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2016年10月14日
ボブ・ディランがノーベル文学賞らしい
ボブ・ディランが
ノーベル文学賞したらしい

ボブ・ディランにノーベル賞 文学の概念拡大?
115年に及ぶノーベル文学賞の歴史で歌手の受賞は初。「文学」の概念をより広くとらえようとするスウェーデン・アカデミー側の変化を示す結果ともいえそうだ。
英政治家、チャーチルが1953年に受賞した際に物議を醸し、アカデミーは対象を「文学」に限定。受賞者は小説家や劇作家、詩人に限られてきた。ただ昨年受賞したベラルーシのスベトラーナ・アレクシエービッチさんはジャーナリストとしての印象も強い。最近のアカデミー会員の若返りが選考に影響しているとの指摘もあり、文芸評論家の川村湊さんは「文学賞史上で大きな変化。文学の概念を広げようとする意志を感じる」と話している。
産経新聞 10月14日(金)0時12分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161014-00000500-san-soci
ボブ・ディランのそれはアメリカのその“時代”を歌った・・・・・
その時代、世代の“メッセージ・ソング”だった。

<ウィキペディアより拝借>
♪風に吹かれて♪
♪どれだけ多くの道を歩いたら
人は一人前と呼ばれるようになるのだろう
どれだけ多くの海を越えたら
白い鳩は砂の上で眠りを迎えられるのだろう
どれだけ多くの砲弾が飛び交えば
大砲が永久に禁じられるようになるのだろう
友よ、答えは風の中に
風に吹かれて消えてゆくよ~♪
その歌のなかでは戦争の中での人種差別とその“反戦”というアメリカの若者の時代思考。
その意味では日本のそれは“軟”(やわ)で、そのような徴兵は“昔の話”僕らの親父の時代。
そして、それほどの“人種差別”、あったにはあったが、特別にあったわけでもない。
太平洋戦争中にその歌が、♪風に吹かれて♪が歌われていたなら・・・・・・
一銭五厘の“赤紙”一枚で“お国”に、天皇陛下のために命を捧げなければならなかったか、
やはり・・・・・・
♪友よ、答えは風の中に
風に吹かれて消えてゆくよ~♪
だったのだろうか・・・・・
・・・・・みたいなことを思いつつ、この60年をふと考えてみる・・・・・
僕らのその時代の♪風に吹かれて♪は、一言で言えば“平和”。
「ここだけの平和・・・・・」
それは「ここだけの話」とか、「ここだけの秘密」のような平和。
そんなことでいいのだろうか・・・・・と自問自答しながらも・・・・・
それは、もう「やり直すことのできない」、その意味では「取り返しのつかない」・・・・・・
「ここだけの話」と、「ここだけの秘密」という『平和』。
なにを喋っているのかさっぱりわからない「美しい日本」といった“アベシンゾー首相”。
やはり僕らのそれが、「ここだけの話」とか、「ここだけの秘密」というように、
“アベシンゾー”のそれも、「ここだけの話」とか、「ここだけの秘密」と言ったような『平和』なのだろうなぁ。
しかし唯一と言うか、“唯ニ”皇室を持つアジアの友好国『タイ王国』の・・・・・
政変“クーデター”
プミポン国王「クーデター支持」を表明。
タクシン首相はロンドンで失業しましただって言うし・・・・・
なんか日本も政権危なくなったら“クーデター”で、国民から愛される天皇「“クーデター政権」支持!!
なんていうことになったりして・・・・・
んなことはないか(笑)。
「ここだけの話」とか「ここだけの秘密」で。
だいいち、今度の総選挙も自民党絶対に勝てるわけないし・・・・・
だいいち、“小泉チルドレン”は完全に“チルド”で固まっちゃってるし。
出来たとしても絶対に、「シンキロー院政政権」だし。
時代という♪風に吹かれて♪・・・・・・
それとも、
♪明日は明日の風が吹く~♪
なんて、小泉前総裁なら、親父ギャグかましそう。
しかし、ボブ・ディラン・・・・・ガツンと効いてるね。
ボク・ディラン(笑)。
2008年06月03日
ボブ・ディランが
ノーベル文学賞したらしい
ノーベル文学賞したらしい

ボブ・ディランにノーベル賞 文学の概念拡大?
115年に及ぶノーベル文学賞の歴史で歌手の受賞は初。「文学」の概念をより広くとらえようとするスウェーデン・アカデミー側の変化を示す結果ともいえそうだ。
英政治家、チャーチルが1953年に受賞した際に物議を醸し、アカデミーは対象を「文学」に限定。受賞者は小説家や劇作家、詩人に限られてきた。ただ昨年受賞したベラルーシのスベトラーナ・アレクシエービッチさんはジャーナリストとしての印象も強い。最近のアカデミー会員の若返りが選考に影響しているとの指摘もあり、文芸評論家の川村湊さんは「文学賞史上で大きな変化。文学の概念を広げようとする意志を感じる」と話している。
産経新聞 10月14日(金)0時12分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161014-00000500-san-soci
ボブ・ディランのそれはアメリカのその“時代”を歌った・・・・・
その時代、世代の“メッセージ・ソング”だった。

<ウィキペディアより拝借>
♪風に吹かれて♪
♪どれだけ多くの道を歩いたら
人は一人前と呼ばれるようになるのだろう
どれだけ多くの海を越えたら
白い鳩は砂の上で眠りを迎えられるのだろう
どれだけ多くの砲弾が飛び交えば
大砲が永久に禁じられるようになるのだろう
友よ、答えは風の中に
風に吹かれて消えてゆくよ~♪
その歌のなかでは戦争の中での人種差別とその“反戦”というアメリカの若者の時代思考。
その意味では日本のそれは“軟”(やわ)で、そのような徴兵は“昔の話”僕らの親父の時代。
そして、それほどの“人種差別”、あったにはあったが、特別にあったわけでもない。
太平洋戦争中にその歌が、♪風に吹かれて♪が歌われていたなら・・・・・・
一銭五厘の“赤紙”一枚で“お国”に、天皇陛下のために命を捧げなければならなかったか、
やはり・・・・・・
♪友よ、答えは風の中に
風に吹かれて消えてゆくよ~♪
だったのだろうか・・・・・
・・・・・みたいなことを思いつつ、この60年をふと考えてみる・・・・・
僕らのその時代の♪風に吹かれて♪は、一言で言えば“平和”。
「ここだけの平和・・・・・」
それは「ここだけの話」とか、「ここだけの秘密」のような平和。
そんなことでいいのだろうか・・・・・と自問自答しながらも・・・・・
それは、もう「やり直すことのできない」、その意味では「取り返しのつかない」・・・・・・
「ここだけの話」と、「ここだけの秘密」という『平和』。
なにを喋っているのかさっぱりわからない「美しい日本」といった“アベシンゾー首相”。
やはり僕らのそれが、「ここだけの話」とか、「ここだけの秘密」というように、
“アベシンゾー”のそれも、「ここだけの話」とか、「ここだけの秘密」と言ったような『平和』なのだろうなぁ。
しかし唯一と言うか、“唯ニ”皇室を持つアジアの友好国『タイ王国』の・・・・・
政変“クーデター”
プミポン国王「クーデター支持」を表明。
タクシン首相はロンドンで失業しましただって言うし・・・・・
なんか日本も政権危なくなったら“クーデター”で、国民から愛される天皇「“クーデター政権」支持!!
なんていうことになったりして・・・・・
んなことはないか(笑)。
「ここだけの話」とか「ここだけの秘密」で。
だいいち、今度の総選挙も自民党絶対に勝てるわけないし・・・・・
だいいち、“小泉チルドレン”は完全に“チルド”で固まっちゃってるし。
出来たとしても絶対に、「シンキロー院政政権」だし。
時代という♪風に吹かれて♪・・・・・・
それとも、
♪明日は明日の風が吹く~♪
なんて、小泉前総裁なら、親父ギャグかましそう。
しかし、ボブ・ディラン・・・・・ガツンと効いてるね。
ボク・ディラン(笑)。
2008年06月03日
ボブ・ディランが
ノーベル文学賞したらしい
2016年10月13日
団塊世代の「青春の光と影」♪傘がない♪
団塊世代の「青春の光と影」
♪傘がない♪

♪傘がない♪
はっきり言えば僕は「平成」という時代には用はない。
ここの選挙区、その昔は群馬三区「福中戦争」といわれた地にあって、
すでにお隠れだが、谷間のラーメン屋と揶揄された「平成オジサン」がいた。
あの記者会見で新元号を言った“小渕恵三”のそれが「平成」だったとしても、
その平成にはなかなかなじまない。それは年のせいなのだろうか。
また昭和も軍国主義高らかだった戦中戦前のそれも更々用はない。
と言うよりは全く知らない。
「知らぬが仏」と言ったところの戦後のもやしっ子なのかも知れないが・・・・・
とはいうものの「平成」には用ないなどと強がりを言ったところで、
本当のところはその「平成」の方からしてみれば僕ら「団塊世代」、すでに用済みなのかも。
それどころかもうじき「厄介モンのおもちゃつけぇ」かも(;´д`)
なにせ赤いちゃんちゃんこも過ぎた昔なのだからそれはそれで仕方がないことにする。
しかし「平成」と言うのは実にいやらしい時代のような気がしてならない。
そう感じるのは僕だけなんだろうか?
その日常は殺伐としていて新聞、テレビがいうことといえば、
陰惨な犯罪、陰湿な事件のニュース、昨日も兵庫で河川敷にバラバラ死体とテレビが言っている。
かと思えばあいも変わらずの「政治とカネ」の話ばかりで なんとも時代が酸っぱい。
「酸っぱい」のはよろしくない。それは梅雨時のものの饐えたような臭いで、
僕らの子ども時代のような「塩っパイ」、「塩っ辛い」のそれはまるで感じられない。
テレビで見かける政治家なんかはとくべつに酸っぱい臭いがしてならない。
「門前の小僧の手習い」のような詰めのないもの言い。
それにひと目で「嘘」と顔に書いてあるような言い訳と、取ってつけたような自信のなさそうな討議討論。
バカヤローと叱られそうだが、「あんなんなら俺にも出来る」。
といったような手合いの二世、三世の「地盤、看板、鞄」におんぶに抱っこのようなのが・・・・・
「わが国は」とか「国家国民のために」では大きなお世話と、そうも言いたくなる。
あれは昭和四〇年代だっただろうか、井上陽水の歌った「傘がない」という題名のフォークソング。
♪都会では自殺する若者が増えている~♪
と、歌ったやつだ。
僕のように感性に乏しい人間はあの当時昭和四〇年代、その「傘がない」を聴きながら、
「ほんと?」と、疑ってみたりもしたものだったが・・・・・
それが世相の実態だったのかも知れない。
二十歳そこそこではその世相、ベトナム戦争だの平和だの、オイルショックだのよりも、
都会での「孤独死」とか「自殺する若者」は現実、確かに多かったかも知れない。
井上陽水は歌う。
せっかく彼女と会う約束をしたのに、雨が降ってきちまって出かけようにも「傘がない」と。
ならば ♪冷たい雨に~♪ 濡れてでも彼女に会うために ♪行かなくちゃ~君に会いに行かなくちゃ♪
待てよ、でもそんな軟弱なことを言っていて良いのだろうか?世の中これほど大変な時だと言うのに。
「君のこと以外は考えられなくなる、君のこと以外はまるで見えなくなる」
待てよ、そんなことで僕は良いのだろうか?と、自問自答する日々。
ある意味ノンポリで惰眠を貪る中にて、どこかそんな世の中に疑問を感じていた・・・・・
そんなピュアな時代が、僕らの僕等だけの時代だったような気がしてならない。
その意味では、ロックにしろフォークにしろその時代時代の青春の叫び声であるのではないだろうか。
今のそれに、それ、“それが”あるとは思えない。
それは12歳くらいから二十歳そこそこ辺りまでの、非現実と現実との間を春秋する感情の戸惑いと揺れ。
今は全くそれがないような気がしてならない。
というのは僕等、戦後生まれの膨大な塊が何もかもし尽くしてきてしまったからなのだろうかとも。
その昭和という戦後の一時期に発生した「若者文化」。
洋の東西にかかわらず、凡そが音楽も、アートも、舞台も、今あるのはその時代のリメイクでしかない。
ひとつあるとすれば「ニンテンドー」と、この「パソコン」がネオカルチャーなのか。
今のそれは、歌を聴いても、演奏を聴いてもそれはそれは暗闇にうめく夜行性動物のそれ。
けしてそれは嘶きではなく、雄叫びでもない。
それにしか、そうにしか聴こえないのは、僕等世代のなにか、後ろめたさなのか。
その後ろめたさが今日の「傘がない」状態を・・・・・
状況を生んでしまったのではないだろうかと思わずにはいられない。
「都会では・・・自殺する、中高年が増えている」
皮肉だろうか。
あの昭和四〇年代に歌われた「自殺する若者」。そして、その傘がない若者達が、
ぼっとかしたら、あの時代に「自殺しそびれた」出遅れの、間の悪い・・・・・・
平成の自殺する、今は「中高年」なのかも知れない。
「自分のことしか考えられない、自分のことしか見えない」と言いつつ、
「待てよ、そんなことで良いのだろうか」
とは、もうそう思うことすらできなくなってしまったほど疲れきってしまったのか。
少し休むだけで良いのに、ほんの少し自分を見つめなおすだけで良いのに・・・・・
なにも終わってしまうこともないのに。そんなに急いで逝かなくてもいいのに。
いずれにしても、それは僕らが過してきたあの「昭和」という時代は、
目を閉じればあの時代の風景が、音とともに僕の心に「パー」っと広がる。
それはその時代この目で見た連合赤軍「浅間山荘事件」の湧き上がる得体の知れない音。
またここ高崎が舞台となった大久保清「連続婦女暴行殺人事件」のそれを伝える取材ヘリコプターのけたたましい音。
そこに見た昭和の共振する風景と音。
白黒テレビで見た東大安田講堂の放水
国際反戦デー“新宿事件”
連合赤軍「あさま山荘事件」
そこに聞いたそれらの「音」はけして作り物ではなく、それが遠い遠い過去のことであったとしても・・・・・
思想などと言う高邁なものを持ち合わせているはずもない僕らノンポリの三流楽士だったがその時の、その社会の形は、
それのひとつひとつがあの頃の僕等の「これから」を諭すように見せつけてくれていた。
それは夫々に今、高齢者と呼ばれるようになった僕らにあの時代の青春の残像を今日までのそれなりの生き方の中に、
その風景のなかの音鳴りとして心に映す。
そして、それは、そこにはあったその時々の「音鳴り」はいろんなことを僕等に教えてくれていた。
僕らは、僕ら以前のそれも、そしてこれからのそれたちもけして経験する事の出来ないとてつもない時代を 生きてきたのかも知れない。
団塊世代の「青春の光と影」
♪傘がない♪
♪傘がない♪

♪傘がない♪
はっきり言えば僕は「平成」という時代には用はない。
ここの選挙区、その昔は群馬三区「福中戦争」といわれた地にあって、
すでにお隠れだが、谷間のラーメン屋と揶揄された「平成オジサン」がいた。
あの記者会見で新元号を言った“小渕恵三”のそれが「平成」だったとしても、
その平成にはなかなかなじまない。それは年のせいなのだろうか。
また昭和も軍国主義高らかだった戦中戦前のそれも更々用はない。
と言うよりは全く知らない。
「知らぬが仏」と言ったところの戦後のもやしっ子なのかも知れないが・・・・・
とはいうものの「平成」には用ないなどと強がりを言ったところで、
本当のところはその「平成」の方からしてみれば僕ら「団塊世代」、すでに用済みなのかも。
それどころかもうじき「厄介モンのおもちゃつけぇ」かも(;´д`)
なにせ赤いちゃんちゃんこも過ぎた昔なのだからそれはそれで仕方がないことにする。
しかし「平成」と言うのは実にいやらしい時代のような気がしてならない。
そう感じるのは僕だけなんだろうか?
その日常は殺伐としていて新聞、テレビがいうことといえば、
陰惨な犯罪、陰湿な事件のニュース、昨日も兵庫で河川敷にバラバラ死体とテレビが言っている。
かと思えばあいも変わらずの「政治とカネ」の話ばかりで なんとも時代が酸っぱい。
「酸っぱい」のはよろしくない。それは梅雨時のものの饐えたような臭いで、
僕らの子ども時代のような「塩っパイ」、「塩っ辛い」のそれはまるで感じられない。
テレビで見かける政治家なんかはとくべつに酸っぱい臭いがしてならない。
「門前の小僧の手習い」のような詰めのないもの言い。
それにひと目で「嘘」と顔に書いてあるような言い訳と、取ってつけたような自信のなさそうな討議討論。
バカヤローと叱られそうだが、「あんなんなら俺にも出来る」。
といったような手合いの二世、三世の「地盤、看板、鞄」におんぶに抱っこのようなのが・・・・・
「わが国は」とか「国家国民のために」では大きなお世話と、そうも言いたくなる。
あれは昭和四〇年代だっただろうか、井上陽水の歌った「傘がない」という題名のフォークソング。
♪都会では自殺する若者が増えている~♪
と、歌ったやつだ。
僕のように感性に乏しい人間はあの当時昭和四〇年代、その「傘がない」を聴きながら、
「ほんと?」と、疑ってみたりもしたものだったが・・・・・
それが世相の実態だったのかも知れない。
二十歳そこそこではその世相、ベトナム戦争だの平和だの、オイルショックだのよりも、
都会での「孤独死」とか「自殺する若者」は現実、確かに多かったかも知れない。
井上陽水は歌う。
せっかく彼女と会う約束をしたのに、雨が降ってきちまって出かけようにも「傘がない」と。
ならば ♪冷たい雨に~♪ 濡れてでも彼女に会うために ♪行かなくちゃ~君に会いに行かなくちゃ♪
待てよ、でもそんな軟弱なことを言っていて良いのだろうか?世の中これほど大変な時だと言うのに。
「君のこと以外は考えられなくなる、君のこと以外はまるで見えなくなる」
待てよ、そんなことで僕は良いのだろうか?と、自問自答する日々。
ある意味ノンポリで惰眠を貪る中にて、どこかそんな世の中に疑問を感じていた・・・・・
そんなピュアな時代が、僕らの僕等だけの時代だったような気がしてならない。
その意味では、ロックにしろフォークにしろその時代時代の青春の叫び声であるのではないだろうか。
今のそれに、それ、“それが”あるとは思えない。
それは12歳くらいから二十歳そこそこ辺りまでの、非現実と現実との間を春秋する感情の戸惑いと揺れ。
今は全くそれがないような気がしてならない。
というのは僕等、戦後生まれの膨大な塊が何もかもし尽くしてきてしまったからなのだろうかとも。
その昭和という戦後の一時期に発生した「若者文化」。
洋の東西にかかわらず、凡そが音楽も、アートも、舞台も、今あるのはその時代のリメイクでしかない。
ひとつあるとすれば「ニンテンドー」と、この「パソコン」がネオカルチャーなのか。
今のそれは、歌を聴いても、演奏を聴いてもそれはそれは暗闇にうめく夜行性動物のそれ。
けしてそれは嘶きではなく、雄叫びでもない。
それにしか、そうにしか聴こえないのは、僕等世代のなにか、後ろめたさなのか。
その後ろめたさが今日の「傘がない」状態を・・・・・
状況を生んでしまったのではないだろうかと思わずにはいられない。
「都会では・・・自殺する、中高年が増えている」
皮肉だろうか。
あの昭和四〇年代に歌われた「自殺する若者」。そして、その傘がない若者達が、
ぼっとかしたら、あの時代に「自殺しそびれた」出遅れの、間の悪い・・・・・・
平成の自殺する、今は「中高年」なのかも知れない。
「自分のことしか考えられない、自分のことしか見えない」と言いつつ、
「待てよ、そんなことで良いのだろうか」
とは、もうそう思うことすらできなくなってしまったほど疲れきってしまったのか。
少し休むだけで良いのに、ほんの少し自分を見つめなおすだけで良いのに・・・・・
なにも終わってしまうこともないのに。そんなに急いで逝かなくてもいいのに。
いずれにしても、それは僕らが過してきたあの「昭和」という時代は、
目を閉じればあの時代の風景が、音とともに僕の心に「パー」っと広がる。
それはその時代この目で見た連合赤軍「浅間山荘事件」の湧き上がる得体の知れない音。
またここ高崎が舞台となった大久保清「連続婦女暴行殺人事件」のそれを伝える取材ヘリコプターのけたたましい音。
そこに見た昭和の共振する風景と音。
白黒テレビで見た東大安田講堂の放水
国際反戦デー“新宿事件”
連合赤軍「あさま山荘事件」
そこに聞いたそれらの「音」はけして作り物ではなく、それが遠い遠い過去のことであったとしても・・・・・
思想などと言う高邁なものを持ち合わせているはずもない僕らノンポリの三流楽士だったがその時の、その社会の形は、
それのひとつひとつがあの頃の僕等の「これから」を諭すように見せつけてくれていた。
それは夫々に今、高齢者と呼ばれるようになった僕らにあの時代の青春の残像を今日までのそれなりの生き方の中に、
その風景のなかの音鳴りとして心に映す。
そして、それは、そこにはあったその時々の「音鳴り」はいろんなことを僕等に教えてくれていた。
僕らは、僕ら以前のそれも、そしてこれからのそれたちもけして経験する事の出来ないとてつもない時代を 生きてきたのかも知れない。
団塊世代の「青春の光と影」
♪傘がない♪
2016年10月13日
団塊世代の「横丁ミシュラン」☆☆
団塊世代の「横丁ミシュラン」☆☆

