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2010年07月03日
新宿ACB
新宿ACB

内田裕也さんですけど・・・・・・
当時は、寺内タケシとブルージーンズをバックに歌ってました。
新宿駅南口の跨線橋、甲州街道を明治通り方面に下る。
突き当たりは当時はナントカ言うお寺で明治通りで行き止まりだった。
“新宿アシベ”はその新宿よりカドの松井ビルの地下にあった。
僕がよく従兄弟に連れて行ってもらったのは昭和35年ころ・・・・・
弘田ミエ子とか中尾ミエとか伊藤ゆかりが伊藤敏道とリリオリズムエアーズなんかをバックに歌っていた。
そうそう、尾藤イサオがブルーコメッツをバックに、内田裕也がブルージーンズをバックに・・・・・
伊藤ゆかりといえば、僕は“夢見る想い”が好きだった。
オリジナルはイタリアの『ジリオラ・チンクェッティ』。僕より2歳年上・・・・・
たしか伊藤ゆかりも。
1964年のジリオラ・チンクェッティ
僕が東京を離れるころ新宿高島屋“タイムズスクェア”がオープンした。
毎日のように目白から新宿、渋谷と営業しながらそんな時代の様変わりになんとなく溜め息をついていた。
と言うのも、キディランドの並びにあった原宿のK楽器青山店が閉店・・・・・
そして次々にエレキ専門店がエレキ量販店に変貌するそんな時代。
でも“新宿アシベ”は半世紀も前のその姿をそこに留める。
最後に見に行ったのが昭和43年だったか、“ゴールデンカップス”のプログラムだった。
『長い髪の少女』がヒットする寸前だったと思う。キーボードにミッキー吉野が加わり、
その時代では珍しいサウンドを聴かせるグループサウンズだった。
その時のベース、ルイズルイス加部さんが僕の知り合いと未だ横浜でバンド活動をしていると言うから驚きだが、
あの時代のバンドにしては抜群のテクニックをもっていた。
東京でバンドマン修業に入ったころその“新宿アシベ”は歌舞伎町の方に移転していた。
半年ほど加わったバンドのリードギターがそのアシベの近くの“レコーディング・スタジオ”でアルバイトしていたので、
時々はその新しい“アシベ”にも何度か見に行った。
しかし人生って早い。
エレキ小僧の時代が10代、バンドマンの時代が20代、エレキ作りの時代30代~40代・・・・・・
そして今の俺って?
結局、エレキ以外ない人生。
気づいたら子どもたちがその僕の20代、30代を生きている。
さっき、優の次女と長男を保育園に送ってきた・・・・・
その長男、昨夜どうしても“りょうネエ”んちへ行くと泣いてきかなかいとかで9時ころに電話。
優が連れてきて帰ろうと言ってもぐずって帰らない。
優が怒って・・・・・
「りょうネエんちへおいてくよっ!」
っていったら、
「いいもんだぁ!」
とにかく、優にとっては初めて息子を手放して寝る夜。
「ほんとに泊まれるかな?」
「いいよ、泣き出したらつれてくから」
と僕が言うと、
優の方が寂しそうに、後ろ髪をひかれるようにして帰っていった。
息子はりょうとゲームに、といってもゲームができるわけじゃあないんだけど夢中になりながら・・・・・・
いつもながら寝息を立てていた。
今朝、優が保育園のカバンと着替えを持って次女を連れてやってきた・・・・・
「泊まれたの!すごいな太一は!!・・・・・
ママ寂しかったけど・・・・・太一は?」
「楽しかったよ、りょうネエとねんねして」
思わぬところでのわが息子の成長に戸惑い気味の優・・・・・・
そんな経験を30年前に僕たちがしたことを優は知る由もなかった(笑)。
どこまでも平和な庶民・・・・・・
今、わが娘たちこの曲にはまってます(笑)。
しかし、ニール・セダカ、若いですね!!
1939年生まれだから僕より10歳年上・・・・・・
さすが年のせいか?
