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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーション  at 

2010年01月11日

僕らの成人式(昭和44年)・・・・・・

僕らの成人式(昭和44年)・・・・・・



昭和44年のベストセラー「断絶の時代」
知識社会の到来と知識労働者の興隆、情報化の進展、グローバル経済の出現。見えないいくつかの断絶が政治と経済と社会を変えつつあることを知らせる。1969年刊を読みやすい改訳で。





日本人の一般国民の海外渡航(観光)自由化が昭和39年。オリンピックの年だった・・・・・
外貨持ち出し500ドル(US)という規制はあったもののパスポート申請がその後外務省から県に委嘱された。
とにかくそれはエポックな出来事であったと覚えている。

それから5年後、昭和44年1月15日(水)晴。
それが僕の成人式の日だった。

どんな時代だったんだろうか昭和44年1月15日・・・・・・

・人類初の月面着陸 7月20日(日本時間21日)
・佐藤首相訪米で、沖縄72年返還決まる 11月21日
・東大安田講堂占拠の学生排除 1月15日
・連続ピストル魔逮捕 4月7日永山則夫逮捕
・荒れた国際反戦デー 10月21日、社共両党・総評など86万人が統一行動
・日本のGNPが西側諸国で第2位に

【交通】国鉄 最低料金30円。国鉄普通旅客運賃 上野-青森2560円、新橋-大阪2230円。
【電話】公衆電話1通話3分打切り10円(11月)。
【飲食】ビール130円、かけそば80円
【雑誌】「週刊朝日」70円(6月)
【新聞購読料】朝日新聞朝夕刊セット月決め750円(11月)


因みに高崎―東京電環380円くらいだったか?

まあ、一番記憶に焼き付いてるのが「東大安田講堂」の事件と、新宿西口フォークゲリラ・・・・・・
GSブームもそろそろ下火で世の中が反戦とかで騒然となってきたそんな時代だった。

それでも、あの頃の僕らは夢の塊でした。

海外旅行、とくにアメリカへ行くこと・・・・・・
世界一周貧乏旅行とか、小田実に刺激されて、五木寛之に刺激されてシベリア経由でヨーロッパへとか。
大学へ行くやつ、カタカナ文字の職業を目指して専門学校へ行くやつ・・・・・
そして僕みたいにミュージシャンを目指してフーテンするやつ。
とにかくみんな夢の塊だった。

そして、大方がその夢に破れて地道な人生についた・・・・・
というか、とにかく右肩上がりの日本経済に、そこに「ありつけた」といった方が正解かも(笑)。
しかしみんな、一度は大きな夢をもった。
戦前の父母世代と違って、自由という世界への切符を手にして大きな夢を。

そしてそれは普通に、夢が現実のものとなって行った。

自家用車をもち、海外旅行にも行き・・・・・・
夢に見た職業にもとりあえずはつき、家族を持ち、家を持ち。


アメリカと戦争をした父が、
僕がアメリカで仕事をしてくると言ったら・・・・・・・

「オイッ、ホントに大丈夫か!!???」

と、真顔で言った(笑)。



さて、今日の成人式・・・・・・・
どうだったんだろうか、はたして「荒れたんだろうか」それは???
いつものように。

どんな夢を持っているんだろうか、今日の成人式・・・・・・


因みに僕の昭和44年1月15日はバンドの仲間と祝った。
僕と、リードギターの時夫ちゃんが成人式だった。
そしてその年の秋、音楽センターでの「ザ・プラネッツ」リサイタルを最後に解散。
僕はひとり東京へと向かった・・・・・




<昭和44年音楽センターでのザ・プラネッツ>


僕らの成人式(昭和44年)・・・・・・

それは「断絶の時代」の始まり・・・・・
そしてほぼ10年後昭和53年には「不確実性の時代」の到来。
世の中はますます混沌とし、政治の腐敗、官僚の腐敗、政官財の癒着と汚職の時代。
東西冷戦は終結するも、今度はテロとの戦いだといって世界を戦慄させる。

一体どうすればいいのだ・・・・・・

そして、この不況下の成人式。

少しも夢を語らない政治・・・・・・
それは「夢の中の政治」だからなのだろうか?






  


Posted by 昭和24歳  at 18:48Comments(1)

2010年01月11日

大手前の子(3)

縁日の宵





 月の八日は呑竜さま、二十三日は三夜さん、二十七日成田山の縁日である。縁日商人が縁日の日取りを忘れないように、町の子供らも、縁日の日を忘れなかった。この三つの縁日は、いつも人出で賑わった。
狭い参道の両側に、ブッキリ飴屋、カルメ屋、しんこ屋、松皮煎餅屋、玩具屋、香具師(やし)の店の電灯、ランプ、アセチレン瓦斯、その色とりどりの光の渦、ふかい饅頭、煮込みおでんの匂いと人いきれの中を、人波にもまれながら、店を一つ一つ見ていくのは楽しかった。境内に入ると、見世物小屋が盛んに客を呼んでいる。

 成田さんは、参詣者が「お灯明―――」といって、次々に蝋燭を上げるので、お堂の中が昼のように明るく太鼓の音が絶えず響いていた。店の若い者の“てんぐるま”にのって久保川前の参道の雑踏から押し出されて、三丁目あたりにくると、店屋の軒先に、点々と吊るした御燈明(大提灯)が妙にわびしかっら。本通りの店はそのころお方半戸を立てて暗かった。