↑目白の「丸長の「つけそば」お試しあれ!
僕の「マズ・ウマ」・・・
「マズ・ウマ」の定義。
そんな「定義」などと恰好をつけたもんではないが、僕はそう決めている。
不味そうなんだけど・・・美味い。
「なんだそりゃ」
と訝る向きもあるかも知れないが、まさに「不味そうで美味い」。
つまり「不味そう」というのは「味」ということではない。
それは、店構えそのものは極々当たり前で、いわゆるフツーの食堂、そんな趣のそれ。
で、入ってクリビツテンギョー、うめえのうまくねぇの・・・・・
そんな店がどこの街にもひとつやふたつある。
もちろん昨日今日始まったそれではないことも「マズ・ウマ」のていぎなのだが。
ところでどうでもいいことだけど僕ら世代はその必然性に育ってきた。
「終戦」と云う言葉を急いで忘れようとしている大人たちの生活文化の中・・・・・
文化と言うほどのものではないが。
「駄菓子屋」に「お好み焼屋」は、僕ら戦後っ子にとって、その「マズ・ウマ」が日常そのものであった。
着色料、添加物たっぷりの駄菓子、「ソースイカ」、衛生も糸瓜もないサッカリンたっぷりの「舐め紙」ってぇのも。
そして極めつけの芸術作品でありながらも、小学校の門前で小汚いガキ連中を相手に屋台で商っていた「お新粉」屋。
新粉を色とりどりに捏ねて、鶏だの兎だのとそれでこしらえてくれるそれだ。
戦前は何処かの和菓子職人だったのだろうかものの見事な芸術作品が瞬く間に仕上がる。
「腹壊すからそんなもん食うんじゃあねえ」
と、親たちは呆れていたが、下校時ともなるとそのガキ連中(僕等)が、テカテカのお下がりの「詰襟」と下駄に足袋で、
「5円玉」握り締めて目を輝かせてお新粉屋のオジサンの屋台に集った。
丁度、配給も終わって、そろそろ米穀台帳なしに米が買える、昭和33年頃だっただろうか。
そのお新粉屋の屋台と入替わり立ち代りに、焼きそば屋、飴細工屋、針金細工屋が露天を張った。
そうだ、僕の「マズ・ウマ」の原点ははそこにあったのだ。
終戦、まだ干支がひと回りした頃の時代の話・・・・・
「夜泣きラーメン、食堂」なんて云ったら、盆暮れあるかないかの「御馳走」。今ではとても想像はつかないが。
朝飯を炊くにしたって「竃」に炭を熾して薪をくべる。電気釜なんて言うのはそれからしばらくしてから。
秋刀魚、煮もの、味噌汁は「七輪」。昔は良かった。よかったか悪かったかは人それぞれだが(笑)。
家族団欒の食事とか何とか言ったってあの頃はそれこそ家中、ちいちゃなちゃぶ台を囲んで喧嘩騒ぎで飯を食う。
兄弟姉妹の四、五人もいようもんならわずかなオカズを取りっこで親父の怒鳴り声とオフクロの小言が耐えることがなかった。
オヤジがイッパイ入って不機嫌にでもなろうもんなら「ちゃぶ台返し」が始まる「家族団欒。
しかし、あの時代を懐かしがるなんて言うのはずいぶんと勝手な話で、
まあ、僕ら子どもで世間の様子には頓着はなかったが・・・・・・
朝鮮動乱も片付いたか片付かないかのそんな頃で、下手をすれば、また「戦争」かなんて言う物騒な時代だったらしい。
内風呂なんてある家は当然向こう三軒両隣あるはずもない。そんな時代、銭湯も老若男女、大衆の社交場だった。
おのおのが貧乏比べを笑い飛ばしていた「愉快」な時代だった。
便所は、汲み取り式。肥溜め屋が野菜の肥料集めに一軒一軒回ってく。
梅雨近くになると、役所の消毒車(自動車ではない、リアカー)に消毒液噴霧ポンプを積んで、
これまた一軒一軒消毒して周る。
蝿帳に蝿取紙、蚊帳に蚊取り線香。「停電」なんて日常茶飯事。
子供がコンメ喰ってあたって腹痛起こして死んじまったり、イボ、ハタケ、タムシ、10円ハゲ。
鼻水はたらたら、シモヤケ、アカギレ、今のママ友が見たら卒倒してしまいそうな健康状態の僕等だった。
もちろん、よっぽどでなければ「医者」なんて行かない・・・と云うより、当時は殆どが「往診」。
ベーごま、めんこ、が子ども達の経済養成所で、 如何にして勝つか、如何にして身上を残すか・・・・・
「ベーごま」では、持ち駒で一番強いのを「身上丸」と云って財産にしていた。
そんな連中、戦後っ子が、勝負強かったはずなのに今では・・・その「経済」も、落ち目。
いや、いいところはいいんだろうが、我が国の閣下、ちょうど60年安保のご時世ベーゴマどころではなかった。
もっとも、下々の生活感覚なんて想像の埒外だったに違いない。
まあ、今、閣僚席、永田町に生息する「霊長類」にはそうした体験、そうした時代的経験は無かったのでは。
その昔、「田名部元農水大臣」がいつか国会で云っていたとおり「今の政治家には商売、勝負に経験が無い」と。
貧乏人とは、庶民大衆とは遊ぶことはまかりならんと言われ、 子どものうちから金勘定するなんて品が悪いとかいわれ・・・・・
そしたら、大人になってから「労働」もせずに「金勘定」ばっかしているのだから何おか況やだが。
チョイトずれてしまったが、僕の街の「マズ・ウマ」も2軒。
ヤキトリ屋「ささき」と、ラーメン屋「可楽」。両方ともかなりの年季だ・・・・・
未だ、その名残は僕を「癒す」のに十分な「味」と「風情」がある。
東京では、目白の「丸長」。ラーメン屋だが・・・その手の「雑誌」に載ることはない(最近載ってしまった)。
それどころか繁盛しすぎて店構え、その「マズ・ウマ」ではなくなってしまった(;´д`)
後は、恵比寿の「酒蔵」・・・行ったものでしかわからない風情がある。あった。
「あった」ということは、今はもうそれはない。
何れも、負けず、劣らぬ、天下一品の「マズ・ウマ」。
戦後っ子「団塊世代」の心の空腹を十分に満たしてくれること請け合い・・・・・
団塊世代の「横丁ミシュラン」☆☆

↑目白の「丸長の「つけそば」お試しあれ!
僕の「マズ・ウマ」・・・
「マズ・ウマ」の定義。
そんな「定義」などと恰好をつけたもんではないが、僕はそう決めている。
不味そうなんだけど・・・美味い。
「なんだそりゃ」
と訝る向きもあるかも知れないが、まさに「不味そうで美味い」。
つまり「不味そう」というのは「味」ということではない。
それは、店構えそのものは極々当たり前で、いわゆるフツーの食堂、そんな趣のそれ。
で、入ってクリビツテンギョー、うめえのうまくねぇの・・・・・
そんな店がどこの街にもひとつやふたつある。
もちろん昨日今日始まったそれではないことも「マズ・ウマ」のていぎなのだが。
ところでどうでもいいことだけど僕ら世代はその必然性に育ってきた。
「終戦」と云う言葉を急いで忘れようとしている大人たちの生活文化の中・・・・・
文化と言うほどのものではないが。
「駄菓子屋」に「お好み焼屋」は、僕ら戦後っ子にとって、その「マズ・ウマ」が日常そのものであった。
着色料、添加物たっぷりの駄菓子、「ソースイカ」、衛生も糸瓜もないサッカリンたっぷりの「舐め紙」ってぇのも。
そして極めつけの芸術作品でありながらも、小学校の門前で小汚いガキ連中を相手に屋台で商っていた「お新粉」屋。
新粉を色とりどりに捏ねて、鶏だの兎だのとそれでこしらえてくれるそれだ。
戦前は何処かの和菓子職人だったのだろうかものの見事な芸術作品が瞬く間に仕上がる。
「腹壊すからそんなもん食うんじゃあねえ」
と、親たちは呆れていたが、下校時ともなるとそのガキ連中(僕等)が、テカテカのお下がりの「詰襟」と下駄に足袋で、
「5円玉」握り締めて目を輝かせてお新粉屋のオジサンの屋台に集った。
丁度、配給も終わって、そろそろ米穀台帳なしに米が買える、昭和33年頃だっただろうか。
そのお新粉屋の屋台と入替わり立ち代りに、焼きそば屋、飴細工屋、針金細工屋が露天を張った。
そうだ、僕の「マズ・ウマ」の原点ははそこにあったのだ。
終戦、まだ干支がひと回りした頃の時代の話・・・・・
「夜泣きラーメン、食堂」なんて云ったら、盆暮れあるかないかの「御馳走」。今ではとても想像はつかないが。
朝飯を炊くにしたって「竃」に炭を熾して薪をくべる。電気釜なんて言うのはそれからしばらくしてから。
秋刀魚、煮もの、味噌汁は「七輪」。昔は良かった。よかったか悪かったかは人それぞれだが(笑)。
家族団欒の食事とか何とか言ったってあの頃はそれこそ家中、ちいちゃなちゃぶ台を囲んで喧嘩騒ぎで飯を食う。
兄弟姉妹の四、五人もいようもんならわずかなオカズを取りっこで親父の怒鳴り声とオフクロの小言が耐えることがなかった。
オヤジがイッパイ入って不機嫌にでもなろうもんなら「ちゃぶ台返し」が始まる「家族団欒。
しかし、あの時代を懐かしがるなんて言うのはずいぶんと勝手な話で、
まあ、僕ら子どもで世間の様子には頓着はなかったが・・・・・・
朝鮮動乱も片付いたか片付かないかのそんな頃で、下手をすれば、また「戦争」かなんて言う物騒な時代だったらしい。
内風呂なんてある家は当然向こう三軒両隣あるはずもない。そんな時代、銭湯も老若男女、大衆の社交場だった。
おのおのが貧乏比べを笑い飛ばしていた「愉快」な時代だった。
便所は、汲み取り式。肥溜め屋が野菜の肥料集めに一軒一軒回ってく。
梅雨近くになると、役所の消毒車(自動車ではない、リアカー)に消毒液噴霧ポンプを積んで、
これまた一軒一軒消毒して周る。
蝿帳に蝿取紙、蚊帳に蚊取り線香。「停電」なんて日常茶飯事。
子供がコンメ喰ってあたって腹痛起こして死んじまったり、イボ、ハタケ、タムシ、10円ハゲ。
鼻水はたらたら、シモヤケ、アカギレ、今のママ友が見たら卒倒してしまいそうな健康状態の僕等だった。
もちろん、よっぽどでなければ「医者」なんて行かない・・・と云うより、当時は殆どが「往診」。
ベーごま、めんこ、が子ども達の経済養成所で、 如何にして勝つか、如何にして身上を残すか・・・・・
「ベーごま」では、持ち駒で一番強いのを「身上丸」と云って財産にしていた。
そんな連中、戦後っ子が、勝負強かったはずなのに今では・・・その「経済」も、落ち目。
いや、いいところはいいんだろうが、我が国の閣下、ちょうど60年安保のご時世ベーゴマどころではなかった。
もっとも、下々の生活感覚なんて想像の埒外だったに違いない。
まあ、今、閣僚席、永田町に生息する「霊長類」にはそうした体験、そうした時代的経験は無かったのでは。
その昔、「田名部元農水大臣」がいつか国会で云っていたとおり「今の政治家には商売、勝負に経験が無い」と。
貧乏人とは、庶民大衆とは遊ぶことはまかりならんと言われ、 子どものうちから金勘定するなんて品が悪いとかいわれ・・・・・
そしたら、大人になってから「労働」もせずに「金勘定」ばっかしているのだから何おか況やだが。
チョイトずれてしまったが、僕の街の「マズ・ウマ」も2軒。
ヤキトリ屋「ささき」と、ラーメン屋「可楽」。両方ともかなりの年季だ・・・・・
未だ、その名残は僕を「癒す」のに十分な「味」と「風情」がある。
東京では、目白の「丸長」。ラーメン屋だが・・・その手の「雑誌」に載ることはない(最近載ってしまった)。
それどころか繁盛しすぎて店構え、その「マズ・ウマ」ではなくなってしまった(;´д`)
後は、恵比寿の「酒蔵」・・・行ったものでしかわからない風情がある。あった。
「あった」ということは、今はもうそれはない。
何れも、負けず、劣らぬ、天下一品の「マズ・ウマ」。
戦後っ子「団塊世代」の心の空腹を十分に満たしてくれること請け合い・・・・・
団塊世代の「横丁ミシュラン」☆☆
2016年10月12日
小沢一郎「昔の名前で出ていまぁす」
小沢一郎「昔の名前で出ていまぁす」

生活→自由 「昔の党名」で出直し? 党員に賛否問う
生活の党が、かつて小沢一郎共同代表が党首を務めた「自由党」に党名を変更する調整に入った。すでに党員に郵送で賛否を募っており、12日の同党議員総会で結論を出す。同党幹部が7日、明らかにした。
自由党は1999年から2000年にかけて自民党との連立政権に参画し、政界で存在感を示した。生活の党は「昔の名前」で党勢回復を図る構えだ。
小沢氏は4日の記者会見で、「組織、党名などを全部検討し、次期衆院選に臨もうという合意を得た」と述べていた。【葛西大博】
毎日新聞2016年10月8日 東京朝刊
http://mainichi.jp/articles/20161008/ddm/005/010/104000c
<生活の党>「自由党」に党名変更…議員総会で決定
毎日新聞 10月12日(水)16時54分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161012-00000057-mai-pol
「昔の名前で出ています」
自民党に いるときゃ剛腕と言われたの
新生党、新進党、自由党
流れ流れて 戻ったその日から
選挙のためなら何でもするわ
だから、昔の名前で 出ています
忘れたことなど一度もなかったわ
いろんな政党を 知るたびに
いつもこの胸 かすめる交付金
一億、二億と ポケット隠し
やっぱ、昔の名前で出ています
国民の生活 守るといったけど
自分の生活大事です
流れ政治家の最後の止まり木に
政党要件満たしてほしい
だから、昔のナメで出ています
いったい何がしたいんでしょうねぇ・・・・・
つまり、山本太郎と仲間たちってぇ名前ふざけすぎ。
小沢一郎「昔の名前で出ていまぁす」

生活→自由 「昔の党名」で出直し? 党員に賛否問う
生活の党が、かつて小沢一郎共同代表が党首を務めた「自由党」に党名を変更する調整に入った。すでに党員に郵送で賛否を募っており、12日の同党議員総会で結論を出す。同党幹部が7日、明らかにした。
自由党は1999年から2000年にかけて自民党との連立政権に参画し、政界で存在感を示した。生活の党は「昔の名前」で党勢回復を図る構えだ。
小沢氏は4日の記者会見で、「組織、党名などを全部検討し、次期衆院選に臨もうという合意を得た」と述べていた。【葛西大博】
毎日新聞2016年10月8日 東京朝刊
http://mainichi.jp/articles/20161008/ddm/005/010/104000c
<生活の党>「自由党」に党名変更…議員総会で決定
毎日新聞 10月12日(水)16時54分配信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161012-00000057-mai-pol
「昔の名前で出ています」
自民党に いるときゃ剛腕と言われたの
新生党、新進党、自由党
流れ流れて 戻ったその日から
選挙のためなら何でもするわ
だから、昔の名前で 出ています
忘れたことなど一度もなかったわ
いろんな政党を 知るたびに
いつもこの胸 かすめる交付金
一億、二億と ポケット隠し
やっぱ、昔の名前で出ています
国民の生活 守るといったけど
自分の生活大事です
流れ政治家の最後の止まり木に
政党要件満たしてほしい
だから、昔のナメで出ています
いったい何がしたいんでしょうねぇ・・・・・
つまり、山本太郎と仲間たちってぇ名前ふざけすぎ。
小沢一郎「昔の名前で出ていまぁす」
2016年10月12日
Back to the Future 戦争の記憶「水道道路」
Back to the Future
戦争の記憶「水道道路」

↑の浮浪児狩りは政府の責任でやりました。
その児童虐待を「狩り込み」と言ったそうです。
母の夢を見た。昭和30年・・・・・
新宿が始発の発の京王線はまだ路面を走っていた。
伯母の家はその新宿から一つ目の「初台」を降りて甲州街道を渡り、
しばらく路地を行くと「水道道路」のガードに出る。
で、そのガードをくぐったすぐのところで、タイル工事業を営んでいた・・・・・・
その水道道路のガードは母にとって忘れられない場所だったようだ。
母はその水道道路のガードをくぐるたびに昭和20年3月10日の「東京大空襲」の話をした。
「ここで、いっぱい人が焼け死んでたんだよ」
って。母たちも大編隊の米軍爆撃機B-29の落とす焼夷弾に焦がされながらそのあたりを逃げまどったと言う。
「防空壕に入った人はみんな蒸し焼きになっちゃった」
その焼夷弾の業火は鉄をも溶かしていたという。
母は僕の手を引きながらそれがなんでもなかったように独り言のように言うのだった。
それはまさに地獄絵の世界だったのではないだろうか・・・・・・
「正しい戦争」

