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2009年03月09日
そして“男と女”・・・・・
そして“男と女”・・・・・

♪ダーーーバ~ヤ、ダバダバダ、ダバダバダ・・・・・
ダ~バ~ダ、ダバダバダ♪
そして人生・・・・・・
それはアッという間だった。
それにしても、“恙無く”なのだろうか?
いや“恙”だらけの僕の人生。
まるで“恙”、看板を背負って歩いているようなもんだ。
僕は妻のことを“マーちゃん”と呼んでいる。
公でも・・・・・
公というほど大袈裟ではないが、もちろん子供たちの前でも妻を呼ぶときは、
「マーちゃん」と呼んでいる。
ひょんなきっかけでその“マーちゃん”と一緒に暮らすことになる。
その“恙”だらけの僕の一事が万事。
それを他人は“駆け落ち”とでも言うのだろうか・・・・・・
もちろん僕にはそうした気持ち、意識は全くないのだが、
世間一般ではどうやらそう呼ぶらしい。
僕が25で、“マーちゃん”が18になったばかり・・・・・・
そう、女子高生の“危険な夏休み”が丁度終わった頃だった。
僕はバンドマンの生活と、当時流行の“ヒッピー稼業”とでも言うのだろうか・・・・・・
まだ日本で学生をやりながらヒッピーを気取っていたアメリカ人の友人と、
そのバンドの傍ら、友人のつてで軽井沢でひとシーズンだけの“革小物”の店を商っていた。

軽井沢のショップ(2坪)で・・・・・
昭和49年の“夏の日の出来事”・・・・・
8月末、すでに軽井沢はシーズンオフ。
僕は地方のデパートの催事で革小物を商うことにした・・・・・
そして夜は“ライブ”を仕切った。

ミュージシャン修行中の僕と友人。未だ夢冷めやらぬ(笑)。
そんな時、就職も決まった“マーちゃん”が僕の前に現れたのだった。
現れたといっても女子高生グループとして、僕らのライブを聴きに来たり、革小物を買ってくれたりといった・・・・・
そんな中の一人で、それは僕らのグループのファンとしてだった。
よくある話で、それが始まり・・・・・
もちろん“マーちゃん”の両親は僕とのことは大反対。
“マーちゃん”の家は農家で、それは有体に言えば典型的な“農家”・・・・・・
初めて言って驚いたのだが、今時こんなスタイルの家族があるのかというほどの養蚕から米、きのこ栽培と。
もっとも今でもそれは変わっていないから可笑しい。
僕との付き合いが両親の知れるところとなり、
なにが何でも“交際は許さん”と、それはえらい剣幕だったらしい。
とにかく学校へも行くな、外出も相成らんと・・・・・・
そんな時、親切というかお節介焼きというか、“マーちゃん”の親友が、
「とにかく家に行ってあげて」
と、段取りをとってくれたつもりだったのが・・・・・
まさに、火に油を注ぐとはこのことで、
僕と、マーちゃんの親父さんとそこで喧嘩、罵り合うことになってしまった。
(そんなはずじゃあなかったんだけど)
とうとう卒業式の日・・・・・・
僕らは一緒に暮らし始めてしまった。
町外れの小さな“アパート”で。
それから35年の歳月・・・・・・
“男と女”が、“父親”になり母親”になり。
僕が還暦で、マーちゃんがこの7月26日で53歳になる。
長女が34歳・・・・・・
そうですね。“ムーニーちゃん”も“パンパース”もなかったそんな時代。
マーちゃんは自分で“オムツ”を縫った。
長女は夜鳴きがすごかった・・・・・
僕が仕事から帰るのは深夜。
抱っこすると泣き止む・・・・・・
オッパイは飲まない、ミルクは飲まない。
それで“ボンラクト”という豆乳にして、そのために煮沸消毒を一晩に何度も何度も・・・・・・
3月生まれだから、そろそろ陽気もいい。
僕は真夜中泣き喚く長女を抱っこして近くの小学校まで・・・・・
とにかく赤ん坊は最初の半年くらいが戦争。長女も次女も三女もそうだった・・・・・(笑)。
まあ、子どもを3人からやっつけると、それなりに子育てのプロ、職人芸である。
僕とマーちゃんが暮らし始めた、町外れのその“アパート”。
それが未だ、当時のままの姿でそこにある。
もちろん誰かが住んでいるわけではないが・・・・・
時々そこを訪ねる。

