2023年03月21日

消費税は対価の一部

判決確定「消費税は対価の一部」



――「預り金」でも「預り金的」でもない




なにそれ!??
分け分からん




預かり消費税とは?
つまり販売時に受け取った消費税から支払った消費税を引いて納付するということになるのです。

預かっている消費税と支払うべき消費税の差分を払う(または還付される)という仕組み

または還付される



矛盾ですね、わかりにくいですね。
これはわざと分かりにくくしているとしか思えません。

さらにこうしたトリックがある

輸出事業者には輸出先から預かり消費税がうけとれないのでその輸出業者が商品作りの際に仕入れた「材料代」に支払った消費税は「還付できる」


僕も輸出事業者業者だった経験から販売先(輸出先)からの預かり消費税がないことから国内仕入れの支払い消費税分を差し引いて、つまり還付受けて預かり消費税の納税を処理する。
つまり、国内消費税の還付は売り上げに対する税額ー仕入れに対する税額=▲XXXX円

これについて輸出業者からも反論があるが、一方消費税の概念からして「消費税は商品代金つまり内税という概念(当局)」経団連にはそれは通用しないが上の計算を国民に当てはめると…

国民平均所得300万円として消費税制始まって以来奪われた所得は300万円X30年=9,000万円。
30年間の平均消費税5%として、9,000万円X5%=450万円、奪われた所得は他の先進国並みの成長率を除外視しても日本国民には
日本政府に還付請求する権利がある。
因みに高崎市政府は貴方の納め過ぎた税金を還付しますと案内があったので昨日還付請求してきた。


  


Posted by 昭和24歳  at 18:35Comments(0)

2023年03月16日

 『若きウェルテルの悩み』

 『若きウェルテルの悩み』
若さゆえ苦しみ
        若さゆえ悩み



初めての口づけに知った恋の喜びを

◆17番(高井俊一郎君)
失礼ですが、市長のお考えは高度成長期、バブルの時代の発想です。時代に逆行しております。次世代として私は大きな危惧を感じております。そして、本市始まって以来の一大箱物、都市集客施設は市長の理念のもと、570万円をかけて新都市創造会社に委託されました。この高崎市都市集客施設基本構想計画が出てきました。これ、私は何度も何度も熟読をさせていただきました。全33ページ中、26ページにこのコンセプトが書かれております。コンべンションと音楽ホール、そしてビジネスゾーンの3本の柱で構成されております。これ色分けをすると非常にわかりやすいのですけれども、やはりコンベンションの部分というのが多くつづられていることがわかります。そして、本文に入り第4章以下、さあ、本編がどうなるのかなと見ますと、4章の施設配置は3ページほど、そして5章の建設費、事業運営費も3ページ、そして6章の最後のスキームとスケジュールの本文はたった13行でございます。竜頭蛇尾です。また数値的データの裏づけが全くないというのも大きな特徴となっております。市長の理念のもと、高崎市の明暗を分ける一大プロジェクト、この内容で本当に大丈夫なのでしょうか。
<抜粋引用:P.82 平成24年6月定例会(第3回)-06月14日-03号>

>本市始まって以来の一大箱物、都市集客施設は市長の理念のもと、570万円をかけて新都市創造会社に委託されました。

そもそもなんだが「新都市創造会社」委託って何を委託...
そこを当時の宮原田綾香議員が突っ込んでます↓


◆2番(宮原田綾香君)
都市集客施設整備室でやっとの思いで高崎市都市集客整備基本計画策定業務にかかわる企画提案への参加表明書などの資料を閲覧することができました。するとその資料には、なぜかこの企画提案にかかわるプロポーザルの参加表明書がすべて平成23年12月7日付で提出されていました。そして、参加を表明した会社の数は4社でしたが、うち3社が辞退をされていたと、こういったことは特別委員会でも御説明があったかと思います。最後に残り、契約に至った企業の業務予定担当者の実績等や協力会社及び協力する個人の構成などを拝見したところ、辞退した一部の企業や役員の名前が記載されていました。これは契約に至った企業の登記簿謄本を見ても明らかなことだったのですけれども、つまり初めから参加を表明した企業の一部に相互関係が見受けられる。このことだけを見ても非常に不可解な印象を持たざるを得なかったわけです。平成24年1月18日に開催された都市集客施設調査特別委員会の会議録によれば、プロポーザルの1カ月前に設立された実績のない会社に任せて大丈夫ですか、ほかに参加表明した会社はどこですかという委員の質問に対しては、室長がプロポーザルのそれぞれの参加意思については、その企業さん、業者さんの意思ということでございます。その意思に基づいて企画提案書の提出がなかったとのことでございますので、その3社についてはこの席では控えさせていただきますとの答弁がありました。
<抜粋引用:P.156 平成24年6月定例会(第3回)-06月15日-04号>

ま、その委託というのが「高崎市都市集客整備基本計画策定業務にかかわる企画提案」ということのようだが企画提案参加...
それが会議録によれば、プロポーザルの1カ月前に設立された実績のない会社ってどういうこと?
1カ月前に設立じゃあどんな組織なのか知らないが、それじゃあ、570万円のために作られた会社とみられても仕方がない。
で、その会社なんだが...

新都市創造株式会社 高崎市問屋町2丁目7番地8
https://全国法人データベース.com/companies/5070001026462

と、あるんだがネットで電話番号検索かけても出てこない。
でそこは高崎商工会議ビルなんだが実際、実績作りにお仕事してんのかねぇ、もしかしてペパカン?

で、市長の面白可笑しいお話、コレ↓

◎市長(富岡賢治君)
私は、そういうことは実績がなくても、十分こういう企画はできると思って提案させていただいたわけでございますから、そこは誤解のないようにしていただきたいと。おもしろおかしく誤解する方もいらっしゃるかもしれませんが、それはそういうことになります。

<抜粋引用:P.157 平成24年6月定例会(第3回)-06月15日-04号>

つまり、そういうことなんだ。ムービングライトだって阿久沢電機って実績あるの?
だって市長言ってたじゃない、東京にしかないとかって。
っていうことは阿久沢電機にはムービングライトの設置取り付けの実績も管理の実績もない。でも「それはそういうことになります」で実際の舞台照明、もちろん音響も東京の大手業者に取り付け管理を委託..

株式会社 共 立
https://www.kyoritz.co.jp/

【舞台照明】9/20オープン!高崎駅徒歩5分!高崎芸術劇場
舞台照明管理
ホール設備管理、公演時の技術支援、機器維持管理、事務、電話・打合せ対応等含みます。

勤務地
駅から徒歩5分以内
高崎芸術劇場
群馬県高崎市栄町9-1(最寄駅:高崎駅)
https://en-gage.net/kyoriyz-fm/work_459387/

因みに、阿久沢電機はどんな工事をしたんでしょうか?

ま、舞台、照明、音響は東京の大手に丸投げで舞台周り、照明、音響の美品仕入れは東京の大手専門業者が指定。
指名競争入札ったってただ伝票通しただけだろ。だからムービングライトだって最初から決まってる話で市長が言うように...
「それはそういうことになります」、つまり地元業者にお金(税金)を落とす。

ところで、新都市創造株式会社って今どうなってるんだろ、市長は知ってるよね、実績作ってあげたんだから。

  


Posted by 昭和24歳  at 08:22Comments(0)

2023年03月15日

選挙公約・マニフェスト・アジェンダ

  選挙公約・マニフェスト・アジェンダ

公約なき市長選挙、まぁ、箱モノも出尽くしちゃた感のある発展する高崎にこれ以上べたべた厚化粧施したところで街の核たる中心、中央銀座通り・田町通り・慈光通りがベッドタウン化しちゃった後じゃぁ前橋みたいに市街地そのものが広域に広がっていれば、上電沿線に街づくりなんていう話美味しいんだろうけど高崎の場合上信電鉄の沿線に街づくりっていうわけにもいかない、上信電鉄チョと走ったらと走ったらすぐに「佐野の渡し」だもん、上信電鉄も開発計画誤ったよね、って言うか開発計画なんて鼻からないんだろうけど、あれば上電みたいにJR両毛線沿線併走させて北藤岡あたりから山名、富岡方面に“おもぉぉかぁじ”いっぱいとやれば、素人考えだけど高崎南方面にベッドタウンってどうよっていう話。まあどう考えたって北に向かって開発はないんだしね。

で、「選挙公約・マニフェスト・アジェンダ」なんだけど・・・
市長選挙も市議会議員選挙も選挙公約も「マニフェスト・アジェン」目玉ありません。挙句が再びお目出度く無投票当選なんてぇことになったらな~んだぁ又「官製談合選挙」かって言うか落札率90%の高崎市民の民度のドアホさ加減さらけ出しちゃう結果になっちゃうわけだけど。

まぁ、高崎市だって問題がないわけじゃぁないんです。あれもこれも財政、後先考えずに大盤振る舞いしちゃって、喫緊の課題「2030年問題」団塊世代9万人全員が80代に突入するという、あっちを向いてもこっちを向いてもジジババだらけの超高齢化社会の現実。そして遠くない将来の「2050年問題」超少子化、このまま合計特殊出生率が推移すると日本の人口は9,515万人と、現在よりも凡そ25%減。
2050年と言ったら団塊世代がめでたく100歳になる無事に長寿を全うされた御同輩、冥土の土産話にその時の高崎の姿を聞きたいものだが。さて話を現実に戻そう。

「選挙公約・マニフェスト・アジェンダ」

今回の統一地方選挙からはそれらしきそれは全くっていいほど聞こえてこない。つまり有権者、市民にとっては争点が全く見えない、これからの4年間、そしてその先の市政を付託するのに値する、相応しい人物なのかを押測る目安がない。
「選挙公約・マニフェスト・アジェンダ」