焼夷弾の被害にも焼死体ではない・・・・・
「国体護持と聖戦」

焼夷弾の業火から逃れるために隅田川に飛び込んで・・・・・・
川の水は業火で熱湯だったという。
昭和30年、戦後10年でも住むところの定まらない不運な人たちは、淀橋の浄水場あたりに沢山いた。
その「水道道路」の両側は、バラックがいっぱい立っていた。
あそこに住んでた人たちはどこへ言ったんだろう。
それからはいつも伯母の家に行く度そこを通る時母の言葉が過る。
しかしそんな情景も東京オリンピック開催が決定し、全ての戦後が掻き消されてしまったようだ。
あれから60年余、浄水場のあったところは「新宿西口公園」になり副都心と言われて久しい。
そんな時代があったことを知ってか知らずか超高層、キテレツな都庁舎では「伏魔殿騒ぎ」をしている。
そして国会ではその惨状惨劇を引き起こした子孫が南スーダンでの惨状に・・・・・
安倍首相、南スーダンの武力衝突は「戦闘行為ではない」 厳戒視察した稲田防衛相は...
http://www.huffingtonpost.jp/2016/10/11/sudan-pko_n_12438978.html
まあ、詭弁というよりは、頭オカシイね「武力衝突は「戦闘行為ではない」 ってえ論理矛盾。
ってぇことは武力、つまり武器を持って衝突、撃ち合い、殺し合いになって死んでもそれは「事故死」になるわけ?
そういやあ、イラク戦争で外務省の奥参事官が銃撃されて殺されたけど、「イラク日本人外交官射殺事件」だって。
つうことは、よしんば南スーダンで自衛隊が駆けつけ警護とかで銃撃戦して撃ち殺されてもも「武力衝突」・・・・・
つまり、「衝突」だから「戦死」じゃあないってぇこと?
ってぇと、南スーダンは「戦闘地域」じゃあなくて「武力衝突地域」だから安全(笑)。
Back to the Future
戦争の記憶「水道道路」
画像出典:http://www.kmine.sakura.ne.jp/kusyu/kuusyu.html
戦争の記憶「水道道路」

↑の浮浪児狩りは政府の責任でやりました。
その児童虐待を「狩り込み」と言ったそうです。
母の夢を見た。昭和30年・・・・・
新宿が始発の発の京王線はまだ路面を走っていた。
伯母の家はその新宿から一つ目の「初台」を降りて甲州街道を渡り、
しばらく路地を行くと「水道道路」のガードに出る。
で、そのガードをくぐったすぐのところで、タイル工事業を営んでいた・・・・・・
その水道道路のガードは母にとって忘れられない場所だったようだ。
母はその水道道路のガードをくぐるたびに昭和20年3月10日の「東京大空襲」の話をした。
「ここで、いっぱい人が焼け死んでたんだよ」
って。母たちも大編隊の米軍爆撃機B-29の落とす焼夷弾に焦がされながらそのあたりを逃げまどったと言う。
「防空壕に入った人はみんな蒸し焼きになっちゃった」
その焼夷弾の業火は鉄をも溶かしていたという。
母は僕の手を引きながらそれがなんでもなかったように独り言のように言うのだった。
それはまさに地獄絵の世界だったのではないだろうか・・・・・・
「正しい戦争」

焼夷弾の被害にも焼死体ではない・・・・・
「国体護持と聖戦」

焼夷弾の業火から逃れるために隅田川に飛び込んで・・・・・・
川の水は業火で熱湯だったという。
昭和30年、戦後10年でも住むところの定まらない不運な人たちは、淀橋の浄水場あたりに沢山いた。
その「水道道路」の両側は、バラックがいっぱい立っていた。
あそこに住んでた人たちはどこへ言ったんだろう。
それからはいつも伯母の家に行く度そこを通る時母の言葉が過る。
しかしそんな情景も東京オリンピック開催が決定し、全ての戦後が掻き消されてしまったようだ。
あれから60年余、浄水場のあったところは「新宿西口公園」になり副都心と言われて久しい。
そんな時代があったことを知ってか知らずか超高層、キテレツな都庁舎では「伏魔殿騒ぎ」をしている。
そして国会ではその惨状惨劇を引き起こした子孫が南スーダンでの惨状に・・・・・
安倍首相、南スーダンの武力衝突は「戦闘行為ではない」 厳戒視察した稲田防衛相は...
http://www.huffingtonpost.jp/2016/10/11/sudan-pko_n_12438978.html
まあ、詭弁というよりは、頭オカシイね「武力衝突は「戦闘行為ではない」 ってえ論理矛盾。
ってぇことは武力、つまり武器を持って衝突、撃ち合い、殺し合いになって死んでもそれは「事故死」になるわけ?
そういやあ、イラク戦争で外務省の奥参事官が銃撃されて殺されたけど、「イラク日本人外交官射殺事件」だって。
つうことは、よしんば南スーダンで自衛隊が駆けつけ警護とかで銃撃戦して撃ち殺されてもも「武力衝突」・・・・・
つまり、「衝突」だから「戦死」じゃあないってぇこと?
ってぇと、南スーダンは「戦闘地域」じゃあなくて「武力衝突地域」だから安全(笑)。
Back to the Future
戦争の記憶「水道道路」
画像出典:http://www.kmine.sakura.ne.jp/kusyu/kuusyu.html
2016年10月11日
ダイアナ・クラール秋の夜長はジャズ
ダイアナ・クラール秋の夜長はジャズ

音楽のある街高崎なんだからこうでなくちゃあ・・・↓
DIANA KRALL in concert Live at Union Station Toronto 2004
トロントのユニオンステーションなんだって・・・・・
無茶苦茶カッコいいよね。エルビス・コステロが邪魔だけど
Boulevard of Broken Dreams
パクってますね「ワンレイン・ナイト・イン東京」、まっ、いいけど(笑)。
Diana Krall - Crazy
やっぱしエルビス・コステロはいらねぇな、ウィリー・ネルソンは許すけど。
で、一番のおすすめはコレ↓
ビリー・ジョエルのオリジナルだけど・・・・・
ご機嫌に歌ってるね。
で、定番だけどコレ↓
Diana Krall - Fly Me To The Moon (Quartet Performances, Las Vegas)
Fly me to the moon
And let me play among the stars
Let me see what spring is like
On Jupiter and Mars
In other words
Hold my hand
In other words, darlin' kiss me
Fill my heart with songs
And let me sing forevermore
You are all I long for
All I worship and adore
In other words
Please be true
In other words, I love you..
ダイアナ・クラール秋の夜長はジャズ

音楽のある街高崎なんだからこうでなくちゃあ・・・↓
DIANA KRALL in concert Live at Union Station Toronto 2004
トロントのユニオンステーションなんだって・・・・・
無茶苦茶カッコいいよね。エルビス・コステロが邪魔だけど
Boulevard of Broken Dreams
パクってますね「ワンレイン・ナイト・イン東京」、まっ、いいけど(笑)。
Diana Krall - Crazy
やっぱしエルビス・コステロはいらねぇな、ウィリー・ネルソンは許すけど。
で、一番のおすすめはコレ↓
ビリー・ジョエルのオリジナルだけど・・・・・
ご機嫌に歌ってるね。
で、定番だけどコレ↓
Diana Krall - Fly Me To The Moon (Quartet Performances, Las Vegas)
Fly me to the moon
And let me play among the stars
Let me see what spring is like
On Jupiter and Mars
In other words
Hold my hand
In other words, darlin' kiss me
Fill my heart with songs
And let me sing forevermore
You are all I long for
All I worship and adore
In other words
Please be true
In other words, I love you..
ダイアナ・クラール秋の夜長はジャズ
2016年10月11日
音もだち「タブの木の下で」ストリートライブ
音もだち「タブの木の下で」ストリートライブ

マコちゃん。竹馬の友というか・・・・・
まあ、路上ライブっていうかあのシチュエーションだと客席歩道だし・・・・・
あれ、一人の弾き語りだとかなり大変そうです。
まあ、僕らは6人編成だったから苦にならなかったけど。
でも、まあ折角だし、思い切ってやったけど、MCのつかみが大変。
信号で停止中の妙齢のご婦人に声掛けしたり、まあ、無視されなかったからすくわれたけどね。
ところで、その「タブの木ステージ」が装いも新たになるらしいとか。
なんでも、今となっては元祖ガラ系の旧日本電電公社の「電話ボックス」撤去して・・・・・
まあ、珍しいし、記念に置いといてもいいかなとは思うんだけど、あれの管理費、ケータイから抜かれてるし。
で、「タブの木コンサート」今度からは路上向きじゃあなくて広場の方に向いてやれるんだとか。
そしたら、お一人様パフォーマーだってやりやすいと思うし、逆にエレキバンドは五月蠅いからダメとかに。
まあ、12月のイルミネーションイヴェントは、そこでライブやったり、休憩できたりとグッドです。
もちろん、オープンカフェもOKのようだし。
そんなわけで、今後の「プラネッツ・ライブ」スケジュールは・・・・・・
10月16日(日)が街中、通町四つ角。ここも道路に向かって演奏ですから、どうなることやら。
11月6日(日)レンガ通り。11月19日(土)が「えびす講」、慈光通りだって。
まあ、そんなわけですのでご都合のよろしい方は暇つぶしにいらしてください。
なんかリクエストありますか?あぁ、カップスの「銀色のグラス」聴けるとはと、知り合いが。
音もだち「タブの木の下で」ストリートライブ

マコちゃん。竹馬の友というか・・・・・
まあ、路上ライブっていうかあのシチュエーションだと客席歩道だし・・・・・
あれ、一人の弾き語りだとかなり大変そうです。
まあ、僕らは6人編成だったから苦にならなかったけど。
でも、まあ折角だし、思い切ってやったけど、MCのつかみが大変。
信号で停止中の妙齢のご婦人に声掛けしたり、まあ、無視されなかったからすくわれたけどね。
ところで、その「タブの木ステージ」が装いも新たになるらしいとか。
なんでも、今となっては元祖ガラ系の旧日本電電公社の「電話ボックス」撤去して・・・・・
まあ、珍しいし、記念に置いといてもいいかなとは思うんだけど、あれの管理費、ケータイから抜かれてるし。
で、「タブの木コンサート」今度からは路上向きじゃあなくて広場の方に向いてやれるんだとか。
そしたら、お一人様パフォーマーだってやりやすいと思うし、逆にエレキバンドは五月蠅いからダメとかに。
まあ、12月のイルミネーションイヴェントは、そこでライブやったり、休憩できたりとグッドです。
もちろん、オープンカフェもOKのようだし。
そんなわけで、今後の「プラネッツ・ライブ」スケジュールは・・・・・・
10月16日(日)が街中、通町四つ角。ここも道路に向かって演奏ですから、どうなることやら。
11月6日(日)レンガ通り。11月19日(土)が「えびす講」、慈光通りだって。
まあ、そんなわけですのでご都合のよろしい方は暇つぶしにいらしてください。
なんかリクエストありますか?あぁ、カップスの「銀色のグラス」聴けるとはと、知り合いが。
音もだち「タブの木の下で」ストリートライブ
2016年10月10日
“一”と“はじめ”はコカ・コーラの商標登録です(笑)。
“一”と“はじめ”はコカ・コーラの商標登録です(笑)。

コカ・コーラもふざけてる(笑)。
思わず「コラッ・コーラ」と言いたくなった。
それにしても、
“はじめ”と“一”はコカコーラの商標登録ですとは、言いがかりもいいところだ・・・・・
「パパの名前がテレビに出てるよ!」
娘がキャッキャと騒ぎながら僕に言った。
なんでもコカ・コーラの製造販売するペットボトルの“お茶”が、
“一”の“はじめ”なんだそうだ。
なにが商標登録だ・・・・・
訴えてやる!(笑)。
俺は生まれついて“一”の“はじめ”だ。
人の名前を勝手に使いやがって、挙句が商標登録だとぅ!!
全国の“横一はじめ”で集団訴訟だ(笑)。
やたら、“はじめ、はじめ”と五月蝿くて敵わない・・・・・・
アメリカなら相当高額な賠償金、
それも、商標登録無効裁判かなんかで・・・・・・
もし使うなら“一”使用料を頂く。
なんてったってこっちには戸籍謄本に67年前から載ってるんだから。
昨日“一”を買ってみた。
飲んでみた・・・・・・
なんだ、どれもお茶。
同じじゃあねぇか。
御託並べて、人の名前連呼して・・・・・
ボトルにはでっかく“一”の文字。
“一”は不味いなんていうことになれば名誉毀損だ。
僕が「不味い」ということになってしまう。
で、この記事、2005年の投稿だから・・・・・
で、「一」ってホントにまずかったらしくて今ではコカ・コーラのラインナップにはないです。
で、今はセブンイレブンとイトーヨーカ堂の限定販売だって。ふざけやがって。
こら、名誉棄損だな!!
“一”と“はじめ”はコカ・コーラの商標登録です(笑)。

コカ・コーラもふざけてる(笑)。
思わず「コラッ・コーラ」と言いたくなった。
それにしても、
“はじめ”と“一”はコカコーラの商標登録ですとは、言いがかりもいいところだ・・・・・
「パパの名前がテレビに出てるよ!」
娘がキャッキャと騒ぎながら僕に言った。
なんでもコカ・コーラの製造販売するペットボトルの“お茶”が、
“一”の“はじめ”なんだそうだ。
なにが商標登録だ・・・・・
訴えてやる!(笑)。
俺は生まれついて“一”の“はじめ”だ。
人の名前を勝手に使いやがって、挙句が商標登録だとぅ!!
全国の“横一はじめ”で集団訴訟だ(笑)。
やたら、“はじめ、はじめ”と五月蝿くて敵わない・・・・・・
アメリカなら相当高額な賠償金、
それも、商標登録無効裁判かなんかで・・・・・・
もし使うなら“一”使用料を頂く。
なんてったってこっちには戸籍謄本に67年前から載ってるんだから。
昨日“一”を買ってみた。
飲んでみた・・・・・・
なんだ、どれもお茶。
同じじゃあねぇか。
御託並べて、人の名前連呼して・・・・・
ボトルにはでっかく“一”の文字。
“一”は不味いなんていうことになれば名誉毀損だ。
僕が「不味い」ということになってしまう。
で、この記事、2005年の投稿だから・・・・・
で、「一」ってホントにまずかったらしくて今ではコカ・コーラのラインナップにはないです。
で、今はセブンイレブンとイトーヨーカ堂の限定販売だって。ふざけやがって。
こら、名誉棄損だな!!
“一”と“はじめ”はコカ・コーラの商標登録です(笑)。
2016年10月10日
非正規年収200万円以下、でもGDPは上昇?
非正規年収200万円以下、でもGDPは上昇?

六人に一人いるとされる「子供の貧困」を放置すると、年間約四〇兆円が失われ、国民一人ひとりの負担が増える!「かわいそう」では済まされない日本の最重要課題を、データ分析、当事者インタビュー、学術研究の紹介から国内外の先進的な取組みまで、包括的に論じつくす。
安倍って国民ナメてるよねぇ。
高齢化社会がボーナスだって。
労働者が減ってGDPが上昇って、
どんだけピンハネしてるわけ、国民所得を。
非正規労働者 .
7割が年収200万円届かず…連合など調査
非正規労働者が2000万人を超す中、非正規の7割が年収200万円に届かないことが、連合などのアンケートで分かった。アベノミクスの成果を強調する安倍晋三首相の国会答弁「妻が景気がよくなっていくからと働き始めたら(月に)25万円(年収300万円)」にはほど遠く、食事の回数を減らしたり、医者にかかれなかったりという貧困の実態が浮かんだ。
調査は非正規の家計や暮らしぶりを把握する目的で行われ、首都圏や中京圏、関西圏の20〜49歳のパート、契約、派遣社員など約2000人が回答。自分の収入が世帯収入の半分以上を占める「主稼得者(しゅかとくしゃ)」(単身世帯は全員該当)と、世帯収入の半分未満の家計補助者に分けて集計した。
それによると、全体では「年収100万円未満」が38.4%と全体の4割近くと最多で、「100万円以上200万円未満」の31.7%と合わせて7割が収入200万円に届いていない。主稼得者では男性の37.5%、女性の48.9%が「ワーキングプア(年収200万円以下の貧困層)」の範囲に入った。
また、主稼得者の世帯では「貯蓄なし」が27.9%、「生活苦への対策で食事の回数を減らした」が20.9%に上った。「医者にかかれなかった」も13.0%あった。また、家計補助者も合わせた全体で未婚は53.5%、男性に限ると89.6%に上る。年収が低いほど未婚率は高い。連合非正規労働センターの杉山寿英次長は「非正規雇用を起点に少子化や貧困の連鎖など社会のゆがみが生まれている。処遇改善が急務だ」と話す。【東海林智】
毎日新聞2016年1月20日 11時51分
http://mainichi.jp/articles/20160120/k00/00e/040/231000c
>安倍「妻が景気がよくなっていくからと働き始めたら(月に)25万円(年収300万円)」
まあ、馬鹿の一つ覚えで「アベノミクスは成功してるんです」(笑)。
「失業率は民主党政権の時より低くなってるんです」、しまいには「仕事がないよりいいわけです」って、アホデス。
言っとくけど、安倍首相って作りものですからね(笑)。
まあ、他の政治家も昼行燈です。まっ、GHQっていうか、横田がコントロールしてるんでしょう。
で、ロシアとチョメチョメって、外務省のお公家集団が鉛筆なめて安倍をチョメチョメです。
だいたいが、北方領土にしたって、現実がロシアの極東軍事基地なんだし・・・・・
まあ、今のアメリカが落ち目の三度笠、ヒラリーにトランプですから、アドミニストレーター逃げてるのかも。
で、安倍首相「4島帰属」って沖縄並みっていうことでしょ、つまり、ロシア極東軍事基地、思いやり予算(笑)。
で、シヴェリア開発とか言ってバンバン、ジャカスカ金くべて、国民は貧困。世話ないです。
まあ、団塊世代、あと20年もすればきれいさっぱり消えてなくなるからいいんだけど、じゃあ、今の非正規族はどうすんの?
20年後には全員が中高年、なんか想像しただけでもおぞましい世の中だよね。
>未婚は53.5%、男性に限ると89.6%に上る。年収が低いほど未婚率は高い。
「男性に限ると89.6%」が一人もん。お一人様なんて笑ってられない・・・・・
世の中のシステムがそういうことになっちゃってるだからどうにもならないけど、そんなこと言ったら戦後はどうだったのかです。
つまり、団塊世代という、その前後併せてで1200万人からの子供が生まれた。
そんなもん、貧困なんってぇもんじゃあない。新婚生活鍋釜がやっとで、4畳半一間の生活。
まあ、言ったらオール「非正規」みたいなもんです。そんでも、貧しくたって子供ができて楽しい我が家。
「貧乏人の子沢山」と言われながら、米だってその日に食う分だけ米屋に買いに行くとか・・・・・
味噌、醤油の貸しっこなんて日常茶飯事で、そらどこも貧乏だから「子ども食堂」どころじゃアないわけです。
考えたら、あの時代の政治家は偉かったっていうか、知恵があったんですね今の連中とは大違い。
組合がそうです。つまり、その時代の人間、やる気があった。で、そのシステム中曽根政権でほぼ壊滅だったけどね。
ほんとなら、今だって組合は組織できる、運動できる・・・・・
まあ、国鉄にしたって、郵政にしたって、半分が非正規なんだから、、もともと取り分が少ないんだから暴れりゃあいいんだ。
「生活できない、結婚できない」なんて言ってないで、パッションです。まあ、政府の教育が国民骨抜きにしちゃった。
時々仲間同士話すんだけど、みんな貧乏で先行き未透視つかない時代に「うたごえ喫茶」とか、「若い根っこの会」とか。
高崎には「メダカの会」っていうのもあったけど、そういう活動の中で若い男女、結婚した人も多かったわけです。
「きっかけがない」とか「機会がない」とか言ってるけど、そんなもん、自分で作らなくちゃあ、パッションです。
まあ、草食系男子、肉食系女子とかいうけど、だいたい少子化で、親がかりで、親が何とかしてくれる・・・・・・
でも、そろそろ、親、死んじゃいますから、で知り合いにもいるけどかなり資産があって55歳独身、婚活中。
両親とも死んじゃって、もう「お一人様歴」7年目。そういうの知り合いに5人います。
まあ、呑気でいいのも、親が生きていたころだけですね、まっ、嫁さんがいて、ガミガミ言われて、子ども育ててっていう作業は大変です。
でも、それが生きるパワーになってる。つまり、「人になれた」つうことかな。そこにいろんな生活の知恵も備わる。
今日も、60代集まってストリートライブやってきたけど、みんなパッション、喜怒哀楽を感じてます。
だから、非正規なんてくそくらえです。非正規で非正規同士が組織して自分たちで待遇改善を要求すればいい。
労働人口、6人に一人が非正規なら、それって猛烈な「政治的パワー」ですから、非正規、怖いもんなしです。
まあ、肩落として、背中丸めてちゃダメ。「ゆとり教育」ってこうゆうことだったんだね・・・・・・
非正規年収200万円以下、でもGDPは上昇?

