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2010年08月18日
高崎“あるイタメシの物語”
高崎“あるイタメシの物語”

“ある恋の物語”ではなく・・・・・・・
“あるイタメシの物語”
HISTORIA DE UN ITAMESHI”
以前「初めての喫茶店」を書いた・・・・・・
どうも、その喫茶店には「イタリア系」のネーミングが多かったような気がするのは僕だけだろうか。
なんとなくだが・・・・・
高崎のそれも「ナポリ」とか「ローマ」とか、古典的というか戦後のそれには、
まさか“日・独・伊”の三国同盟ということはないのだろうけど(笑)。
もっとも、高崎メインストリートにある老舗のパン屋さんの「日英堂」はどうやら明治時代のあの、
“日英同盟”
からのネーミングだとか。
なんでもその「日英堂」の創業者、その“日英同盟”に沸いた時代に・・・・・・・
横浜あたりで「製パン修業」に励んでのことからだと、どこかで読んだ憶えがある。
イタメシである。
高崎の“イタメシ”といえば、本格的イタメシ屋は・・・・・・
1にも2にも、3、4がなくてそれは、なんと言っても「シャンゴ」ではないだろうか。
僕が初めて「シャンゴ」に行ったのは昭和44年、
たしか仲通、フランス座入り口のレストラン“ピナン”でコックの見習をしていた友達に連れられて行ったのが最初だった。
それまでの“イタメシ”・・・・・・
もっとも「イタメシ」などと言う言葉、言い回しはなかったが、それは「ナポリタン」しかなかったのではなかったか。
“駅前ナポリ”でも、“ブリッジ”でも、藤五デパートの“森永レストラン”でも出来たての和田橋のたもとの“ファンタジー”でも、
「スパゲッティ」と言えば、
「ナポリタン」
決まって、ウィンナーにタマネギとピーマンにたっぷりのケッチャップで炒めたやつ・・・・・・
僕は「シャンゴ」に連れて行ってもらったが“ナポリタン”しか知らなかった。
コック見習の友だちは、「ボンゴレも美味いぞ」とか、「ミートソースも、ぺペロンチーノも」とか、しまいには「ピッツァ」もとか・・・・・
とにかく聞くもの、見るもの、「ナポリタン」以外は初めてで、僕はその初めてのシャンゴで「ナポリタン」を注文した。
ところが、出てきた「ナポリタン」は・・・・・・
それは、今までの「ナポリタン」とは一味も、二味も違ったなんとも言えない“美味い”「ナポリタン」だった。
シャンゴのナポリタンにはウィンナーもピーマンも入ってないしケチャップもほんの隠し鯵程度で、
それにはスライスされた“マッシュルーム”と、ぷりぷりの“剥きエビ”、それも大きめの。
それ以来、3年間くらいは「シャンゴ」と言えば僕は“ナポリタン”だった。
それに、やはり初めての食べ物だったのが「野菜サラダ」。
それまでの“サラダ”と言えば連想したのは精々が「ポテトサラダ」でしかなかった。
千切った大き目のレタス、ベビーコーン、セロリに輪切りのピーマン、タマネギ、トマト・・・・・・
それにマヨネーズではなく“ドレッシング”とか言う酸味の効いたなんとも言えない味のスープのようなやつ。
なんと洒落た食いモンだろうと思わず感心してしまった。
ところでその初めての「シャンゴ」だが、広さは20坪弱。
請地町、四つ角、丁度ファミレス“ココス”対面にあった・・・・・・・
立て看板、ブームスタンドには今ではお馴染みのあのコックのマークにお世辞にもお洒落とは言えない「シャンゴ」のロゴ。
店の構えは漆くいの白壁で、いかにもマカロニウエスタンに出てくるような趣。
店の中は薄暗く、カウンターに5、6席とテーブル席がやはり五つか六つ・・・・・・
カウンターの中ではマスターが、いかにも「コックです!」と威張ったような出で立ちでフライパンを音を立てて振っている。
あの頃は僕が21、2の頃だったから、マスターも精々三十路を超えたか超えないか・・・・・・
それにしても、いかにも「シャンゴ」と言った、色黒で、ジャガイモのような顔をした、
その分、コックの白衣が際立ってその白さが目立ったマスター。
その脇で、ママさん、奥さん、小柄で色白で可愛らしい女性。
時々、その調理場の向こうでは赤ちゃんの鳴き声が・・・・・・
そんな「シャンゴ」に通って何年目だろうか。
僕がキャバレーニュージャパンでバンドマンをやっているころのことだから・・・・・・・・
昭和47年くらいじゃあなかっただろうか ?
