ですけどさっぱりで、ご案内の通りです。
観音屋の和菓子屋さんはご健在なんでしょうか、履物屋さんもありました、自転車屋さんも・・・・・
で、その「らちゃん」は当初はご亭主の御尊父様ご経営の「浅間カメラ」と間口を分けての営業でした。
僕が高崎市立第二中学校への通学路とした時のお話です。
僕がその「らっちゃん」の寄らせてもらったのは昭和47年前後の頃でした。
まあ、流れ流れての「バンドマン」ていうか、「夢破れて山河あり」でしょうか、時代は高度経済成長期末・・・・・・
それはそれは、華やかりし時代でもあったわけです。そうそう、連合赤軍の「浅間山荘事件」。そんな時代でした。
丁度、そのころ僕が、「バンドマン」としてお世話になっていた「キャバレー・ニュージャパン」のおネエさんたちとか厨房さんが夜食というか、小腹の足しに出前をお願いしていたのが・・・・・・
「らっちゃん」でございます。
まあ、僕らバンドマンが休憩時間というと「店」のすぐ前の八百屋さんで休憩することになっていました。
で、僕らは時間があれば「らっちゃん」まで赴いておったのですが、ないときは八百屋のおばちゃんにお願いして・・・・・・
「らっちゃん」の「餃子ライス」とか「焼きそばライス」を出前してもらっていました。ソレがそもそもの僕の「らっちゃん」の始まりでした。
それから、高崎を出たり戻ったり、で、結婚して嫁さんも子どもたちもすっかり「らっちゃんファン」で、保育園の行事の後とか、東小学校の運動会のあととかはいつも「らっちゃん」が定番でした。
で、平成6年生まれの末娘も「らっちゃん」の餃子か食べたいと今でも時々言ってます(笑)。
今でも食べたい、食べたくなるもの・・・・・・
「らっちゃんの餃子」、「らっちゃんの焼きそば」です。
コレはしたが味を憶えてるんでしょうか、今でも無性に食べたくなってしまいます。
まあ、その「焼きそば」ですけど平麺のもっちり感もさることながらご案内のメールにも記されているように「シャキシャキ感」のもやし、キャベツ等々の仕上がり具合。薄めの醤油仕立てですけど・・・・・・
僕の場合は、その焼きそばにラー油をたっぷりかけ、ウースターソースをチャプチャプにしていただく。それが「らっちゃん焼きそば」の流儀でした(笑)。
で、今でも食べたい、食べたくなるもの・・・・・・
まあ、念願叶っちゃってるのが、本ブロガーのナバホさんちの「成吉思汗」の「ラーメン」ですね。
まっ、叶っちゃってるわけですからいうことはありませんっていう話ですけど(笑)。
しかし、二度と叶わぬ「マイ・フェヴァリット・テイスト」があります。それは同じ「ラーメン」つながりのアレです・・・・・・
末広町の「大連」の「湯麺」と「焼きそば」です。ここの「焼きそば」はご案内の「らっちゃん」と似て非なるモノ。
やはり、焼きそばにする麺は「平麺」で、多分「湯麺」用を仕込んだものと思われ、その風味、趣は似て非なるモノで美味でした。
一昨年でしたか、その「大連」、名物マスターというか小柄も極めて小柄で、長くアゴヒゲを蓄えたそのマスターも・・・・・・
「もう閉めるよ。コレじゃあ商売にも何もなりゃあしない」
つまり、街中の人口減と、極めつけの交通取り締まりで路駐の一斉検挙だとか。
そりゃあそうです。末広町、椿町、山田町、高砂町、九蔵町あたりからこれまでの住人のほとんどが消えてしまったのですから。
まあ、僕もそんなうちの一人なんですけど、一人たって、つまり一家族です。7人がいっぺんにそこからいなくなっちゃった・・・・・
もちろん、その「大連」のあとなんですけど「ラーメン屋さん」が暖簾を開いています。結構美味しいです。
で、ついでと言っちゃあ失礼ですけど・・・・・・
「焼きそば」っていえば、「オリタ」の焼きそばでしょうか。コレといったモノがないのが取り柄の「オリタの焼きそば」でした。
そしてどうしてももう一度味わってみたい焼きそばは・・・・・・・
東小学校の正門前にいつも決まって屋台を合わせていた「焼きそば」。手のひらに載るほどのヘギに盛られ青のりをまぶし、
付け合わせには刻み生姜の、一食、アレは確か「5円」の焼きそば。昭和34、5年のお話です。
そうそう、「焼きそば」っていえば浅草銀座線の地下食堂街の「ソース焼きそば」は今でもあるんでしょうか?