六人に一人いるとされる「子供の貧困」を放置すると、年間約四〇兆円が失われ、国民一人ひとりの負担が増える!「かわいそう」では済まされない日本の最重要課題を、データ分析、当事者インタビュー、学術研究の紹介から国内外の先進的な取組みまで、包括的に論じつくす。
安倍って国民ナメてるよねぇ。
高齢化社会がボーナスだって。
労働者が減ってGDPが上昇って、
どんだけピンハネしてるわけ、国民所得を。
非正規労働者 .
7割が年収200万円届かず…連合など調査
非正規労働者が2000万人を超す中、非正規の7割が年収200万円に届かないことが、連合などのアンケートで分かった。アベノミクスの成果を強調する安倍晋三首相の国会答弁「妻が景気がよくなっていくからと働き始めたら(月に)25万円(年収300万円)」にはほど遠く、食事の回数を減らしたり、医者にかかれなかったりという貧困の実態が浮かんだ。
調査は非正規の家計や暮らしぶりを把握する目的で行われ、首都圏や中京圏、関西圏の20〜49歳のパート、契約、派遣社員など約2000人が回答。自分の収入が世帯収入の半分以上を占める「主稼得者(しゅかとくしゃ)」(単身世帯は全員該当)と、世帯収入の半分未満の家計補助者に分けて集計した。
それによると、全体では「年収100万円未満」が38.4%と全体の4割近くと最多で、「100万円以上200万円未満」の31.7%と合わせて7割が収入200万円に届いていない。主稼得者では男性の37.5%、女性の48.9%が「ワーキングプア(年収200万円以下の貧困層)」の範囲に入った。
また、主稼得者の世帯では「貯蓄なし」が27.9%、「生活苦への対策で食事の回数を減らした」が20.9%に上った。「医者にかかれなかった」も13.0%あった。また、家計補助者も合わせた全体で未婚は53.5%、男性に限ると89.6%に上る。年収が低いほど未婚率は高い。連合非正規労働センターの杉山寿英次長は「非正規雇用を起点に少子化や貧困の連鎖など社会のゆがみが生まれている。処遇改善が急務だ」と話す。【東海林智】
毎日新聞2016年1月20日 11時51分
http://mainichi.jp/articles/20160120/k00/00e/040/231000c
>安倍「妻が景気がよくなっていくからと働き始めたら(月に)25万円(年収300万円)」
まあ、馬鹿の一つ覚えで「アベノミクスは成功してるんです」(笑)。
「失業率は民主党政権の時より低くなってるんです」、しまいには「仕事がないよりいいわけです」って、アホデス。
言っとくけど、安倍首相って作りものですからね(笑)。
まあ、他の政治家も昼行燈です。まっ、GHQっていうか、横田がコントロールしてるんでしょう。
で、ロシアとチョメチョメって、外務省のお公家集団が鉛筆なめて安倍をチョメチョメです。
だいたいが、北方領土にしたって、現実がロシアの極東軍事基地なんだし・・・・・
まあ、今のアメリカが落ち目の三度笠、ヒラリーにトランプですから、アドミニストレーター逃げてるのかも。
で、安倍首相「4島帰属」って沖縄並みっていうことでしょ、つまり、ロシア極東軍事基地、思いやり予算(笑)。
で、シヴェリア開発とか言ってバンバン、ジャカスカ金くべて、国民は貧困。世話ないです。
まあ、団塊世代、あと20年もすればきれいさっぱり消えてなくなるからいいんだけど、じゃあ、今の非正規族はどうすんの?
20年後には全員が中高年、なんか想像しただけでもおぞましい世の中だよね。
>未婚は53.5%、男性に限ると89.6%に上る。年収が低いほど未婚率は高い。
「男性に限ると89.6%」が一人もん。お一人様なんて笑ってられない・・・・・
世の中のシステムがそういうことになっちゃってるだからどうにもならないけど、そんなこと言ったら戦後はどうだったのかです。
つまり、団塊世代という、その前後併せてで1200万人からの子供が生まれた。
そんなもん、貧困なんってぇもんじゃあない。新婚生活鍋釜がやっとで、4畳半一間の生活。
まあ、言ったらオール「非正規」みたいなもんです。そんでも、貧しくたって子供ができて楽しい我が家。
「貧乏人の子沢山」と言われながら、米だってその日に食う分だけ米屋に買いに行くとか・・・・・
味噌、醤油の貸しっこなんて日常茶飯事で、そらどこも貧乏だから「子ども食堂」どころじゃアないわけです。
考えたら、あの時代の政治家は偉かったっていうか、知恵があったんですね今の連中とは大違い。
組合がそうです。つまり、その時代の人間、やる気があった。で、そのシステム中曽根政権でほぼ壊滅だったけどね。
ほんとなら、今だって組合は組織できる、運動できる・・・・・
まあ、国鉄にしたって、郵政にしたって、半分が非正規なんだから、、もともと取り分が少ないんだから暴れりゃあいいんだ。
「生活できない、結婚できない」なんて言ってないで、パッションです。まあ、政府の教育が国民骨抜きにしちゃった。
時々仲間同士話すんだけど、みんな貧乏で先行き未透視つかない時代に「うたごえ喫茶」とか、「若い根っこの会」とか。
高崎には「メダカの会」っていうのもあったけど、そういう活動の中で若い男女、結婚した人も多かったわけです。
「きっかけがない」とか「機会がない」とか言ってるけど、そんなもん、自分で作らなくちゃあ、パッションです。
まあ、草食系男子、肉食系女子とかいうけど、だいたい少子化で、親がかりで、親が何とかしてくれる・・・・・・
でも、そろそろ、親、死んじゃいますから、で知り合いにもいるけどかなり資産があって55歳独身、婚活中。
両親とも死んじゃって、もう「お一人様歴」7年目。そういうの知り合いに5人います。
まあ、呑気でいいのも、親が生きていたころだけですね、まっ、嫁さんがいて、ガミガミ言われて、子ども育ててっていう作業は大変です。
でも、それが生きるパワーになってる。つまり、「人になれた」つうことかな。そこにいろんな生活の知恵も備わる。
今日も、60代集まってストリートライブやってきたけど、みんなパッション、喜怒哀楽を感じてます。
だから、非正規なんてくそくらえです。非正規で非正規同士が組織して自分たちで待遇改善を要求すればいい。
労働人口、6人に一人が非正規なら、それって猛烈な「政治的パワー」ですから、非正規、怖いもんなしです。
まあ、肩落として、背中丸めてちゃダメ。「ゆとり教育」ってこうゆうことだったんだね・・・・・・
非正規年収200万円以下、でもGDPは上昇?
2016年10月10日
団塊世代の「青春の光と影」(赤ちょうちん)
団塊世代の「青春の光と影」(赤ちょうちん)

それは昭和49年、僕らの始まりでもあった・・・・・
“赤ちょうちん”というか♪神田川♪なんだけど・・・・・・
僕が手拭いをマフラーにして、彼女が石鹸カタカタ言わせたのは成田町の竹の湯でした。
たしかに、裸電球で西日さえあたらない街はずれのアパート。
驚いたことにそのアパートあるんです42年前のまま。もちろんだれも住んではいませんけど・・・・・
で、よく二人で“赤ちょうちん”へ行きました(笑)。
さて、先輩、某氏の「みっちゃんとは神田川やってました」 コメントに・・・・・
ぼくの「赤ちょうちん」を、ひとくだり。
あれは昭和49年も春の宵(実際は冬なんだけど)。
25歳のしがないバンドマンとマーちゃんの「神田川」でした(ホントは長野堰)。
その「赤ちょうちん」。
それは、縄暖簾のその隣にに“さも”といった趣でぶら下がる“赤ちょうちん”。
まあ、麻生太郎風にいうなら、いわゆる「下々のみなさん!!」だが、庶民のオアシスとでも云ったところだ。
それなりの歴史が染み付いたというか、手入れの具合のいい店だったりすると・・・・・
柱もカウンターも黒光りしていて歴史を偲ばせる。
そんな、気の利いたというか、オアシスと言うか、夢のような“赤ちょうちん”はもうない。
「ぐつぐつ」と煮えたぎるモツ煮の大鍋も相当年季が入っているのか小気味良い。
それが音を奏でながら客をまっている。
そう・・・・・そんな店があった・・・・・
そんな店はなにも小奇麗である必要はない。
できれば、灯りは「松下式二股ソケット」の「紐付き2段切替スイッチ」あたりが隙間風に撫でられてかすかに揺れていると嬉しい。
それにいくらかヒシャゲタ“アルマイト製”の灰皿と、箸もけして割りばしなんかじゃあなくて、やはり年季の入った漆塗りのやつ。
そして格子の障子窓には雨露を耐え忍んだであろう、幾重もの染みでもあれば肴には困らない。
そして、そして、その開け閉めにはいつも一工夫、難儀させられる滑車の引戸・・・・・・
もちろん格子に曇りガラスで取っ手の所は庶民の血と汗と涙が染み付いて黒光りしているやつ。
時期でも良ければ、開け放たれた障子、格子の隙間から知った顔がチラホラ覗ける。
それでもどう云うわけか素のままだとそれなりに気を遣いながら開けかけた暖簾をそっと避けて具合のいい席を選る。
「お二人さん、ここが空いてるよ」
と、常連さんだろう何気に心やすい。
そう云った店は団体で来る客はそうはいない。大概が一人か二人と決まっている。
それでも3人寄らずとも、そこそこに仕上がってくるとつまらない揉め事を肴に結構賑やかになる。
贅沢なブランデーやウイスキーなどは無い精々がニッカかトリスの「角」、それもポケットだったりする。
店の中は口角泡を飛ばし、日々日頃の溜飲を下げるかのような俄か天下人の五月蝿さが滑稽さを誘う。
で、夏場には蝿取り紙にと捕まっちまった蝿が裸電球にに透けてジタバタしているさまも一興。
贅沢だろうか・・・・・?
そうかもしれない。否、贅沢である。
本当に贅沢であった。今はもうその店はない・・・・・
“中熊”
僕らはそれを、「チュークマ」と呼んでいた。
それは高崎の夜の政官財界奥座敷として名を馳せていた“宇喜代”の路地を挟んだ、その辻向かいに“中熊”はあった。
“宇喜代”がお偉方の奥座敷なら、“中熊”は「労働者の奥座敷」といったところだろうか・・・・・
それにしても棲み分けの良い時代であったものだ。
“中熊”は亭主は厨房で肴を、おかみさんはカウンターで鍋守奉行。
何と言っても、一番のウリ「モツ煮込」である。相当に年季の入った仕込であることはその味が証明している。
器は瀬戸物、箸はけして割箸などであろうはずがない。ご案内で、上物ではないにしろその塗り箸のおもてなし・・・・・
それに、時季の“漬物”。これが絶品である。当然、夏場は茄子と胡瓜、カブ、の糠漬け。そして冬場は白菜漬けとなる。
申し訳ないが、その漬物に「煮込み」があれば、“宇喜代”とて敵うまい!!
とは言うものの、小生、“宇喜代”とやらに上がれるほどの身分でないのでその比べを知る由もない、只の僻みかもしれないが。
何しろ、“宇喜代”とやら、蛇が出るのかヘビが出るのか畏れ多く・・・・・
そこで一体どんなものを飲ませて食わせてくれるのかは想像もしたことが無いのだから。
酒の銘柄は憶えていないが、その“中熊”・・・・・・
と云ううより“中熊」”を、「チュークマ」と呼ぶくらいだから、小生、頂くのはもっぱら焼酎。
ご存知の「ウメ割」だ。これも矢鱈と逸品である。
分厚いカットグラス。そんな気取った物ではないただの分厚い「コップ」。
まあ、その分厚いコップにも「赤ちょうちん」ならではの、それなりの商いのコツがあったようだ。
その分厚いコップとその皿受けに零れても尚、並々と注いでくれる「ウメ割り」。
中学で習った?
小学校だったか、「表面張力」。その表面張力に嬉々としながら・・・・・
まず、両手を膝の上に置き、嬉しさを隠し、徐を装いながらグラスに口づけ、「チューッ!!」っとイクッ!!
まさに、それこそが「チュークマ」の所以であった。
途中、溢れ零れた皿受けの「ウメ割」を、まるで子どもの頃に駄菓子屋で「さぐり」に当たった時のような気分でコップに戻す。
<少し増えている・・・・・>
裸電球に透かして量を確かめ「ニンマリ」する。
その“チュ―クマ”のもうひとつの売りは「濁り酒」だ。
誰とはなしに酒飲みが度胸試しのつもりでそれを覚える。変な話、胃カメラの時の「バリュウム」のような感じが最初の覚えである。
慣れて来ると確かに美味いに違いは無いが兎に角、足腰に来るのが騒ぎである。僕は2杯目は遠慮する事にしていた。
“チュークマ”のそれは、昭和45年、僕が当時隆盛の「キャバレー」でドラムを叩いていた頃の時代が始まりだった。
まあ、そんな店は今はもうない・・・・・
いや、一つや二つはないとあまりにも寂しすぎるので、大事にしまって置いてあるところが、あそことあそこにある。
そのあたりを次回は描いてみたい。
団塊世代の「青春の光と影」(赤ちょうちん)

それは昭和49年、僕らの始まりでもあった・・・・・
“赤ちょうちん”というか♪神田川♪なんだけど・・・・・・
僕が手拭いをマフラーにして、彼女が石鹸カタカタ言わせたのは成田町の竹の湯でした。
たしかに、裸電球で西日さえあたらない街はずれのアパート。
驚いたことにそのアパートあるんです42年前のまま。もちろんだれも住んではいませんけど・・・・・
で、よく二人で“赤ちょうちん”へ行きました(笑)。
さて、先輩、某氏の「みっちゃんとは神田川やってました」 コメントに・・・・・
ぼくの「赤ちょうちん」を、ひとくだり。
あれは昭和49年も春の宵(実際は冬なんだけど)。
25歳のしがないバンドマンとマーちゃんの「神田川」でした(ホントは長野堰)。
その「赤ちょうちん」。
それは、縄暖簾のその隣にに“さも”といった趣でぶら下がる“赤ちょうちん”。
まあ、麻生太郎風にいうなら、いわゆる「下々のみなさん!!」だが、庶民のオアシスとでも云ったところだ。
それなりの歴史が染み付いたというか、手入れの具合のいい店だったりすると・・・・・
柱もカウンターも黒光りしていて歴史を偲ばせる。
そんな、気の利いたというか、オアシスと言うか、夢のような“赤ちょうちん”はもうない。
「ぐつぐつ」と煮えたぎるモツ煮の大鍋も相当年季が入っているのか小気味良い。
それが音を奏でながら客をまっている。
そう・・・・・そんな店があった・・・・・
そんな店はなにも小奇麗である必要はない。
できれば、灯りは「松下式二股ソケット」の「紐付き2段切替スイッチ」あたりが隙間風に撫でられてかすかに揺れていると嬉しい。
それにいくらかヒシャゲタ“アルマイト製”の灰皿と、箸もけして割りばしなんかじゃあなくて、やはり年季の入った漆塗りのやつ。
そして格子の障子窓には雨露を耐え忍んだであろう、幾重もの染みでもあれば肴には困らない。
そして、そして、その開け閉めにはいつも一工夫、難儀させられる滑車の引戸・・・・・・
もちろん格子に曇りガラスで取っ手の所は庶民の血と汗と涙が染み付いて黒光りしているやつ。
時期でも良ければ、開け放たれた障子、格子の隙間から知った顔がチラホラ覗ける。
それでもどう云うわけか素のままだとそれなりに気を遣いながら開けかけた暖簾をそっと避けて具合のいい席を選る。
「お二人さん、ここが空いてるよ」
と、常連さんだろう何気に心やすい。
そう云った店は団体で来る客はそうはいない。大概が一人か二人と決まっている。
それでも3人寄らずとも、そこそこに仕上がってくるとつまらない揉め事を肴に結構賑やかになる。
贅沢なブランデーやウイスキーなどは無い精々がニッカかトリスの「角」、それもポケットだったりする。
店の中は口角泡を飛ばし、日々日頃の溜飲を下げるかのような俄か天下人の五月蝿さが滑稽さを誘う。
で、夏場には蝿取り紙にと捕まっちまった蝿が裸電球にに透けてジタバタしているさまも一興。
贅沢だろうか・・・・・?
そうかもしれない。否、贅沢である。
本当に贅沢であった。今はもうその店はない・・・・・
“中熊”
僕らはそれを、「チュークマ」と呼んでいた。
それは高崎の夜の政官財界奥座敷として名を馳せていた“宇喜代”の路地を挟んだ、その辻向かいに“中熊”はあった。
“宇喜代”がお偉方の奥座敷なら、“中熊”は「労働者の奥座敷」といったところだろうか・・・・・
それにしても棲み分けの良い時代であったものだ。
“中熊”は亭主は厨房で肴を、おかみさんはカウンターで鍋守奉行。
何と言っても、一番のウリ「モツ煮込」である。相当に年季の入った仕込であることはその味が証明している。
器は瀬戸物、箸はけして割箸などであろうはずがない。ご案内で、上物ではないにしろその塗り箸のおもてなし・・・・・
それに、時季の“漬物”。これが絶品である。当然、夏場は茄子と胡瓜、カブ、の糠漬け。そして冬場は白菜漬けとなる。
申し訳ないが、その漬物に「煮込み」があれば、“宇喜代”とて敵うまい!!
とは言うものの、小生、“宇喜代”とやらに上がれるほどの身分でないのでその比べを知る由もない、只の僻みかもしれないが。
何しろ、“宇喜代”とやら、蛇が出るのかヘビが出るのか畏れ多く・・・・・
そこで一体どんなものを飲ませて食わせてくれるのかは想像もしたことが無いのだから。
酒の銘柄は憶えていないが、その“中熊”・・・・・・
と云ううより“中熊」”を、「チュークマ」と呼ぶくらいだから、小生、頂くのはもっぱら焼酎。
ご存知の「ウメ割」だ。これも矢鱈と逸品である。
分厚いカットグラス。そんな気取った物ではないただの分厚い「コップ」。
まあ、その分厚いコップにも「赤ちょうちん」ならではの、それなりの商いのコツがあったようだ。
その分厚いコップとその皿受けに零れても尚、並々と注いでくれる「ウメ割り」。
中学で習った?
小学校だったか、「表面張力」。その表面張力に嬉々としながら・・・・・
まず、両手を膝の上に置き、嬉しさを隠し、徐を装いながらグラスに口づけ、「チューッ!!」っとイクッ!!
まさに、それこそが「チュークマ」の所以であった。
途中、溢れ零れた皿受けの「ウメ割」を、まるで子どもの頃に駄菓子屋で「さぐり」に当たった時のような気分でコップに戻す。
<少し増えている・・・・・>
裸電球に透かして量を確かめ「ニンマリ」する。
その“チュ―クマ”のもうひとつの売りは「濁り酒」だ。
誰とはなしに酒飲みが度胸試しのつもりでそれを覚える。変な話、胃カメラの時の「バリュウム」のような感じが最初の覚えである。
慣れて来ると確かに美味いに違いは無いが兎に角、足腰に来るのが騒ぎである。僕は2杯目は遠慮する事にしていた。
“チュークマ”のそれは、昭和45年、僕が当時隆盛の「キャバレー」でドラムを叩いていた頃の時代が始まりだった。
まあ、そんな店は今はもうない・・・・・
いや、一つや二つはないとあまりにも寂しすぎるので、大事にしまって置いてあるところが、あそことあそこにある。
そのあたりを次回は描いてみたい。
団塊世代の「青春の光と影」(赤ちょうちん)
2016年10月09日
スマホ不況(笑)。
スマホ不況(笑)。