「今度、問屋町に移転するんだけど」
と、マスターがボソッと言った。
「問屋町ですかぁ?何にもないじゃあないですかあの辺。遠くなっちゃうな」
「ここ、駐車場もないしね。それに道路拡張とかでいずれ動かなくちゃあならんそうだからね」
実は、縁というか、その問屋町本店の店舗のタイル工事は僕の義兄がすることになった。
そんなこんなで、問屋町に移転してからも頻繁に「シャンゴ通い」が続いたわけだが、
請地の店でも僕の同級生がアルバイトをしたりしていて、僕のそのイタメシにも次第次第に箔がかかってきて・・・・・・
移転する頃にはスパゲッティと言えば僕は「マーレートマトソース」か、「ペスカトーレ」。
それに、イタリアンドレッシングたっぷりの「コンビネーションサラダ」とすっかりイタメシが日常になっていた。
最初の問屋町の店が改装する頃には・・・・・・・・
そのオープンカウンター、厨房にはマスターの姿は時々にしか見えなくなっていた。
群馬町店、前橋店、伊勢崎店と出店していくうちに「シャンゴ」が「シャンゴ」ではなくなっていった。
丁度僕もしばらく高崎を離れ、それでも高崎にけると・・・・・・・・
「シャンゴ」の味が懐かしく「シャンゴ」でない「シャンゴ」を食いに行く。
いつのことだったか小用でシャンゴのマスター、
いや、シャンゴ株式会社の社長を本店に訪ねた・・・・・・
僕がバンドマンであることを良く知るマスター、いや、社長はギターを弾く真似をして、
あの、色黒の、ごつい顔をニコッとくしゃくしゃにして、
「相変わらずやってるの?」
と、言った。
高崎の“イタメシ”、いや、群馬の“イタメシ”の多くが「シャンゴスクール」の卒業生。
シャンゴカラーを前面に出してやっている店、相当にアレンジしてやっている店と夫々だが・・・・・・
いずれも、僕の初めての「シャンゴ」には適わない。それは僕の勝手な思い込みかも知れないけれど。
でも、その「シャンゴ」自体が、すでに「シャンゴ」でなくなっている・・・・・・
昔の“それ”ではなくなっているのだから仕方がないのだろう。
そうだ、あの時の「赤ちゃん」が今は頑張っているとか・・・・・・
去年の初秋、問屋町のイベントでシャンゴのマスター、いや、社長にばったりと会った。
「孫のお守りさ」
と、あの顔をくしゃくしゃにして・・・・・・
そうだ、今夜の夕飯は「シャンゴ」のミートソースにしよう。
カミサンはベスビオだという、娘はぺペロンチーの。
ソレに、ミックスピザ“L”サイズをテイクアウトしよう・・・・・・
ソレにしても、パスタな街“たかさき”である。
「犬も歩けばイタメシ屋にあたる」
大袈裟ではなくそう思う。昭和42年にそれは始まったと言うが・・・・・
高崎“あるイタメシの物語”
2010年08月18日
清水健太郎、逮捕は6回目 !!
清水健太郎、逮捕は6回目 !!

清水健太郎容疑者を逮捕 覚せい剤取締法違反容疑 逮捕は6回目
2010.8.18 14:06 産経ニュース
覚醒剤を使用したとして、警視庁組織犯罪対策5課と上野署は18日、覚せい剤取締法違反(使用)の疑いで、元俳優の清水健太郎(本名・園田巌)容疑者(57)=東京都台東区寿=を逮捕した。同課によると、清水容疑者は過去に覚せい剤取締法違反や道交法違反(ひき逃げ)などで5回逮捕されており、今回で6回目。
同課によると、清水容疑者は「8月初旬に自宅マンションで覚醒剤をあぶって使った」と容疑を認めている。
逮捕容疑は8月上旬、都内などで、覚醒剤をあぶって吸引したとしている。
同課によると、9日午後、警察官がJR上野駅中央改札口前を歩いていた清水容疑者に職務質問し、さらに任意で尿検査をしたところ、覚醒剤の陽性反応が出ていた。
清水容疑者は昭和51年、「失恋レストラン」で歌手デビュー。レコード大賞新人賞などを獲得、俳優としても活躍していたが、58、61年に大麻取締法違反容疑で、平成7年、16年に覚醒剤所持容疑で逮捕された。さらに平成20年10月にはひき逃げ事件を起こし、道交法違反罪などで実刑判決を言い渡された。
まあ、昭和51年デビューですから。
アレです。「せんだみつお」がブレイクして、関根勤とか小堺カズキとか、イロイロ。
たしか、「ズートルビー」もじゃあなかったかなぁ ?
