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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーション  at 

2010年07月23日

石井好子逝く・・・・・

石井好子逝く・・・・・



“日本のシャンソン”は,いまやフランス生まれのオリジナルとは別の魅力を持つものになった。何人もの名シンガーたちが多くの時間をかけて作り上げてきたその“うた”の第一人者。それが石井妙子である。50年代のはじめからパリで歌い出した彼女のキャリアはすでに半世紀近く。またその一方には,60年代からのシャンソン・プロデューサーの横顔もある。90年にはシャンソンの殿堂パリ・オランピア劇場でもメイン・シンガーも経験。まさに“日本のシャンソン”とは彼女の存在ともいえる。実に9年ぶりのスタジオ録音となるこのアルバムからは,そんな彼女の圧倒的な存在感がひしひしと伝わってくる。長年歌い続ける数々の持ち歌での堂々とした歌いっぷりもさることながら,新井栄一や青木裕史とのデュエットで聴かせる新しい魅力もなかなか。同じく収録された山本学の朗読「妙子よ」のごとく,実はこの一枚はそんな彼女自身へのオマージュなのかもしれない。 (佐藤篁之) --- 1999年05月号






石井好子さん逝く 美川憲一らが明かす素顔 
2010.07.22 zakzak

 日本を代表するシャンソン歌手、石井好子(いしい・よしこ)さんが17日、肝不全のため87歳で死去した。ジャズ歌手から転向し、日本シャンソン界の第一人者となり、後進の指導にも力を入れた石井さんを慕う歌手たちが、素顔を明かした。

 東京生まれの石井さんは、自民党衆院議員で衆院議長も務めた父、光次郎氏の反対を押し切って歌手の道へ。戦後まもなくジャズ歌手としてデビューした。

 「彼女が米軍のクラブやキャンプでジャズを歌いだしたころ、私はまだ青山学院の高校生。ラジオから流れる好子さんの歌声に憧れを持ちながらいつも聴いてました」

 親交の深かった歌手、ペギー葉山(76)はそう振り返る。

 石井さんは1950年、ジャズの本場・米国に留学。2年後、2週間の予定で渡ったフランスでシャンソンに出会って6年間移住し、シャンソン歌手に転向した。

 帰国後、63年からシャンソンの祭典「パリ祭」をプロデュース。90年には日本人で初めてシャンソンの殿堂、パリのオランピア劇場の舞台を踏んだ。一方で、石井音楽事務所を設立し、故岸洋子さん、加藤登紀子(66)らを育てた。



昔ですけど・・・・・・

ときどきTVの歌謡コンテスト番組なんかの審査員なんかをやっておられました。

まあ、チョット怖そうなオバサンっていう趣でしたけど、

加藤登紀子とかを育てたって、タダもんじゃありませんでしたね。

どんなふうにタダもんじゃあないかっていうと・・・・・・

まず、お父さんが自民党衆議院議員で、衆議院議長だった、石井光次郎さん。

で、叔父に東急の五島昇さんとか、大隈重信がどうしたとか。

まあ、その意味では華麗なる一族ってえとこでしょうか。

ハッキリ言ってなんでもありの世界、雲の上の世界ですので・・・・・・

石井好子さんのシャンソンとかって、いいのかどうかよくわかりません(笑)。

シャンソンそのものがいいのかどうなのかもですから。

石井好子逝く・・・・・  


Posted by 昭和24歳  at 08:39Comments(0)

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