例えば「市長選」ならば・・・

もう箱モノ行政には限界があり、いろいろあって「羮に懲りて膾を吹くとまではいかずとも「スクラップ&ビルド」だ、予てより提言いている、
「今こそ高崎市庁舎、21階を18階にしませんか」

、緊急災害用のヘリポートは消防法での設置義務がなくなり年間の管理費約1億円を節約。
ま、年間1億円あったら「子ども食堂」いくつ、何箇所作れるでしょうか?
で、そのヘリポート跡に「太陽光発電パネル」設置によって、庁舎、要電力の60%を確保。

まあ、3階相当部分の建設コスト、1階辺2億円弱らしいから解体には建設費の30%、つうことは1階2億円弱X30%は6,000万円。
6,000万円X3階=1億8千万円、およそ2億円(大成建設工法)で高崎市役所21階庁舎の上、3階分がが解体できちゃう。
ま、現在、無用の長物の屋上ヘリポート解体にいくらかかるかわかんないけど、1億円かかったって1年で1億円かかってるんだからそしたら1年で元取れます。
よって、3階相当部分を部分解体し屋上に太陽光パネル設置によって60%の電力自家発電で東電には悪いけど年間2億円超のコスト削減(ヘリポート解体を含む)

で、コレです↓
今回開発した新工法「テコレップシステム」
・・・・・・今回開発した新工法「テコレップシステム」では、既存屋根を有効利用し閉鎖された空間の中で、新築工事を巻戻し再生するように、内部の躯体・仕上げや設備機器を分解していきます。1フロア分解するごとに昇降装置が、システム全体を自動降下させていきます。分解したパーツは、クレーンで保護・荷下ろしし再利用を図ります。
 また、本システムは、従来の解体工法における部材の飛散・落下、粉塵の飛散、騒音・振動といった問題を大幅に改善します。屋根は、仮設資材の軽減を図るため、既存屋根躯体をそのまま活用します。また、既存屋根躯体の下部にスライド式天井クレーンを配置し、荷降ろしの際に材料の自由落下エネルギーを利用した「荷下ろし発電」を行い、クレーンの動力のみならず、照明、散水、仮設機械の動力等に利用し、徹底的なエネルギー削減を図っています。
http://www.taisei.co.jp/about_us/release/2010/1266478984208.html

まあ、アレです...

約2億円の投資で年間、約2億円が節約できますね。
で、中核都市とかですけど、人口は「アゲゾコ」で、ま、周りは少子高齢化で人口減少、どんどん過疎化が進みますからす(^^ゞ
毎年、確実にシュリンクするわけです。要りませんね、20年後30年後、21階庁舎。
何れにしても、耐用年数が60年とか70年ですから、長く持ってあと60年弱です。ま、その頃は今生きてる高崎市民誰も生きてません(笑)。

そんなわけで高崎のランドマークとしては、「高崎観音」、その頃にはちゃんと井上保三郎翁尊い御心を温め大切に保存し...
そして、明治維新政府が解体した「高崎城」の復活です。


いわれる、「名古屋城」の再開発が300億とかですけど、なんだ、そしたら高崎芸術劇場と高崎アリーナ足したくらいでできちゃうじゃないの。

欲しいですね、せめて「松本城」くらいの、本格的日本建築技術の粋を活かして「高崎城」↓

今こそ高崎市庁舎、21階を18階にしませんか。


300年後、500年後の高崎市、高崎市民のためにも日本の名城と言われる「高崎城」。

今から500年後って言ったら、今を遡ること安土桃山時代じゃあないですか...
そしたら、500年後の高崎市民から、500年前高崎城を再建、築城した名君「富岡賢治高崎市長」として未来永劫顕彰されたのに「高崎芸術劇場」で味噌つけちゃいました、(´・Д・)」


500年後、その高崎城の一郭に木造の市役所あってもいいじゃァないですか。そしたら、欧米が石の文化なら日本は「木の文化」、1000年、2000年ですし。
ま、「高崎芸術劇場」もいいけどミラノ・スカラ座(2代目)は1778年8月3日に落成、241年の歴史です。

「高崎芸術劇場」、このあと241年の歴史を残し続けるでしょうか。高崎財団で...

「選挙公約・マニフェスト・アジェンダ」
今こそ高崎市庁舎、21階を18階にしませんか。  


Posted by 昭和24歳  at 17:07Comments(2)

2023年03月13日

47 ヨンナナ

ヨンナナ(昭和47年…)

僕は渋谷のとあるライブハウスでこのメロディーを口ずさんでいた。それはドラマーとしての挫折。 そしてミュージシャン仲間も夢朽ちてその世界から現実に引き戻され一人一人と青春というバブルが弾けるようにして悲喜交交散っていった。

そんな頃だった博多出身のヒッピークズレとでもいうんだろうかミュージシャン仲間の友人だった同い年、杉本君が広尾のマンションで「皮工房」を開いて結構忙しくしていた。
47年、その夏に杉本君の昨品を預かり軽井沢で友人とショップを開いた。 その友人とはやはりミュージシャン仲間だった馬場博幸君、彼は九州博多出身でその杦本君に師事しレザークラフト家となり高崎で「サウス」という工房を開いて成功していた。



全ての「時代の喧騒」が去った静けさには軽井沢、その避暑地には今のような猥雑さはなかった。
当時のそこは東京の富豪たちのために築地・銀座・赤坂のレストラン、料亭がしっかりとした店構えが夜ともなれば眩いばかりの高級車がそこに鈴なりになり冷え冷えとした別世界の情景を佇ませていた。
ベトナム戦争も終わり、学生運動も、そして浅間山荘の赤軍事件もその少し前に、まるでなごともなかったかのように新しい時を刻み始めていた。

軽井沢銀座とはいっても当時のそこ、郵便局から向こうはほとんど何もなかった。
網の目のように走る別荘地の小道からはそれこそ銀幕から抜け出てきたかと見紛うばかりの人が行き交う。僕らが借りていたショップは軽井沢銀座入り口、ロータリー100メートルほど手前のしもた屋の玄関。それでも、物珍しそうにそうした瀟洒ないでたちの人たちが品定めをしてくれたていた。



「ムッシュがあそこで飯を食っていたよ」

1970年頃だった・・・

「ジョン・レノンが万平ホテルにいるんだってよ」

とベントレーかなんかから降りてきた中年の紳士がいっていたり。しかし、ソレはなにもかもが無関心の時代、無味無臭。そんな時代。
僕らがそうだった。どうしてだろう何もかもが終わった時代。
ソレは一体、どんな時代だったんだろうか。

「夢の終わり」

つまり、「夢への興奮」から覚めてしまった僕ら団塊世代・・・
その年、初めて僕は香港に楽器の買い付けに行った。
ソノ冬には横山町でアクセサリーをしこたま仕入れてグアム島へ行商に行った。
翌年、ロサンゼルスのNAMMにギターの買い付けに行った。
25歳・・・・・

そこには未だ夢から覚めやらぬ同世代の若者が夢を探りながら「LA生活」を屯っていた。
日本食堂で皿洗いのアルバイトをするもの、ハウスキーパーをするもの・・・・・
訊けば、日本ではかなりの裕福な家の連中だった。
バーモントのフラットを仲間数人でシェアしているとか。
友人の紹介で一泊20ドルでそこに泊めてもらうことにした。
後々に知ることだが、今、海外旅行といえばHISだが、そのHISのCEOもそんなLA生活組だったとか。噂だが韓国発券の格安航空券で「一山」当てたようだ。

とにかく、全てが終わった。その意味では「夢は叶ってしまった」
最早「夢の途中」の興奮はそこにはない。そんな時代。

そう、昭和47年・・・ヨンナナ

それは今の東京ではない。渋谷公園通りにはパルコもなければロフトもない丸井だけ。
それは僕の生まれ育った高崎もそうだった。それは実に「しっとり」した芳醇な情景が、佇まいがあった。

昭和47年昭和47年・・・ヨンナナ


僕らがなすべき時代はそこにあるのかもしれない。
その2、3年前までは都内を路面電車が走り、トロリーバスが走り、自家用車といえば、「カローラ」が新発売された頃だった。
新宿副都心には未だ超高層ビルの欠片も見えなかった、そんな時代。
時代は、創られたのではなく、その時壊されたのかも知れない。
今のそれに...

Imagine

Imagine there's no heaven. It's easy if you try.
No hell below us above as only sky/
Imagine all the people living for today Aha---
Imagine there's no countries. It isn't hard to do nothing to kill or die for and no religion too.
Imagine all the people living life in peace yuhuh----
You may say I'm a dreamer but I not the only one.
I hope some day you'll join us and the world will be one.
Imagine no possestion. I wonder if you can no need for greed nor hunger a brotherhood of man.
Imagine all the people sharing all the world.
You may say I'm a dreamer but I not the only one.
I hope some day you'll join us and the world will live as one.
  


Posted by 昭和24歳  at 11:26Comments(0)

2023年03月08日

「アベノマスク単価の開示を命令」

「アベノマスク単価の開示を命令」


“アベノマスク裁判”で国が全面敗訴 単価開示で明らかになる安倍政権「負の遺産」

「アベノマスク単価の開示を命令」

 注目の判決結果を裁判所前で知らせる“旗出し”だ。大阪地裁で28日、通称「アベノマスク裁判」の判決が言い渡された。

 コロナ蔓延初期、全国の世帯に配布された布マスク。安倍首相(当時)の肝いりで“アベノマスク”と呼ばれたが、小さい、遅い、雑だ、と散々な評判だった。

 全国で1億枚以上が配布されたが、国は単価を明らかにしていない。情報公開請求に詳しい神戸学院大学の上脇博之教授が求めても開示しなかったし、国は今に至るまで価格を明らかにしていない。

 なぜ開示しないのか? 価格がわかると納入業者の正当な利益を害する。それに国の今後の業務の妨げになる恐れがある、からだそうだ。ホントにそうか?

