グンブロ広告
ビジネスライセンス料 3,000円/月

飲食関連事業用 ライセンス 毎日1セット広告 1,600円/月

2012年02月04日
昭和ロックの発祥は嘉多町“サカヰレコー”ドだった!!
昭和ロックの聖地は嘉多町
“サカヰレコー”ドだった!!

その頃、いつしか僕はエレキに夢中になってしまった。
もちろん「新宿アシベ」の影響やテレビの影響もあってだろうが・・・・・・
しかし僕はその歌、歌手よりも「バックバンド」に夢中になっていた。
昭和39年の高崎。
僕の家からは徒歩10分くらいの所の嘉多町。
そこに「サカヰレコード」はあった。
気がつくと学校帰り、いつもその「サカヰレコード」の前で立ち止まり、
そのショーウィンドウの中をのぞいていた。
扉の向こうからはなにやら怪しいサウンドがけたたましく流れているのが気になりだしていたのだった。
そのショーウィンドウ越に店内を見ると今まで見た事もないようなギターが・・・・・・
それらが天井から後光を射しながら吊る下がっているではないか。
平べったい板に鉄の線の張ってある、しかも真ん中に何のためかは知らないが長方形の光ったやつがついていて、
それにラジオの摘みのようなものもくっ付いて、電気を付けたり消したりする時のスイッチがついている。
どうやらそれが、「エレキギター」だったのだ。
テレビで見るそれで知ってはいたものの、クレージーキャッツの植木等が弾く分厚いギターとは大分趣を異にしている。
「サカヰレコード」の店内にはなにやらそんなギターを抱えたアメリカ人らしいバンドのポスターが貼ってあった。
アストロノウツ「太陽の彼方に」と書いてあるそのポスター・・・・・・
♪テケテケテケ――――ッ♪
アストロノウツ“太陽の彼方に”
あの時の衝撃は今でも忘れずに焼きついている。
あの音、そして臭いというかあの時のその空気・・・・・
僕は居ても立っても居られない、そのへんてこりんなギターが欲しくて欲しくて堪らない。
もう頭の中はそのへんてこりんなギターでいっぱいになってしまっていた。
僕はそんなある日、勇気を振り絞って思わず店員らしきお兄さんに聞いてみた。
「あれはエレキ・ギターって言うんだ」
なんかいつもはダサそうなお兄さんだったけどその時ばっかりはとっても「エライ」人のように見えたから不思議だ。
「このギターはこれだけじゃ音がでないんだぞっ!」
得意そうにそのお兄さんは僕を覗き込むようにそう言った。
「これはエレキ。要するに、電気で音を出すギターなんだからアンプっていうのが絶対必要なんだ」
〈電気ギター・・・なんだそれ〉
僕は思わず胸の中で呟いていた。
そのお兄さん「ふんっ」といった素振で僕を無視するとその電気ギターを丁寧に磨き始めた。
店の中では「テケテケテケ―――ッ」があっちへ行ったり、こっちは行ったり。
その電気ギター「エレキ」、値札には一万二千円と無情にも書かれていた・・・・・・
なんでも糸巻きの部分に「G」と大きく書かれていた。
〈一万二千円か・・・アルバイト四ヵ月分だなか〉
家に帰ってテレビのスイッチを入れてみた。
やっぱり「テケテケテケ―――ッ」と、やっているではないか。
寝ても覚めても「テケテケテケ―――ッ」どうしても欲しくて、欲しくてたまらなくなってきてしまった僕だった。
しかし「サカヰレコード」のそれはビクター、ナショナル、グヤトーン、テスコなんて云う高級品ばかり。
どのエレキもに2万円前後の値札が付けられている。これでは、手も足も出ない。
そこで、月賦屋だったが「三和デパート」と云うのが八間道路の法輪寺の真ん前にあって・・・・・・
そこには多分、今にして思えば輸出用の品モンだったんだろうけど7千円台のがあった。
早速、牛乳配達のアルバイト、親父もおふくろも兎に角「エレキ」なんて不良になっちゃうと絶対反対だったが、
こっちは欲しくて居ても立っても居られない。
1ヶ月3千円のアルバイトだったか。夜は、学校帰りに「音楽センター」で掃除のアルバイト、一回百円。