 二十三夜尊(法輪寺)は、うろころの前から東の小路にはいる。ここも今は八間道路に拡張されて、昔の面影はない。本堂は薄暗かったが、右手に羅漢堂があり、田舎のおばあさん達が、一杯埋まってお念仏などを唱え、お籠りをしていたのを憶えている。
呑竜さん(大信寺)は、家に一番近かったうえに、子供の神様(子育呑龍)というので、子供を背負ったり、子供の手を引いたお母さんたちの参詣が多かったからぼくには最も親しみがあった。本堂の階段を上って左手に丹塗りの、おびんずるさんがある。(貧頭盧尊者、長寿医療の力ある羅漢のこと)。

「霜焼けになりませんように!」

母はおびんずるさんの手をなぜてから、ぼくの手をなぜてくれた。笑顔のおびんずるさんの横手に、青い頭、乱れ髪に白い歯をむいた、しょうずか婆さん(正しくは三途河の老婆という)の像がある。恐ろしかった。悪いことをすると、塩塚婆さん(こうもいう)に食われてしまうといわれた。呑竜さまの角(郵便局の南)にその頃お煎餅屋があり、そこの一枚一銭の赤砂糖を引いた大形の煎餅を買ってもらうのだったがうまい煎餅であった。
 呑竜さまの夜は、田町の姉(長姉)が小さい三人の男の子を連れて実家に立寄る。目のさきに嫁いでいった姉が、月に一度帰ってくるのを、母や姉達は宵のうちから待っている。夕食を済ませ、お詣りをして、一足伸ばして来るのだから、大方八時近くにもなった。母娘の話はつきぬうちに、早くも十時位になってしまう。姉の子供たちらには、うちの姉たちが菓子などを与え機嫌をとり、よく来た、よく来た、ともてなすのだが、だんだん子供らは飽きてきて眠くもなる。
 
「お母っさん!もうかえるんだよ」

と駄々をこねる。久振りに母娘四人集まっての話はなかなか終わらない。とうとう下の姉などは子供を叱りつけて、

「お母さんはうちの姉さんなんだから、お前達はさっさとお帰り!」

と真面目くさっていう。帳場を仕舞った父が、頃合いを見て、

「えい(長姉の名)――もう帰ったがいいだろう」

という。姉は半眠りの子供らを連れて、大戸のくぐり戸から、田町へ帰って行った。


 成田山も法輪寺も、また大信寺も、今は完全に町中になってしまったが、この物語の明治末期には、何れの寺も裏手に高崎田圃が迫っていた。大信寺の裏からは黒い高崎駅や赤い煉瓦の倉庫が見え、法輪寺はむえんどの森が、成田山からは電車山が見渡された。





法輪寺から見渡せた「むえんどの森」ってなんだろう???   


Posted by 昭和24歳  at 12:37Comments(3)

2010年01月11日

夫々の“仰げば尊し”

夫々の“仰げば尊し”






こういうの・・・・・
なんていうんでしょうね。日本の、日本人の、海洋島民の感性とでもいうんでしょか(笑)。
まあ、ここ群馬には海はありませんけど(笑)。

ある意味、“判官贔屓”に心を寄せる抑圧された民衆が体制をオチョクリ、
「溜飲を下げる」とでもいうのでしょうか、

“イエローサブマリン音頭”です・・・・・・


“金沢明子”


   


こういうのって、僕だけの感想ですけど・・・・・・

「ざまあ見ろ!」

って、聴き終った後、
或いは歌い終わった後に「フフ」っと呟きたくなるような歌です。
夫々の“仰げば尊し”とは全く関係ありませんでしたけど、まあ話の枕とでも(笑)。


で、夫々の“仰げば尊し”っていえば卒業式なんですけど・・・・・

因みに僕の最も好きな歌がこの卒業式の定番ソング、

♪仰げば尊し♪です。




今ではほとんどの小中学校では歌われていないようです。
娘たちも・・・・・

「知らない」

というのです。


仰げば尊し わが師の恩
教えの庭にも はや いくとせ
おもえば いと疾し(とし) このとし月
いまこそ わかれめ いざさらば

互いに むつみし 日ごろの恩
わかるる後にも やよ わするな
身をたて 名をあげ やよはげめよ
いまこそ わかれめ いざさらば

朝ゆう なれにし まなびの窓
ほたるのともし火 つむ白雪(しらゆき)
わするる まぞなき ゆくとし月
いまこそ わかれめ いざさらば



あるパーティーの時僕がこの歌を歌いました♪仰げば尊し♪・・・・・

教会式結婚式場で牧師のアルバイトをするアメリカ人の“マックス”がこう言いました。

「アメイジンググレイスみたいなメロディーだね」

と・・・・・・

スローバラードな8分の6拍子。
ゴスペル風にブルースコードを使って歌っちゃったわけです。

その♪仰げば尊し♪って作詞作曲者不詳だそうですけど・・・・・
なんとも荘厳なメロディーラインではないでしょうか。

“国歌”にしたら素晴らしいものになると思います。

卒業・・・・・

様々な意味の含まれたそのセレモニー。
それは“感謝”と“励まし”と“讃え”の歌・・・・・・

“終わり”と“始まり”

歌っていると自然に涙があふれてきます。
そしてその涙が僕の心を洗い流してくれる・・・・・

そう。
誰にでもある“あの時”を思い起こさせ、
沈んだ心を奮い立たせてくれる。

「いざ、さらば・・・・・・!!」

と。

夫々の“仰げば尊し”
  


Posted by 昭和24歳  at 06:24Comments(0)

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