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2010年09月06日
「スローシティ」の提唱。
「スローシティ」の提唱。

「日本版スローシティ」は、イタリアのスローフードに端をを発したスローシティ運動を元に、日本の地域事情をふまえた新しいまちづくりです。つまり、「食文化」だけでなく、地域が誇れるものは何でもいい。地域に眠った資源を市民自ら掘り起こして、市民のライフスタイルにあったまちをつくることが、いま求められています。
◇公共空間を"サードプレイス"にすることによって生まれる「憩いと交流ある空間」
◇そこに暮らす市民だけではなく、来訪者をも交えた「開放型コミュニティ」によるつながり
◇大型SC・チェーン店にはない、「おもてなしの心」が感じられる商店街・裏通り
◇地域スポーツクラブを創設・育成することによって得られる、地域商店街や市民の「一体感」
◇人・もの・景観・建物・文化・風土など、さまざまな地域資源を活用した、「まち物語消費」
中心市街地活性化、地域再生に取り組む方々、自治体・都市計画コンサルタント、商工界などまちづくり関係者必読の一冊です。
都市計画が街を破壊している。
この熱波の中、ひさしぶりに幼い頃を過ごした町の風景を眺めに車を走らせた・・・・・・・
もちろん、その幼いころの僕をチャイルドシートにのせて。
「ほら、ココがオマエのママが通っていた保育園だぞ」
幼いころの僕は目を丸くしてその、なんとも狭いちいちゃな保育所を車窓に顔をこすりつけるようにして眺める。
「実はな、パパもこのお保育園に通ってたんだ」
幼いころの僕は、僕を振り向くと、「キャキャ」と笑った。
幼いころの僕は、今の僕を見て「信じられない」といった風な面持ちで・・・・・・
「嘘だ~っ ??? 」
と、いいながら、また窓の外のその保育園をくいいるように見つめていた。
昭和28年、夏・・・・・・・
そこ「高崎保育所」の前には藤宮の鍛冶屋さんがカーバイトを焚いて真っ赤な鉄の塊を、
「トンテンカ~ン、トンテンカ~ン」
と、叩いて、4、5人の鍛冶職人のオジサンが首に巻いたタオルで額からあふれ出る汗を拭いていた。
その隣はタンス工場。二間ほどのガラス戸に金文字で「藤巻箪笥店」と書かれ・・・・・・
店先には、出来上がったばかりの箪笥が荷車を待っていた。
まだ、自動車なんかはない時代の話、直に、大きな荷車、リヤカーがその箪笥をきっちりと結わえると、
その保育園の前を大川の方へと動き出した。
「藤巻箪笥店」の隣は広瀬さんという棟梁のお宅、玄関は土間になっていて・・・・・・
その壁には所狭しと「大工道具」がかけ並べられていた。
藤巻箪笥店の対面は、その時代どこにでもある風景、縄暖簾の「イッパイ呑み屋」さんだった。
屋号は失念したが、その頃、よく酔っ払いのおじさん同士が喧嘩をしていたのを憶えている。
そのお隣には「鶏屋」さんで、ソコのおじいさんが毎日その軒先で「ニワトリ」をさばいていた・・・・・・
おじいさんは、ニワトリの首を「ギュッ」と掴むとそのまま大きな包丁でその鶏の首をはねる。
ニワトリは叫び声をあげる間もなく「ギャッ」といった擬音のようなモノを瞬間立てて、そのままんま軒につるされた。
どうやら、戦後まだ10年とたたないその時代、食糧難といえば食糧難だったんだろう、
豚肉とか牛肉なんて売っている時代ではなかったから、ニワトリの肉は貴重な「動物蛋白源」。
その時代ケッコウ繁盛していて、毎日のようにその鶏屋のおじいさんちの軒先には・・・・・・・・
数羽の、無残な姿にさらされたニワトリがぶら下がっていた。
その鶏屋さんのお隣が「持田鮮魚店」、夕方になると溢れんばかりのお客さんで繁盛していた。
そうだ、「パチンコ屋」があった。その持田鮮魚店のまん前(笑)。
まあ、たしか「パチンコ」だったと思うが、その後、スマートボール屋になっていたのは良く憶えている。
そのお隣が、「有間米穀店」、未だ、その時代は米はようやく配給制から、「米穀通帳」による統制販売に変わったばかりで、