若者と消費 変化の実相に迫ってこそ
若者が車にも、お酒にも、海外旅行にも興味を示さなくなったといわれて久しい。消費をしない、草食化している、元気がない、などしばしば否定的に語られる。
個人消費の回復に向けて彼らをターゲットにしたい企業側も「今どきの若者は好みが分からない」「それよりシニア市場に照準を」とどこか腰を引いているようだ。
しかし、若者は消費市場の一翼を担う存在だ。若者を取り巻く環境や彼らの関心領域を丁寧に探っていくことが大切ではないか。
<中略>
現在の若者層はいずれ、わが国の個人消費の中心世代となる。企業や政府には、この世代にしっかり向き合うことと、併せて彼らの所得雇用環境の改善を求めたい。
<抜粋引用:2016/10/06付 西日本新聞朝刊>
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/syasetu/article/280058
>若者が車にも、お酒にも、海外旅行にも興味を示さなくなったといわれて久しい。
まあ、雇用が不安定なうえ、低賃金じゃあ消費低迷は自然の流れです。
別に「興味を示さなくなった」わけじゃあなくて、お金がない。ただそれだけです(笑)。
一方では、東京都みたいに5千億円だとか、3兆円だとかピンハネ行政しておいて、若者、手に職なけりゃ派遣、非正規、バイト。
「バイトするならタウンワーク」じゃあにけど、一生「バイト人生」じゃあ、消費も自分への投資もできません。
まあ、これから東京オリンピックまでは建設ラッシュで、雇用はあるだろうけど、タウンワーク族じゃあ「警備」だけです。
で、オリンピック終わったら、そんな若者も4年後、オヤジになって、派遣村。
すっごいだろうネェ、一気に公共事業もJVの建設ラッシュも終わっちゃうんだから・・・・・
アベちゃん「雇用は増えてるんです」なんて胸張っちゃってるけど、ほとんどが「タウンワーク」ですから(;´・ω・)
で、人材不足なのは「介護分野」だけだけど、それこそ3Kですから就労、定着しません。
まあ、行政もそうゆう底辺は見て見ぬふりですから、人材輸入とかで、まあ、まさか欧米からくるわけないんで、東南アジアです。
本来なら、そんな危機的状況だっていうんなら、「介護防衛庁」でも設置して介護職は国家公務員にする。
それくらいのことしなけりゃあ、要介護老人、窓から突き落とされたり、毒盛られたり、結果、犯人も被害者です、政治の。
そんなわけで、2020年問題ですね。新国立競技場等、政官財、ピンハネするだけピンハネして、作ったはいいが・・・・・・
維持管理費は税金、国民負担ですから、国民堪ったもんじゃあないです、今の現役世代。
昭和の東京オリンピックとはわけが違う。東海道新幹線造って、首都高造って、東名高速道路造って、右肩上がり。
これまで利用者負担でほとんどペイできたけど、今度はそうゆうわけにはいきません、右肩下がり。
で、「スマホ」なんだけど、暇つぶしにはもってこいで、っていうか、アプリでテレビは見れる、カメラ、ビデオにも、本も漫画も、音楽も。
まあ、時代だからしょうがないんだけど、確実にテレビ市場は縮小、あっ、ウォークマンは消えましたね、バカチョンカメラも。
しまいには、本屋さん、潰します。タブレットとか。まあ、スッゲー時代になっちゃったわけだけど。
つまり、娯楽もスマホ、仕事もスマホ、恋愛もスマホですから人口増えません。
そんなスマホだって、今や買い替え需要だけだし、キャリアだって飽和状態ですから「スマホ不況」です。
まあ、年寄りはいいんで、若者に「ヘリコプターマネー」を、カードでいいんじゃあないの、使用期限一年、スマホで。
あっ、ちなみに、僕、まだスマホデヴューしてません、ガラパゴスです。
スマホ不況(笑)。

若者と消費 変化の実相に迫ってこそ
若者が車にも、お酒にも、海外旅行にも興味を示さなくなったといわれて久しい。消費をしない、草食化している、元気がない、などしばしば否定的に語られる。
個人消費の回復に向けて彼らをターゲットにしたい企業側も「今どきの若者は好みが分からない」「それよりシニア市場に照準を」とどこか腰を引いているようだ。
しかし、若者は消費市場の一翼を担う存在だ。若者を取り巻く環境や彼らの関心領域を丁寧に探っていくことが大切ではないか。
<中略>
現在の若者層はいずれ、わが国の個人消費の中心世代となる。企業や政府には、この世代にしっかり向き合うことと、併せて彼らの所得雇用環境の改善を求めたい。
<抜粋引用:2016/10/06付 西日本新聞朝刊>
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/syasetu/article/280058
>若者が車にも、お酒にも、海外旅行にも興味を示さなくなったといわれて久しい。
まあ、雇用が不安定なうえ、低賃金じゃあ消費低迷は自然の流れです。
別に「興味を示さなくなった」わけじゃあなくて、お金がない。ただそれだけです(笑)。
一方では、東京都みたいに5千億円だとか、3兆円だとかピンハネ行政しておいて、若者、手に職なけりゃ派遣、非正規、バイト。
「バイトするならタウンワーク」じゃあにけど、一生「バイト人生」じゃあ、消費も自分への投資もできません。
まあ、これから東京オリンピックまでは建設ラッシュで、雇用はあるだろうけど、タウンワーク族じゃあ「警備」だけです。
で、オリンピック終わったら、そんな若者も4年後、オヤジになって、派遣村。
すっごいだろうネェ、一気に公共事業もJVの建設ラッシュも終わっちゃうんだから・・・・・
アベちゃん「雇用は増えてるんです」なんて胸張っちゃってるけど、ほとんどが「タウンワーク」ですから(;´・ω・)
で、人材不足なのは「介護分野」だけだけど、それこそ3Kですから就労、定着しません。
まあ、行政もそうゆう底辺は見て見ぬふりですから、人材輸入とかで、まあ、まさか欧米からくるわけないんで、東南アジアです。
本来なら、そんな危機的状況だっていうんなら、「介護防衛庁」でも設置して介護職は国家公務員にする。
それくらいのことしなけりゃあ、要介護老人、窓から突き落とされたり、毒盛られたり、結果、犯人も被害者です、政治の。
そんなわけで、2020年問題ですね。新国立競技場等、政官財、ピンハネするだけピンハネして、作ったはいいが・・・・・・
維持管理費は税金、国民負担ですから、国民堪ったもんじゃあないです、今の現役世代。
昭和の東京オリンピックとはわけが違う。東海道新幹線造って、首都高造って、東名高速道路造って、右肩上がり。
これまで利用者負担でほとんどペイできたけど、今度はそうゆうわけにはいきません、右肩下がり。
で、「スマホ」なんだけど、暇つぶしにはもってこいで、っていうか、アプリでテレビは見れる、カメラ、ビデオにも、本も漫画も、音楽も。
まあ、時代だからしょうがないんだけど、確実にテレビ市場は縮小、あっ、ウォークマンは消えましたね、バカチョンカメラも。
しまいには、本屋さん、潰します。タブレットとか。まあ、スッゲー時代になっちゃったわけだけど。
つまり、娯楽もスマホ、仕事もスマホ、恋愛もスマホですから人口増えません。
そんなスマホだって、今や買い替え需要だけだし、キャリアだって飽和状態ですから「スマホ不況」です。
まあ、年寄りはいいんで、若者に「ヘリコプターマネー」を、カードでいいんじゃあないの、使用期限一年、スマホで。
あっ、ちなみに、僕、まだスマホデヴューしてません、ガラパゴスです。
スマホ不況(笑)。
2016年10月09日
『温故知新】東京都庁「豊洲・五輪」事件簿
【温故知新】東京都庁「豊洲・五輪」事件簿

保身、言いわけ、責任逃れ。ズルい男が権力を握る国の悲劇。
官僚の堕落は、国の堕落である。防衛利権を巡る戦後最大のスキャンダルの真実!!
騙され易い国民性・・・・・・
根っからのお人好しなんだろうか(笑い)。
ということは、明らかにこの国を為政する種族は“和らぎ”の民族ではないことになる。
中国も韓国も、そして北朝鮮も日本の国連“常任理事国”入りをこぞって非難する。
未だ歴史の反省もない、侵略国家が国連の安全保障の中枢はとんでもないというのだそうだ。
しかしそれは事実かもしれない。
昔、60年前とはいえ、その歴史的背景はともかくも日本軍部による朝鮮半島併合と北東アジア侵略・・・・・
このことは生前、満州建国時の官僚トップ、岸信介がフジテレビのインタビューで答えている。
「どうかといわれれば、確かに“侵略”戦争であった」と。
しかしながら、韓国、朝鮮、中国民のみにあらず、この日本国民も今日に至るも“騙され”続けている。
そのことにその'45年の敗戦を境にするも気付いてはいない。
今日、魚釣島、竹島問題と、取ってつけたように政治問題、領土問題と喧しいが.これとてあの延長線上以外のなにものでもない。
それは、朝鮮半島国家にしろ、中共にしろそこの支配者の内政上の都合でのたまわっているに過ぎない。
翻って、この国、政府も先刻全てを承知の上での終章狼狽を演じているのだろう。
もっとひどいと思われるのは、そのシナリオは、話題の“6ヶ国政府共同作業”であるということ。
東西冷戦終結後、連日連夜“狼と少年”が真昼間から演じられている。
2000年度から動き出した“バッジ・システム”自動警戒管制組織・・・・・・
国内28箇所にあるレーダーサイトをネットし、海上には4隻の“イージス艦”。
空からは“AWACS”・・・・・・
そして空自基地からは“F-15”と“F4EJ”、
そして地対空ミサイルの“ホーク”と“パトリオット”で日本国土進入敵機を一斉撃墜する。
さらに打ち上げ費用2千億円、年間維持費50億円の偵察衛星打ち上げ・・・・・
湾岸戦争で実証済みの命中率1割以下の“パトリオット”のライセンス生産が三菱と東芝。
“AWACS”は伊藤忠、“F-15”と“F-4”は三菱と石播・・・・・
ここ群馬でも高崎近郊で日産が“迎撃用ミサイル”を中国火薬と作っている。
こうした組織は“火”があろうがなかろうが“煙”には立ってもらわなければならない(笑)。
その“煙”が北朝鮮の“テポドン”であり、韓国の謝罪要求と“竹島”であり、
中国の尖閣諸島と排他的水域の領海問題。
中国原潜を領海侵犯させ、石原都知事に“南鳥島”を防衛すると言わせて見たり・・・・・・
中国、韓国人の日本国内犯罪を放置してみたり。
いずれも政府中枢、この国の支配階級には危害の及ばない話。
ひとたび、高級官僚、与党政治家の家族にでも危害が及ぶようなことになれば 直ちに国家権力を総出動させて戒厳を敷く。
ところで今日の高度成長期以前にも増しての政治の荒廃は竹下内閣あたりからではないだろうか・・・・・
金融地下組織と暴力団と官僚組織との完全な癒着構造。
癒着というよりは、“二人三脚”構造・・・・・
今はその生き証人、当事者は“民主党”と、看板を付け替えた“小沢一郎”しかいない。
あとは、政治家の竹下、金丸、中西に暴力団の石井進、東京佐川の渡辺等々が骨壷の中。
前にも書いたが、そう・・・・・・
今のこの国はあの時のまま。
あの時の利権構造を、戦後官僚政治の“岸派”の、岸、福田の嫡子小泉が。
それを吉田、佐藤、田中、竹下から政官財挙げての利権奪取の総仕上げをしているに過ぎない。
「取り戻す」とは、アベちゃん名言です(笑)。
旧聞だが、“ソフトバンク”が、“ライブドア”が、そして“フジ”がと言ったところで・・・・・
こんなものは国民の耳目関心を政治抗争から逸らすための情報操作でしかない。
だいたいが、“IT産業”といったところで、そんなもん、金融業界の“消費者金融”みたいなもの。
この国家権力はいつでも瞬時にそいつらを“犯罪人”に仕立て上げることは朝飯前。
リクルートがそうだったように。江副さん死んじゃったけど今日のこれも時代の空花だろう。
国民はすぐに飽きる(笑)。
こんな娑婆の騒動に救われたのが、 旧社会保険庁に、NHKに、エログロ国会議員。
そしてニュースの俎上にも上らない“幽政罠営化”というのがあったがそれとて300兆にも届かんとする資金争奪の総仕上げ。
まあ、その旧郵貯だが1億2千万人しかいないのに5億口座ってなにれ(笑)。
ふと思い出した“防衛庁水増し”事件。
じゃあなかった“防衛施設庁”の水増し汚職事件・・・・・・じゃあなかった・・・・・・
あれ・・・・・ぇ、なんだっけ・・・・・そうそう『防衛施設庁談合汚職事件』だった。
ひとつが捕まればまたひとつと・・・・・追っても追ってもブンブン五月蝿い銀バエのよう。
政治腐敗、構造には始まりばかりで“終わり”がない。
今度は東京都の「汚職」。金額がすごい豊洲が5千億、五輪が3兆円(笑)。
【温故知新】東京都庁「豊洲・五輪」事件簿

保身、言いわけ、責任逃れ。ズルい男が権力を握る国の悲劇。
官僚の堕落は、国の堕落である。防衛利権を巡る戦後最大のスキャンダルの真実!!
騙され易い国民性・・・・・・
根っからのお人好しなんだろうか(笑い)。
ということは、明らかにこの国を為政する種族は“和らぎ”の民族ではないことになる。
中国も韓国も、そして北朝鮮も日本の国連“常任理事国”入りをこぞって非難する。
未だ歴史の反省もない、侵略国家が国連の安全保障の中枢はとんでもないというのだそうだ。
しかしそれは事実かもしれない。
昔、60年前とはいえ、その歴史的背景はともかくも日本軍部による朝鮮半島併合と北東アジア侵略・・・・・
このことは生前、満州建国時の官僚トップ、岸信介がフジテレビのインタビューで答えている。
「どうかといわれれば、確かに“侵略”戦争であった」と。
しかしながら、韓国、朝鮮、中国民のみにあらず、この日本国民も今日に至るも“騙され”続けている。
そのことにその'45年の敗戦を境にするも気付いてはいない。
今日、魚釣島、竹島問題と、取ってつけたように政治問題、領土問題と喧しいが.これとてあの延長線上以外のなにものでもない。
それは、朝鮮半島国家にしろ、中共にしろそこの支配者の内政上の都合でのたまわっているに過ぎない。
翻って、この国、政府も先刻全てを承知の上での終章狼狽を演じているのだろう。
もっとひどいと思われるのは、そのシナリオは、話題の“6ヶ国政府共同作業”であるということ。
東西冷戦終結後、連日連夜“狼と少年”が真昼間から演じられている。
2000年度から動き出した“バッジ・システム”自動警戒管制組織・・・・・・
国内28箇所にあるレーダーサイトをネットし、海上には4隻の“イージス艦”。
空からは“AWACS”・・・・・・
そして空自基地からは“F-15”と“F4EJ”、
そして地対空ミサイルの“ホーク”と“パトリオット”で日本国土進入敵機を一斉撃墜する。
さらに打ち上げ費用2千億円、年間維持費50億円の偵察衛星打ち上げ・・・・・
湾岸戦争で実証済みの命中率1割以下の“パトリオット”のライセンス生産が三菱と東芝。
“AWACS”は伊藤忠、“F-15”と“F-4”は三菱と石播・・・・・
ここ群馬でも高崎近郊で日産が“迎撃用ミサイル”を中国火薬と作っている。
こうした組織は“火”があろうがなかろうが“煙”には立ってもらわなければならない(笑)。
その“煙”が北朝鮮の“テポドン”であり、韓国の謝罪要求と“竹島”であり、
中国の尖閣諸島と排他的水域の領海問題。
中国原潜を領海侵犯させ、石原都知事に“南鳥島”を防衛すると言わせて見たり・・・・・・
中国、韓国人の日本国内犯罪を放置してみたり。
いずれも政府中枢、この国の支配階級には危害の及ばない話。
ひとたび、高級官僚、与党政治家の家族にでも危害が及ぶようなことになれば 直ちに国家権力を総出動させて戒厳を敷く。
ところで今日の高度成長期以前にも増しての政治の荒廃は竹下内閣あたりからではないだろうか・・・・・
金融地下組織と暴力団と官僚組織との完全な癒着構造。
癒着というよりは、“二人三脚”構造・・・・・
今はその生き証人、当事者は“民主党”と、看板を付け替えた“小沢一郎”しかいない。
あとは、政治家の竹下、金丸、中西に暴力団の石井進、東京佐川の渡辺等々が骨壷の中。
前にも書いたが、そう・・・・・・
今のこの国はあの時のまま。
あの時の利権構造を、戦後官僚政治の“岸派”の、岸、福田の嫡子小泉が。
それを吉田、佐藤、田中、竹下から政官財挙げての利権奪取の総仕上げをしているに過ぎない。
「取り戻す」とは、アベちゃん名言です(笑)。
旧聞だが、“ソフトバンク”が、“ライブドア”が、そして“フジ”がと言ったところで・・・・・
こんなものは国民の耳目関心を政治抗争から逸らすための情報操作でしかない。
だいたいが、“IT産業”といったところで、そんなもん、金融業界の“消費者金融”みたいなもの。
この国家権力はいつでも瞬時にそいつらを“犯罪人”に仕立て上げることは朝飯前。
リクルートがそうだったように。江副さん死んじゃったけど今日のこれも時代の空花だろう。
国民はすぐに飽きる(笑)。
こんな娑婆の騒動に救われたのが、 旧社会保険庁に、NHKに、エログロ国会議員。
そしてニュースの俎上にも上らない“幽政罠営化”というのがあったがそれとて300兆にも届かんとする資金争奪の総仕上げ。
まあ、その旧郵貯だが1億2千万人しかいないのに5億口座ってなにれ(笑)。
ふと思い出した“防衛庁水増し”事件。
じゃあなかった“防衛施設庁”の水増し汚職事件・・・・・・じゃあなかった・・・・・・
あれ・・・・・ぇ、なんだっけ・・・・・そうそう『防衛施設庁談合汚職事件』だった。
ひとつが捕まればまたひとつと・・・・・追っても追ってもブンブン五月蝿い銀バエのよう。
政治腐敗、構造には始まりばかりで“終わり”がない。
今度は東京都の「汚職」。金額がすごい豊洲が5千億、五輪が3兆円(笑)。
【温故知新】東京都庁「豊洲・五輪」事件簿
2016年10月08日
団塊世代の「青春の光と影」(僕の細道)
団塊世代の「青春の光と影」(僕の細道)