なにせ、ラーメンが一杯60円くらいの時代だから今なら、千円だろうか。
ようやく手に入れたエレキギター。アンプは近所の電器屋でラジオを改造して作ってもらった。
兎に角あの「テケテケテケ」が不思議でしょうがなかったし、
「ウウ~~~ン」というトレモロアームとかいうやつ、もちろん僕の7000円のには付いていなかったから全くの謎であった。
まあ、親父やおふくろには
五月蠅いから止めろと怒鳴られ、叱られつつももう特訓の日々がつづいて・・・・・・
ご案内の「太陽の彼方に」は何とか弾けるようになっていた。
そうこうしていたある日、何処で聞きつけてきたのかマックス(ホッチキス)のバンドが、
エレキを弾ける少年がいるということで人づてに、僕の家に十歳も年上のアイビールックで、
いかにも「アストロノウツ」や「ビーチボーイズ」といった趣の「水野さん」という人が誘いに来た。
マックスのバンドは元々「ハワイアン」専門。確かに当時はいわゆる「ワイアン・ブーム」。
しかし、ダンスホールの方でどうしても「アストロノウツ」か「ベンチャーズ」をやれということだったらしい。
そこで、当時、「太陽の彼方に」とか「アパッチ」とか「ダイアモンドヘッド」を弾ける少年が居る。
そういうことで僕の家まで来たらしい・・・・・・
もちろん「ダンスホール」なんていうところは大人の世界っていうかか、不良の世界。
学校にでもバレたら一発で停学か退学の憂き目の時代、とにかく「エレキ=不良」だったから。
当然、親父もおふくろもダンスホールなんてとんでもないと許すはずなどなかった。
当然そんな親父とおふくろの目を盗んで行っちゃうわけだから、エレキは友だちの家に預けて、
わざと下駄をはいて、自転車で、
「音楽センターの掃除のアルバイト」
まあ、それも確かにやってたんだけど、毎週土曜日とあとはそんなお兄さん連中に混ざっての練習が、
週に、1、2回。それも群馬町の福島ってぇところだったから、自転車で大変だった・・・・・
つづく。
昭和ロックの聖地は嘉多町
“サカヰレコー”ドだった!!
“サカヰレコー”ドだった!!

その頃、いつしか僕はエレキに夢中になってしまった。
もちろん「新宿アシベ」の影響やテレビの影響もあってだろうが・・・・・・
しかし僕はその歌、歌手よりも「バックバンド」に夢中になっていた。
昭和39年の高崎。
僕の家からは徒歩10分くらいの所の嘉多町。
そこに「サカヰレコード」はあった。
気がつくと学校帰り、いつもその「サカヰレコード」の前で立ち止まり、
そのショーウィンドウの中をのぞいていた。
扉の向こうからはなにやら怪しいサウンドがけたたましく流れているのが気になりだしていたのだった。
そのショーウィンドウ越に店内を見ると今まで見た事もないようなギターが・・・・・・
それらが天井から後光を射しながら吊る下がっているではないか。
平べったい板に鉄の線の張ってある、しかも真ん中に何のためかは知らないが長方形の光ったやつがついていて、
それにラジオの摘みのようなものもくっ付いて、電気を付けたり消したりする時のスイッチがついている。
どうやらそれが、「エレキギター」だったのだ。
テレビで見るそれで知ってはいたものの、クレージーキャッツの植木等が弾く分厚いギターとは大分趣を異にしている。
「サカヰレコード」の店内にはなにやらそんなギターを抱えたアメリカ人らしいバンドのポスターが貼ってあった。
アストロノウツ「太陽の彼方に」と書いてあるそのポスター・・・・・・
♪テケテケテケ――――ッ♪
アストロノウツ“太陽の彼方に”
あの時の衝撃は今でも忘れずに焼きついている。
あの音、そして臭いというかあの時のその空気・・・・・
僕は居ても立っても居られない、そのへんてこりんなギターが欲しくて欲しくて堪らない。
もう頭の中はそのへんてこりんなギターでいっぱいになってしまっていた。