アソコは東武伊勢崎線の始発駅でもあるわけですから、もしかし「太田の焼きそば」でしょうか。
なぜか、トコロテンとか味噌おでんも一緒に品書きされていたような・・・・・・
それにしても「らっちゃん」の御亭主、お元気でしょうか。
【メッセージ】
そういえばらっちゃんはどうなってるかなと思い、グーグルした結果偶然こちらのサイトをおじゃましましたが、あまりの懐かしさに涙ぐんでしまいました。私がらっちゃんに通っていたのは、昭和45年ころですが、当時は餃子ライスと卵スープ、ないし焼き肉丼と餃子と卵スープがとてつもなくうまかったのを覚えています。(当時はらっちゃんと小僧さんのような風貌の腕のいい若いスタッフの二人で切り盛りしていました。)もちろん焼きそばも醤油風味が抜群でしたね。もやしのしゃきっとした舌触りはまだ覚えています。
ありがとうございました。
まあ、昨日、こんなメールいただきました。
で、「らっちゃん・・・・知ってるかい???」なんですけど・・・・・
いわゆる、高崎のB級老舗っていうんでしょうか、昭和の味です。コレが消えっつあります。
実に悲しくもあり、淋しくあり・・・・・
で、中通りのらっちゃんです。
アレは、まだ飯塚に「とりせん」があった頃のお話です。
まあ、そろそろ「らっちゃん」閉める頃でしょうか・・・・・・
ご亭主と女将さんとで連れ立ってお買い物の御様子、散見されました。
その後、飯塚「とりせん」もお終いになり、「らっちゃん」もいつの間にか閉店のお運びでした。
まあ、昭和24歳のこの僕が還暦ですから、おそらくご亭主、喜寿・米寿はとにもかくにも・・・・・・
確か、お店のカウンターに座らせてもらった折のお話の中ではご亭主、長嶋茂雄とかと同年代だったとか。
で、その「らっちゃん」に限らず、中通り、つまり高崎の「銀座通り」ですけどさっぱりで、ご案内の通りです。
観音屋の和菓子屋さんはご健在なんでしょうか、履物屋さんもありました、自転車屋さんも・・・・・
で、その「らちゃん」は当初はご亭主の御尊父様ご経営の「浅間カメラ」と間口を分けての営業でした。
僕が高崎市立第二中学校への通学路とした時のお話です。
僕がその「らっちゃん」の寄らせてもらったのは昭和47年前後の頃でした。
まあ、流れ流れての「バンドマン」ていうか、「夢破れて山河あり」でしょうか、時代は高度経済成長期末・・・・・・
それはそれは、華やかりし時代でもあったわけです。そうそう、連合赤軍の「浅間山荘事件」。そんな時代でした。
丁度、そのころ僕が、「バンドマン」としてお世話になっていた「キャバレー・ニュージャパン」のおネエさんたちとか厨房さんが夜食というか、小腹の足しに出前をお願いしていたのが・・・・・・
「らっちゃん」でございます。
まあ、僕らバンドマンが休憩時間というと「店」のすぐ前の八百屋さんで休憩することになっていました。
で、僕らは時間があれば「らっちゃん」まで赴いておったのですが、ないときは八百屋のおばちゃんにお願いして・・・・・・
「らっちゃん」の「餃子ライス」とか「焼きそばライス」を出前してもらっていました。ソレがそもそもの僕の「らっちゃん」の始まりでした。
それから、高崎を出たり戻ったり、で、結婚して嫁さんも子どもたちもすっかり「らっちゃんファン」で、保育園の行事の後とか、東小学校の運動会のあととかはいつも「らっちゃん」が定番でした。
で、平成6年生まれの末娘も「らっちゃん」の餃子か食べたいと今でも時々言ってます(笑)。
今でも食べたい、食べたくなるもの・・・・・・
「らっちゃんの餃子」、「らっちゃんの焼きそば」です。
コレはしたが味を憶えてるんでしょうか、今でも無性に食べたくなってしまいます。
まあ、その「焼きそば」ですけど平麺のもっちり感もさることながらご案内のメールにも記されているように「シャキシャキ感」のもやし、キャベツ等々の仕上がり具合。薄めの醤油仕立てですけど・・・・・・