その店先には米俵や、燃料の「ケンタ」(薪)が所狭しと山のように積み上げられていた。
そしてその「有間米穀店」の対面には下駄屋を商う永井さんと看板屋を商う山盛さん・・・・・・・
僕が小学校に入るころになると、並んで、競うようにして駄菓子屋を商い始めた。長井さんの方は「お好み焼き」も。
で、「有間米穀店」のお隣が「山田畳店」、「宮崎旗店」、町内は違ったが「中村パン店」、
そして防空壕のあった「八百屋さん」、「ミシン屋さん」、「製麺工場」等々・・・・・・・
わずか50メートルほどの距離になんと商店が十数軒の、まあおおよその生活必需品がそろう、商店街がそこにはあった。
ソレが今では、ソコにあるのは「有間米穀店」と「山田畳店」だけ。
それどころか、そこにあった家々も全て更地、駐車場に、当然「人」もいつのまにか消えていた。
「都市再開発計画」の一環だとか・・・・・・
戦後から長くそこに暮らす住民を立ち退かせて道路を造るとか、高層マンションの住宅団地を作るとか。
結果、僕ら、ソコの住人は「立ち退き」、この10年ソコソコでその町、横丁の姿、形は一変してしまった。
それは、そこ、高砂町下の一角だけではない。高崎の街中、横丁のいたる所がそのように変容している・・・・・・・
中心市街地の商業ゾーンは壊滅、コインパーキングがそこいら中に。
今ごろ“駐車場”が増えても利用者はほとんどいない。
昭和60年代まであった、中心市街地商業ゾーンへの居住環境は都市計画の名のもとに超高齢化が進み、
子どもたちの遊ぶ姿がまったく見えなくなったなんとも異様な様相さえ呈している。
時代が進むということはそういうことなのか・・・・・・・
つまり「街が消える」ということなのか。
いつの間にか、チャイルドシートの幼いころの僕は小さな寝息を立てていた。
この、「幼いころの僕」が、今の僕くらいになった頃、この高崎の街は一体どんな街になっているんだろうか。
ソレは55年後の高崎。2065年の高崎。
いったいどんな街になっているんだろうか、2065年の高崎。
2055年の高崎、2055年5月5日(土)そのとき僕はいない・・・・・・・
「スローシティ」の提唱。

「日本版スローシティ」は、イタリアのスローフードに端をを発したスローシティ運動を元に、日本の地域事情をふまえた新しいまちづくりです。つまり、「食文化」だけでなく、地域が誇れるものは何でもいい。地域に眠った資源を市民自ら掘り起こして、市民のライフスタイルにあったまちをつくることが、いま求められています。
◇公共空間を"サードプレイス"にすることによって生まれる「憩いと交流ある空間」
◇そこに暮らす市民だけではなく、来訪者をも交えた「開放型コミュニティ」によるつながり
◇大型SC・チェーン店にはない、「おもてなしの心」が感じられる商店街・裏通り
◇地域スポーツクラブを創設・育成することによって得られる、地域商店街や市民の「一体感」
◇人・もの・景観・建物・文化・風土など、さまざまな地域資源を活用した、「まち物語消費」
中心市街地活性化、地域再生に取り組む方々、自治体・都市計画コンサルタント、商工界などまちづくり関係者必読の一冊です。
都市計画が街を破壊している。
この熱波の中、ひさしぶりに幼い頃を過ごした町の風景を眺めに車を走らせた・・・・・・・
もちろん、その幼いころの僕をチャイルドシートにのせて。
「ほら、ココがオマエのママが通っていた保育園だぞ」
幼いころの僕は目を丸くしてその、なんとも狭いちいちゃな保育所を車窓に顔をこすりつけるようにして眺める。
「実はな、パパもこのお保育園に通ってたんだ」
幼いころの僕は、僕を振り向くと、「キャキャ」と笑った。
幼いころの僕は、今の僕を見て「信じられない」といった風な面持ちで・・・・・・
「嘘だ~っ ??? 」
と、いいながら、また窓の外のその保育園をくいいるように見つめていた。
昭和28年、夏・・・・・・・
そこ「高崎保育所」の前には藤宮の鍛冶屋さんがカーバイトを焚いて真っ赤な鉄の塊を、
「トンテンカ~ン、トンテンカ~ン」
と、叩いて、4、5人の鍛冶職人のオジサンが首に巻いたタオルで額からあふれ出る汗を拭いていた。