歌いだしの部分、“ハイE”がでなくて“ハイC”で!
で、昔のオリジナルです↓
子どもってすごいですね、歌詞を耳でなぞって歌ってる。
しかもメロディーまでしっかり・・・・・
で、コレも↓
因みに幼少のころの僕がそうだったそうです(笑)。
三橋美智也とか春日八郎を・・・・・・
年とともに耳コピは衰えてます。
今は譜面がないと全くダメで(汗)。
新宿ACB

内田裕也さんですけど・・・・・・
当時は、寺内タケシとブルージーンズをバックに歌ってました。
新宿駅南口の跨線橋、甲州街道を明治通り方面に下る。
突き当たりは当時はナントカ言うお寺で明治通りで行き止まりだった。
“新宿アシベ”はその新宿よりカドの松井ビルの地下にあった。
僕がよく従兄弟に連れて行ってもらったのは昭和35年ころ・・・・・
弘田ミエ子とか中尾ミエとか伊藤ゆかりが伊藤敏道とリリオリズムエアーズなんかをバックに歌っていた。
そうそう、尾藤イサオがブルーコメッツをバックに、内田裕也がブルージーンズをバックに・・・・・
伊藤ゆかりといえば、僕は“夢見る想い”が好きだった。
オリジナルはイタリアの『ジリオラ・チンクェッティ』。僕より2歳年上・・・・・
たしか伊藤ゆかりも。
1964年のジリオラ・チンクェッティ
僕が東京を離れるころ新宿高島屋“タイムズスクェア”がオープンした。
毎日のように目白から新宿、渋谷と営業しながらそんな時代の様変わりになんとなく溜め息をついていた。
と言うのも、キディランドの並びにあった原宿のK楽器青山店が閉店・・・・・
そして次々にエレキ専門店がエレキ量販店に変貌するそんな時代。
でも“新宿アシベ”は半世紀も前のその姿をそこに留める。
最後に見に行ったのが昭和43年だったか、“ゴールデンカップス”のプログラムだった。
『長い髪の少女』がヒットする寸前だったと思う。キーボードにミッキー吉野が加わり、
その時代では珍しいサウンドを聴かせるグループサウンズだった。
その時のベース、ルイズルイス加部さんが僕の知り合いと未だ横浜でバンド活動をしていると言うから驚きだが、
あの時代のバンドにしては抜群のテクニックをもっていた。
東京でバンドマン修業に入ったころその“新宿アシベ”は歌舞伎町の方に移転していた。
半年ほど加わったバンドのリードギターがそのアシベの近くの“レコーディング・スタジオ”でアルバイトしていたので、
時々はその新しい“アシベ”にも何度か見に行った。
しかし人生って早い。
エレキ小僧の時代が10代、バンドマンの時代が20代、エレキ作りの時代30代~40代・・・・・・
そして今の俺って?
結局、エレキ以外ない人生。
気づいたら子どもたちがその僕の20代、30代を生きている。
さっき、優の次女と長男を保育園に送ってきた・・・・・
その長男、昨夜どうしても“りょうネエ”んちへ行くと泣いてきかなかいとかで9時ころに電話。
優が連れてきて帰ろうと言ってもぐずって帰らない。
優が怒って・・・・・
「りょうネエんちへおいてくよっ!」
っていったら、
「いいもんだぁ!」
とにかく、優にとっては初めて息子を手放して寝る夜。
「ほんとに泊まれるかな?」
「いいよ、泣き出したらつれてくから」
と僕が言うと、
優の方が寂しそうに、後ろ髪をひかれるようにして帰っていった。
息子はりょうとゲームに、といってもゲームができるわけじゃあないんだけど夢中になりながら・・・・・・
いつもながら寝息を立てていた。
今朝、優が保育園のカバンと着替えを持って次女を連れてやってきた・・・・・
「泊まれたの!すごいな太一は!!・・・・・
ママ寂しかったけど・・・・・太一は?」
「楽しかったよ、りょうネエとねんねして」
思わぬところでのわが息子の成長に戸惑い気味の優・・・・・・
そんな経験を30年前に僕たちがしたことを優は知る由もなかった(笑)。
どこまでも平和な庶民・・・・・・
今、わが娘たちこの曲にはまってます(笑)。
しかし、ニール・セダカ、若いですね!!
