2014年05月24日
祝・高崎市立東小学校創立100周年!!
祝・高崎市立東小学校創立100周年!!
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学校の沿革
本校は、高崎駅西口から北へ1キロに位置し、大正4年開校の学校で平成26年度に100周年を迎えます。所在地は弓町、江戸時代には中山道の通る城下町の一角でした。
現在では、古くからの町並みを残しながら、高層マンションや商店街が立ち並んでいます。線路の近くに学校があるので、時々通る蒸気機関車の汽笛がよく聞こえます。
かつて、昭和27年には児童数1800名の大規模校でしたが校区変更、城東小分離創立等に伴い市内で1番校区の狭い学校となりました。
小規模校の特徴、協力的な地域住民・盛んな伝統的文化活動等の地域性を生かし、以下のような「特色ある学校」づくりを行っています。
<高崎市立東小学校ホームページより引用>
http://swa.city.takasaki.gunma.jp/higashi_sho/
先日、諸用があって東小学校“学童”を訪ねました・・・・・
その“学童”は東小裏門(僕らはそう呼んでいた)のすぐ脇に、できたばかりの高層マンションの1階部分に。
おそらく、高崎一、というか、もしかしたら日本一の“学童”ではないかと思うほど綺麗で、清潔で、
僕らが入学、そして卒業したあの頃の「東小」から想像すると見紛うばかりのそれでした。
その“学童”、北側の窓からは僕が生まれ育った「高砂町」、今ではすっかり変わってしまっているけど・・・・・
数軒、住む人もいないであろう趣に昔の名残のとどめを散見し一瞬、感慨にふけりました。
2000年に入った頃からその高崎東校区の再開発が進み大手デベロッパーによる、現在では3棟の高層マンションが。
そして近年のうちには更に数棟の高層マンションの完成が予定されているとか。
まさに「再開発」で、おそらくここ数年でその「昔」は全て消えるのかもしれません。
その、高層マンションの建つところ、かつては「日清製粉高崎工場」で戦後、昭和20年代から40年代初頭までは、
24時間操業で、天を突くようなミールサイトなんだろうか、カントリーエレベーターなんだろうか。
当時は木造の高層建築で、まあ、僕らが物心ついた昭和30年代と言えば、食糧増産は国策でしたから・・・・・
とにかく、その「日清製粉高崎工場」には国鉄の貨物専用線があって、もう一方住宅街というか、
通学路をトラックがそれは忙しく出入りしていた。
たしかそのころはまだ「自動車」なんてほとんど往来していない、そんな時代だった。
↑の「高崎市立東小学校の沿革」にもあるように、高崎で一番校区の狭い小学校だったとかだが・・・・・
とにかく、下町とでも言うんだろうか、その戦後、様々な事情を抱えた、大げさに言えばあの戦争の「被災難民」(笑)。
そんな庶民、大衆が、当時はどこかしこも、まあ、空襲「戦災」にはあわなかったものの、
戦前、戦中からの古い家屋と、にわか仕立ての住宅、それが「長屋」であったり「間借り」であったりと人口密集した。
そんな地域が、当時の「東小校区」ではなかっただろうか・・・・・
とにかく、町内とは言ってもその面積は狭く入り組んでいた。まっ、今でこそ区画整理されているようだが。
高砂町、山田町、椿町、九蔵町、弓町、北通町と、このあたりが東小の西北エリア。
そして、御案内の八間道路を挟んで、田町の一部、真町、羅漢町、旭町、元紺屋町の一部が南西エリアで・・・・・
まあ、子供の数は半端ではなかったのではないだろうか(笑)。
城東小ができて、それが半数ほどになったとしても、ひとクラス44、5人が3クラスから4クラスだから、
一学年、少なくとも120人くらいはいた勘定だから、それが6学年ともなれば総勢、800人くらい・・・・・・
次第次第に、時代が経って、僕の長女も次女も「東小卒」なんだけど、昭和50年代から60年代には、
ひとクラス20人ちょいで、それも全学年が「単学級」という、いわゆる団塊世代、ニューファミリー化でした。
そんな下町で育った子供たち、結婚して、家族を持って分譲住宅団地等への移転が旧市街地のドーナツ化現象を形成、
まあ、しかし、それも時代を重ね、そんな「ニューファミリー」も高崎市郊外の「団地」も「オールドファミリー」に。
そしていつの間にか、その市街地に高層マンションが林立し・・・・・・
この高砂町だけでも7棟、さらに、東小校区なら十数棟にも及ぶのではと。
そこには、平成の「ニューファミリー」が、聞き及ぶところによれば、その東小に隣接する高層マンション群、即完売。
で、その高層マンションの周辺では就学前のお子さんの手を引いた「育メン」のお姿もこのところ珍しくはないと。
つまり、ひとつの街、住人、世代が消えても新しい世代が「街づくり」をする。
それを考えると、昨今の少子高齢化とかも「杞憂」でしょうか、さすれば「老婆心」以外の何物でもない(笑)。
僕らが生まれた頃は、その人口増に、政府は「杞憂」したわけですから、万事塞翁が馬です。
祝・高崎市立東小学校創立100周年!!