TBSの「銀座NOW」です。
そこで歌ってました、♪失恋レストラン♪とか↓
足利工業大学卒だそうで・・・・・・
そういえば、後輩で、足利工業大学へ行っていたやつがいてびっくりしていました。
まあ、「清水健太郎」とかって、本名じゃありませんでしたから。
で、「6回目の逮捕」って、笑っちゃうんですけど・・・・・・
なんでも、「覚醒剤での逮捕は5回目」だそうです。
ホントに「覚醒剤」が、好きなんですねぇ。
で、僕より三つ下ですから、今年57歳ですか、多分身体ボロボロです。
多分・・・・・・
で、
「警察官がJR上野駅中央改札口前を歩いていた清水容疑者に職務質問し」
って、まあ、いきなり「職質」はないわけですから・・・・・・・
当然、通報があって、っていうか芋づる、のもしかして「イモ」かも知れませんけど(笑)。
で、覚醒剤取締法違反「5回目の逮捕」ですから、塀の中の懲りない面々です。
で、芸能界ってアレです。イロイロあります↑
まあ、「可愛がってもらってるんじゃあ」仕方ありません・・・・・・・
憚りながら。
清水健太郎、逮捕は6回目 !!

清水健太郎容疑者を逮捕 覚せい剤取締法違反容疑 逮捕は6回目
2010.8.18 14:06 産経ニュース
覚醒剤を使用したとして、警視庁組織犯罪対策5課と上野署は18日、覚せい剤取締法違反(使用)の疑いで、元俳優の清水健太郎(本名・園田巌)容疑者(57)=東京都台東区寿=を逮捕した。同課によると、清水容疑者は過去に覚せい剤取締法違反や道交法違反(ひき逃げ)などで5回逮捕されており、今回で6回目。
同課によると、清水容疑者は「8月初旬に自宅マンションで覚醒剤をあぶって使った」と容疑を認めている。
逮捕容疑は8月上旬、都内などで、覚醒剤をあぶって吸引したとしている。
同課によると、9日午後、警察官がJR上野駅中央改札口前を歩いていた清水容疑者に職務質問し、さらに任意で尿検査をしたところ、覚醒剤の陽性反応が出ていた。
清水容疑者は昭和51年、「失恋レストラン」で歌手デビュー。レコード大賞新人賞などを獲得、俳優としても活躍していたが、58、61年に大麻取締法違反容疑で、平成7年、16年に覚醒剤所持容疑で逮捕された。さらに平成20年10月にはひき逃げ事件を起こし、道交法違反罪などで実刑判決を言い渡された。
まあ、昭和51年デビューですから。
アレです。「せんだみつお」がブレイクして、関根勤とか小堺カズキとか、イロイロ。
たしか、「ズートルビー」もじゃあなかったかなぁ ?
TBSの「銀座NOW」です。
そこで歌ってました、♪失恋レストラン♪とか↓
足利工業大学卒だそうで・・・・・・
そういえば、後輩で、足利工業大学へ行っていたやつがいてびっくりしていました。
まあ、「清水健太郎」とかって、本名じゃありませんでしたから。
で、「6回目の逮捕」って、笑っちゃうんですけど・・・・・・
なんでも、「覚醒剤での逮捕は5回目」だそうです。
ホントに「覚醒剤」が、好きなんですねぇ。
で、僕より三つ下ですから、今年57歳ですか、多分身体ボロボロです。
多分・・・・・・
で、
「警察官がJR上野駅中央改札口前を歩いていた清水容疑者に職務質問し」
って、まあ、いきなり「職質」はないわけですから・・・・・・・
当然、通報があって、っていうか芋づる、のもしかして「イモ」かも知れませんけど(笑)。
で、覚醒剤取締法違反「5回目の逮捕」ですから、塀の中の懲りない面々です。
で、芸能界ってアレです。イロイロあります↑
まあ、「可愛がってもらってるんじゃあ」仕方ありません・・・・・・・
憚りながら。
清水健太郎、逮捕は6回目 !!