1939年生まれだから僕より10歳年上・・・・・・
さすが年のせいか?
歌いだしの部分、“ハイE”がでなくて“ハイC”で!
で、昔のオリジナルです↓
子どもってすごいですね、歌詞を耳でなぞって歌ってる。
しかもメロディーまでしっかり・・・・・
で、コレも↓
因みに幼少のころの僕がそうだったそうです(笑)。
三橋美智也とか春日八郎を・・・・・・
年とともに耳コピは衰えてます。
今は譜面がないと全くダメで(汗)。
新宿ACB
2010年07月03日
バナナの自販機 !!
バナナの自販機 !!

あったらいいねっ !!
バナナの自販機って・・・・・・
ケッコウ、いいかも知れません !!
「バナナ自販機」設置から1週間-販売本数1,000本突破 /東京
7月2日19時44分配信 みんなの経済新聞ネットワーク
東京メトロ半蔵門線・東急田園都市線渋谷駅に直結するビルの地下に先週設置された「バナナ自動販売機」の話題が現在、シブヤ経済新聞の記事などを起点にツイッターや各メディアなどで広がりをみせている。(シブヤ経済新聞)
ドール(千代田区)が6月23日に設置した同自販機。庫内の温度を「バナナの保管に最適」な13度に設定したほか、商品購入の際にバナナを傷つけないようにベルトコンベアで商品を移動、取り出し口の床部に衝撃を吸収するマットなどを4重に敷いている。「その場で食べられる」「ゴミを散らかさない」よう、自販機の隣にはゴミ箱2つを用意した。電子マネーには非対応。
バナナの価格は、1本=130円、1房(4本~6本=約600グラム)=390円で、管理費や運送料などの関係から「多少割高」になっている。自販機内には最大で100パックを収容することが可能だが、「日によって異なるが、搬入翌日の昼ごろには売り切れになっている」という。現在までに約1,040本、金額にすると約10万円を売り上げた。
1本130円は、高いなぁ・・・・・・・
パワーセンター「うおかつ」なら、一房12、3本で270円ですけど(笑)。
まあ、バナナっていやあ、僕らが子どものころ・・・・・・・
つまり昭和30年代は超高級果物でした。
たしか1本30円くらいで売っていました。
っていうか、横丁の八百屋さんなんかでは売ってません(笑)。
まあ、今でいえば鳩山的プリンスメロンじゃあなくて・・・・・・
ホンマもんの、「夕張メロン」でしょうか(汗)。
まあ、昭和30年代です。
なんてったって、ラーメンが1杯30円とか35円の時代ですから、
もちろん庶民、大衆の身のわが家でラーメンだってそうは食べられない時代でしたから・・・・・・
1本30円のバナナなんてそうは簡単に頂けるものではありませんでした。
まっ、風邪をひいて熱を出したときに「リンゴ」のすりおろしがせいぜいでしたね。普通。
でも僕の場合は分不相応っていうか、事情が大きく異なっておりました。
いわゆる、庶民、大衆とは(笑)。
なんでかって言うと、昭和29年のアレは夏でした・・・・・・・
当時では珍しい、「陸王」とかいうオートバイにひかれて左足骨折という大惨事に遭遇してしまったわけです。
まっ、まだ高崎のどこにも信号なんてないような、そんな時代ですから、
当然、道路も舗装なんてされていない時代のことです。
まあ、僕を運悪くひいてしまった青年、オートバイなんて運転しているくらいの人でしたから、
そりゃあ、いいとこのおぼっちゃまくんでした、まっ、当時は隆盛を極めていた紺屋の御曹司・・・・・・・
そんなわけですから、まあ、災難っていやあ災難でしたけど、
その紺屋の御曹司のお見舞いときたら、おもちゃとか本とか、で、バナナです (笑)。
で、その時頂いたバナナの美味しかったことと言ったら、そりゃあなかったっていう話です。