「高崎の道」様より無断拝借しました。
ぴったりの画像だったのでつい。もしアレでしたら削除しますのでご一報下さい。
http://www.fuvic.com/takasakitomin/michi/ootemaedori/ootemaedori.html
社会そのものが老化している。
この町の街中は目線の外れた高層建築物の住宅と朽ちた商店街に「コインパーキング」の入れ歯状態。
40年ほど昔とは、その街を賑やかす若者の数は半分ほどに減少している。
その昔は「コンパクトシティ」そのものだったこの街・・・・・
駅前には「駅前旅館」「食堂」「土産物屋」が立ち並び小洒落た喫茶店が乗降客に一服を誘っていた。
それは、ディスカウントストアの走りだろうか、駅前通りには「イシヅカ」なるショップがあって当時の若者は結構重宝していたと聞く。
さらに「割賦販売」の「緑屋」なんていうのもデパートの趣の店構えであった。
「あら町」、「信濃屋旅館」のとっつきを右に曲がると、「VAN高崎」とか「リーガルショップ」があって、その斜向かいには「赤羽楽器」が唯一の楽器店として繁盛していた。
そしてその並びには「八木橋デパート」「赤かんばん」、しばらく行くと連雀町の交差点には「バラエティショップ西脇」がその四角に、そのトイ面が昭和、戦前からあった「高島屋ストア」。
その「高島屋ストア」は、聞く所によれば「10銭ショップ」、今の「百円ショップ」だろうか、結構盛っていたらしい。
そして、その連雀町交差点を通町方面に行けば、右に「十字屋デパート」、その前はたしか「銀星座」という映画館だったが、その左に「藤五デパート」そして「さくらや」が。
言われている「レンガ通り」はたしか「古着屋街」であったように記憶する。後に「ビギ」「メルローズ」とかの「ブティック」が立ち並ぶ高崎の「原宿」に。
そうだ、その一角に「メモリー」という、当時では走りの喫茶店でもない、今で言うスナックでもない「パブ」のようなお店は頻繁に寄らせてもらっていた。
まあ、その一角には「ピカデリー」なる映画館もあり、砂賀町には「三明」なるラーメン屋が忙しくしていた。
その連雀町の交差点を西に向かうと、「田原屋」があり、今では「さやモール」とかになっているがその四ツ角には「アサヒ商会」と「小板橋」といった文房具店両雄がその商いを競っていた。
もちろん、その「さやモール」だが、「喫茶あすなろ」があり、「東映映画館」があり、たしか「マギー画廊」なるものもあり、そして「文開堂書店」、「学陽書房」とがあり、その界隈はアーティカルなストリートの趣であった。
そう、その四ツ角だが、「中央スカイビル」の屋上展望レストランは当時は高崎一の高層で「回転式レストラン」として、その時代の名所だった。
そのお隣が、「いわと」という、喫茶店で当時はかなり盛っていて、その先にある「スズラン百貨店」の行き帰りに立ち寄ったと記憶する。
今ではすっかり閑散としているが東電のところからの「桜橋通り」。そこには僕が二十歳前後の頃から通い始めたラーメンの「成吉思汗」があった、いや、「ある」・・・・・
そこから、中央銀座通り、アーケードを入ると「みゆきダンスホール」。今風に言うなら「ライブハウス」だろうか、まさに「団塊世代」のたまり場で昭和40年前後から空前のブームとなった「エレキ」「グループサウンズ」に沸き立ち連日超満員のその中で演奏したことが懐かしい。
そうだ、その並びには「松原楽器」、当時はピアノ専門ではなかったかそんな高尚な楽器店もあった。
紳士服の「マツヤ」、和菓子の「観音堂」、昼間から酔客で賑やかだった「田島食堂」、そして「八百為」という大規模な八百屋に「天華堂」という大型書店、蕎麦の「すかや」、高崎一地価の高かった「関口メガネ店」。
そしてご婦人専門の「おしゃれデパート」にその界隈には「衣料品店」の数々が・・・・・
そんな中に映画館「オリオン座」「松竹」、「東宝」と封切り館が華やいでいた。そうだ、歌声喫茶「風」なども忘れられない存在だろう。あっ、大映の封切り館の「電気館」も忘れてはならないだろう。そしてその地下が、当時流行たての「コンパ」が。
まあ、昭和40年前後、高崎の街中には「喫茶店」がその時代を飾っていた。
団塊世代には、懐かしくもこそばゆい「同伴喫茶」なるものもあって善良健全な若き男女の密会の場所でもあった。
それは、嘉多町の「キャメル」、お濠端の「キャンドル」「マーセル」は甘酸っぱい思い出だ。
今言われる「コンパクトシティ」は東西駅前のみを中心とした人工的なものでしかない。
ただ、朽ちてゆくのを待つだけなのだろうか、旧まちなか、市街地。申し訳程度の予算で「活性化」の号令だが。
本来の「コンパクトシティ」とはそんなものではないはずだ。
それは「再生」か、もっと言えば街の「蘇生」か。
先日、中央銀座通りを盛り上げようと企画した矢先に組合理事長(57)さんが急逝した。
先般、高崎電気館「昭和の風コンサート」でも一方ならぬお世話、ご尽力を頂き誠に残念なことです。
ここは何とか故・理事長さんの遺志を遂げるためにもと頑張ってるのですが・・・・・
団塊世代の「青春の光と影」(僕の細道)

「高崎の道」様より無断拝借しました。
ぴったりの画像だったのでつい。もしアレでしたら削除しますのでご一報下さい。
http://www.fuvic.com/takasakitomin/michi/ootemaedori/ootemaedori.html
社会そのものが老化している。
この町の街中は目線の外れた高層建築物の住宅と朽ちた商店街に「コインパーキング」の入れ歯状態。
40年ほど昔とは、その街を賑やかす若者の数は半分ほどに減少している。
その昔は「コンパクトシティ」そのものだったこの街・・・・・
駅前には「駅前旅館」「食堂」「土産物屋」が立ち並び小洒落た喫茶店が乗降客に一服を誘っていた。
それは、ディスカウントストアの走りだろうか、駅前通りには「イシヅカ」なるショップがあって当時の若者は結構重宝していたと聞く。
さらに「割賦販売」の「緑屋」なんていうのもデパートの趣の店構えであった。
「あら町」、「信濃屋旅館」のとっつきを右に曲がると、「VAN高崎」とか「リーガルショップ」があって、その斜向かいには「赤羽楽器」が唯一の楽器店として繁盛していた。
そしてその並びには「八木橋デパート」「赤かんばん」、しばらく行くと連雀町の交差点には「バラエティショップ西脇」がその四角に、そのトイ面が昭和、戦前からあった「高島屋ストア」。
その「高島屋ストア」は、聞く所によれば「10銭ショップ」、今の「百円ショップ」だろうか、結構盛っていたらしい。
そして、その連雀町交差点を通町方面に行けば、右に「十字屋デパート」、その前はたしか「銀星座」という映画館だったが、その左に「藤五デパート」そして「さくらや」が。
言われている「レンガ通り」はたしか「古着屋街」であったように記憶する。後に「ビギ」「メルローズ」とかの「ブティック」が立ち並ぶ高崎の「原宿」に。
そうだ、その一角に「メモリー」という、当時では走りの喫茶店でもない、今で言うスナックでもない「パブ」のようなお店は頻繁に寄らせてもらっていた。
まあ、その一角には「ピカデリー」なる映画館もあり、砂賀町には「三明」なるラーメン屋が忙しくしていた。
その連雀町の交差点を西に向かうと、「田原屋」があり、今では「さやモール」とかになっているがその四ツ角には「アサヒ商会」と「小板橋」といった文房具店両雄がその商いを競っていた。
もちろん、その「さやモール」だが、「喫茶あすなろ」があり、「東映映画館」があり、たしか「マギー画廊」なるものもあり、そして「文開堂書店」、「学陽書房」とがあり、その界隈はアーティカルなストリートの趣であった。
そう、その四ツ角だが、「中央スカイビル」の屋上展望レストランは当時は高崎一の高層で「回転式レストラン」として、その時代の名所だった。
そのお隣が、「いわと」という、喫茶店で当時はかなり盛っていて、その先にある「スズラン百貨店」の行き帰りに立ち寄ったと記憶する。
今ではすっかり閑散としているが東電のところからの「桜橋通り」。そこには僕が二十歳前後の頃から通い始めたラーメンの「成吉思汗」があった、いや、「ある」・・・・・
そこから、中央銀座通り、アーケードを入ると「みゆきダンスホール」。今風に言うなら「ライブハウス」だろうか、まさに「団塊世代」のたまり場で昭和40年前後から空前のブームとなった「エレキ」「グループサウンズ」に沸き立ち連日超満員のその中で演奏したことが懐かしい。
そうだ、その並びには「松原楽器」、当時はピアノ専門ではなかったかそんな高尚な楽器店もあった。
紳士服の「マツヤ」、和菓子の「観音堂」、昼間から酔客で賑やかだった「田島食堂」、そして「八百為」という大規模な八百屋に「天華堂」という大型書店、蕎麦の「すかや」、高崎一地価の高かった「関口メガネ店」。
そしてご婦人専門の「おしゃれデパート」にその界隈には「衣料品店」の数々が・・・・・
そんな中に映画館「オリオン座」「松竹」、「東宝」と封切り館が華やいでいた。そうだ、歌声喫茶「風」なども忘れられない存在だろう。あっ、大映の封切り館の「電気館」も忘れてはならないだろう。そしてその地下が、当時流行たての「コンパ」が。
まあ、昭和40年前後、高崎の街中には「喫茶店」がその時代を飾っていた。
団塊世代には、懐かしくもこそばゆい「同伴喫茶」なるものもあって善良健全な若き男女の密会の場所でもあった。
それは、嘉多町の「キャメル」、お濠端の「キャンドル」「マーセル」は甘酸っぱい思い出だ。
今言われる「コンパクトシティ」は東西駅前のみを中心とした人工的なものでしかない。
ただ、朽ちてゆくのを待つだけなのだろうか、旧まちなか、市街地。申し訳程度の予算で「活性化」の号令だが。
本来の「コンパクトシティ」とはそんなものではないはずだ。
それは「再生」か、もっと言えば街の「蘇生」か。
先日、中央銀座通りを盛り上げようと企画した矢先に組合理事長(57)さんが急逝した。
先般、高崎電気館「昭和の風コンサート」でも一方ならぬお世話、ご尽力を頂き誠に残念なことです。
ここは何とか故・理事長さんの遺志を遂げるためにもと頑張ってるのですが・・・・・
団塊世代の「青春の光と影」(僕の細道)
2016年10月07日
団塊世代「戦後ヒストリア」横丁見聞録
団塊世代「戦後ヒストリア」横丁見聞録

まあ、この風情が横丁だね・・・・・
柳川町だってそんな横丁が赤ちょうちんぶら下げてた。
昔ゃあ、電気館の奥りにゃあ「佐武」なんてぇ飲み屋があって(すぐ近くに移転してます。)
愛想の悪い「万作」は閉めちゃったし、もう昔の面影なんてありゃしません。
僕らが子どもの頃、です。
なんとも強面だったのがヒロポン中毒で背中には「般若の刺青」の畳屋の「セーちゃん」。
お噂では数年前にお隠れ遊ばされたとのことだが・・・・・
まだ、戦後の風情が色濃く残る、まあ、ざわざわ、わさわさした時代でした。
僕の「横丁」には「エライ」人は随分と居た・・・
頭の「新井さん」とか、「団子屋のマーボー」に、縄抜けの「真ちゃん」とか・・・
あぼん屋の「ナミチャン」なんて云う人も居た。
戦後は右も左も・・・「エライ」時代だった。
昭和31年、「赤線」が消え・・・ここ「横丁」は北関東きっての「歓楽街」と名を馳せた。
「横丁」の長屋には、「お水」のお姉さんが一方の風情を織り成していた。
「横丁」には、何処の「横丁」にも、コップ酒場があった・・・
大体が、酒屋。今で云うなら「コンビ」の趣、カウンターで飲む、縁台で飲む。
良くは知らないが、何でも「料飲法」という奴で・・・
座らせて、飲ませてはいけない決まりがあったようだが、そんなことはお構いなし、
「エチルアルコホール」のきついのが一杯も入れば「矢でも鉄砲でも持って来い」のご時世。
しかし、いつの世も「お上」てぇ奴は「庶民」には横柄だねぇ。
昭和30年代です・・・
買防でパクラレル、お姉さん、選挙違反でしょっ引かれる、近所のおじさん。、
垣根越しの悪たれ、罵詈雑言、鍋釜が飛び交う夫婦喧嘩・・・それでいて「離縁」なんて云う話は聞くこともない。
6畳一間の長屋に下手をすれば、三世代・・・共同便所に、共同炊事場、共同水道。
疫痢、赤痢、はたけに、田虫・・・チョイト運が悪ければ、トラホームに蓄膿、デキモン問屋。
町医者にしたって、ヤブもヘボもない・・・
国民皆保険がやっと始まる頃だから、医者なんかにはかかる筈もない、殆どが往診。
もっとも、病院たって、別に「医療機器」があるわけじゃあないし、医者もこられても困っただろう。
あの頃、あの時代の「ガキ」だから、僕らの「ジンバラ」は今の「ガキ」の「ジンバラ」とは「ジンバラ」が違う。
考えてみれば、肉こそ食わなかったものの・・・
冷蔵庫と云う物が無かったお陰でいつも、旬の物・・・新鮮な物を食べていたわけだ。
ここ高崎は、内陸、海なし県だから鮮魚は殆ど縁が無い。
秋刀魚、鯖、鯵の開き、鰹のナマリに、鯖の煮付け・・・
佃煮屋も「横丁」には必ず一軒あった、豆腐屋、八百屋は引き売り、納豆屋、卵屋は朝の目覚まし。
牛乳も、搾りたて、野菜も採れたて、梅干、糠漬け、沢庵に白菜漬け・・・
今頃は、チョイト漬き過ぎた、紫紺の「ナス」と口の曲がりそうな「キュウリ」があれば、3杯飯は行ける。
今朝も、そのナスと、大根・・・豆腐と大根の味噌汁でレトロな贅沢三昧。
大型冷蔵庫には・・・賞味期限すれすれの生鮮食品が冷汗かいてやがる。
それにしても「時代」という物は、随分と無駄を作るもんだ。
団塊世代「戦後ヒストリア」横丁見聞録

まあ、この風情が横丁だね・・・・・
柳川町だってそんな横丁が赤ちょうちんぶら下げてた。
昔ゃあ、電気館の奥りにゃあ「佐武」なんてぇ飲み屋があって(すぐ近くに移転してます。)
愛想の悪い「万作」は閉めちゃったし、もう昔の面影なんてありゃしません。
僕らが子どもの頃、です。
なんとも強面だったのがヒロポン中毒で背中には「般若の刺青」の畳屋の「セーちゃん」。
お噂では数年前にお隠れ遊ばされたとのことだが・・・・・
まだ、戦後の風情が色濃く残る、まあ、ざわざわ、わさわさした時代でした。
僕の「横丁」には「エライ」人は随分と居た・・・
頭の「新井さん」とか、「団子屋のマーボー」に、縄抜けの「真ちゃん」とか・・・
あぼん屋の「ナミチャン」なんて云う人も居た。
戦後は右も左も・・・「エライ」時代だった。
昭和31年、「赤線」が消え・・・ここ「横丁」は北関東きっての「歓楽街」と名を馳せた。
「横丁」の長屋には、「お水」のお姉さんが一方の風情を織り成していた。
「横丁」には、何処の「横丁」にも、コップ酒場があった・・・
大体が、酒屋。今で云うなら「コンビ」の趣、カウンターで飲む、縁台で飲む。
良くは知らないが、何でも「料飲法」という奴で・・・
座らせて、飲ませてはいけない決まりがあったようだが、そんなことはお構いなし、
「エチルアルコホール」のきついのが一杯も入れば「矢でも鉄砲でも持って来い」のご時世。
しかし、いつの世も「お上」てぇ奴は「庶民」には横柄だねぇ。
昭和30年代です・・・
買防でパクラレル、お姉さん、選挙違反でしょっ引かれる、近所のおじさん。、
垣根越しの悪たれ、罵詈雑言、鍋釜が飛び交う夫婦喧嘩・・・それでいて「離縁」なんて云う話は聞くこともない。
6畳一間の長屋に下手をすれば、三世代・・・共同便所に、共同炊事場、共同水道。
疫痢、赤痢、はたけに、田虫・・・チョイト運が悪ければ、トラホームに蓄膿、デキモン問屋。
町医者にしたって、ヤブもヘボもない・・・
国民皆保険がやっと始まる頃だから、医者なんかにはかかる筈もない、殆どが往診。
もっとも、病院たって、別に「医療機器」があるわけじゃあないし、医者もこられても困っただろう。
あの頃、あの時代の「ガキ」だから、僕らの「ジンバラ」は今の「ガキ」の「ジンバラ」とは「ジンバラ」が違う。
考えてみれば、肉こそ食わなかったものの・・・
冷蔵庫と云う物が無かったお陰でいつも、旬の物・・・新鮮な物を食べていたわけだ。
ここ高崎は、内陸、海なし県だから鮮魚は殆ど縁が無い。
秋刀魚、鯖、鯵の開き、鰹のナマリに、鯖の煮付け・・・
佃煮屋も「横丁」には必ず一軒あった、豆腐屋、八百屋は引き売り、納豆屋、卵屋は朝の目覚まし。
牛乳も、搾りたて、野菜も採れたて、梅干、糠漬け、沢庵に白菜漬け・・・
今頃は、チョイト漬き過ぎた、紫紺の「ナス」と口の曲がりそうな「キュウリ」があれば、3杯飯は行ける。
今朝も、そのナスと、大根・・・豆腐と大根の味噌汁でレトロな贅沢三昧。
大型冷蔵庫には・・・賞味期限すれすれの生鮮食品が冷汗かいてやがる。
それにしても「時代」という物は、随分と無駄を作るもんだ。
団塊世代「戦後ヒストリア」横丁見聞録
2016年10月07日
団塊世代「青春の光と影」(想い出のサンフランシスコ)
団塊世代「青春の光と影」(想い出のサンフランシスコ)