2010年08月18日
トットのおじちゃん
トットのおじちゃん

昭和37年4月29日・・・・・・・
トットのおじちゃん。
「おまえは橋の下から拾ってきたんだ」
いつも聞き分けのない僕を父も母もからかうようにそう言った・・・・・・
僕は「一人っ子」。あの時代そう言う子供は結構いた。
可笑しなもので両隣が一人っ子なのだ。
そう、両隣とも「橋の下から拾ってきました(笑)。
まだ小学校の二、三年頃だったろうか、よく母の実家、田舎だが夏休みになると両親に連れられていった。
「まっちゃんによく似て色白で可愛い子だね・・・まっちゃん、おやげないね」
実母は満津子という名前だった・・・・・・
母、養母の実家、つまりはお婆ちゃんの家だが、そのころ、おばあちゃんちは村ではただ一軒の万屋を商っていた。
もちろん農業もやっていて、主に、桃、梅を栽培していた。
「今日泊まっていってもいいだろ、冨美子姉ちゃんと寝るんだ」
お婆ちゃんちには10歳と、8歳違いのお姉ちゃんがいた。
冨美子姉ちゃんは桃原、梅原によく僕を連れて行ってくれた。
桃原で採りたての桃を湧き清水に浸しておいて食べる。
なんとも言えない美味しさ「天津」と言ったか・・・・・・・・
今ではその強烈な酸っぱさが故、品種改良され、その美味さを味わうことはできない。
お婆ちゃんちにはその頃、オート三輪があった。
自転車のハンドルのようなのがついた大きなやつだ。
荷台に、桃とか梅をいっぱいに積んで市場まで持って行くのが僕は楽しみだった。
桃原は今の剣崎の桃が丘一帯にあった・・・・・・
僕が8歳くらいのときにはもう冨美子姉ちゃんは18歳になっていたので・・・・・・・
多分、自動車の免許は持っていたんだろう。
っていうか、あの時代は警察に行けばくれたんだとか、昭和32年(笑)。
で、冨美子姉ちゃんの運転で桃原を縦横無尽に走った。
<トットットット・・・・・>
そのオート三輪の排気音が今でも僕の耳に残っている・・・・・・
おばあちゃん血の伯母ちゃん、つまり僕の実母なのだが、そのおばちゃんは、
昭和24年から脊椎カリエスでもう10年から床に臥していた。
つまり僕を産むとすぐに病に臥したまま・・・・・・・・
伯母ちゃんはお婆ちゃんちの奥の部屋でずっと寝たきりだった。
僕ら子どもは移るかもしれないからとその部屋に入れてもらえる事はなかった。
僕の記憶からも、そのおばちゃん、実母に会った記憶がなかった。
おばちゃん、きっと僕の声を聞いてどんなに抱き締めたかったことだろうか・・・・・
僕が小学校4年の時にその時はやってきたのだったが。
<トットットット・・・>
「あっ、トットのおじちゃんだ」
僕の家の前で、トットットット・・・とその音が止る。
トットのおじちゃんが来るといつも柔道の道場に連れて行ってくれる。
おじちゃんは、武徳殿という高崎公園の中にある武道館で柔道を教えていた。
「おじちゃんは強いんだぞ・・・ほらっ、黒帯だ」
僕にはよく分らなかったが、とにかく強いらしかった。
トットのおじちゃんは映画にもよく連れて行ってくれた・・・・・・
トットのおじちゃんと最後に観た映画は「力道山物語」だった。
まだこの街が砂利道だらけで映画館の前には「力道山物語」の幟がはためいていた。
そして、お婆ちゃんが死んだのは僕が小学校3年の時・・・・・・・・
トットのおじちゃんの機嫌がやけに悪かったのを覚えている。
トットのおじちゃんは酒が一滴も飲めない。
そのせいかどうか、昭和32年、73歳で死んだお婆ちゃんの振舞い酒に賑やかな客が気に入らなかったようで、
ほとんど怒った事のないトットのおじちゃんが、おばあちゃんを丸い棺桶に納める時すごい顔をしていた。