その隣はタンス工場。二間ほどのガラス戸に金文字で「藤巻箪笥店」と書かれ・・・・・・
店先には、出来上がったばかりの箪笥が荷車を待っていた。
まだ、自動車なんかはない時代の話、直に、大きな荷車、リヤカーがその箪笥をきっちりと結わえると、
その保育園の前を大川の方へと動き出した。
「藤巻箪笥店」の隣は広瀬さんという棟梁のお宅、玄関は土間になっていて・・・・・・
その壁には所狭しと「大工道具」がかけ並べられていた。
藤巻箪笥店の対面は、その時代どこにでもある風景、縄暖簾の「イッパイ呑み屋」さんだった。
屋号は失念したが、その頃、よく酔っ払いのおじさん同士が喧嘩をしていたのを憶えている。
そのお隣には「鶏屋」さんで、ソコのおじいさんが毎日その軒先で「ニワトリ」をさばいていた・・・・・・
おじいさんは、ニワトリの首を「ギュッ」と掴むとそのまま大きな包丁でその鶏の首をはねる。
ニワトリは叫び声をあげる間もなく「ギャッ」といった擬音のようなモノを瞬間立てて、そのままんま軒につるされた。
どうやら、戦後まだ10年とたたないその時代、食糧難といえば食糧難だったんだろう、
豚肉とか牛肉なんて売っている時代ではなかったから、ニワトリの肉は貴重な「動物蛋白源」。
その時代ケッコウ繁盛していて、毎日のようにその鶏屋のおじいさんちの軒先には・・・・・・・・
数羽の、無残な姿にさらされたニワトリがぶら下がっていた。
その鶏屋さんのお隣が「持田鮮魚店」、夕方になると溢れんばかりのお客さんで繁盛していた。
そうだ、「パチンコ屋」があった。その持田鮮魚店のまん前(笑)。
まあ、たしか「パチンコ」だったと思うが、その後、スマートボール屋になっていたのは良く憶えている。
そのお隣が、「有間米穀店」、未だ、その時代は米はようやく配給制から、「米穀通帳」による統制販売に変わったばかりで、
その店先には米俵や、燃料の「ケンタ」(薪)が所狭しと山のように積み上げられていた。
そしてその「有間米穀店」の対面には下駄屋を商う永井さんと看板屋を商う山盛さん・・・・・・・
僕が小学校に入るころになると、並んで、競うようにして駄菓子屋を商い始めた。長井さんの方は「お好み焼き」も。
で、「有間米穀店」のお隣が「山田畳店」、「宮崎旗店」、町内は違ったが「中村パン店」、
そして防空壕のあった「八百屋さん」、「ミシン屋さん」、「製麺工場」等々・・・・・・・
わずか50メートルほどの距離になんと商店が十数軒の、まあおおよその生活必需品がそろう、商店街がそこにはあった。
ソレが今では、ソコにあるのは「有間米穀店」と「山田畳店」だけ。
それどころか、そこにあった家々も全て更地、駐車場に、当然「人」もいつのまにか消えていた。
「都市再開発計画」の一環だとか・・・・・・
戦後から長くそこに暮らす住民を立ち退かせて道路を造るとか、高層マンションの住宅団地を作るとか。
結果、僕ら、ソコの住人は「立ち退き」、この10年ソコソコでその町、横丁の姿、形は一変してしまった。
それは、そこ、高砂町下の一角だけではない。高崎の街中、横丁のいたる所がそのように変容している・・・・・・・
中心市街地の商業ゾーンは壊滅、コインパーキングがそこいら中に。
今ごろ“駐車場”が増えても利用者はほとんどいない。
昭和60年代まであった、中心市街地商業ゾーンへの居住環境は都市計画の名のもとに超高齢化が進み、
子どもたちの遊ぶ姿がまったく見えなくなったなんとも異様な様相さえ呈している。
時代が進むということはそういうことなのか・・・・・・・
つまり「街が消える」ということなのか。
いつの間にか、チャイルドシートの幼いころの僕は小さな寝息を立てていた。
この、「幼いころの僕」が、今の僕くらいになった頃、この高崎の街は一体どんな街になっているんだろうか。
ソレは55年後の高崎。2065年の高崎。
いったいどんな街になっているんだろうか、2065年の高崎。
2055年の高崎、2055年5月5日(土)そのとき僕はいない・・・・・・・
「スローシティ」の提唱。
2010年09月06日
ジョー山中さん宅全焼!!