 国民の税金を使って購入したアベノマスクの価格がわかったからといって、そんなことがありうるか? というか、そもそも国民に知らせるべき情報ではないか? 政策が妥当かどうか検証できないではないか? そこに疑問を持った上脇教授は、価格の開示を求めて裁判を起こした。


公開日:2023/03/01 13:55 更新日:2023/03/01 13:55
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/319405

.>なぜ開示しないのか? 価格がわかると納入業者の正当な利益を害する。それに国の今後の業務の妨げになる恐れがある、からだそうだ。ホントにそうか?

それはない。

安倍政権は一事が万事、オリパラ組織委の中抜きもそうで、どうなってるのかってゆう話で・・・・・

裁判する話でもなくる話でもなく国会議員はなに眠ってるんだつう話でまあ、同じ穴の狢、規模がでっかいか小さいかの話で、そういやあ

高崎市も「トミノマスク」、ベトナム製のアレ、配ってたじゃないか。アレの原価幾ら?  


Posted by 昭和24歳  at 10:47Comments(0)

2023年03月06日

古のサカヰレコード

古のサカヰレコード


関東の奥まったこの地方都市にはベンチャーズもビートルズもそうはなかったし、もちろん「テケテケテケ」も。

僕らもその時代、世代の動物的感、嗅覚かロックンロールのエルビス・プレスリーやら、アメグラのポール・アンカ、二―ル・セダカ、デル・シャノン、そしてイギリスのクリフリチャード辺りを聴いてワクワクしていた頃だった。

もっとも、テレビでは「ザ・ヒットパレード」で飯田久彦、尾藤イサオ、内田裕也などが日本語に翻訳されたロックンロールを歌い、そのバックバンドが「寺内タケシとブルージーンズ」であったり、「ブルーコメッツ」であったりしていた頃だった。

今でも鮮明に憶えているのは、東京渋谷に住んでいた従兄の連れられて行った新宿南口、甲州街道沿いの、丁度、明治通りとの角にあった「新宿アシベ」。
そこで聴いたと言うか観たというか、「尾藤イサオ」の「悲しき願い」、ゲーリー・バートン、アニマルズのやつだ。
確かあれは昭和38年の夏だったか、、バックバンドが「ジャッキー吉川とブルーコメッツ」だった。

内田裕也、フランツ・フリーデル、ミッキーカーチス弘田ミエコ、中尾ミエと、それらの歌手のバックバンドがその後の「田辺昭知とスパイダーズ」であったり、「伊藤敏道とリリオリズムエアーズ」ではなかったかと。
とにかくその当時はいわゆる「ロックバンド」の時代ではなく「ロック歌手」全盛の時代だった。
「新宿アシベ」に「池袋ドラム」は夏休みになるとよく、その従兄に連れて行ってもらった。
そうだ、新宿駅西口にあった、名前は忘れたが「ボーリング場」。それもその頃初めてボーリングと言うものをやった覚えがある。

「ダンスホール」。

当時高崎には「みゆき」そして「社交」、それにあとひとつあったようだが僕の記憶の中にはその「あとひとつ」はない。

僕は中学三年になると、エレキに夢中になってしまった。もちろんそれは夏休みに従兄に連れてってもらった「新宿アシベ」の影響やテレビの影響が大きかったに違いない。
しかし僕はその歌、歌手よりも「バックバンド」のエレキに夢中になっていた。

その頃からどうも僕は、僕の家からは徒歩10分くらいの所、嘉多町の「サカヰレコード」で怪しいサウンドがけたたましく流れているのが気になりだしたのだった。
というのもそのサカヰレコードの近くに同級生の小林君がいて、なんとその小林君ちにはステレオがあって洋盤のレコードが棚にびっしり納まってるではないか。

そんな小林君、詳らかではないが「花街の母」だったようでお母さんは三味線、端唄小唄のお師匠さんで洋盤を聴いてると奥の方で「チントンシャン」だったから、なんとも不思議な空間だったことを憶えている。
で、洋盤、小林君のお勧め、最初の曲がフランク・シナトラの「想い出のサンフランシスコ」、そしてブレンダ・リーの「愛の賛歌」。この2曲は今でもソラで歌える、「三つ子の魂」何とやらで。
すっかり洋盤アワーに酔いしれて小林君ちを後にするとその途中、嘉多町の交番を過ぎたところにサカヰレコードが。
店内を覗くと今まで見た事もないようなギターが天井から後光を射しながら吊る下がっているではないか。
平べったい板に鉄の弦の張ってある、しかも真ん中に何のためか得体の知れない長方形の光ったやつがついていて、それにラジオの摘みのようなものもくっ付いて、電気を付けたり消したりする時のスイッチがついている。

どうやらそれが、「エレキギター」だったのだ。テレビで見るそれで知ってはいたものの、クレージーキャッツの植木等が弾く分厚いギターとは大分趣を異にしている。
サカイレコードの店内にはなにやらそんなギターを抱えたアメリカ人らしいバンドのポスターが貼ってあった。

アストロノウツ「太陽の彼方へ」と書いてあるそのポスター。

「テケテケテケ――――ッ」

あの時の衝撃は今でも忘れずに焼きついている。あの音、そして臭いと言うかあの時の空気・・・
僕は居ても立っても居られない、欲しくて欲しくて堪らない。もう頭の中はその「エレキ・ギター」でいっぱいになってしまっていた。

僕は思わず店員のお兄さんに聞いてみた。

「あれ、なんですか?」

「あれか、あれはエレキ・ギターって言うんだ」

なんかいつもはダサイお兄さんなのにその時ばっかりはとっても「エライ」人のように見えたから不思議だ。

「このギターはな、これだけじゃ音がでないんだぞっ」


得意そうにお兄さんは僕を覗き込むようにそう言った。

「これはエレキ。要するに、電気で音を出すギターなんだからアンプって言うのが絶対必要なんだ」

〈電気ギター?なんだそれ?〉僕は思わず胸の中で呟いていた。

そのお兄さん〈ふん〉っといった素振で僕を無視するとその電気ギターを丁寧に磨き始めた。

店の中では「テケテケテケ―――ッ」があっちへ行ったり、こっちは行ったり。

その電気ギター「エレキ」値札には1万2千円と無情、無慈悲にも書かれていた。

なんでも糸巻きの部分に「G」と大きく書かれていた。

〈1万2千円か~、アルバイト半年分だなと、エレキは涙か溜息か、と思うしかなかった〉

家に帰ってテレビのスイッチを入れてみた。やっぱり「テケテケテケ―――ッ」と、やっているではないか。
寝ても覚めても「テケテケテケ―――ッ」どうしても欲しくて、欲しくてたまらなくなってきてしまった僕だった。

しかしサカイレコードのそれは「メーカー品」ばっかりで、ビクター、ナショナル、グヤトーン、テスコなんて云う高級品しか置いてない。
値札には、2万円前後が何れも付けられている。これでは、手も足も出ない。

そこで、月賦屋だったが「三和デパート」と云うのが八間道路の羅漢町にあって、そこには多分、今にして思えば輸出用の代モンだったんだろうけど7千円台のがあった。

早速、牛乳配達のアルバイト、親父もお袋も兎に角絶対反対だったが、こっちは欲しくて居ても立っても居られない。一ヶ月3千円のアルバイトだったか。
夜は、塾だと嘘を言って「音楽センター」でコンサート後の掃除のアルバイト、一回百円。なにせ、ラーメンが50円くらいの時代だから今なら、千円だろうか。

そうしてようやく手に入れたエレキギター。アンプはラジオを改造して親父の知り合いの電気屋に作った。
兎にも角にもあの「テケテケテケ」が不思議でしょうがなかったし、「ウウ~~~ン」と云うトレモロアーム。これも僕のには付いていなかったから全くの謎であった。

そうこうしていたある日何処で聞いたのか、マックスのバンドがエレキを弾けるやつを、と云うことで人づてに僕の所に十歳も年上の「水野さん」と云う人が誘いに来た。
マックスのバンドは元々「ハワイアン」で、水野さんの出演している「社交ダンスホール」のマネージャーがどうしても「アストロノウツ」か「ベンチャーズ」をやれということだったらしい。
もちろん「ダンスホール」なんて云うところは大人の世界か、不良の世界。学校にでもばれればどんなお咎めを受けるか想像すらできなかった時代だった。

そこで、当時、「太陽の彼方へ」とか「アパッチ」とか「ダイアモンドヘッド」を弾ける小僧が居ると云うので僕の所へ来たらしい。



それが「社交ダンスホール」。もう連日超満員で土日は芋の子を洗うよう。二十歳前後のお兄さんお姉さんが殆ど。その時僕は初めて「ヤクザ」(チンピラ)と云う存在を知った。「用心棒」って言うやつも。

それにしても世代世代で夫々それなりの時代があるものだ。世間は「受験戦争」だったけど僕はその戦争には徴兵拒否、非国民「一人平和主義」を貫いたエレキ一台(笑)。
夏休みは渋谷の従兄、タイル屋でアルバイト。一ヶ月5千円、仕事はきつかった、砂とセメントこねたのをバケツに入れて現場まで運ぶ。従兄が貼ったタイルを拭き上げる。それでも休みには「新宿ACB」だ。
そして夏休みバイトが終わって高崎に帰れば「三和デパート」のエレキがぼくを待っているのだ、と思うと頭の中であの「テケテケテケ」がグルグルと回り始めた。