2番目の扉の1階の部屋、6畳一間にキッチンとトイレ。
35年間、そこに・・・・・
「あった・・・・・
扉も、陽の当たらない窓も、手すりも・・・・・・
あの時のままにある」
父親と母親・・・・・・
そして“男と女”。
人生って面白い。
実に面白い・・・・・・
恙だらけの人生。
万事塞翁が馬の人生。

♪ダーーーバ~ヤ、ダバダバダ、ダバダバダ・・・・・
ダ~バ~ダ、ダバダバダ♪
そして人生・・・・・・
それはアッという間だった。
それにしても、“恙無く”なのだろうか?
いや“恙”だらけの僕の人生。
まるで“恙”、看板を背負って歩いているようなもんだ。
僕は妻のことを“マーちゃん”と呼んでいる。
公でも・・・・・
公というほど大袈裟ではないが、もちろん子供たちの前でも妻を呼ぶときは、
「マーちゃん」と呼んでいる。
ひょんなきっかけでその“マーちゃん”と一緒に暮らすことになる。
その“恙”だらけの僕の一事が万事。
それを他人は“駆け落ち”とでも言うのだろうか・・・・・・
もちろん僕にはそうした気持ち、意識は全くないのだが、
世間一般ではどうやらそう呼ぶらしい。
僕が25で、“マーちゃん”が18になったばかり・・・・・・
そう、女子高生の“危険な夏休み”が丁度終わった頃だった。
僕はバンドマンの生活と、当時流行の“ヒッピー稼業”とでも言うのだろうか・・・・・・
まだ日本で学生をやりながらヒッピーを気取っていたアメリカ人の友人と、
そのバンドの傍ら、友人のつてで軽井沢でひとシーズンだけの“革小物”の店を商っていた。

軽井沢のショップ(2坪)で・・・・・
昭和49年の“夏の日の出来事”・・・・・
8月末、すでに軽井沢はシーズンオフ。
僕は地方のデパートの催事で革小物を商うことにした・・・・・
そして夜は“ライブ”を仕切った。

ミュージシャン修行中の僕と友人。未だ夢冷めやらぬ(笑)。
そんな時、就職も決まった“マーちゃん”が僕の前に現れたのだった。
現れたといっても女子高生グループとして、僕らのライブを聴きに来たり、革小物を買ってくれたりといった・・・・・
そんな中の一人で、それは僕らのグループのファンとしてだった。
よくある話で、それが始まり・・・・・
もちろん“マーちゃん”の両親は僕とのことは大反対。
“マーちゃん”の家は農家で、それは有体に言えば典型的な“農家”・・・・・・
初めて言って驚いたのだが、今時こんなスタイルの家族があるのかというほどの養蚕から米、きのこ栽培と。
もっとも今でもそれは変わっていないから可笑しい。
僕との付き合いが両親の知れるところとなり、
なにが何でも“交際は許さん”と、それはえらい剣幕だったらしい。
とにかく学校へも行くな、外出も相成らんと・・・・・・
そんな時、親切というかお節介焼きというか、“マーちゃん”の親友が、
「とにかく家に行ってあげて」
と、段取りをとってくれたつもりだったのが・・・・・
まさに、火に油を注ぐとはこのことで、
僕と、マーちゃんの親父さんとそこで喧嘩、罵り合うことになってしまった。
(そんなはずじゃあなかったんだけど)
とうとう卒業式の日・・・・・・
僕らは一緒に暮らし始めてしまった。
町外れの小さな“アパート”で。
それから35年の歳月・・・・・・
“男と女”が、“父親”になり母親”になり。
僕が還暦で、マーちゃんがこの7月26日で53歳になる。
長女が34歳・・・・・・
そうですね。“ムーニーちゃん”も“パンパース”もなかったそんな時代。
マーちゃんは自分で“オムツ”を縫った。
長女は夜鳴きがすごかった・・・・・
僕が仕事から帰るのは深夜。
抱っこすると泣き止む・・・・・・
オッパイは飲まない、ミルクは飲まない。
それで“ボンラクト”という豆乳にして、そのために煮沸消毒を一晩に何度も何度も・・・・・・
3月生まれだから、そろそろ陽気もいい。
僕は真夜中泣き喚く長女を抱っこして近くの小学校まで・・・・・
とにかく赤ん坊は最初の半年くらいが戦争。長女も次女も三女もそうだった・・・・・(笑)。
まあ、子どもを3人からやっつけると、それなりに子育てのプロ、職人芸である。
僕とマーちゃんが暮らし始めた、町外れのその“アパート”。
それが未だ、当時のままの姿でそこにある。
もちろん誰かが住んでいるわけではないが・・・・・
時々そこを訪ねる。