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学校の沿革
本校は、高崎駅西口から北へ1キロに位置し、大正4年開校の学校で平成26年度に100周年を迎えます。所在地は弓町、江戸時代には中山道の通る城下町の一角でした。
現在では、古くからの町並みを残しながら、高層マンションや商店街が立ち並んでいます。線路の近くに学校があるので、時々通る蒸気機関車の汽笛がよく聞こえます。
かつて、昭和27年には児童数1800名の大規模校でしたが校区変更、城東小分離創立等に伴い市内で1番校区の狭い学校となりました。
小規模校の特徴、協力的な地域住民・盛んな伝統的文化活動等の地域性を生かし、以下のような「特色ある学校」づくりを行っています。
<高崎市立東小学校ホームページより引用>
http://swa.city.takasaki.gunma.jp/higashi_sho/
先日、諸用があって東小学校“学童”を訪ねました・・・・・
その“学童”は東小裏門(僕らはそう呼んでいた)のすぐ脇に、できたばかりの高層マンションの1階部分に。
おそらく、高崎一、というか、もしかしたら日本一の“学童”ではないかと思うほど綺麗で、清潔で、
僕らが入学、そして卒業したあの頃の「東小」から想像すると見紛うばかりのそれでした。
その“学童”、北側の窓からは僕が生まれ育った「高砂町」、今ではすっかり変わってしまっているけど・・・・・
数軒、住む人もいないであろう趣に昔の名残のとどめを散見し一瞬、感慨にふけりました。
2000年に入った頃からその高崎東校区の再開発が進み大手デベロッパーによる、現在では3棟の高層マンションが。
そして近年のうちには更に数棟の高層マンションの完成が予定されているとか。
まさに「再開発」で、おそらくここ数年でその「昔」は全て消えるのかもしれません。
その、高層マンションの建つところ、かつては「日清製粉高崎工場」で戦後、昭和20年代から40年代初頭までは、
24時間操業で、天を突くようなミールサイトなんだろうか、カントリーエレベーターなんだろうか。
当時は木造の高層建築で、まあ、僕らが物心ついた昭和30年代と言えば、食糧増産は国策でしたから・・・・・
とにかく、その「日清製粉高崎工場」には国鉄の貨物専用線があって、もう一方住宅街というか、
通学路をトラックがそれは忙しく出入りしていた。
たしかそのころはまだ「自動車」なんてほとんど往来していない、そんな時代だった。
↑の「高崎市立東小学校の沿革」にもあるように、高崎で一番校区の狭い小学校だったとかだが・・・・・
とにかく、下町とでも言うんだろうか、その戦後、様々な事情を抱えた、大げさに言えばあの戦争の「被災難民」(笑)。
そんな庶民、大衆が、当時はどこかしこも、まあ、空襲「戦災」にはあわなかったものの、
戦前、戦中からの古い家屋と、にわか仕立ての住宅、それが「長屋」であったり「間借り」であったりと人口密集した。
そんな地域が、当時の「東小校区」ではなかっただろうか・・・・・
とにかく、町内とは言ってもその面積は狭く入り組んでいた。まっ、今でこそ区画整理されているようだが。
高砂町、山田町、椿町、九蔵町、弓町、北通町と、このあたりが東小の西北エリア。
そして、御案内の八間道路を挟んで、田町の一部、真町、羅漢町、旭町、元紺屋町の一部が南西エリアで・・・・・
まあ、子供の数は半端ではなかったのではないだろうか(笑)。
城東小ができて、それが半数ほどになったとしても、ひとクラス44、5人が3クラスから4クラスだから、
一学年、少なくとも120人くらいはいた勘定だから、それが6学年ともなれば総勢、800人くらい・・・・・・
次第次第に、時代が経って、僕の長女も次女も「東小卒」なんだけど、昭和50年代から60年代には、
ひとクラス20人ちょいで、それも全学年が「単学級」という、いわゆる団塊世代、ニューファミリー化でした。
そんな下町で育った子供たち、結婚して、家族を持って分譲住宅団地等への移転が旧市街地のドーナツ化現象を形成、
まあ、しかし、それも時代を重ね、そんな「ニューファミリー」も高崎市郊外の「団地」も「オールドファミリー」に。
そしていつの間にか、その市街地に高層マンションが林立し・・・・・・
この高砂町だけでも7棟、さらに、東小校区なら十数棟にも及ぶのではと。
そこには、平成の「ニューファミリー」が、聞き及ぶところによれば、その東小に隣接する高層マンション群、即完売。
で、その高層マンションの周辺では就学前のお子さんの手を引いた「育メン」のお姿もこのところ珍しくはないと。
つまり、ひとつの街、住人、世代が消えても新しい世代が「街づくり」をする。
それを考えると、昨今の少子高齢化とかも「杞憂」でしょうか、さすれば「老婆心」以外の何物でもない(笑)。
僕らが生まれた頃は、その人口増に、政府は「杞憂」したわけですから、万事塞翁が馬です。
祝・高崎市立東小学校創立100周年!!
タグ :高崎市、東小学校、再開発
Posted by 昭和24歳
at 08:42
│Comments(1)
あの学校は静かな高崎市の一角にあって、近くの東のゆめ公園からは数多くの電車たちが見れました。電車好きとしては凄く嬉しい場所でした。
平成から令和の初期まで在学していたので、むか~しの東小の内外装が気になります!
未だに校歌の1番は覚えてるほど大好きな学校です。