フランクシナトラ、パットブーン、ブレンダリー
中学3年の時、同級生で「花街の母」をもつハイカラな「小林君」と云うやつが居た。
そいつん家には、蓄音機どころか「ステレオ」なる物があってレコードもぎっしり。どういうわけかオール洋モノ!!
それはフォークソングとはこれまた、全く違った世界がそこにはあった。
確かに、チューチュートレインの二―ルセダカも、ダイアナのポールアンカも良かったが、
「シナトラ」・・・・・それは大人の匂いがした。
別に、英語が得意であったわけではないが・・・・・・・・
その「シナトラ」の「想い出のサンフランシスコ」はあっという間に空で覚えてしまった。
三つ子の魂百まで、今でも一語一句覚えている。
小林君は病がちでよく学校を休んだ。色々分けがあったのだろうが「虐め」にもあっていた。
小林君は一年ほど休学して「一中」から転向してきた。どうも一中では相当の虐めにあったようだ。
小林君は大のプロレスファンで、中でも「力道山」の大ファンだった。
しかし、その年、中学3年の時「力道山」 が刺されて死んでしまい、悲嘆に暮れつづけた小林君だった。
その年はいろいろなことがあった。
何と言ってもアメリカ大統領JFケネディが暗殺された「ダラスの金曜日」 だろう。
そして、ベトナム戦争の煙を見せ始めた「トンキン湾事件」、ソ連の有人宇宙飛行ガガーリン大佐の「地球は蒼かった」と。
時代は刻々と移ろいを鮮明にし始めていた頃だった。

ケーブルカーから望むサンフランシスコ湾と,
アル・カポネが投獄されていたアルカトラズ島
何で「想い出のサンフランシスコ」だったんだろうか・・・・・・・
しかもフランクシナトラのそれ。 ハッキリ言ってシナトラはあまり上手くはない(笑)。
トニー・ベネット、ブレンダ・リーも歌っていたのだがやはり一番最初に聴いたからなのだろうか。
昭和49年1月、僕はエレキの買付を兼ねて初めてのアメリカ旅行をした。
LA、アナハイムでの全米楽器ショー、通称「NAMM」と言われているコンベンション.
その合い間を縫ってサンフランシスコへ一泊で遊びに行った。

↑1977年1月25日“ケーブルカー”でのスナップ
乗り合わせた初老の紳士にお願いした・・・・・
LAXからは丁度、東京大阪くらいの距離、往復で150ドルくらいだったろうか。
安い、いや、まだ1ドルが360円の頃のことだったから5万4千円かなりの出費だった(;´д`)
飛行機は小一時間でサンフランシスコに着いた。
行き当たりばったりのサンフランシスコだったがホテルはチャイナタウンの近くに取り・・・・・・・・
日長、ケーブルカーに楽器屋巡りにと結構楽しんだ。
僕はサンフランシスコのダウンタウンのギターショップで中古の「レスポール」のゴールドトップを買った。
無茶苦茶重たい奴だったが。たしか400ドルくらいだったと思う・・・・・・・
それでも日本で買えば中古でも30万円近くはしただろう代物物だった。
僕はそのレスポールを抱えてゴールデンゲートブリッジの袂にあるフィッシャーマンズワーフに行った。
やっと夢がかなったと思うと小躍りしたいくらいに気持ちが高ぶった・・・・・・
♪アイ・レフト・マイハ~ト・・・イン・サンフランシスコ♪
やっぱりトニー・ベネットですね!!
そのレスポールをケースから取り出すと僕はネックに耳を当てながらそう、呟くように唄った。
フィッシャーマンズワーフ名物の茹でたてのクラブを頬張りながら。
「想い出のサンフランシスコ」と言えば・・・・・・・
キャバレーニュージャパンでドラムを叩いていた時、ビッグショーで来た「勝新太郎」のそれ。
リハーサルは“シーチョー”だったけど、今までのどの「思い出のサンフランシスコ」よりも絶品だった・・・・・・・
そう言えば、バンドへの「プーチ」も、タダモノではなかった。
それはそうと、あの、花街の母の「小林君」、今頃どうしているだろうか?
相変わらず、洋楽を楽しんでいるだろうか・・・・・???
団塊世代「青春の光と影」(想い出のサンフランシスコ)

フランクシナトラ、パットブーン、ブレンダリー
中学3年の時、同級生で「花街の母」をもつハイカラな「小林君」と云うやつが居た。
そいつん家には、蓄音機どころか「ステレオ」なる物があってレコードもぎっしり。どういうわけかオール洋モノ!!
それはフォークソングとはこれまた、全く違った世界がそこにはあった。
確かに、チューチュートレインの二―ルセダカも、ダイアナのポールアンカも良かったが、
「シナトラ」・・・・・それは大人の匂いがした。
別に、英語が得意であったわけではないが・・・・・・・・
その「シナトラ」の「想い出のサンフランシスコ」はあっという間に空で覚えてしまった。
三つ子の魂百まで、今でも一語一句覚えている。
小林君は病がちでよく学校を休んだ。色々分けがあったのだろうが「虐め」にもあっていた。
小林君は一年ほど休学して「一中」から転向してきた。どうも一中では相当の虐めにあったようだ。
小林君は大のプロレスファンで、中でも「力道山」の大ファンだった。
しかし、その年、中学3年の時「力道山」 が刺されて死んでしまい、悲嘆に暮れつづけた小林君だった。
その年はいろいろなことがあった。
何と言ってもアメリカ大統領JFケネディが暗殺された「ダラスの金曜日」 だろう。
そして、ベトナム戦争の煙を見せ始めた「トンキン湾事件」、ソ連の有人宇宙飛行ガガーリン大佐の「地球は蒼かった」と。
時代は刻々と移ろいを鮮明にし始めていた頃だった。

ケーブルカーから望むサンフランシスコ湾と,
アル・カポネが投獄されていたアルカトラズ島
何で「想い出のサンフランシスコ」だったんだろうか・・・・・・・
しかもフランクシナトラのそれ。 ハッキリ言ってシナトラはあまり上手くはない(笑)。
トニー・ベネット、ブレンダ・リーも歌っていたのだがやはり一番最初に聴いたからなのだろうか。
昭和49年1月、僕はエレキの買付を兼ねて初めてのアメリカ旅行をした。
LA、アナハイムでの全米楽器ショー、通称「NAMM」と言われているコンベンション.
その合い間を縫ってサンフランシスコへ一泊で遊びに行った。

↑1977年1月25日“ケーブルカー”でのスナップ
乗り合わせた初老の紳士にお願いした・・・・・
LAXからは丁度、東京大阪くらいの距離、往復で150ドルくらいだったろうか。
安い、いや、まだ1ドルが360円の頃のことだったから5万4千円かなりの出費だった(;´д`)
飛行機は小一時間でサンフランシスコに着いた。
行き当たりばったりのサンフランシスコだったがホテルはチャイナタウンの近くに取り・・・・・・・・
日長、ケーブルカーに楽器屋巡りにと結構楽しんだ。
僕はサンフランシスコのダウンタウンのギターショップで中古の「レスポール」のゴールドトップを買った。
無茶苦茶重たい奴だったが。たしか400ドルくらいだったと思う・・・・・・・
それでも日本で買えば中古でも30万円近くはしただろう代物物だった。
僕はそのレスポールを抱えてゴールデンゲートブリッジの袂にあるフィッシャーマンズワーフに行った。
やっと夢がかなったと思うと小躍りしたいくらいに気持ちが高ぶった・・・・・・
♪アイ・レフト・マイハ~ト・・・イン・サンフランシスコ♪
やっぱりトニー・ベネットですね!!
そのレスポールをケースから取り出すと僕はネックに耳を当てながらそう、呟くように唄った。
フィッシャーマンズワーフ名物の茹でたてのクラブを頬張りながら。
「想い出のサンフランシスコ」と言えば・・・・・・・
キャバレーニュージャパンでドラムを叩いていた時、ビッグショーで来た「勝新太郎」のそれ。
リハーサルは“シーチョー”だったけど、今までのどの「思い出のサンフランシスコ」よりも絶品だった・・・・・・・
そう言えば、バンドへの「プーチ」も、タダモノではなかった。
それはそうと、あの、花街の母の「小林君」、今頃どうしているだろうか?
相変わらず、洋楽を楽しんでいるだろうか・・・・・???
団塊世代「青春の光と影」(想い出のサンフランシスコ)
2016年10月06日
高崎市「幸福度ランキング第三位」。一位じゃなきゃダメなんですか!??
高崎市「幸福度ランキング第三位」。
一位じゃなきゃダメなんですか!??

3位でもいいんです。
前橋は8位ですけど・・・
高崎3位、前橋8位 全国42中核市「幸福度ランク」
一般財団法人日本総合研究所が初めて調査した中核市の「幸福度ランキング」で、全国42市の中で、群馬県高崎市が3位、前橋市が8位といずれもトップ10入りした。
人口増加率などの基本指標に加え、健康、文化、仕事、生活、教育の5分野に関わるデータを基に順位付けした。分野別では高崎市は文化で2位、前橋市は健康で2位と高く評価された。
<引用:上毛新聞 2016年10月6日(木) AM 11:00>
http://www.jomo-news.co.jp/ns/9614757163864226/news.html
まあ、確かに前橋、マインド落ちるよね、ドンマイ、ドンマイなんだけど。
街がでかすぎるってぇのもあるかもしれないですね・・・・・
高崎なんて田町四つ角あたりで終わってるし、南は何にもないし、コンパクトです。
だって昔は敷島へ行く方のマツセーがあったあたりにも映画館があった。
で、弁天通があって、立川通りがあって繁華街の面積も、広さで行ったら高崎の3倍はありそ。
で、千代田町から中央駅の周りも昔はかなりにぎやかだったし。
もっとも高崎だって今はもう街中住人てあんまりいそうじゃあないし、近郊から車だし。
前橋は街中に住宅いっぱいありますねぇ・・・・・
そしたら、中途半端に街中の人不便だよねぇ、そうゆうのも幸福度に影響してるんじゃあないの。
もっとも、自然から言っても利根川はでっかいし、グリーンドームから敷島球場、プール、何でもあり。
で、やっぱしその裏側のバラ園あたりにも閑静な住宅地、高崎市より全然人口多そうだけど・・・・・
でも、前橋市は33万5600人に対して高崎市、37万751人と高崎市の方が多い?
どう見ても面積から言っても、市街地から見ても前橋市の方が人口多そうなんだけど、なんで?
まあ、前橋には赤城山スキー場があるし、これは高崎には真似できません。
でも、やっぱり、新幹線にはかないませんね。早いとこ「両毛新幹線」通さないと、そしたら、伊勢崎、桐生だって・・・・・
高速道路と一緒で「太田桐生」新駅、そしたら桐生だってどんづまりじゃあなくなるし、足利だってご利益が。
そしたら、小山で東北新幹線とクロスして水戸までつなげちゃう。
そしたら、新潟、北陸方面の人高崎で乗り換えて水戸まで・・・・・やっぱり高崎に乗降集まっちゃいますね。
まあ、どっちにしても、どっちでもいいです。どっちもグンマーなんですから。
高崎市「幸福度ランキング第三位」。
一位じゃなきゃダメなんですか!??
一位じゃなきゃダメなんですか!??

3位でもいいんです。
前橋は8位ですけど・・・
高崎3位、前橋8位 全国42中核市「幸福度ランク」
一般財団法人日本総合研究所が初めて調査した中核市の「幸福度ランキング」で、全国42市の中で、群馬県高崎市が3位、前橋市が8位といずれもトップ10入りした。
人口増加率などの基本指標に加え、健康、文化、仕事、生活、教育の5分野に関わるデータを基に順位付けした。分野別では高崎市は文化で2位、前橋市は健康で2位と高く評価された。
<引用:上毛新聞 2016年10月6日(木) AM 11:00>
http://www.jomo-news.co.jp/ns/9614757163864226/news.html
まあ、確かに前橋、マインド落ちるよね、ドンマイ、ドンマイなんだけど。
街がでかすぎるってぇのもあるかもしれないですね・・・・・
高崎なんて田町四つ角あたりで終わってるし、南は何にもないし、コンパクトです。
だって昔は敷島へ行く方のマツセーがあったあたりにも映画館があった。
で、弁天通があって、立川通りがあって繁華街の面積も、広さで行ったら高崎の3倍はありそ。
で、千代田町から中央駅の周りも昔はかなりにぎやかだったし。
もっとも高崎だって今はもう街中住人てあんまりいそうじゃあないし、近郊から車だし。
前橋は街中に住宅いっぱいありますねぇ・・・・・
そしたら、中途半端に街中の人不便だよねぇ、そうゆうのも幸福度に影響してるんじゃあないの。
もっとも、自然から言っても利根川はでっかいし、グリーンドームから敷島球場、プール、何でもあり。
で、やっぱしその裏側のバラ園あたりにも閑静な住宅地、高崎市より全然人口多そうだけど・・・・・
でも、前橋市は33万5600人に対して高崎市、37万751人と高崎市の方が多い?
どう見ても面積から言っても、市街地から見ても前橋市の方が人口多そうなんだけど、なんで?
まあ、前橋には赤城山スキー場があるし、これは高崎には真似できません。
でも、やっぱり、新幹線にはかないませんね。早いとこ「両毛新幹線」通さないと、そしたら、伊勢崎、桐生だって・・・・・
高速道路と一緒で「太田桐生」新駅、そしたら桐生だってどんづまりじゃあなくなるし、足利だってご利益が。
そしたら、小山で東北新幹線とクロスして水戸までつなげちゃう。
そしたら、新潟、北陸方面の人高崎で乗り換えて水戸まで・・・・・やっぱり高崎に乗降集まっちゃいますね。
まあ、どっちにしても、どっちでもいいです。どっちもグンマーなんですから。
高崎市「幸福度ランキング第三位」。
一位じゃなきゃダメなんですか!??
2016年10月06日
団塊世代「青春の光と影」(挫折)
団塊世代「青春の光と影」(挫折)

渋谷の駅を丸井方面に向かって歩く・・・・・
丸井を背中に「公園通り」をNHK方面に、緩やかな坂道の両脇には民家がつづく。
そして「山手教会」の看板、その地下に「渋谷ジャンジャン」はあった。
当時は渋谷区役所、公会堂のほかは目立った建物もなく閑散としたポプラ並木だったろうか・・・・・
パルコもなかったし、ロフトも、東急ハンズも、そんな昭和47年。
その頃の僕は「渋谷ジャンジャン」のオーディションは受かったものの練習というか特訓の毎日でリハーサルでは松岡さんにケチョンケチョンに貶されるし、社長の高嶋さんからは、
「本番までに何とかなる?」
なんて言われる始末で、その間も「渋谷ジャンジャン」では毎月第三金曜日がその「松岡計井子ビートルズを歌う」のプログラム。
で一度、二度は大木トオルブルースバンドのドラマー、成沢さんと云う人がトラでやってくれていたがその内に文楽の近松門左衛門「夫婦心中」のロック版を「ジャンジャン」の箱バンでやるのだという。
で、打合せに呼ばれて話を聞くうちに情けないことにすっかり自信を無くしてしまっているそんな情けない自分に気付いて憔悴しきってしまっていた僕だった。
いやぁ、流石、東京と云うか、中央のレベルは格段と違う。そもそも考え方からして違う。
今回の松岡さんのプログラムはビートルズ「ホワイトアルバム」と「アビ―ロード」、それををレコード通りに進行する。バイオリンもマリンバも一流のセッションプレイヤーを参加させて。「カム・トゥギャザー」とか「ユー・ネバー・ギブ・ミー・ユア・マネー」等など。
これなんか最も僕の好きなビートルズで絶対にやりたいと思っていたのだったが、イザ、譜面を渡されてやってみると難しいの、難しくないのって、もう無茶苦茶な「タイミング」。
そんな中ギターの「松本さん」が途中で来なくなった。相当なテクニシャンなギタリストだったが結局二度と現れることはなかった。
リハーサルでは「松岡さん」の苛立ちも限界に達していたようだった。
「渡辺君、あなたやる気あるの」
松岡さん言葉を社長の高嶋さんが受けて・・・・・
「今日はこれくらいにしよう」
そう言って、助け舟を出してくれた。
「渡辺君、話があるんだが」
と、高嶋さんが僕を呼び止めた。 てっきり「クビ」を言渡されるものと覚悟していた僕。
「ギター誰かいないかなぁ、松本君多分もう来ないしこのままトラって云うわけにも行かないし、出来ればメンバー固めたいんだハウスバンド」。
すっかり自信を無くしてしょ気かえっている僕に高嶋さん・・・・・
「松岡のプログラム、うちの売りだし、松岡も完全主義だからな、何とか頑張ってよ。それに、ギター、この間、大木さんの時に紹介してくれたブルースやってるって云う友達、やる気あるか聞いてみてくれないか」
ありがたい話だったが、そのギターとは高崎時代に一緒にブルースバンドやっていたオスエちゃんで、しかしすっかり自信を無くしている僕だったしそんなところに、ギター、それもオスエちゃんを連れて来いって云うんだから・・・・・
それはそれでいい話には違いないが、あのオスエちゃんが「ビートルズ」やるわけないしなといっそう気が重くなってしまった。
翌日僕は思い足取りで池袋のお末ちゃんの所へ行った。
「お末ちゃん、実はさ、ジャンジャンの高嶋さんがお末ちゃんにギターをやらねえかって云うんだ。知ってると思うが、当然ビートルズの」
オスエちゃん、とくに驚きもせず「へ~」と、言葉もなく頷くようにして・・・・・
「実はさ、俺、もう限界なんだあのビートルズ。兎に角レベル違い過ぎるよ、他のミュージシャン、バイオリンも、ピアノも一流なんだからやんなっちゃうぜ」
僕とオスエちゃんは何時ものように、池袋西口の「焼きそば」を食べ、都電荒川線で当時おオスエちゃんとアルバイトしていた大塚の「ダスキン」へ向かった。
ところで、話は全く変わるが「デジャヴー」、本当にあったのだった。
その「ダスキン」。オスエちゃんがバイトをしていたその「ダスキン」の真ん前にその20年後、僕がシェクターというギターメーカーをやっていた時の話だが、シェクターのリペアを頼んでいたリペアマン、茂木俊則氏がツールボックスというショップを開いていた。
その「ダスキン」に店長だったお兄さん、すっかりお御髪も退化されていたが、あの時のまんま忙しくしていたから人生とは可笑しなものである。
別に運命の悪戯でもないだろうが、二度の「デ・ジャヴー」は弘前のタクトだった。そのタクトは「くもすけバンド」弘前凱旋コンサーの打ち上げをやったロック喫茶その場所だった。
チョイト意味は違うかも知れないが兎に角、20年昔と全く同じ所に立つと云うのも・・・・・偶然とは云え運命を感じさせられた。
二度あることは三度あるで、三度目を待っているが今の所は無い。
おそらくある日突然に「うむっ」て云う感じでそれはやって来るのかもしれない。
「ところでオスエちゃん、ジャンジャンの話だけど会うだけあってくんねえか」
僕自身が気が進まないどころか相当に嫌気がさしているのだから半ば諦め気分で最後の念を押してみた。
「いいよ、取敢えずいってみるよ」
オスエちゃんは意外と、「サラッ」と言った。
「じゃあ早速高嶋さんに電話しておくよ」
数日後、オスエゃんを連れ立って渋谷ジャンジャンの高島さんの所へ向かった。
「ナベさん、やっぱり俺には向いてねぇや、ビートルズは」
そんなオスエちゃんの言葉を最後に、ジャンジャンを後にした。
それからしばらくしてオトヤのいるブルースバンド「くもすけばんど」にオスエちゃんが参加、そしたらまた高崎から東京へ来るために抜けたようにオトヤが高崎へ帰るって言いだしてオスエちゃん、「ナベさんタイコ手伝ってくんねぇか」って(笑)。
そうしてる間も、僕も自分のバンド組みたくて渋谷のヤマハにメンバー募集の掲示板貼っていたところ・・・・・
「スミマセン、チョットヨロシイデスカ?」
英語訛りの日本語。見ると外人ぽくはないんだが、
「ワタシ、ジョートイイマス。アナタ、ジャンジャンオーディションゴウカクシテマシタネ、スゴイデス」
聞けば、そのジョーとかいうやつ、ギターでオーディション受けてたんだとか。
「ワタシダメデシタ、メンバーサガシテマスネ、ワタシ、ドウデスカ?」
まあ、どうもこうもないんで、じゃあ連絡するからっていうんで電話番号もらって他のメンバーもだいたい決まって、そうだ、ジョーだっていうんで電話したら・・・・・
「ハロー、ハロー」
僕が「ジョーいますかバンドの件で・・・・・」
「オー、ワタシ、ニホンゴスコシ」と言ったきり先に進まない。で、夜になって電話すると今度はジョーが出て、「トーリー、ニホンゴダメデスアメリカジンデス」。
そんなこんなで、ジョー、僕のバンドでギターとボーカルやることになったんだが、ブルースだから全部英語の歌、英語はネイティブだから問題ないんだが、歌が下手(笑)。
まあ、それが僕のエレキの行商の始まり。そんなジョーが、LAに帰ってハリウッドでリペアショップオープンして、遊びに来いよっていうんで行って、それが26の時。
それが縁で僕の楽器並行輸入の仕事が始まって、ジョーが「シェクター」とかいうギターメーカー日本でやるから手伝ってっていうので恵比寿の工房通いが始まってエレキの行商が16年、48歳まで。すべてが青春の日々です。これからも。
「万事塞翁が馬」っていうか・・・・翁です(笑)。
団塊世代「青春の光と影」(挫折)