2番目の扉の1階の部屋、6畳一間にキッチンとトイレ。
35年間、そこに・・・・・
「あった・・・・・
扉も、陽の当たらない窓も、手すりも・・・・・・
あの時のままにある」
父親と母親・・・・・・
そして“男と女”。
人生って面白い。
実に面白い・・・・・・
恙だらけの人生。
万事塞翁が馬の人生。
2009年03月09日
心の美・・・・・・
2005/ 7/24 10:02 の日記

瀬戸内寂聴
土曜日のNHKに瀬戸内寂聴さんが出ていた。
御歳、83歳だとか。
今東光にその法名を頂いたのだと仰っていた・・・・・
法名は、師匠の御名前の一字を頂いてその法名を付けるのだとか。
そしてその法名が“戒名”になるとも・・・・・
今東光師の法名は“春聴”
その一字を頂いて“寂聴”と・・・・・
「“寂しい”は“静かに”という意味もある」
とか。
瀬戸内寂聴・・・・・・曰く、
「人は罪人(ツミビト)」
小説家瀬戸内晴美は夫を捨て、子供を捨て・・・・・
家庭を捨てと述懐する。
「私は罪人です・・・・・」と。
初めて仏教本・・・・・・
それは20代の始めのころに読んだ“松原泰道師”の“般若心経入門”。
「美人美男も一皮剥けば“シャレコウベ”」
人の心の“美”とは何かを「サラッ」と説いていたのが忘れられない。
今ではその文庫本、手元にはないが実に心に残る文がそこにあった。
その“シャレコウベ”もそのひとつですが・・・・・・・
「忙しい」
も、そのひとつ。
“忙しい”は“心”を“亡くす”・・・・・
それぞれに、自ずと備えられるべくして備わるのが、それぞれの心。
物心ついて、友を知り、恋をして、子供をもうけ、育て・・・・・
そしてやがて生涯を終える。
夫婦・・・・・
それは僕ごとき凡人には極めてあいまいな概念ではある。
生きる者、思想宗教に捉われる事をともかくとすれば、この世に生まれて20年で凡そ人になる・・・・・・
そして平均年齢を全うするとすれば70代までの50年間、
全くの見ず知らずの“男女”が長い長い時間を伴にするという、それは己との戦いで、
それは思想であり、哲学かも知れない(笑)。
夫婦は他人である。その他人同士がその精神も肉体も老いゆく変化の現実を見交わす。
つまり、そこの“男女”のかかわりこそが“宗教”なのではないかと僕は思う。
釈迦は男子だが、観音様は女性・・・・・
そして概念としての結婚観はあるが、そこにはそれぞれの民族風土に、
一夫一婦制があり、一夫多妻制が・・・・・
しかし、女性と母親・・・・・
男性と父親。
その“個”の生涯としてはたったの7、80年だが、
そこに展開する家族社会・・・・・・
生れ落ちたその瞬間に“輪廻転生”という思想にある。
「悪行を重ねると地獄に落ちるとか、生まれ変わるとき鬼畜動物に生まれるとか・・・・・」
瀬戸内寂聴さんは仰っていた。
「そんなことはない」と。
後悔すればいい、反省すればいい・・・・・
やり直せばいい、何度でも何度でもやり直せばいい。
人の心配をする前に、己の心配をしなさい・・・・・
己の心配が、ひいては人の心配につながる。
心の美・・・・・・