そうだ、高崎に帰った僕にはコレとない吉報が待っていた。というのは「三和デパート」は月賦屋なので僕が狙っていたエレキ「7千」何某は月賦の値段だから現金だと「6千円」チョイ。
当然、中学生に月賦で売れるわけもないので親を連れて来いっていう話なんだろうけど、現金なら1割引ということだったらしい。

そんなこんなで15歳で弾いたアストロノウツ、ベンチャーズを・・・

僕のエレキ人生の始まり。まさか70歳の齢でエレキを弾いて「テケテケテケ―――ッ」ってやってるとはその時は想像もしなかった。  


Posted by 昭和24歳  at 15:47Comments(0)

2023年03月05日

>“お茶汲み”する職員に1日20万円…五輪費用3.6兆円オーバーの“裏側” 

“お茶汲み”する職員に1日20万円…五輪費用3.6兆円オーバーの“裏側” 組織委元職員が告白【報道特集】




組織委元職員B氏「私がいたところでは、大手広告代理店に業務を委託するという形で、広告代理店から常時、約10名の方が来ていただいて、同じ事務所で仕事をすることになった。単価を聞くと1人20万円で」

ーー1日?

組織委元職員B氏「1日20万円ですね。それが4年間続いた」

計算すると、1人あたりの人件費は4年間で1億9200万円。10人だとすると19億円以上になる。その業務は、B氏にはこんな風に映っていたという。

組織委元職員B氏「連絡業務という役職がありまして『連絡業務って何?』と聞いたら、『本社(広告代理店)との連絡業務です』と。特に『これ会社に持っていって』と言われた物を持っていくだけ」


ーーでもそれが常にあるわけじゃないですよね?

「ないですね。ほとんどみんなのお茶を汲んだりとか、本人は(20万円)もらっていないのですが、その代理店には1日20万円払っていた」

組織委員会元職員のC氏も、広告代理店から出向してきた職員の仕事ぶりに驚いたと話す。

組織委元職員C氏「私が見ている限りでは、委託した(広告代理店の)業務に対する仕事をしていただけ。そもそも組織委員会の職員としての仕事をしているところを目にすらしない。もう疑問だらけでした」

これは明らかに国、政府の問題だろう電通にやりたい放題やらせてるのも国、政府のトップが裏でつながっていった。もちろん国政府のトップの所へもオリパラ総費用額、3兆円とも4兆円とも言われているそれに3%~5%のバックが、で「お主も悪よのう」言い合いながら・・・皮算用していた、ところが一番取り分の多い森羅万象司るトップ中のトップがドナドナドナドナ、どなたかにってポアされちゃってサー大変なにせ一番取り分の分を分けようって言うんですから、そりゃ揉めます。ま、そんなワケで分け前に与る奴どんどん逮捕されちゃうし国、政府組織委とてんやわんやです。  


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2023年03月05日

3月5日の記事

僕の細道「大類里街道」


昭和27年

僕が3歳の頃の話である。


それは八間道路を東に伸びた今では国道に出世したとかしないとかの、伊勢崎街道なんだろう。
その“大類里街道”は今はない。八間道路が盛んだったころまではそのひとつ辻、南にそれはあった。
その昔・・・・・その昔とはいっても、相当昔のことである。
NHK大河ドラマで言えば“風林火山”のころのチョイトあと。そんな時代の話だ。

高崎の古地図を見ると、その八間道路のところの、東二条通りと交差する辺りでその地図ではどんづまりになっている。
そこの交差点のすぐ西にある寺、“法輪寺”はもともとが箕輪の長野氏の下にあり、秀吉の時代の高崎築城のおりにそこ、箕輪から移築されたとか・・・・・・
16世紀半ばの話だから、相当に古い話といえば、古い話には違いない。
で、その「八間道路」だが、法輪寺山門の一角は現在でもその「八間道路」を含めて(多分寄贈)、いわゆる昔あったとされる大類里街道までが法輪寺の所有である。

何もそんな古い話をしようというのではないが、思いつくままに書くものだから、話がどこでどういう風に転がっていくか自分でもわからない・・・・・・
平成生まれの若い人はご存知ないかも知れないが、6その、国道に昇格したかも知れない伊勢崎街道の“大類里街道”・・・・・・

つい先だって、地域住民の宿願ともいうべき「開かずの踏み切り」が、地下トンネルになり「開いた」。
ぼくのいう、その大類里街道は、開かずの踏み切り以前の、まだ走る自動車もほとんどなく、もちろんそこには交通信号などもなかった時代の話だ。
その、開かずの踏み切り」のところには、上信越両毛線の踏切で、それこそ時間ともなれば行き交う電車の数は半端でなく、結果、「開かずの踏み切り」という名前になってしまったのだ。

で、その大類里街道だが
僕が3歳のころといえば、その踏切には、遮断機を上げ下げする鉄道員のオジサンがいて通行の整理をしていた。
そこばかりではない、ほとんどの踏み切りという踏切には、踏み切り番小屋があって、そこでオジサンが踏み切りの番をしていた。

その時代、その踏切から向こうには、今はパチンコ屋になっている古川鉱業、その対面は駐車場になっている高崎製紙工場・・・・・・・

そして、その東は「東三条通」になるのだが、そこから先には田んぼが見渡せたそんなのんびりしていた時代のことである。

実は僕の父は終戦直後まで勤めていた東京駅から戦災と言うこともあって母の実家・・・・・
当時は未だ“碓氷郡豊岡村字引間”だったがそここを頼りに、高崎新田町に転居。
そこから敗戦直後、転勤願いで父は“北高崎駅”に、そこで“ポッポ屋”の生涯を終えた。

大分大昔の話になるが3歳の頃の僕はどうやら、そんなポッポ屋の父を知ってか知らずか、
なにかとその“大類里街道”の踏切で汽車を眺めるのがこよなく好きだったとか・・・・・母が言っていた。

その豊岡村から祖父祖母が来ると必ずその“大類里街道”の踏切をねだったと言う。


「おまえはちょいと目を離すと踏切まで行って踏切番小屋でオジサンに抱っこされていたんだよ」

と、母がよく言っていた。

どうやら、当時父に非番の時など北高崎駅の渋川県道踏切小屋の中で抱っこされながらいつも汽車を眺めていたので、
そんなこともあってだろうかとにかく“汽車”を見るのが好きな子どもだったようである。

家は、東小学校のすぐ北側、日清製粉の正門脇路地の中ほどにあったのだが、
そこから東小の校庭を抜け、時には三輪者を駆って賛光ネオン、東京ガス、田島ガラスの前を抜けそこ踏切で汽車見物を楽しんでいたとかいないとか・・・・・

もちろん当時は自動車はほとんどなく、自転車引きのリヤカーか大八車。
多分未だ舗装はされてなかったのではないだろうか昭和28年の八間道路“大類里街道”・・・・・・・

そう、その大類里街道の先は子どもの頃の僕らには“未開の地”であった。
弓町の交差点、天田自転車店、関口新聞店の隣には“中央バス”の車庫と営業所があった。
そこからは“伊勢崎行き”のバスが出ていた・・・・・

子どもながらに「伊勢崎っていったいどんな所なんだろう・・・?」

って、いつも思っていた記憶がある。

小学校低学年の頃の僕らの探検地は“江木橋”界隈だった・・・・・
とにかくあの頃は“江木橋”まで行くと言うことは月面探検に行くほどの思いで、
少々大げさだが、死を覚悟するほどの思いで行ったものであった。

そうだ、何でもその辺りの“川”長野堰を大川といい『一貫掘り』とかいう場所があって、
そこへ泳ぎに行って水難にあった子どももいたので、親たちからはその『一貫掘り』には近づくなとよく言われていた。
でも台風の後の一貫掘り、怖いもの見たさに内緒で子どもたち同士よく行った・・・・・

ところでその“長野堰”は四、五世紀の古墳時代の稲作、水田の為の治水行政で整備されたとかされなかったとか。

その“大類里街道”は“いざ鎌倉!!”のそれにつながるとか・・・・・

そういえば、ここ西上州は古墳群がものすごい。
その数は、関西、畿内など問題じゃあないというではないか。

とにかく歴史は作られては壊され、時に捏造偽装・・・・・・・
つい最近知ったことなのだが、通町にある「大信寺」には徳川将軍の弟が高崎城に幽閉され、そこで自害させられたとかの、
将軍の弟、駿河大納言・・・・・
そんな御仁の廟が静かに眠っている。つまり水戸黄門さまの従兄弟の御墓である。

どうして、どうして、これで高崎も案外面白い・・・



まあ、和田氏300年、徳川300年、そして明治、大正、昭和、平成、令和はまだ200年に届かない。
しかし、最近その法輪寺界隈を通ってみたが、昭和の頃の道は跡形もなくなっている。区画整理とかで。
なんの都合で、どうしてそうなってしまったのか・・・・・・
そしてそうしなければならない理由がどこにあったのかどうしても知りたくなった。



  


Posted by 昭和24歳  at 15:03Comments(0)

2023年03月04日

国会で山本太郎が「日米合同委員会」に

国会で山本太郎が「日米合同委員会」に
日本の政治家は日米合同委員会を全く知らないって?