まあそんなわけで、昭和29年の6歳のときに「バナナ」を初体験しちゃった幸運ていうか、
不幸中の幸いを絵にかいたようなこどもだったわけです、僕、昭和24歳は(笑)。
で、さらに運がいいといえば、実は、母方の実家農家兼、よろず屋、市場の仲卸をしていて・・・・・・
まあ、超高級果物のバナナでしたけど、幸運にもその祖父の知り合いにバナナの輸入業者がいたわけです。
まっ、輸入業者っていうか、本業は「モヤシ工場」だったわけですけど、そのモヤシを生産する傍ら、
「バナナの蒸し加工」をやってたわけです。
つまりバナナは、当時は全て台湾から輸入していたわけです・・・・・・
それもあおいバナナっていうか未成熟のやつです。で、ソレを日本国内で、蒸気で蒸して成熟させたわけです。
そういえば話はそれちゃいますけど、民主党の「キツイ女」のレンホーさんの祖父、御父上が、
その、「台湾バナナ貿易業者」だったわけです。で、相当な財産を成したとか。
まあ、「バナナ利権」でしょうか。なんでも当時のバナナの関税はものすごく高く、その輸入の権利も、
並大抵の身分では手に入れられなかったとか。
まっ、台湾出身のレンホーさんちですから、当時は台湾は戦勝国ですからソレはソレは美味しかったわけです(笑)。
今も、レンホーさんち、イロイロと美味しそうですけど、民主党とかで・・・・・・・
で、バナナですけど、バナナっていやあ、「バナナのたたき売り」ですね。
昔は高崎神社のお祭りなんかでやってましたけど、今は「アメ横」なんかでやってます。
あっ、そうそう、「チョコのたたき売り」なんていうのもやってますけど、アメ横で。
そんなわけで、今でも僕はバナナが大好きです・・・・・・
カミサンが青々とした大きな一房バナナを、ご案内のパワーセンター「うおかつ」で買ってきます。
今でもはソレだと、1本20円くらいでしょうか、昭和30年代に1本30円でしたから、安い !!
で、とにかく、冷えたバナナは美味しいですね。
わが娘は、「バナナダイエット」とか言って、無駄な抵抗をしております・・・・・・
バナナの自販機 !!
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あったらいいねっ !!
バナナの自販機って・・・・・・
ケッコウ、いいかも知れません !!
「バナナ自販機」設置から1週間-販売本数1,000本突破 /東京
7月2日19時44分配信 みんなの経済新聞ネットワーク
東京メトロ半蔵門線・東急田園都市線渋谷駅に直結するビルの地下に先週設置された「バナナ自動販売機」の話題が現在、シブヤ経済新聞の記事などを起点にツイッターや各メディアなどで広がりをみせている。(シブヤ経済新聞)
ドール(千代田区)が6月23日に設置した同自販機。庫内の温度を「バナナの保管に最適」な13度に設定したほか、商品購入の際にバナナを傷つけないようにベルトコンベアで商品を移動、取り出し口の床部に衝撃を吸収するマットなどを4重に敷いている。「その場で食べられる」「ゴミを散らかさない」よう、自販機の隣にはゴミ箱2つを用意した。電子マネーには非対応。
バナナの価格は、1本=130円、1房(4本~6本=約600グラム)=390円で、管理費や運送料などの関係から「多少割高」になっている。自販機内には最大で100パックを収容することが可能だが、「日によって異なるが、搬入翌日の昼ごろには売り切れになっている」という。現在までに約1,040本、金額にすると約10万円を売り上げた。
1本130円は、高いなぁ・・・・・・・
パワーセンター「うおかつ」なら、一房12、3本で270円ですけど(笑)。
まあ、バナナっていやあ、僕らが子どものころ・・・・・・・
つまり昭和30年代は超高級果物でした。
たしか1本30円くらいで売っていました。