ジョー山中さん宅全焼!!

ジョー山中さんといえば「人間の証明」です・・・・・・
ジョー山中さん宅全焼=バーベキューの火不始末か―神奈川県警
時事通信 9月6日(月)11時22分配信
6日午前5時半ごろ、神奈川県鎌倉市山ノ内の歌手で俳優のジョー山中(本名・山中明)さん(64)宅から出火、木造平屋約100平方メートルを全焼し、同6時半ごろ鎮火した。
山中さん宅では5日夜、友人を招いてバーベキューをしていたといい、県警大船署は火の不始末が原因の可能性もあるとみて調べている。
同署によると、部屋が焦げ臭いのに妻(36)が気付き、外壁の一部から火が上がっていたため、近くの民家から119番した。家には山中さんと妻のほか子ども2人がいたが、全員逃げて無事だった。
山中さんは、1977年に公開された映画「人間の証明」のテーマ曲を手掛け、出演もした。今年3月に肺がんで闘病中であることを明らかにした。
先日、吉野さんのライブの後、吉野さんの元マネージャーを交えて打上げ。
そう、吉野さん「吉野大作」さんは高崎出身っていうか吉井町の出身なんだけど・・・・・・
1970年代から横浜をベースにオリジナルのブルース、ロックをやっているミュージシャン。
まあ、僕より2つ年下だから、でももうすぐ還暦だけどバリバリのロックンローラ。
まあ、変わり種っていえば変わり種で、もう一つの顔は、某有名進学塾の漢文講師とか。
で、アルバムも16枚ほどリリースしている、本物です・・・・・・
吉野大作
で、ライブが終わって、呑み始めて、その元マネージャー横浜出身・・・・・・・
「それにしても、ゴールデンカップはコワかったよねぇ!!」
っていう話になっちゃって、ダウタウンブギウギの和田さんの話とか・・・・・・
で、その和田さん、高校生時代からものすっごい不良だったとか、まあ、その吉野さんの元マネージャー同級生とか。
ゴールデンカップスの「故、デイヴ・平尾」さんの英語がムチャクチャだったとか。
で、あの時代の「ゴールデンカップ」っていえば不良の巣窟。
で、コワいっていえば、「ジョー・山中さん」で・・・・・・
で、そういう所に目を付けた東京のプロダクションとか、まあ、スパーダーズとかだったとかだけど、
最初は、「スパイダーズ」も門前払いだったとか(笑)。
まあ、今は時代もすっかり変わっちゃって、みんないろいろあって、でも現役でバリバリなのが・・・・・・
「吉野大作」でした。っていう話になっちゃって、
そういえば、「ジョー山中さんって肺ガンなんだよねぇ」っていう話。
そしたら、「ディヴ・平尾さんもガン、食道がんだったんだよね」とかのお話・・・・・・
そしたら、吉野さん、
「塩次さんも逝っちゃったしね」
塩次さん。元ウエストロードブルースバンドのギタリストで、日本のブルースギターの大御所、第一人者。
僕も、塩次さんのライブを企画したり、「ブルースキャラバン」をやったり。
一番最後のライブが高崎文化センターでやった2005年。それ以降お会いすることもなかったけど、残念・・・・・・
で、吉野さん月一くらいで横浜のどこかのライブハウスでギグとか。
で、元・ゴールデンカップスのルイズルイス・加部さんとは未だにセッションするとか。
塩次さん、酒を飲むわけでもなく、ギター一筋みたいな人だったけど・・・・・・
ジョー山中さん宅全焼!!