日本政府の上に君臨し、軍事も外交も司法までも日本の主権を侵害する取り決めを交わす“影の政府”の実像とは?謎の権力構造の正体に迫る。


で、日米合同委員会とかがミーティングされるのが「ニュー山王ホテル」だそうです(笑)。
http://www.thenewsanno.com/

広尾、天現寺橋バス停徒歩1分とか。

天現寺橋って言ったら、ジョーのマンションがあったところ。

アメリカ人のカミさんと住んでて、なんでもそのカミさん、ビクトリアの親父さん軍属とか言ってたな。

「ユー、ここ、スゲーゾッ」って言ってた、そのニュー山王ホテル。

俺もカミさんと一度、天現寺のマンションへ行ったことがあったんだけど、高級そうな中華料理屋でメシ奢ってもらって。

ま、まだ長女がカミさんのお腹にいる頃だったから昭和50年ころの話で・・・・・

ジョーのマンションにはニュー山王ホテルのPXで買ってきたとかのアメリカ物が結構あったなぁ。

なんでも、日本円は使えなくてドルで買い物。

で、昭和62年頃恵比寿の工房で仕事していて、御茶ノ水の楽器屋へ営業に行くのに恵比寿から広尾を通って六本木7丁目です。

そこに、米軍基地「赤坂プレスセンター」ってのがあって、ジョー曰く「そこに入ったきり出てこれなかった偉い人もいたんだ」とか。

まあ、そういうところです。敗戦国の日本なんて政治家なんてヘビに睨まれたカエルだし(^_^;)

嘘だろっ、違うだろーーーっ!!

で、横田空域の話もしてるんだが・・・・・

石破茂が日本の政治家のほとんどが知らないとか言ってるんだが、そんなことはないだろ、と思いたい。

普通にネットのない時代だって図書館に行けば知ることはできたんだけど。

とくに、日航ジャンボ御巣鷹山墜落事故っていうか事件の時です。

だって、日航ジャンボ機ダッチロールし始めて御巣鷹山までって「横田空域」のど真ん中だし・・・・・

そら、米軍様にお断りになしに横田空域入っちゃったらスクランブルかけられるでしょうから、米軍は一部始終お見通し。

そんなわけで、田原総一朗先生、石破茂先生の言ってることがホントなら、日本国民、バカ丸出しだねって。

日本の政治家、アメリカ様のイヌ以下だし、「知ってはいけないこと」って、なにそれ?


日本の政治家は日米合同委員会を全く知らないって?
山本太郎と岸田首相の漫才が面白い官僚が答弁でゲロってるのが笑える(笑)。

  


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2023年03月03日

消費税は国家的ピンハネ事業

スーパーやコンビニで消費税を取られてるんだが
企業は、それを国には納めていない
取られている消費税は企業の売り上げの一部になり
企業は売り上げを隠して低く計上することで
逆に利ざやを稼いでいるんだな
   だから以前から、経団連は消費税率をもっと上げろと
提言してる

http://blog.livedoor.jp/korban/

インボイス導入根拠がついに論理破綻! 「消費税は預かり金ではない」と政府が国会で認めた決定的答弁の詳細

30年以上に及ぶ消費税の誤解
「消費税を支払っているのは消費者である」
「消費税は『預かり金』(=納税前に事業者が消費者から一時的に預かるお金)である」
「免税事業者(年収1000万円以下の事業者)は、消費税を横取り・ピンハネすることで『益税』と呼ばれる不当な利益を得ている」
<抜粋引用:2/28(火) 17:00配信 集英社オンライン>
https://news.yahoo.co.jp/articles/ed6d750f6af4116284e8ea0bb6563dc703f2f5be

オイラも平成元年からそれまでのがちがちの小難しい「物品税」から今度は何が何だか分かりにくい「消費税」しかも営業に出ても「3%」,小売店からは「込々でね」って言われる始末。

ま、小売店だってお客からは「消費税、負けといて」って言われる。
そらそうだ「3%」なんて言ったら半端、1円単位で端数は出るしお釣りを数えるのも煩わしい、確か平成元年当時巷じゃあ1円玉5円玉不足しちゃって騒いでた気憶がある。
だって造幣局、1円玉の1枚あたりの製造原価は約3.1円、5円玉は約10.1円、10円玉は約12.9円と額面金額を上回っている。
まあアレです、通貨発行益どころじゃぁなく「消費税」のおかげで「通貨発行損」なんていう笑い話(笑)。いっその事「1円紙幣」にすりゃあ良いのにね。そしたら5円、10円、50円、100円硬貨も紙幣にしちゃう。
そしたらコンビニだってキャッシャー、紙幣一口ですむのに。それに初詣の神社のお賽銭だって郵便局に高い手数料払わずに、因みに・・・
「ゆうちょの場合、硬貨の種類にかかわらず、51枚から手数料を取られる。51円分をすべて1円玉で入金すると、550円の手数料が生じ、499円の赤字になる」って言ったって お賽銭の「賽」という字には、「神仏へのお礼参り」、神仏に捧げた、奉納したものからいくら手間がかかるからと云って賽銭ピンハネするなんて「神仏をも恐れぬ振舞い」  


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2023年03月02日

平成「消えた年金」のそれから

平成「消えた年金」のそれから


旧大蔵省資金運用部(現財務省財政融資資金)

年金積立金は、平成12年度まで旧大蔵省資金運用部(現財務省財政融資資金)へ預託することが義務付けられていましたが、平成13年4月の財政投融資制度改革により預託義務は廃止されました。7年満期であるため、預託金は平成20年度までに順次償還されます。

(参考)
平成16年度末の預託金残高  75.7兆円(簿価)

年金積立金管理運用独立行政法人――――
昭和36年11月25日 年金福祉事業団設立。数々の事業破綻から
年金積立金の管理・運用業務を担う機関として、平成18年4月1日 “年金積立金管理運用独立行政法人”の設立。

年金積立金管理運用独立行政法人は、厚生年金保険法(昭和29年法律第115号)及び国民年金法(昭和34年法律第141号)の規定に基づき、厚生労働大臣から寄託された積立金の管理及び運用を行うとともに、その収益を国庫に納付することにより、厚生年金保険事業及び国民年金事業の運営の安定に資することを目的とする。

厚生労働省が自主運用する34兆円については、約6兆円の累積損失が発生しています。  
“年金積立金管理運用独立行政法人”の「資金運用事業」では、112兆円。しかしその事業実態は貸出し先“特殊法人”では既にその多くが“破綻”そして“不良債権化”とか。

また、「大規模年金保養基地事業」では――――
特殊法人「年金資金運用基金」がグリーンピア(全国13カ所)の建設・運営に約3700億円を投入してきました。
ずさんな計画・運営だったため'05年度までにすべて売却・廃止が決定。
病院や会館、スポーツセンターなどの福祉施設の建設も265ヵ所、累計で1兆5000億円にも上るが、ほとんどは赤字運営。
さらに問題なのは、施設の運営が厚生労働省関連の特殊法人や5つの公益法人を中心に委託され、
そこが厚労省、社保庁官僚天下り先となり、赤字、破綻にも誰一人責任をとることなく、それどころか、高額給与、退職金を掠め取ってきた。

さらに、政府は'98年度以降、“一般会計”の歳出を減らすため、“一般会計(税金)”から支出していた「年金事務費を年金保険料で賄うように付け替え」を行なうと言った愚行を実施。
それらは、“事務費”という名目のもとに国会が及ばないことをいいことに勝手に拡大解釈し、社会保険庁の職員用宿舎の建設や公用車の購入、職員の健康診断費用や海外出張旅費、長官の交際費など等々、'98年度~'03年度までに年金保険料から“4000億円”以上が年金給付以外に流用されてきた。現在も・・・・・

'08年度末までに“財政融資資金”に預託している110兆円を超える年金積立金が全額厚生労働省に返還される。
その場合、積立金を事業損失、株式等運用損失させてきた本体、厚生労働省に“150兆円”もの巨額の運用を任せるべきか・・・・・・
しかしはたしてその年金積立金“150兆円”が元の形で厚労省に戻ってくるのだろうか。
今回の“社保庁解体民営化”はそうした見るも無残となった年金積立金“150兆円”を隠蔽するトリックではないのか。

自主運用を言いつつ、厚生労働省が野村證券等に運用委託する34兆円――――
その運用手数料が年額約“300億円超”もちろん損失と言うリスクを抱えて。

郵貯簡保の民営化で2010年度までに株式上場。おのずと“150兆円”簿価、「あるだろう」とされている“年金積立金”も民営化。長銀、新生銀行のようにその民営化に際し、国(税金)が“瑕疵担保条項”で投資家(外資)に公的資金(税金)を補填。
はたして日本国民は、郵貯簡保、さらには年金積立金の“株式会社化”を想定していただろうか。
その配当が、“利息”そして“年金給付”へと将来約束されるのだろうか。
残念ながら、それらの決定権は政治に委ねられている現実に今回の“消えた年金”にそれを見る。

  


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2023年03月02日

平成”失われた未来”

平成”失われた未来”
夕日が泣いている



僕らには「平成」という時代は用はない。

ここの選挙区、その昔は群馬三区「福中戦争」といわれた地にあって、
谷間のラーメン屋と揶揄された「平成オジサン」。

あの記者会見で新元号を発した“小渕恵三”のそれが「平成」だったとしても、
その平成にはなかなかなじまない。年のせいなのだろうか。

また昭和も軍国主義高らかだった戦中戦前のそれも用はない。
と言うよりは全く知らない。
「知らぬが仏」というところの戦後のもやしっ子なのかも知れないが―――

とはいうもの、「平成」には用ないなどと強がりを言ったところで、
本当のところはその「平成」にしてみれば僕ら世代は用済みなのかも知れない。
なにせ古希も半ば、昨年は脳梗塞とやら三途の川をもう少し渡るところだった。