きっと・・・トットのおじちゃん、色んな思いがあったのかもしれない。お婆ちゃんに。
「あっちへ行ってろっ !!」
と僕を叱った・・・・・
“そういう時代”
僕には昔のことはよく分からない。大正元年生まれの、子年だ「トットのおじちゃん」は・・・・・・・
お祖父ちゃんは日清、日露戦争へ高崎十五連隊から出兵したと聞いていた。
大正元年。
一体どんな時代だったのだろうか。
欧州の戦争で好況に沸く皇国「日本」。そして昭和に入って「世界恐慌」から、太平洋戦争。
「トットのおじちゃん」
束の間の青春だったのかも知れない。
「トットのおじちゃん」は毎日のように高崎の僕の家にきていた。
<トットットット・・・>
と排気音を鳴らしながら・・・・・・
僕が小学校3年の頃には丸ハンドルの「マツダ」のオート三輪に替えていた。
僕はその「オート三輪」が自慢だった。
当時、昭和32年頃にオート三輪なんて言うのがあるなんて高崎では珍しかったからだ。
「トットのおじちゃん」は僕が学校から帰るのを待ってましたとばかりに・・・・・・・
そのオート三輪に僕を乗せて市場やお得意さんを回った。
「マルヨさんには似てねえな・・・」
「ああっ、オッカア似だからな」
トットのおじちゃんは目配せをするようにいつも小声でそう言った・・・僕に聞こえないように。
ずっと不思議に思っていたが、僕にはそのことが何のことだかはあまり分からなかった。
と言うより、知りたくなかったのかも知れない。
「マルヨさん、今度バナナとモヤシこっちに廻してくんねえかい」
「モヤシはいいが、バナナは統制かかってるしな」
マルヨとは、トットのおじちゃんの市場での屋号、仲買もやっていたのでみんながそう呼んだ。
よくは知らないが戦友とかがこの地域のバナナの権利を持っていて相当いい商売をしていたらしい。
もともとその戦友、今風に言えばベンチャー企業化か、モヤシの製造を始め・・・・・・・・
そのモヤシを作るときの蒸気かなんかで青いバナナを蒸すんだと言っていた。
・・・ホントにそうだったかどうかは分からない、あくまでも僕のおぼろ気な記憶である。
そんなことが昭和34年くらいまで毎日のように続いただろうか。
ある日、母とトットのおじちゃんが喧嘩をしていた。
喧嘩とは言っても兄と妹の口喧嘩のレベルだったんだろうが・・・・・・・
それにトットのおじちゃんは母の小言を全く相手にしていなかった。
何せ10歳も年が離れてる・・・母、38歳、トットのおじちゃん48歳なのだから。
「あんまり・・・この子、連れまわさないでよ。お父ちゃんが最近煩くて」
どうやら、トットのおじちゃんがしょっちゅう僕を何かと言っては連れて歩くのが父には面白くないらしい。
父は、実に生真面目な国鉄の職員・・・ほとんど僕の顔をまともに見たことがない。寝顔ぐらいじゃあないだろうか。
今にして思えば、僕が「なつかなかった」のかも知れない。
その父との思い出は生涯たったの2回・・・・・・
父の兄、叔父が亡くなった時に父の実家、静岡県沼津に行った時。
蒸気機関車で丹名トンネルをくぐって顔を煤で真っ黒にして、それを父が手拭で拭いてくれたり・・・・・・
沼津の海では父の見事な泳ぎっぷりに驚いたこと。
父は最期まで僕にはどことなく遠慮がちだった。
そしてそんな父は、同年代の「トットのおじちゃん」に嫉妬していたのかも知れない。
母と、トットのおじちゃんとの喧嘩。トットのおじちゃんはいつも最後にぼっそっと。
「テメエの子、かわいがっちゃあ悪いか !!???」
そんな時僕はいつもキューッっと胸の奥が痛くなるのを、今でも覚えている。
それにしても、あの時代の人たち・・・・・・・
僕ら世代もそうだったけど、戦災孤児、生き別れ、混血児 etc........