瀬戸内寂聴
土曜日のNHKに瀬戸内寂聴さんが出ていた。
御歳、83歳だとか。
今東光にその法名を頂いたのだと仰っていた・・・・・
法名は、師匠の御名前の一字を頂いてその法名を付けるのだとか。
そしてその法名が“戒名”になるとも・・・・・
今東光師の法名は“春聴”
その一字を頂いて“寂聴”と・・・・・
「“寂しい”は“静かに”という意味もある」
とか。
瀬戸内寂聴・・・・・・曰く、
「人は罪人(ツミビト)」
小説家瀬戸内晴美は夫を捨て、子供を捨て・・・・・
家庭を捨てと述懐する。
「私は罪人です・・・・・」と。
初めて仏教本・・・・・・
それは20代の始めのころに読んだ“松原泰道師”の“般若心経入門”。
「美人美男も一皮剥けば“シャレコウベ”」
人の心の“美”とは何かを「サラッ」と説いていたのが忘れられない。
今ではその文庫本、手元にはないが実に心に残る文がそこにあった。
その“シャレコウベ”もそのひとつですが・・・・・・・
「忙しい」
も、そのひとつ。
“忙しい”は“心”を“亡くす”・・・・・
それぞれに、自ずと備えられるべくして備わるのが、それぞれの心。
物心ついて、友を知り、恋をして、子供をもうけ、育て・・・・・
そしてやがて生涯を終える。
夫婦・・・・・
それは僕ごとき凡人には極めてあいまいな概念ではある。
生きる者、思想宗教に捉われる事をともかくとすれば、この世に生まれて20年で凡そ人になる・・・・・・
そして平均年齢を全うするとすれば70代までの50年間、
全くの見ず知らずの“男女”が長い長い時間を伴にするという、それは己との戦いで、
それは思想であり、哲学かも知れない(笑)。
夫婦は他人である。その他人同士がその精神も肉体も老いゆく変化の現実を見交わす。
つまり、そこの“男女”のかかわりこそが“宗教”なのではないかと僕は思う。
釈迦は男子だが、観音様は女性・・・・・
そして概念としての結婚観はあるが、そこにはそれぞれの民族風土に、
一夫一婦制があり、一夫多妻制が・・・・・
しかし、女性と母親・・・・・
男性と父親。
その“個”の生涯としてはたったの7、80年だが、
そこに展開する家族社会・・・・・・
生れ落ちたその瞬間に“輪廻転生”という思想にある。
「悪行を重ねると地獄に落ちるとか、生まれ変わるとき鬼畜動物に生まれるとか・・・・・」
瀬戸内寂聴さんは仰っていた。
「そんなことはない」と。
後悔すればいい、反省すればいい・・・・・
やり直せばいい、何度でも何度でもやり直せばいい。
人の心配をする前に、己の心配をしなさい・・・・・
己の心配が、ひいては人の心配につながる。
心の美・・・・・・
2009年03月09日
華やかりし“政治ショー”
もちろん脚本は“官僚”役人である。