しかし「平成」と言うのは実にいやらしい時代のような気がしてならない。

その日常は殺伐としていて新聞、テレビが伝えるのは、陰惨な犯罪、陰湿な事件のニュースばかりでなんとも時代が酸っぱい。

「酸っぱい」のはよろしくない。それは梅雨時のものの饐えたような臭いで、
僕らの子ども時代のような「塩っパイ」、「塩っ辛い」はまるで感じられない。

テレビで見かける政治家もなんか酸っぱい臭いがしてならない。
「門前の小僧の手習い」のような詰めのないもの言い。
それにひと目で「嘘」と顔に書いてあるような言い訳と、取ってつけたような自信のなさそうな討論議論。

バカヤローと叱られそうだが、あんなんなら俺にも出来る・・・・・

といったような手合いの二世、三世の「地盤、看板、鞄」におんぶに抱っこのようなのが“わが国は”、ではそうも言いたくなる。

あれは昭和四〇年代だっただろうか。井上陽水の歌った「傘がない」という題名のフォークソング。

“都会では・・・自殺する若者が増えている・・・”と、歌ったやつだ。

僕のように感性に乏しい人間はあの当時昭和四〇年代、そ「傘がない」を聴きながら、

“ほんと?”と、疑ってみたりもしたが―――

それが世相の実態だったのかも知れない。
二十歳そこそこではその実ベトナム戦争だの平和だの、オイルショックだのよりは、
都会での“孤独死”確かに自殺する若者は多かったかも知れない。

井上陽水は歌う。

せっかく彼女と会う約束をしたのに、雨が降ってきちまって出かけようにも「傘がない」と。

ならば「冷たい雨に濡れてでも彼女に会うために行かなくちゃ」と―――

〈待てよ、でもそんな軟弱なことを言っていて良いのだろうか〉

君のこと以外は考えられなくなる、君のこと以外はまるで見えなくなる」―――

〈待てよ、そんなことで僕は良いのだろうか?〉

と、自問自答する。

そんなピュアな時代が僕らの、僕等だけの時代だったような気がしてならない。

ある意味ロックにしろフォークにしろ、その時代時代の若者、青春の叫び声であるのではないだろうか。
今のそれが、“それ”だとは信じがたいが。

それは一二歳くらいから二十歳そこそこ辺りまでの、非現実と現実との間を春秋する戸惑いと揺れ。
今は全くそれがないような気がする。
というのも僕等、戦後生まれの膨大な塊が何もかもし尽くしてきてしまったからなのか。

歌を聴いても、演奏を聴いてもそれはそれは暗闇にうめく夜行性動物のそれ。
けしてそれは嘶きではなく、雄叫びでもないそれにしか聴こえない、僕等世代の後ろめたさ。
その後ろめたさが今日の傘のない状態を――-―
状況を生んでしまったのではないだろうかと思わずにはいられない。

「都会では・・・自殺する、中高年が増えている」

皮肉だろうか。

あの昭和四〇年代に歌われた「自殺する若者」。
そして、その傘のない若者達が、ぼっとかしたら、あの時代に“自殺しそびれた”出遅れの、平成の自殺する「中高年」なのかも知れないと思えるのは・・・・・

「自分のことしか考えられない、自分のことしか見えない」―――

〈待てよ、そんなことで良いのだろうか〉

とは、もう思えなくなってしまったほど疲れきってしまったのかも知れない。

少し休むだけで良いのに、ほんの少し自分を見つめなおすだけで良いのに―――
なにも終わってしまうこともないのに。
そんなに急いで逝かなくても。

いずれにしても、それは僕らが過してきたあの「昭和」という時代は、目を閉じればあの時代の風景が、音とともに僕の心に「パー」っと広がる。

それはその時代この目で見た、連合赤軍「浅間山荘事件」の、また大久保清「連続婦女暴行殺人事件」のそれを伝える取材ヘリコプターのけたたましさ、それを「音」が映し出す風景。

そして、白黒テレビで見た東大安田講堂の放水、新宿西口のフォークゲリラの狂騒を伝える「音」も―――

それらの「音」はけして作り物ではなく、それが遠い、遠い、過去のことであったとしても、思想などと言う高邁なものを持ち合わせているはずもない僕らノンポリのミュージシャンくずれだったが、その時の社会の形はそ、れのひとつひとつが僕等の「これから」を諭すように見せつけてくれていた。

それは夫々に今、老人と呼ばれる僕らに、あの時代の青春の残像を今日までの、それなりの生き方の中に――――

その「音の風景」が時として心に映す。

そしてそこにはあった。

その時々の「音」はいろんなことを僕等に教えてくれていた。

僕らは、僕ら以前のそれも、そしてこれからのそれたちも―――――
けして経験する事の出来ないとてつもない時代を、素晴らしい時代を生きたきたのかも知れない。
  


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2023年03月02日

平成”失われた未来”

平成”失われた未来”
夕日が泣いている



僕らには「平成」という時代は用はない。

ここの選挙区、その昔は群馬三区「福中戦争」といわれた地にあって、谷間のラーメン屋と揶揄された「平成オジサン」。

あの記者会見で新元号を発した“小渕恵三”のそれが「平成」だったとしても、その平成にはなかなかなじまない。年のせいなのだろうか。

また昭和も軍国主義高らかだった戦中戦前のそれも用はない。
と言うよりは全く知らない。
「知らぬが仏」というところの戦後のもやしっ子なのかも知れないが―――

とはいうもの、「平成」には用ないなどと強がりを言ったところで、
本当のところはその「平成」にしてみれば僕ら世代は用済みなのかも知れない。
なにせ古希も半ば、昨年は脳梗塞とやら三途の川をもう少し渡るところだった。

しかし「平成」と言うのは実にいやらしい時代のような気がしてならない。

その日常は殺伐としていて新聞、テレビが伝えるのは、陰惨な犯罪、陰湿な事件のニュースばかりでなんとも時代が酸っぱい。

「酸っぱい」のはよろしくない。それは梅雨時のものの饐えたような臭いで、
僕らの子ども時代のような「塩っパイ」、「塩っ辛い」はまるで感じられない。

テレビで見かける政治家もなんか酸っぱい臭いがしてならない。
「門前の小僧の手習い」のような詰めのないもの言い。
それにひと目で「嘘」と顔に書いてあるような言い訳と、取ってつけたような自信のなさそうな討論議論。

バカヤローと叱られそうだが、あんなんなら俺にも出来る・・・・・

といったような手合いの二世、三世の「地盤、看板、鞄」におんぶに抱っこのようなのが“わが国は”、ではそうも言いたくなる。

あれは昭和四〇年代だっただろうか。井上陽水の歌った「傘がない」という題名のフォークソング。

“都会では・・・自殺する若者が増えている・・・”と、歌ったやつだ。

僕のように感性に乏しい人間はあの当時昭和四〇年代、その「傘がない」を聴きながら、“ほんと?”と、疑ってみたりもしたが―――

それが世相の実態だったのかも知れない。
二十歳そこそこではその実ベトナム戦争だの平和だの、オイルショックだのよりは、
都会での“孤独死”確かに自殺する若者は多かったかも知れない。

井上陽水は歌う。

せっかく彼女と会う約束をしたのに、雨が降ってきちまって出かけようにも「傘がない」と。

ならば「冷たい雨に濡れてでも彼女に会うために行かなくちゃ」と―――

〈待てよ、でもそんな軟弱なことを言っていて良いのだろうか〉

君のこと以外は考えられなくなる、君のこと以外はまるで見えなくなる」―――

〈待てよ、そんなことで僕は良いのだろうか?〉

と、自問自答する。

そんなピュアな時代が僕らの、僕等だけの時代だったような気がしてならない。

ある意味ロックにしろフォークにしろ、その時代時代の若者、青春の叫び声であるのではないだろうか。
今のそれが、“それ”だとは信じがたいが。

それは一二歳くらいから二十歳そこそこ辺りまでの、非現実と現実との間を春秋する戸惑いと揺れ。
今は全くそれがないような気がする。
というのも僕等、戦後生まれの膨大な塊が何もかもし尽くしてきてしまったからなのか。

歌を聴いても、演奏を聴いてもそれはそれは暗闇にうめく夜行性動物のそれ。
けしてそれは嘶きではなく、雄叫びでもないそれにしか聴こえない、僕等世代の後ろめたさ。
その後ろめたさが今日の傘のない状態を――-―
状況を生んでしまったのではないだろうかと思わずにはいられない。

「都会では・・・自殺する、中高年が増えている」

皮肉だろうか。

あの昭和四〇年代に歌われた「自殺する若者」。
そして、その傘のない若者達が、ぼっとかしたら、あの時代に“自殺しそびれた”出遅れの、平成の自殺する「中高年」なのかも知れないと思えるのは・・・・・

「自分のことしか考えられない、自分のことしか見えない」―――

〈待てよ、そんなことで良いのだろうか〉

とは、もう思えなくなってしまったほど疲れきってしまったのかも知れない。

少し休むだけで良いのに、ほんの少し自分を見つめなおすだけで良いのに―――
なにも終わってしまうこともないのに,そんなに急いで逝かなくても。

いずれにしても、それは僕らが過してきたあの「昭和」という時代は、目を閉じればあの時代の風景が、音とともに僕の心に「パー」っと広がる。

それはその時代この目で見た、連合赤軍「浅間山荘事件」の、また大久保清「連続婦女暴行殺人事件」のそれを伝える取材ヘリコプターのけたたましさ、それを「音」が映し出す風景。