僕はそんなある日、勇気を振り絞って思わず店員らしきお兄さんに聞いてみた。
「あれはエレキ・ギターって言うんだ」
なんかいつもはダサそうなお兄さんだったけどその時ばっかりはとっても「エライ」人のように見えたから不思議だ。
「このギターはこれだけじゃ音がでないんだぞっ!」
得意そうにそのお兄さんは僕を覗き込むようにそう言った。
「これはエレキ。要するに、電気で音を出すギターなんだからアンプっていうのが絶対必要なんだ」
〈電気ギター・・・なんだそれ〉
僕は思わず胸の中で呟いていた。
そのお兄さん「ふんっ」といった素振で僕を無視するとその電気ギターを丁寧に磨き始めた。
店の中では「テケテケテケ―――ッ」があっちへ行ったり、こっちは行ったり。
その電気ギター「エレキ」、値札には一万二千円と無情にも書かれていた・・・・・・
なんでも糸巻きの部分に「G」と大きく書かれていた。
〈一万二千円か・・・アルバイト四ヵ月分だなか〉
家に帰ってテレビのスイッチを入れてみた。
やっぱり「テケテケテケ―――ッ」と、やっているではないか。
寝ても覚めても「テケテケテケ―――ッ」どうしても欲しくて、欲しくてたまらなくなってきてしまった僕だった。
しかし「サカヰレコード」のそれはビクター、ナショナル、グヤトーン、テスコなんて云う高級品ばかり。
どのエレキもに2万円前後の値札が付けられている。これでは、手も足も出ない。
そこで、月賦屋だったが「三和デパート」と云うのが八間道路の法輪寺の真ん前にあって・・・・・・
そこには多分、今にして思えば輸出用の品モンだったんだろうけど7千円台のがあった。
早速、牛乳配達のアルバイト、親父もおふくろも兎に角「エレキ」なんて不良になっちゃうと絶対反対だったが、
こっちは欲しくて居ても立っても居られない。
1ヶ月3千円のアルバイトだったか。夜は、学校帰りに「音楽センター」で掃除のアルバイト、一回百円。
なにせ、ラーメンが一杯60円くらいの時代だから今なら、千円だろうか。
ようやく手に入れたエレキギター。アンプは近所の電器屋でラジオを改造して作ってもらった。
兎に角あの「テケテケテケ」が不思議でしょうがなかったし、
「ウウ~~~ン」というトレモロアームとかいうやつ、もちろん僕の7000円のには付いていなかったから全くの謎であった。
まあ、親父やおふくろには
五月蠅いから止めろと怒鳴られ、叱られつつももう特訓の日々がつづいて・・・・・・
ご案内の「太陽の彼方に」は何とか弾けるようになっていた。
そうこうしていたある日、何処で聞きつけてきたのかマックス(ホッチキス)のバンドが、
エレキを弾ける少年がいるということで人づてに、僕の家に十歳も年上のアイビールックで、
いかにも「アストロノウツ」や「ビーチボーイズ」といった趣の「水野さん」という人が誘いに来た。
マックスのバンドは元々「ハワイアン」専門。確かに当時はいわゆる「ワイアン・ブーム」。
しかし、ダンスホールの方でどうしても「アストロノウツ」か「ベンチャーズ」をやれということだったらしい。
そこで、当時、「太陽の彼方に」とか「アパッチ」とか「ダイアモンドヘッド」を弾ける少年が居る。
そういうことで僕の家まで来たらしい・・・・・・
もちろん「ダンスホール」なんていうところは大人の世界っていうかか、不良の世界。
学校にでもバレたら一発で停学か退学の憂き目の時代、とにかく「エレキ=不良」だったから。
当然、親父もおふくろもダンスホールなんてとんでもないと許すはずなどなかった。
当然そんな親父とおふくろの目を盗んで行っちゃうわけだから、エレキは友だちの家に預けて、
わざと下駄をはいて、自転車で、
「音楽センターの掃除のアルバイト」
まあ、それも確かにやってたんだけど、毎週土曜日とあとはそんなお兄さん連中に混ざっての練習が、
週に、1、2回。それも群馬町の福島ってぇところだったから、自転車で大変だった・・・・・
つづく。
昭和ロックの聖地は嘉多町
“サカヰレコー”ドだった!!