僕の場合は、その焼きそばにラー油をたっぷりかけ、ウースターソースをチャプチャプにしていただく。それが「らっちゃん焼きそば」の流儀でした(笑)。
で、今でも食べたい、食べたくなるもの・・・・・・
まあ、念願叶っちゃってるのが、本ブロガーのナバホさんちの「成吉思汗」の「ラーメン」ですね。
まっ、叶っちゃってるわけですからいうことはありませんっていう話ですけど(笑)。
しかし、二度と叶わぬ「マイ・フェヴァリット・テイスト」があります。それは同じ「ラーメン」つながりのアレです・・・・・・
末広町の「大連」の「湯麺」と「焼きそば」です。ここの「焼きそば」はご案内の「らっちゃん」と似て非なるモノ。
やはり、焼きそばにする麺は「平麺」で、多分「湯麺」用を仕込んだものと思われ、その風味、趣は似て非なるモノで美味でした。
一昨年でしたか、その「大連」、名物マスターというか小柄も極めて小柄で、長くアゴヒゲを蓄えたそのマスターも・・・・・・
「もう閉めるよ。コレじゃあ商売にも何もなりゃあしない」
つまり、街中の人口減と、極めつけの交通取り締まりで路駐の一斉検挙だとか。
そりゃあそうです。末広町、椿町、山田町、高砂町、九蔵町あたりからこれまでの住人のほとんどが消えてしまったのですから。
まあ、僕もそんなうちの一人なんですけど、一人たって、つまり一家族です。7人がいっぺんにそこからいなくなっちゃった・・・・・
もちろん、その「大連」のあとなんですけど「ラーメン屋さん」が暖簾を開いています。結構美味しいです。
で、ついでと言っちゃあ失礼ですけど・・・・・・
「焼きそば」っていえば、「オリタ」の焼きそばでしょうか。コレといったモノがないのが取り柄の「オリタの焼きそば」でした。
そしてどうしてももう一度味わってみたい焼きそばは・・・・・・・
東小学校の正門前にいつも決まって屋台を合わせていた「焼きそば」。手のひらに載るほどのヘギに盛られ青のりをまぶし、
付け合わせには刻み生姜の、一食、アレは確か「5円」の焼きそば。昭和34、5年のお話です。
そうそう、「焼きそば」っていえば浅草銀座線の地下食堂街の「ソース焼きそば」は今でもあるんでしょうか?
アソコは東武伊勢崎線の始発駅でもあるわけですから、もしかし「太田の焼きそば」でしょうか。
なぜか、トコロテンとか味噌おでんも一緒に品書きされていたような・・・・・・
それにしても「らっちゃん」の御亭主、お元気でしょうか。
Posted by 昭和24歳
at 14:46
│Comments(7)
私はその近くのロイヤルホストに入り浸ってました。コーヒーだけで友達といつもずっと。
チャーハンとか焼きそばが安くて美味かった!「へい、らっしゃい!」お兄さんはいつも威勢よくて。
らっちやんという名前が印象的だから記憶してました。
たべてました。
まさに!焼きそば!
そして 餃子!
すかやさんもあった・・・。
らっちゃんのチャーハンはこれまたおいしくて、ラーメンもすきでした。
塩味のラーメンは野菜がたっぷりで、
そうそう。。もやしがおいしかったです。
らっちゃんてどうしてその店名?って
常連のお友達にきいたら、たしか・・
らっきょうににてるからだよ・・なんて言ってました。
らっきょう? 頭のかたちがラッキョウ型♪
ほんとうかうそか・・今では真偽はわかりませんが・・☆彡
食べ物の話でしか、とてもとてもコメントできない
昭和24歳さまのブログです(^_-)-☆♪
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一字一句これ以上同感できないくらい同感。
高々(当時)の友人が、高々出身のオーナーさんが経営しているラーメン屋さんだと連れてってくれました
アーケードの通りに「夕飯をあなたへ」みたいな看板を置いていたような...
そして笑顔満面のご主人さんだった記憶があります
今日ふと、らっちゃんってまだあるのかな?と検索して辿り着きました