そして、白黒テレビで見た東大安田講堂の放水、新宿西口のフォークゲリラの狂騒を伝える「音」も―――

それらの「音」はけして作り物ではなく、それが遠い、遠い、過去のことであったとしても、思想などと言う高邁なものを持ち合わせているはずもない僕らノンポリのミュージシャンくずれだったが、その時の社会の形はそ、れのひとつひとつが僕等の「これから」を諭すように見せつけてくれていた。

それは夫々に今、老人と呼ばれる僕らに、あの時代の青春の残像を今日までの、それなりの生き方の中に――――

その「音の風景」が時として心に映す。

そしてそこにはあった。

その時々の「音」はいろんなことを僕等に教えてくれていた。

僕らは、僕ら以前のそれも、そしてこれからのそれたちも―――――
けして経験する事の出来ないとてつもない時代を、素晴らしい時代を生きたきたのかも知れない。
  


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2023年03月01日

寄ると触ると昔ばなし

高砂町下は新興住宅地と職人街

明治17年生まれ申年の祖父と昭和24年、丑年の僕
昭和26年春も宵。

最近は昔の仲間寄ると触ると「横丁の昔ばなし」に時を忘れる・・・・・

 日清製粉そして東小学校の入口、高砂町下は所謂「職人街」とでも言うのだろうか・・・・・

 戦後になって賑やかになって来たその頃の新興住宅地。まあ住宅地とは言っても裏通り、路地は戦後、横丁のことだ 建付けのあまりよろしくない二軒長屋や、建増し、建増しの、取って付けたようなアパートと言うよりは間貸しがそのほとんどだった。

 そんな、良くて六畳一間に、共同炊事場、共同便所の間貸し。下手をするとそこに親子七人、八人と言うのもけして珍しい話ではなかった。
 それはもう、五月蝿いの五月蝿くないのと来たら今の「ガキ連中」の比ではない。

 洋服の仕立職人、パチンコ屋の店員、繊維問屋の番頭さん、中には「県土木高崎出張所長」なんて言う総勢一〇人家族のような間借り人もいた。
 今では県職員、いわゆる公務員ともなれば「エリート」なのだろうが。

 そんな高砂町の横丁。表通りには高崎の近郷近在から高崎へ奉公に出て一人前に仕上がり、やがて独立し、店や細工場、工場を構えた明治後期から大正一桁世代が腕を競う、そんな職人街だった。

 そうだ―――

 そんな職人の中にも紫綬褒章かなんかは知らないが、お宮を作らせたら天下一と言った、そんな名人「匠」もこの横丁には居られた。今では、息子さんが跡を継いではいるが、はたしてどんなものか。お人柄のお噂は聞くが、その腕の実力のほどを耳にすることはない。
 もっとも、その跡取職人の兄さん、昭和20年生れで、僕らは町内野球などで随分と世話になった。
 まあ、商店街と言ったところで老舗は若い番地から戦時中は栄えたであろう旗屋、肥料屋、酒屋くらいのところだっただろうか。まぁなんてったって、九蔵町には農家、江木の方に田んぼのあった浦住さんなんて言うお宅があったくらいだから。

 高砂町を南北に分ける「長野堰」、その西側の末広町まで染物職人が忙しそうにしていた。この界隈、山田町、椿町、九蔵町と古くから商う紺屋が数軒あった。
 高砂町一番地は館林財閥の「日清製粉高崎工場」の正門通路と、高崎市立東小学校の裏門のところから始る。
 それは、そこ東二条通、辻角の「山田畳店」から始まるのだ。

 僕が小学生の頃は日清製粉テニスコートを覗く裏辻までイ草の匂いをさせながら工場は細長く畳表を織っていた。
 ここに云う、高砂町の横丁その「山田畳店」から東二条通りを五本辻へ凡そ、2百メートルほどのアヴェニュー、表通りと裏通り、路地をいっているのである。今はその畳屋の親方の面影は何処にも見えない。

 たしか、一男三女がいて長男が辻角で「山田歯科医院」を営んでいた。とっくの昔に閉院しているが。
 僕が小学生低学年の頃は大宮の方へ嫁いだ長女の息子が夏休みともなると「都会」の趣で、大宮だが何故かその頃は「東京の寛(カンちゃん)」と、呼ばれ近所の「ガキ」連中を羨望させていた。たしか、その親方の孫にあたる少年を「寛ちゃん」と呼んでよく遊んだ。
 次女は後に、僕等、東小学校の教師として赴任してくるのだが、「山田先生」と畏怖されていたような記憶がある。兎に角あの頃の先生は別に山田先生に限らず「怖かった」もんだ。

 詳細は知らないがその山田歯科医院と軒を並べ、一時だが一盃飲み屋があった、その隣も「大塚」さんと云う「赤提灯」があったのを憶えている。
 昭和30年前後のことだ、朝鮮戦争特需でかつての軍需工場だった「小島機械、水島鉄工所」それと高砂町五本辻の「魚市場」。夕方ともなると三々五々そこに働く、まあ「寅さん風」に言うなら「労働者諸君」だろう、肉体疲労を癒す為か、精神疲労を癒す為か、ひきも切らない酔客の喧騒が時代を映していた。

 その高砂町のとっつきも此度のバブルの崩壊とやらか、先の館林財閥、正田家の「日清製粉高崎工場」も移転、取壊し。そして市街地再開発とやらで、商社「丸紅」と「東京建物」合作の超高層マンション、それも三棟七百世帯と言った夢のような都市計画、哀れにも頓挫。
 結局、そこに生まれ育った僕らはお国のためじゃあないが「都市計画にご協力を」で追われるようにしてその横丁を出た。

 横丁の面影すらない僕の「そこ」―――

 しかし、そこにそんな「横丁」があったことすらもう誰も知らないかも知れない。それは「昭和の残像」。

 僕らが終われば、それを語る者もなく全てが終わるのだろうか。
いや、そこからまた新しい昔ばなしがっ始まるのかもしれない。


  


Posted by 昭和24歳  at 18:32Comments(0)