その時代に翻弄されたのは、生まれた時代が悪かったのか。
ソレを思うと今の僕たちは数万倍幸せなはず。
今でも、トットのおじちゃんにも、父にも時々、夢で逢っている。
今度いつ逢えるかな・・・・・・・・
トットのおじちゃん

昭和37年4月29日・・・・・・・
トットのおじちゃん。
「おまえは橋の下から拾ってきたんだ」
いつも聞き分けのない僕を父も母もからかうようにそう言った・・・・・・
僕は「一人っ子」。あの時代そう言う子供は結構いた。
可笑しなもので両隣が一人っ子なのだ。
そう、両隣とも「橋の下から拾ってきました(笑)。
まだ小学校の二、三年頃だったろうか、よく母の実家、田舎だが夏休みになると両親に連れられていった。
「まっちゃんによく似て色白で可愛い子だね・・・まっちゃん、おやげないね」
実母は満津子という名前だった・・・・・・
母、養母の実家、つまりはお婆ちゃんの家だが、そのころ、おばあちゃんちは村ではただ一軒の万屋を商っていた。
もちろん農業もやっていて、主に、桃、梅を栽培していた。
「今日泊まっていってもいいだろ、冨美子姉ちゃんと寝るんだ」
お婆ちゃんちには10歳と、8歳違いのお姉ちゃんがいた。
冨美子姉ちゃんは桃原、梅原によく僕を連れて行ってくれた。
桃原で採りたての桃を湧き清水に浸しておいて食べる。
なんとも言えない美味しさ「天津」と言ったか・・・・・・・・
今ではその強烈な酸っぱさが故、品種改良され、その美味さを味わうことはできない。
お婆ちゃんちにはその頃、オート三輪があった。
自転車のハンドルのようなのがついた大きなやつだ。
荷台に、桃とか梅をいっぱいに積んで市場まで持って行くのが僕は楽しみだった。
桃原は今の剣崎の桃が丘一帯にあった・・・・・・
僕が8歳くらいのときにはもう冨美子姉ちゃんは18歳になっていたので・・・・・・・
多分、自動車の免許は持っていたんだろう。
っていうか、あの時代は警察に行けばくれたんだとか、昭和32年(笑)。
で、冨美子姉ちゃんの運転で桃原を縦横無尽に走った。
<トットットット・・・・・>
そのオート三輪の排気音が今でも僕の耳に残っている・・・・・・
おばあちゃん血の伯母ちゃん、つまり僕の実母なのだが、そのおばちゃんは、
昭和24年から脊椎カリエスでもう10年から床に臥していた。
つまり僕を産むとすぐに病に臥したまま・・・・・・・・
伯母ちゃんはお婆ちゃんちの奥の部屋でずっと寝たきりだった。
僕ら子どもは移るかもしれないからとその部屋に入れてもらえる事はなかった。
僕の記憶からも、そのおばちゃん、実母に会った記憶がなかった。
おばちゃん、きっと僕の声を聞いてどんなに抱き締めたかったことだろうか・・・・・
僕が小学校4年の時にその時はやってきたのだったが。
<トットットット・・・>
「あっ、トットのおじちゃんだ」
僕の家の前で、トットットット・・・とその音が止る。
トットのおじちゃんが来るといつも柔道の道場に連れて行ってくれる。
おじちゃんは、武徳殿という高崎公園の中にある武道館で柔道を教えていた。
「おじちゃんは強いんだぞ・・・ほらっ、黒帯だ」
僕にはよく分らなかったが、とにかく強いらしかった。
トットのおじちゃんは映画にもよく連れて行ってくれた・・・・・・
トットのおじちゃんと最後に観た映画は「力道山物語」だった。
まだこの街が砂利道だらけで映画館の前には「力道山物語」の幟がはためいていた。
そして、お婆ちゃんが死んだのは僕が小学校3年の時・・・・・・・・
トットのおじちゃんの機嫌がやけに悪かったのを覚えている。
トットのおじちゃんは酒が一滴も飲めない。
そのせいかどうか、昭和32年、73歳で死んだお婆ちゃんの振舞い酒に賑やかな客が気に入らなかったようで、
ほとんど怒った事のないトットのおじちゃんが、おばあちゃんを丸い棺桶に納める時すごい顔をしていた。
きっと・・・トットのおじちゃん、色んな思いがあったのかもしれない。お婆ちゃんに。
