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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーション  at 

2009年11月14日

平岡都さん「猟奇殺人事件」

平岡都さん「猟奇殺人事件」




島根・女子大学生遺体事件 見つかった遺体には内臓の大部分がなかったことが判明

 島根・浜田市の女子大学生の遺体が切断されて発見された事件で、遺体発見から13日で1週間たつが、衝撃の事実がまた1つ明らかになった。
広島県の臥龍山で発見された平岡 都さん(19)の切断遺体には、腹部に刃物で切られた跡があり、犯人が意図的に取り出したのか、内臓の大部分がなかったことがわかった。
さらに胴体部分は、全体的に黒ずみ、たき火などで焼かれた形跡があることが判明した。
元東京都監察医務院長の上野正彦氏は「胴体部分だけっていうと、おそらく性的いたずらをした証拠を隠すための焼却かなと思いますけれども、珍しいと思います」と話した。
警察は、13日から機動隊の応援を受け、捜索活動を最大の400人態勢に拡大する方針。

(11/13 00:17 山陰中央テレビ)


常人の想像を超えた事件だ・・・・・・
まさに「切り刻む」といった殺人事件。



【神隠し殺人初公判(1)】動機は「性奴隷にしたかった」 交際経験ない被告(10:00~10:15) (1/3ページ)
産経ニュース2009.1.13 11:08

 初公判に臨んだ星島貴徳被告=1月13日午前、東京地裁 (イラスト・今泉有美子) 《東京都江東区のマンションで、2軒隣に住む会社員の東城瑠理香さん=当時(23)=を殺害して遺体をバラバラにし、トイレに流すなどしたとして、殺人、死体損壊、死体遺棄などの罪に問われた派遣社員、星島貴徳被告(34)に対する初公判が13日午前10時、東京地裁104号法廷で始まった》
 《東城さんの失踪(しっそう)が発覚したのは昨年4月18日。星島被告が東城さん方への住居侵入容疑で逮捕されたのは37日後の5月25日だった。ショッキングな遺体処理方法や、身近に犯人がいたこと、逮捕されるまで星島被告が平然と報道機関の取材に応じていたことなどが分かり、事件は社会に大きな衝撃を与えた。星島被告は逮捕直後の取り調べ段階では「捕まりたくない一心で、存在を消すため殺した」と供述していたとされるが、法廷でどのような犯行状況や心理を明かすのだろうか》


まあ、東京江東区でのバラバラ殺人事件も遺体損壊、バラバラにして「トイレに流す」というまさに狂気・・・・・
人間がそこまでやるんだろうかといった異常な事件だったが、今回の平岡都さんの事件もそこに共通するモノが見える。
平岡都さん、まだ入学して半年余りでの悲劇だが、当然、その半年余りでの交友関係で、そこまでされるほどの恨みを買うとも思えない。
ソレがなぜ、このような事件に巻き込まれる羽目になったのか、あまりにもなぞだらけの事件ではないか・・・・・・

島根、浜田市にはそれほど異常な鬼畜な人間が潜んでいたのかとただ怒りを覚えるばかりだ。
「土地勘」、つまり、その遺体遺棄現場の地域を熟知した者の犯行とかしか思えない。ということはその異常な犯人はすぐそばにいるのかも知れない、日常を、何食わぬ顔をして。
当然、犯人は遺体遺棄現場まで数度は自動車で足を運んでいるだろうから、警察はタイヤ痕など相当な確証を得ているに違いない・・・・・





東京江東区の猟奇殺人事件の犯人「星島貴徳(34歳)」もなにくわぬ顔でTVインタビューに答えていた。
おそらく、その平岡都さんに手をかけた犯人も、常人を装って聞き込みに応じてるかも知れない・・・・・・


平岡さんの帰宅経路に不審車両 島根の女子大生遺棄
北海道新聞(11/12 10:47)

 広島県北広島町の臥竜山で島根県立大1年平岡都さん(19)=島根県浜田市=の遺体の一部が見つかった事件で、平岡さんのアルバイト先から学生寮への帰宅ルート上を猛スピードで走る不審な車を、住民男性がたびたび目撃していたことが12日、分かった。平岡さんが失跡した10月26日以降は見かけなくなったという。

 犯行には車を使った可能性が高く、島根、広島両県警の合同捜査本部もこの情報を把握。周辺でさらに目撃がないか調べ、遺棄現場に向かう国道に設置された自動車ナンバー自動読み取り装置(Nシステム)の分析などと合わせ、不審車両の絞り込みを進める。
 


こんな事件が頻発する。
カネがらみの連続殺人(?)とかも・・・・・・
社会が壊れているのだろうか!??
  