っていうか、横丁の八百屋さんなんかでは売ってません(笑)。
まあ、今でいえば鳩山的プリンスメロンじゃあなくて・・・・・・
ホンマもんの、「夕張メロン」でしょうか(汗)。
まあ、昭和30年代です。
なんてったって、ラーメンが1杯30円とか35円の時代ですから、
もちろん庶民、大衆の身のわが家でラーメンだってそうは食べられない時代でしたから・・・・・・
1本30円のバナナなんてそうは簡単に頂けるものではありませんでした。
まっ、風邪をひいて熱を出したときに「リンゴ」のすりおろしがせいぜいでしたね。普通。
でも僕の場合は分不相応っていうか、事情が大きく異なっておりました。
いわゆる、庶民、大衆とは(笑)。
なんでかって言うと、昭和29年のアレは夏でした・・・・・・・
当時では珍しい、「陸王」とかいうオートバイにひかれて左足骨折という大惨事に遭遇してしまったわけです。
まっ、まだ高崎のどこにも信号なんてないような、そんな時代ですから、
当然、道路も舗装なんてされていない時代のことです。
まあ、僕を運悪くひいてしまった青年、オートバイなんて運転しているくらいの人でしたから、
そりゃあ、いいとこのおぼっちゃまくんでした、まっ、当時は隆盛を極めていた紺屋の御曹司・・・・・・・
そんなわけですから、まあ、災難っていやあ災難でしたけど、
その紺屋の御曹司のお見舞いときたら、おもちゃとか本とか、で、バナナです (笑)。
で、その時頂いたバナナの美味しかったことと言ったら、そりゃあなかったっていう話です。
まあそんなわけで、昭和29年の6歳のときに「バナナ」を初体験しちゃった幸運ていうか、
不幸中の幸いを絵にかいたようなこどもだったわけです、僕、昭和24歳は(笑)。
で、さらに運がいいといえば、実は、母方の実家農家兼、よろず屋、市場の仲卸をしていて・・・・・・
まあ、超高級果物のバナナでしたけど、幸運にもその祖父の知り合いにバナナの輸入業者がいたわけです。
まっ、輸入業者っていうか、本業は「モヤシ工場」だったわけですけど、そのモヤシを生産する傍ら、
「バナナの蒸し加工」をやってたわけです。
つまりバナナは、当時は全て台湾から輸入していたわけです・・・・・・
それもあおいバナナっていうか未成熟のやつです。で、ソレを日本国内で、蒸気で蒸して成熟させたわけです。
そういえば話はそれちゃいますけど、民主党の「キツイ女」のレンホーさんの祖父、御父上が、
その、「台湾バナナ貿易業者」だったわけです。で、相当な財産を成したとか。
まあ、「バナナ利権」でしょうか。なんでも当時のバナナの関税はものすごく高く、その輸入の権利も、
並大抵の身分では手に入れられなかったとか。
まっ、台湾出身のレンホーさんちですから、当時は台湾は戦勝国ですからソレはソレは美味しかったわけです(笑)。
今も、レンホーさんち、イロイロと美味しそうですけど、民主党とかで・・・・・・・
で、バナナですけど、バナナっていやあ、「バナナのたたき売り」ですね。
昔は高崎神社のお祭りなんかでやってましたけど、今は「アメ横」なんかでやってます。
あっ、そうそう、「チョコのたたき売り」なんていうのもやってますけど、アメ横で。
そんなわけで、今でも僕はバナナが大好きです・・・・・・
カミサンが青々とした大きな一房バナナを、ご案内のパワーセンター「うおかつ」で買ってきます。
今でもはソレだと、1本20円くらいでしょうか、昭和30年代に1本30円でしたから、安い !!
で、とにかく、冷えたバナナは美味しいですね。
わが娘は、「バナナダイエット」とか言って、無駄な抵抗をしております・・・・・・
バナナの自販機 !!
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