ジョー山中さんといえば「人間の証明」です・・・・・・
ジョー山中さん宅全焼=バーベキューの火不始末か―神奈川県警
時事通信 9月6日(月)11時22分配信
6日午前5時半ごろ、神奈川県鎌倉市山ノ内の歌手で俳優のジョー山中(本名・山中明)さん(64)宅から出火、木造平屋約100平方メートルを全焼し、同6時半ごろ鎮火した。
山中さん宅では5日夜、友人を招いてバーベキューをしていたといい、県警大船署は火の不始末が原因の可能性もあるとみて調べている。
同署によると、部屋が焦げ臭いのに妻(36)が気付き、外壁の一部から火が上がっていたため、近くの民家から119番した。家には山中さんと妻のほか子ども2人がいたが、全員逃げて無事だった。
山中さんは、1977年に公開された映画「人間の証明」のテーマ曲を手掛け、出演もした。今年3月に肺がんで闘病中であることを明らかにした。
先日、吉野さんのライブの後、吉野さんの元マネージャーを交えて打上げ。
そう、吉野さん「吉野大作」さんは高崎出身っていうか吉井町の出身なんだけど・・・・・・
1970年代から横浜をベースにオリジナルのブルース、ロックをやっているミュージシャン。
まあ、僕より2つ年下だから、でももうすぐ還暦だけどバリバリのロックンローラ。
まあ、変わり種っていえば変わり種で、もう一つの顔は、某有名進学塾の漢文講師とか。
で、アルバムも16枚ほどリリースしている、本物です・・・・・・
吉野大作
で、ライブが終わって、呑み始めて、その元マネージャー横浜出身・・・・・・・
「それにしても、ゴールデンカップはコワかったよねぇ!!」
っていう話になっちゃって、ダウタウンブギウギの和田さんの話とか・・・・・・
で、その和田さん、高校生時代からものすっごい不良だったとか、まあ、その吉野さんの元マネージャー同級生とか。
ゴールデンカップスの「故、デイヴ・平尾」さんの英語がムチャクチャだったとか。
で、あの時代の「ゴールデンカップ」っていえば不良の巣窟。
で、コワいっていえば、「ジョー・山中さん」で・・・・・・
で、そういう所に目を付けた東京のプロダクションとか、まあ、スパーダーズとかだったとかだけど、
最初は、「スパイダーズ」も門前払いだったとか(笑)。
まあ、今は時代もすっかり変わっちゃって、みんないろいろあって、でも現役でバリバリなのが・・・・・・
「吉野大作」でした。っていう話になっちゃって、
そういえば、「ジョー山中さんって肺ガンなんだよねぇ」っていう話。
そしたら、「ディヴ・平尾さんもガン、食道がんだったんだよね」とかのお話・・・・・・
そしたら、吉野さん、
「塩次さんも逝っちゃったしね」
塩次さん。元ウエストロードブルースバンドのギタリストで、日本のブルースギターの大御所、第一人者。
僕も、塩次さんのライブを企画したり、「ブルースキャラバン」をやったり。
一番最後のライブが高崎文化センターでやった2005年。それ以降お会いすることもなかったけど、残念・・・・・・
で、吉野さん月一くらいで横浜のどこかのライブハウスでギグとか。
で、元・ゴールデンカップスのルイズルイス・加部さんとは未だにセッションするとか。
塩次さん、酒を飲むわけでもなく、ギター一筋みたいな人だったけど・・・・・・
ジョー山中さん宅全焼!!