「あっちへ行ってろっ !!」
と僕を叱った・・・・・
“そういう時代”
僕には昔のことはよく分からない。大正元年生まれの、子年だ「トットのおじちゃん」は・・・・・・・
お祖父ちゃんは日清、日露戦争へ高崎十五連隊から出兵したと聞いていた。
大正元年。
一体どんな時代だったのだろうか。
欧州の戦争で好況に沸く皇国「日本」。そして昭和に入って「世界恐慌」から、太平洋戦争。
「トットのおじちゃん」
束の間の青春だったのかも知れない。
「トットのおじちゃん」は毎日のように高崎の僕の家にきていた。
<トットットット・・・>
と排気音を鳴らしながら・・・・・・
僕が小学校3年の頃には丸ハンドルの「マツダ」のオート三輪に替えていた。
僕はその「オート三輪」が自慢だった。
当時、昭和32年頃にオート三輪なんて言うのがあるなんて高崎では珍しかったからだ。
「トットのおじちゃん」は僕が学校から帰るのを待ってましたとばかりに・・・・・・・
そのオート三輪に僕を乗せて市場やお得意さんを回った。
「マルヨさんには似てねえな・・・」
「ああっ、オッカア似だからな」
トットのおじちゃんは目配せをするようにいつも小声でそう言った・・・僕に聞こえないように。
ずっと不思議に思っていたが、僕にはそのことが何のことだかはあまり分からなかった。
と言うより、知りたくなかったのかも知れない。
「マルヨさん、今度バナナとモヤシこっちに廻してくんねえかい」
「モヤシはいいが、バナナは統制かかってるしな」
マルヨとは、トットのおじちゃんの市場での屋号、仲買もやっていたのでみんながそう呼んだ。
よくは知らないが戦友とかがこの地域のバナナの権利を持っていて相当いい商売をしていたらしい。
もともとその戦友、今風に言えばベンチャー企業化か、モヤシの製造を始め・・・・・・・・
そのモヤシを作るときの蒸気かなんかで青いバナナを蒸すんだと言っていた。
・・・ホントにそうだったかどうかは分からない、あくまでも僕のおぼろ気な記憶である。
そんなことが昭和34年くらいまで毎日のように続いただろうか。
ある日、母とトットのおじちゃんが喧嘩をしていた。
喧嘩とは言っても兄と妹の口喧嘩のレベルだったんだろうが・・・・・・・
それにトットのおじちゃんは母の小言を全く相手にしていなかった。
何せ10歳も年が離れてる・・・母、38歳、トットのおじちゃん48歳なのだから。
「あんまり・・・この子、連れまわさないでよ。お父ちゃんが最近煩くて」
どうやら、トットのおじちゃんがしょっちゅう僕を何かと言っては連れて歩くのが父には面白くないらしい。
父は、実に生真面目な国鉄の職員・・・ほとんど僕の顔をまともに見たことがない。寝顔ぐらいじゃあないだろうか。
今にして思えば、僕が「なつかなかった」のかも知れない。
その父との思い出は生涯たったの2回・・・・・・
父の兄、叔父が亡くなった時に父の実家、静岡県沼津に行った時。
蒸気機関車で丹名トンネルをくぐって顔を煤で真っ黒にして、それを父が手拭で拭いてくれたり・・・・・・
沼津の海では父の見事な泳ぎっぷりに驚いたこと。
父は最期まで僕にはどことなく遠慮がちだった。
そしてそんな父は、同年代の「トットのおじちゃん」に嫉妬していたのかも知れない。
母と、トットのおじちゃんとの喧嘩。トットのおじちゃんはいつも最後にぼっそっと。
「テメエの子、かわいがっちゃあ悪いか !!???」
そんな時僕はいつもキューッっと胸の奥が痛くなるのを、今でも覚えている。
それにしても、あの時代の人たち・・・・・・・
僕ら世代もそうだったけど、戦災孤児、生き別れ、混血児 etc........
その時代に翻弄されたのは、生まれた時代が悪かったのか。
ソレを思うと今の僕たちは数万倍幸せなはず。
今でも、トットのおじちゃんにも、父にも時々、夢で逢っている。
今度いつ逢えるかな・・・・・・・・
トットのおじちゃん