Posted by 昭和24歳  at 17:09Comments(5)

2009年11月14日

お富さん

♪お富さん♪ 





チトン、チントシャン♪

柳川町の細道に入ったら、すごく粋な佇まいの家を見つけた。(写真クリックで拡大)

いつ頃建てた家だろうか、板塀に漆喰壁、軒には吊り灯篭、小ぢんまりとしながら趣きがある。
今にも中から、鴨長明でも現れそうな雰囲気である。

立っている看板には、「表千家 茶道」、「琴 三味線」とある。
「なーるほどー、だからかー」と一人で納得した。

何しろここは高崎の花柳界、柳川町。
昔は芸者衆が、「置屋(おきや)」さん(今で言えば「タレント事務所」)に籍を置いて、お座敷が掛かるのを待っていた。
昼間はお座敷がないので、三味線や踊りの稽古をしていた。
「置屋」さんの前を通ると、チトン、チントシャン♪と三味線の音がしたりして、子ども心にも「いいなぁー」と思ったりした。

そう言えば、「置屋」さんの前には、いつも「輪タク(りんたく)」が停まってたっけ・・・・・・・




ご存じ、迷道院高崎さん「隠居の思ひつ記 」の一節である。

そうでしたね。おとみさんの作詞は高崎出身の「山崎正」さんだとか・・・・・・

♪粋な黒塀見越しの松♪といえば僕は当時の高崎の奥座敷「宇喜代」、今のビューホテルのところですが、それを思い出します。
まあ、その「宇喜代」といえば高崎の政財界の重鎮の社交場だったとかは遠い昔のお話ですけど・・・・・
その意味では、その「宇喜代」の佇まい、趣は地方重要文化財級の代物ではなかったかと、今思い起こせば。

見事な支柱の門構えに、黒塀から突き出た松(だったと思います)に大きな提灯に「宇喜代」と・・・・・
たしか、二、三度、コワイ面々のお仕事(宴会)でお座敷というか、膝をガクガクさせながらお呼ばれされた覚えがあります(笑)。
僕はもっぱら、
その辻向かいの「中熊」の、建てつけの具合のヨロシクない格子戸をくぐるのが日常でしたけど・・・・・・

お座敷といえば、アレは21の頃でした。
柳川町というかたしか中紺屋町でしたか、どうもアノ辺りは町内が狭いので何処から何処までが中紺屋だか新紺屋だか、はたまた元紺屋だかさっぱりですけど・・・・・
お堀端、太鼓橋辺りのところの向かいの路地を入ったところは当時、お座敷つきの小料理屋が数軒行燈を並べてました。
そんな小料理屋の一軒にとある青年実業家のお誘いで上がらせてもらったのですが・・・・・
まあ、竜宮城でしたね(笑)。まあ、21です。その青年実業家と、その青年実業家とご入魂とかの市議会議員の先生とお座敷です。
まっ、「宇喜代」じゃあありませんので、三味や太鼓っていうわけにはいきませんでしたけど、ハッキリ言って三十路過ぎのお姐さんが3名。つまり酌婦っていうんでしょうか、芸者じゃありません・・・・・
まあ、今風に言うなら、スナックの派遣女給さん、女給さんとも言いませんね、ホステスさんでしょうか。そんなお姐さんが痒い所に手が届くようなおもてなしです。
酔いも回ってしばらくすると、いわゆる「流しのお兄さん」のお出まし。当時はカラオケなんていう猪口才な機械はありませんでしたので、「飲んで歌う」そんな時は「流しのお兄さん」でしたね・・・・・・
そういえば、当時はっていうか、最近まで、って言っても昭和60年頃まででしたか「新内流し」のお兄さんが、♪チトン、チントシャン♪とかやってました。


新内じゃあないですけど、かなり渋い笑いを誘います柳家紫文師匠。
なんと、高崎出身なんですね・・・・・・




柳家紫文:群馬県高崎市出身(高崎高高卒)


で、流しのお兄さんの一興も終わってさてという話になって・・・・・・・
あったんですね、さらに奥座敷。奥座敷とはいっても川向うでして、その川向うで、お姐さんをお持ち帰りして「呑み直し」です。
なんたって、21でしたから、そりゃあ、コワいもん見たさっていうか、興味津々ていうかなんというか・・・・・・
そこから先は「大人のお話」っていうことでご容赦を。
前橋にもあるんですね。前橋の奥座敷っていうか「裏座敷」。それは「4畳半襖の張り替え」みいたいな話ですけど。
19の時「四畳半」ですからマセていたんでしょうか。奥手だったんですけど・・・・・

すみません。迷道院高崎さんのせっかくの高尚なお話から下世話話になっちゃいまして(汗)。
しかし考えてみれば、昭和40年代、世の中の隅々まで「オアシ」が回るような仕組みがあったんですね・・・・・・
僕の先輩の「流しのお兄さん」なんて、流しで豪邸(?)建てちゃってますから。まあ、アノレベルの流しになると、流しません。
お座敷専門ていうか、高級バー、高級クラブからお呼び出しがかかって馴染みの専属でしたから。

そういえば、「流しの玉ちゃん」どうしているでしょうか・・・・・・
つい最近まで、身の丈もあるほどのギターを背負って、っていうか「玉ちゃん」極めて小粒でしたので、暗闇だとギターが歩いているような、なんともいえない不思議な趣でした。
お元気なら、御年80には手が届いているのでは、っていうことは70代でも流していたんですね柳川町、成田町界隈を・・・・・



「隠居の思ひつ記」より・・・・・・  


Posted by 昭和24歳  at 15:38Comments(4)

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