黒子が表に出ては“政治ショー”もお終いです(笑)。
2005/ 7/25 7:37 の日記
外資がどうしたこうしたと言わせ、
郵便事業がどうのこうのと言わせて・・・・・
生田総裁曰く、
「今は黒字だが、赤字になってからでは改革は難しい」
公社化で徹底したリストラ政策、首狩が行われた郵政省・・・・・
郵政公社非常勤職員(日雇)は12万人強が働く今日の“郵便屋さん”。
特定郵便局以外の公社局はどこも24時間体制で稼動、営業中。
実はその直轄郵便事業は正職員は3割ほどしかいない。
郵便の仕分け、小荷物の仕分け、郵便窓口業務、配達とほとんどが非常勤職員(アルバイト)で運営。
もちろん全国ネットの24時間体制郵便輸送事業も公社化により民間参入を認めた100%下請けで、
郵政省時の輸送コストは完全入札で2割以上節約・・・・・
もちろん局舎内の就労者(アルバイト)賃金は、
平均月額8万円ほどだと言う。
時給はその地方局の法定賃金(時間給)に準じ、平均が“700円前後”とか。
さて、どうだろうか・・・・・
すでに郵便事業そのものは完全“民営化”されていると見ていいのではないか。
問題は、戦後、田中角栄郵政大臣の時に新たに認可された“特定郵便局”群と、
やはり同時代に制定された“郵貯・簡保”資金を大蔵省資金運用部に丸投げされた“財政投融資”・・・・・
これによる“日本列島改造”の散財ではないか。
大蔵省解体で、“財投”も廃止された。
廃止されたと言うより、実際は財投原資の“郵貯・簡保”が底をついたからではないか。
“金の切れ目が縁の切れ目”
財投で投入された郵貯・簡保資金は“資産”、国民の財産となってたっぷりある。
高速道路、新幹線、空港、ダム、原発・・・・・・
十分に国民生活に役立たれている。
しかし、もうない・・・・・・
しかし財投の帳簿上の資産はそれら施設設備として“簿価”ではたっぷりある。
世界一優秀な大蔵官僚の資金運用で回収されるはずだった財投の貸付。
高速道路の売上は3兆円から・・・・・
新幹線の売上も、関空の売上も電力各社の売上も、〆て数十兆円。
しかし“びた一文”返済はされてない。
早い話が、郵貯・簡保は“寄付”されたのではないか。
それどころか、元金はおろか、利子も・・・・・・
日本国有鉄道なんて元金の倍以上に、50兆円に膨れている。
郵貯口座が“5億口座”あるそうだが・・・・・
この国の人口は、1億2千万人チョイ!
なんとも可笑しな話だが、それが現実のこの国。
当然、完全民営化された暁の“郵便銀行”は“公的資金”で健全化されなければならない。
もっとも、その貸付先が、長銀、興銀、拓銀とかとは違って“政府直轄事業”で、
その利用者は国民全員・・・・・・
全て、国会承認。
国民の代表が議会で承認した事業だから今更国民“知りません”とはいえない。
民営化された“郵便銀行”公的資金投入で“一時国有化”。
それにしても、戦後ほぼ60年で使いも使った財投・・・・・
しかし、今や新幹線は日本列島全土へ、
高速道路網も全国津々浦々へ、
ダムも空港も30年前の計画を未だ継続。
厚労省のリゾート地の切り売りのようなわけには行かない。
道路公団民営化とはいうものの、道路を切り売りするわけには行かない・・・・・
ダムだって、空港だって。
原発なんか期限切れで解体するだけで30兆円かかるとか。
アメリカがああ言ったこう言った・・・・・
どの道、日本語で書いてあることなんかアメリカは相手にしやあしないだろうが、
アメリカが“言ったこと”にしておけば日本国民“オキュパイド・ジャパニーズ”、
いざとなりゃあ、北のほうからミサイルの脅しで国民大騒ぎ。
それにしても、300兆円の郵貯・簡保?
北朝鮮の年間国家予算、たったの“5千億円”。
下手なパチンコ産業だって3兆円だもの・・・・・・
“5千億円”で何ができるっていうの。
それでもアメリカに言わせれば“真実”になる。
郵貯・簡保・・・・・
“ゼロ金利”だから何とか納まってるけど。
政治家の好きな“グローバル化”でもされたら、
最低でも3%の利息を国民に払わなければならない。
国民・・・・・・
責任とって諦めたほうがいいんじゃあないのかね。
どの道、マギー司郎程度の手品なんだから。
「親戚のおばちゃんに評判のいい」