2023年03月01日

髙﨑、昭和の絶メシ

髙﨑、昭和の絶メシ


昭和の金華亭

違うんだよなぁ・・・・・・
なんつうか、煙でムンムンとしたホルモン焼き屋。


その昔、昭和50年です。北駅、大橋の旧佐藤学園の裏にあった、小汚い(失礼)ホルモン焼き屋。

それが「金華亭」でした。

最後に行ったのが昭和51年生まれの長女が3歳、54年生まれの次女が6ヶ月くらいの頃。

もっとも、その「金華亭」と「チョー飯」の関係ってよくわからないんだけど・・・・・・

本町3丁目にその「チョー飯」ありました。昭和43年ころ火事になっちゃったりして。

友達がそこでバイトしていて、初めて「豚足」なるゲテモノいただきました、「レバ刺し」も。


そんなわけで、たしか南町にも「金華亭」あったと思うんだけど、記憶が薄い。

まあ、なんたって「金華亭」のホルモン焼き、今のとは全然味が違います・・・・・・

どなたか、大橋の金華亭にお詳しい人いませんか、画像なんかアップしてくれたら嬉しいんだけどm(_ _)m

昭和、請地の「シャンゴ」


違うんだよなぁ・・・・・・

なんつうか、まあ、今まで高崎にはなかった趣のレストラン。

まあ、そもそも昭和の高崎に「レストラン」つったら、国道17号烏川沿いのカレー専門とかの「レストハウス」。

あとは、高崎駅東口の「パピルス」だっただろうか、八千代の「ファンタジー」は和田橋開通後だし・・・・・・

もちろん、ファミレスなんてありゃしない時代でしたし、まあ、子連れで行った藤五の「森永レストラン」とか「スズラン」のそれ。

昭和47年でした。バンドの先輩が・・・・・

「オマエ、スパゲッティって食ったことあるか、ないよなぁ」

って言うんで連れてってくれたのが、請地の四角にあった漆くい、白塗りで店構えからしてへんてこりんな店。

中に入ると照明は薄暗く、なんかマカロニウエスタン調の趣。

いかにもっていったふうな、マカロニウエスタンの出てくる悪役のような顔した怖そうなマスター・・・・・

まあ、顔、浅黒く、店内が薄暗いときてるから、そのマスターの純白の白衣とのコントラストがお見事(笑)。

で、無愛想、「なにしますか?」とも言わずに、黙々とカウンターの向こうの調理場をせっちょうしている。

多分、その先輩とは知った顔だったんだろう、マスター「おウッ」といったふうに顎で挨拶すると、注文は?といったような目配せ。

「あっ、オレ、ミートソース」

なにそれ?と思ったが、それが一体どんな代物なのか聞くわけにも行かず・・・・・・

「オマエは?」っていうから、まあ、言われてもいわゆる駅前ナポリで出てくる「ナポリタン」しか知らないから、

「じゃあ、ナポリタン」て言った。

まあ、「ミートソース」もすごかったけど、「ナポリタン」、ケチャップなんてかけてない。

たっぷりとマシュルーム、プリプリとした小エビに玉ねぎ、しかもそのボリュームたるや新田町の「もりや」の焼きそばに引けを取らない。

で、先輩がサラダもって言うんで頼むと、レタスは4分の一カット、それにトマトもぶつ切り・・・・・・

まあ、ドレッシングなんて知らなかったから、どうに食べていいかも分からず、先輩がせっちょうしてくれたやつを頂いた。

それから、事あるごとにシャンゴへ通った。しばらくして問屋町の田舎に移転するとか。

「遠くなっちゃうけど、来てくれよなぁ」

オスマンサンコンさんを日本人にしたような趣でニコっと笑ってそう言ったマスターの顔が忘れられない。

問屋町のお店は繁盛していた。マスターはカウンターの中からは姿を消していた。社長業にご多忙だったようだ。

ある用事で事務所を訪ねたときのことだ・・・・・・

「マスター、味、だいぶ変わっちゃったね」

オスマンサンコンを日本人にしたようなマスター、いや、社長は「うんうん」というように僕を見て困った顔した。

「マスターのフライパンでスパゲティ、もう一度食べたいね」


そう言うと・・・・・

「たけぇぞ」と言って「オイっ」っていうような顔をして僕を睨んだ。

もう二度と食べられないそれだと思うと、どうしても食べたくなった。

中銀の「らっちゃん」


以前、その「らっちゃん」を書いたとき反響がかなりあった。

驚いたのは、高崎出身で現在(現在も)イギリス在住の方から「らっちゃん懐かしい」とのコメント。

そうなんです。高崎を離れた人たち、高崎へ帰ってくると必ずらっちゃんの「やきそば」と「餃子」を食べると。

それを食べないと高崎に帰った気がしないと・・・・・・

まあ、わかります。何が美味いのかって聞かれても「何が」というのが難しいけど、とにかく美味いんだから仕方がない。

やきそばなのにあのペッチャリとした平麺。それにシャキっとしたキャベツのモヤシ。

適当な量が入ってる豚の細切れ、細切れというのか薄いのではなくぶつ切りのちっちゃいやつ。

それに、僕はたっぷりのソースをかけて食べる、そのソースのしみた「やきそばライス」もオツなもんだった。

なんてったって、餃子だろう。マスターとママさんが暇に任せて餃子をこさえている・・・・・・

小ぶりで、カリっとした食感の「らちゃんの餃子」はもう食べることができない。

そう思うと無性に食べたくなる。らっちゃんの「やきそば」と「餃子」。マスター、ママさんはお元気だろうか。


未だ、飯塚に「とりせん」があった頃、御夫婦のお姿お見かけして、会釈させてもらったけど・・・・・・

平成10年頃だっただろうか、娘の運動会の帰りには必ず家族で「らっちゃん」を楽しんだ。

高崎でもう二度と食べられない本格的B級グルメ!!

  


Posted by 昭和24歳  at 16:59Comments(0)

2023年03月01日

新宿御苑に除染土計画、ここに三浦瑠璃は?

新宿御苑に除染土計画、国「安全性知って」 各地で反対、埋まらぬ溝

三浦瑠璃を探せ!!

 東京電力福島第一原発事故後の除染で出た除染土の再利用で、環境省が実証事業の候補地の一つとする新宿御苑(東京都新宿区)の周辺住民の一部らが24日、事業中止を同省に申し入れた。同省は「多くの人に安全性を知ってもらいたい。事業に住民同意が必要とは想定していない」との立場で、両者の溝は埋まっていない。
<抜粋引用:2023年2月24日 20時11分>
https://www.asahi.com/articles/ASR2S66V9R2SOXIE009.html

ま、選ばれし人々なんだが、宴の主は天国に召されちゃって成仏できたかどうだか未だ宴に彷徨ってるかどうだか。

そう言えば宴の主は賑やかなことが大好きであちらでも招待状を・・・・・

天国よいとこ一度はおいで
   酒はうまいしねえちゃんはきれいだ
     
 ってやてるかもしれない。

しかしだ新宿御苑といえば江戸時代に信濃高遠藩内藤家の下屋敷のあった敷地である。

そこで不謹慎にもあれもこれも見境なくお呼びしちゃって善かったものかどうか、せめて首相官邸中庭で厳かに染谷かに、それとも渋谷区南平台、岸元首相公邸(統一教会元本部)ででも・・・・・

それにしてもだ東京電力福島第一原発事故後の除染で出た除染土の再利用で、環境省が実証事業の候補地の一つとする新宿御苑ってなんか環境省帰ってきたヨッパライじゃないかい。

三浦瑠璃を探せ!!  


Posted by 昭和24歳  at 09:11Comments(0)

2023年03月01日

政府紙幣では危険

政府紙幣では危険
アホウ首相、政府紙幣の検討表明

無利子国債・政府紙幣の検討表明=首相「いいことだ」
3月11日18時43分配信 時事通信

麻生太郎首相は11日夜、自民党の議員連盟が提言した政府紙幣や相続税免除特典付き無利子国債の発行による景気対策について、

「100年に1度(の経済危機)ということでいろいろなアイデアが出てくる。いいことだと思う」

と述べ、検討対象とする意向を明らかにした。首相官邸で記者団の質問に答えた。

全くアホウ首相だぜ!!トウシロウのこのオレでさえ去年あたりから言ってるって言うのに・・・・・

ついこの間までは「考えたこともない」とか言っていたんじゃあねえのか、アホウ首相!!

いや、「ついこの間までは『考えたこともない』ではなく」、『考えてはいけないこと』ほど恐ろしいことだった、いわゆる鬼門!?

もうひとつ、信じられないことですが、民間銀行であるにもかかわらず、決算は開示されていません。膨大な利益になっているはずです。為替介入というのがありますが、あれも相当の利益を生んでいます。さらに、FRBは債権の買取りも行います。アメリカ政府が発行する米国債を買い取るのです。要するにアメリカ政府が借金するのですが、それを買い取るFRBは紙代と印刷代だけのコストで、アメリカ国債を買い取り債権者になります。FRBに牛耳られているといっても過言ではないと思います。
引用:https://gentosha-go.com/articles/-/2635

こういうことは、機を見計らっちゃあだめなんで、ホントはアホウ首相、首相になったとき、即断行すべきだったんだが・・・・・

まぁ、それをチマチマ、定額減税だの、それじゃあ効き目がないって言うんで、定額給付金だとかで、それもいい大人に今時“12000円”なんて、子どものお年玉の方が上だっていうの!!

しかしエイブラハム・リンカーン大統領、JFK大統領がイレースされたのもそれが、という陰謀説も実しやかに。

そう言えば日本の元首相、エイブラハムも隈なく10万円づつ12兆円のピン札配ってイレースなんていう陰謀説も・・・・・

で、相続税免除の「無利子国債」だって、安全パイ。しかしなんでコイツラ、どこまでも金持ち感覚なんだね。何で相続税免除なんだよ!??

普通の庶民は少しくらいの財産残したって相続税の対象になんかならないし、ニッポンの個人金融資産が1400兆円とか言ってるけど、
これは全くのウソで、その金融資産っていうのは、例えば3000万円の住宅ローンとかの残金分もカウントされてるし、生命保険、損害保険のも・・・・・・
で、実際、現ナマでの「金融資産」は精々がその3割程度とかです。

まあそれにしても、1400兆円の3割っていうことは“420兆円”も現ナマ、現金があるっていう話だから、オバマさんもビックリしちゃうんだろうけど(笑)。

しかし、一般国民大衆の貯蓄はゼロ金利で目減りする一方です。

で、相続税免税ですって・・・・・・

なんでそんなややっこしいことをするんでしょうか!??

で、“政府紙幣”なんだけど、正直賛否両論です。ハイパーインフレ恐怖論とか。

しかし、「百年に一度の経済危機」を一体いつまで引きずらせるつもりなんでしょうか。

コイズミ首相は、「痛みに耐えて」といってそのままトン面です・・・・・

今、政府は金融機関、大企業救済のための“公的資金”「納税者のおカネ」を言い出しています。
しかし、今、企業に公的資金「納税者のおカネ」を投入しても、赤字の埋め合わせか事業再構築にしか使えない。
つまり、企業の延命策にしか使えない・・・・・・

結局国民は、痛みに耐えながら死んでゆくことになる。

要するに、在庫過多でモノが売れない。売れないから在庫調整、ひいては生産調整をする、したがってリストラをする。

結局、このままでは経済そのものが崩壊しかねない・・・・・・

そこでだ、それには、つまり内需拡大しかない!!

今、国民大衆に「おカネ」がない、小泉政権下で大衆増税が極めついた・・・・・

つまり、政府が国民から徴税した消費税なり、所得税なりをこの際、その失政を認めて「お返しします」と・・・・・・

消費税だけでも20年分なら“200兆円以上”になる。

早い話、「消費税」がなかったものとして、政府は国民に還付する・・・・・・
立派な大義名分ではないか!!


トヨタやキャノンには輸出の際にという理由で総額数兆円の消費税還付をしているではないか。

今度の、12000円の「定額給付金」だって、それは還付なのだ!!

たしかにインフレ懸念をするのはわかる。しかし、市場にカネがない・・・・・・
カネがないどころか、リストラ、首切りで否応なしに消費ができない経済環境になってきちまっている。

まあ、政府紙幣では危険だというなら、富裕層への資産増税・・・・・・・
現ナマの420兆円とその資産に課税する。
つまり貧困層には消費税還付をして、富裕層には課税強化をする。

結局、トヨタに公的資金を注入しても、国民大衆が“トヨタ”を買えなければ何にもならない。
イオンに公的資金を注入しても、モノが売れなければ意味がない・・・・・・
JAL、ANAに公的資金を注入しても、誰も飛行機に乗れないのでは全く意味がない。

無利子国債・政府紙幣の検討表明=首相「いいことだ」
「いいことだ」と思ったならすぐに実行に移せ!!
しかしその政府紙幣を、お前らで山分けすんなよ!!


  


Posted by 昭和24歳  at 02:14Comments(0)

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