渋谷の駅を丸井方面に向かって歩く・・・・・
丸井を背中に「公園通り」をNHK方面に、緩やかな坂道の両脇には民家がつづく。
そして「山手教会」の看板、その地下に「渋谷ジャンジャン」はあった。
当時は渋谷区役所、公会堂のほかは目立った建物もなく閑散としたポプラ並木だったろうか・・・・・
パルコもなかったし、ロフトも、東急ハンズも、そんな昭和47年。
その頃の僕は「渋谷ジャンジャン」のオーディションは受かったものの練習というか特訓の毎日でリハーサルでは松岡さんにケチョンケチョンに貶されるし、社長の高嶋さんからは、
「本番までに何とかなる?」
なんて言われる始末で、その間も「渋谷ジャンジャン」では毎月第三金曜日がその「松岡計井子ビートルズを歌う」のプログラム。
で一度、二度は大木トオルブルースバンドのドラマー、成沢さんと云う人がトラでやってくれていたがその内に文楽の近松門左衛門「夫婦心中」のロック版を「ジャンジャン」の箱バンでやるのだという。
で、打合せに呼ばれて話を聞くうちに情けないことにすっかり自信を無くしてしまっているそんな情けない自分に気付いて憔悴しきってしまっていた僕だった。
いやぁ、流石、東京と云うか、中央のレベルは格段と違う。そもそも考え方からして違う。
今回の松岡さんのプログラムはビートルズ「ホワイトアルバム」と「アビ―ロード」、それををレコード通りに進行する。バイオリンもマリンバも一流のセッションプレイヤーを参加させて。「カム・トゥギャザー」とか「ユー・ネバー・ギブ・ミー・ユア・マネー」等など。
これなんか最も僕の好きなビートルズで絶対にやりたいと思っていたのだったが、イザ、譜面を渡されてやってみると難しいの、難しくないのって、もう無茶苦茶な「タイミング」。
そんな中ギターの「松本さん」が途中で来なくなった。相当なテクニシャンなギタリストだったが結局二度と現れることはなかった。
リハーサルでは「松岡さん」の苛立ちも限界に達していたようだった。
「渡辺君、あなたやる気あるの」
松岡さん言葉を社長の高嶋さんが受けて・・・・・
「今日はこれくらいにしよう」
そう言って、助け舟を出してくれた。
「渡辺君、話があるんだが」
と、高嶋さんが僕を呼び止めた。 てっきり「クビ」を言渡されるものと覚悟していた僕。
「ギター誰かいないかなぁ、松本君多分もう来ないしこのままトラって云うわけにも行かないし、出来ればメンバー固めたいんだハウスバンド」。
すっかり自信を無くしてしょ気かえっている僕に高嶋さん・・・・・
「松岡のプログラム、うちの売りだし、松岡も完全主義だからな、何とか頑張ってよ。それに、ギター、この間、大木さんの時に紹介してくれたブルースやってるって云う友達、やる気あるか聞いてみてくれないか」
ありがたい話だったが、そのギターとは高崎時代に一緒にブルースバンドやっていたオスエちゃんで、しかしすっかり自信を無くしている僕だったしそんなところに、ギター、それもオスエちゃんを連れて来いって云うんだから・・・・・
それはそれでいい話には違いないが、あのオスエちゃんが「ビートルズ」やるわけないしなといっそう気が重くなってしまった。
翌日僕は思い足取りで池袋のお末ちゃんの所へ行った。
「お末ちゃん、実はさ、ジャンジャンの高嶋さんがお末ちゃんにギターをやらねえかって云うんだ。知ってると思うが、当然ビートルズの」
オスエちゃん、とくに驚きもせず「へ~」と、言葉もなく頷くようにして・・・・・
「実はさ、俺、もう限界なんだあのビートルズ。兎に角レベル違い過ぎるよ、他のミュージシャン、バイオリンも、ピアノも一流なんだからやんなっちゃうぜ」
僕とオスエちゃんは何時ものように、池袋西口の「焼きそば」を食べ、都電荒川線で当時おオスエちゃんとアルバイトしていた大塚の「ダスキン」へ向かった。
ところで、話は全く変わるが「デジャヴー」、本当にあったのだった。
その「ダスキン」。オスエちゃんがバイトをしていたその「ダスキン」の真ん前にその20年後、僕がシェクターというギターメーカーをやっていた時の話だが、シェクターのリペアを頼んでいたリペアマン、茂木俊則氏がツールボックスというショップを開いていた。
その「ダスキン」に店長だったお兄さん、すっかりお御髪も退化されていたが、あの時のまんま忙しくしていたから人生とは可笑しなものである。
別に運命の悪戯でもないだろうが、二度の「デ・ジャヴー」は弘前のタクトだった。そのタクトは「くもすけバンド」弘前凱旋コンサーの打ち上げをやったロック喫茶その場所だった。
チョイト意味は違うかも知れないが兎に角、20年昔と全く同じ所に立つと云うのも・・・・・偶然とは云え運命を感じさせられた。
二度あることは三度あるで、三度目を待っているが今の所は無い。
おそらくある日突然に「うむっ」て云う感じでそれはやって来るのかもしれない。
「ところでオスエちゃん、ジャンジャンの話だけど会うだけあってくんねえか」
僕自身が気が進まないどころか相当に嫌気がさしているのだから半ば諦め気分で最後の念を押してみた。
「いいよ、取敢えずいってみるよ」
オスエちゃんは意外と、「サラッ」と言った。
「じゃあ早速高嶋さんに電話しておくよ」
数日後、オスエゃんを連れ立って渋谷ジャンジャンの高島さんの所へ向かった。
「ナベさん、やっぱり俺には向いてねぇや、ビートルズは」
そんなオスエちゃんの言葉を最後に、ジャンジャンを後にした。
それからしばらくしてオトヤのいるブルースバンド「くもすけばんど」にオスエちゃんが参加、そしたらまた高崎から東京へ来るために抜けたようにオトヤが高崎へ帰るって言いだしてオスエちゃん、「ナベさんタイコ手伝ってくんねぇか」って(笑)。
そうしてる間も、僕も自分のバンド組みたくて渋谷のヤマハにメンバー募集の掲示板貼っていたところ・・・・・
「スミマセン、チョットヨロシイデスカ?」
英語訛りの日本語。見ると外人ぽくはないんだが、
「ワタシ、ジョートイイマス。アナタ、ジャンジャンオーディションゴウカクシテマシタネ、スゴイデス」
聞けば、そのジョーとかいうやつ、ギターでオーディション受けてたんだとか。
「ワタシダメデシタ、メンバーサガシテマスネ、ワタシ、ドウデスカ?」
まあ、どうもこうもないんで、じゃあ連絡するからっていうんで電話番号もらって他のメンバーもだいたい決まって、そうだ、ジョーだっていうんで電話したら・・・・・
「ハロー、ハロー」
僕が「ジョーいますかバンドの件で・・・・・」
「オー、ワタシ、ニホンゴスコシ」と言ったきり先に進まない。で、夜になって電話すると今度はジョーが出て、「トーリー、ニホンゴダメデスアメリカジンデス」。
そんなこんなで、ジョー、僕のバンドでギターとボーカルやることになったんだが、ブルースだから全部英語の歌、英語はネイティブだから問題ないんだが、歌が下手(笑)。
まあ、それが僕のエレキの行商の始まり。そんなジョーが、LAに帰ってハリウッドでリペアショップオープンして、遊びに来いよっていうんで行って、それが26の時。
それが縁で僕の楽器並行輸入の仕事が始まって、ジョーが「シェクター」とかいうギターメーカー日本でやるから手伝ってっていうので恵比寿の工房通いが始まってエレキの行商が16年、48歳まで。すべてが青春の日々です。これからも。
「万事塞翁が馬」っていうか・・・・翁です(笑)。
団塊世代「青春の光と影」(挫折)
2016年10月06日
「天才・石原慎太郎」憧れの田中角栄になれる日?
「天才・石原慎太郎」憧れの田中角栄になれる日?

<豊洲市場>全面協力のはずの石原氏 一転、ヒアリング拒否
豊洲市場の盛り土問題で、調査に協力する意思を示していた東京都の石原慎太郎元知事が5日、一転して、都のヒアリングを拒否する意向を小池百合子知事側に伝えてきたことが関係者への取材で分かった。
【写真】握手する石原新知事と青島前知事=1999年撮影
石原氏は2008年5月の記者会見で建物下にコンクリートの箱を置く案に言及し、当時の中央卸売市場長の比留間英人氏に検討を指示した。石原氏の案は採用されず、比留間氏は「石原氏の指示が、盛り土がされなかったことに影響はしていない」と説明した。
一方、石原氏は盛り土問題発覚後の9月21日、報道陣に「私の知事在任中の件で、誠に申し訳なく思っている。都の調査に全面的に協力するつもりだ」とのコメントを出した。
その後、都側に「ヒアリングを受け情報提供する」との考えを伝えていた。小池知事も石原氏の在任中の判断や指示、都幹部から報告を受けた際の状況などを聞き取る意向を明らかにし、「早ければ10月中に日程を設定する」と述べていた。【円谷美晶】
>一転して、都のヒアリングを拒否する意向を小池百合子知事側に伝えてきた
まあ、いくら東京都知事とはいえ地方自治体の長にすぎません。
尖閣で騒いでかっこつけたって自衛隊、海保動かせるわけじゃあないし・・・・・
そういやあの金どうしたんだろう?募金したお金14億円からの。
そしたら、東京と管理の「尖閣諸島活用基金」なんだそうだが、8千万円くらいはいろいろと?
>「私の知事在任中の件で、誠に申し訳なく思っている。都の調査に全面的に協力するつもりだ」
しかしねぇ、似た者親子っていうか次男の石原良純、コレって可笑しいでしょ↓
番組では松本人志から「(慎太郎氏は)悪くない?」と問われると、良純は「おやじは政治家、知事の前に作家で創作活動やものを作ることに熱心。管理やメンテナンスには興味ない」と話し、都知事時代の功績についても、「成功と失敗があるが、終わったことはあんまり興味ない。その時のことだけを考えるのが石原慎太郎流」と弁護気味に話した。
でも、これやられちゃったら、「政治家、知事の前に作家」だからって通る話じゃあない。
しかも「終わったことには興味がない」なんて言って、そんな言い訳、東京地検特捜に通じないでしょ。
まあ、東京都に限らない、予算使い切っちゃって足りなくなったら補正・・・・・
そしたらコレ↓
石原氏は、社会保障の財源となる消費税率について「10%では賄い切れない」と指摘。その上で「次は12%、13%、15%という形で消費税をしっかりと上げていく。このことを国民に問い掛けて選挙をしていかないといけない」と明言した。
<抜粋引用:Bloomberg 10月5日(水)19時56分配信>
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161005-56649684-bloom_st-bus_all
まあ、田中角栄を一人称、自分に置き換えて書いたんでしょうか・・・・・
ナルホド。
「天才・石原慎太郎」憧れの田中角栄になれる日?

<豊洲市場>全面協力のはずの石原氏 一転、ヒアリング拒否
豊洲市場の盛り土問題で、調査に協力する意思を示していた東京都の石原慎太郎元知事が5日、一転して、都のヒアリングを拒否する意向を小池百合子知事側に伝えてきたことが関係者への取材で分かった。
【写真】握手する石原新知事と青島前知事=1999年撮影
石原氏は2008年5月の記者会見で建物下にコンクリートの箱を置く案に言及し、当時の中央卸売市場長の比留間英人氏に検討を指示した。石原氏の案は採用されず、比留間氏は「石原氏の指示が、盛り土がされなかったことに影響はしていない」と説明した。
一方、石原氏は盛り土問題発覚後の9月21日、報道陣に「私の知事在任中の件で、誠に申し訳なく思っている。都の調査に全面的に協力するつもりだ」とのコメントを出した。
その後、都側に「ヒアリングを受け情報提供する」との考えを伝えていた。小池知事も石原氏の在任中の判断や指示、都幹部から報告を受けた際の状況などを聞き取る意向を明らかにし、「早ければ10月中に日程を設定する」と述べていた。【円谷美晶】
>一転して、都のヒアリングを拒否する意向を小池百合子知事側に伝えてきた
まあ、いくら東京都知事とはいえ地方自治体の長にすぎません。
尖閣で騒いでかっこつけたって自衛隊、海保動かせるわけじゃあないし・・・・・
そういやあの金どうしたんだろう?募金したお金14億円からの。
そしたら、東京と管理の「尖閣諸島活用基金」なんだそうだが、8千万円くらいはいろいろと?
>「私の知事在任中の件で、誠に申し訳なく思っている。都の調査に全面的に協力するつもりだ」
しかしねぇ、似た者親子っていうか次男の石原良純、コレって可笑しいでしょ↓
番組では松本人志から「(慎太郎氏は)悪くない?」と問われると、良純は「おやじは政治家、知事の前に作家で創作活動やものを作ることに熱心。管理やメンテナンスには興味ない」と話し、都知事時代の功績についても、「成功と失敗があるが、終わったことはあんまり興味ない。その時のことだけを考えるのが石原慎太郎流」と弁護気味に話した。
でも、これやられちゃったら、「政治家、知事の前に作家」だからって通る話じゃあない。
しかも「終わったことには興味がない」なんて言って、そんな言い訳、東京地検特捜に通じないでしょ。
まあ、東京都に限らない、予算使い切っちゃって足りなくなったら補正・・・・・
そしたらコレ↓
石原氏は、社会保障の財源となる消費税率について「10%では賄い切れない」と指摘。その上で「次は12%、13%、15%という形で消費税をしっかりと上げていく。このことを国民に問い掛けて選挙をしていかないといけない」と明言した。
<抜粋引用:Bloomberg 10月5日(水)19時56分配信>
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20161005-56649684-bloom_st-bus_all
まあ、田中角栄を一人称、自分に置き換えて書いたんでしょうか・・・・・
ナルホド。
「天才・石原慎太郎」憧れの田中角栄になれる日?
2016年10月05日
~ロージーを聴きながら~秋の夜長にジャズ
~ロージーを聴きながら~秋の夜長にジャズ

How young are you?
アメリカ人のお婆ちゃんに・・・
「How old are you?」と聞いたら怒られた。
「How young are you?」でしょって。
おばあちゃんは言った。
「I'm eighteen!!!!」って。
「80は時間がくれた歳、18は神様がくれた歳、だから私は、ず~と18歳」。
とっても素敵な女性でした。
僕の大好きな、ローズマリー・クルーニーと、お友達の永遠の少女でした。
53歳当時のロージー↑
永遠の18歳。僕のお友達の「ママ」ですけど。
神に召されたとの訃報が・・・・・
ロージーよりは少し年上、長命でした。18歳のまま神様のもとへ。
ちなみにロージーは1922年生まれ、2002年に。享年74歳・・・・・
↑は1951年、23歳当時のロージー・・・・・
でも、僕の一番好きな曲がコレ↓
Hey there, you with the stars in your eyes
Love never made a fool of you
You used to be too wise
Hey there, you on that high-flyin' cloud
Though he won't throw a crumb to you
You think some day he'll come to you
Better forget him
Him with his nose in the air
He has you dancin' on a string
Break it and he won't care
Won't you take this advice
I hand you like a mother
Or are you not seein' things too clear
Are you too much in love to hear
Is it all goin' in one ear and out the other
How young are you?
~ロージーを聴きながら~秋の夜長にジャズ

How young are you?
アメリカ人のお婆ちゃんに・・・
「How old are you?」と聞いたら怒られた。
「How young are you?」でしょって。
おばあちゃんは言った。
「I'm eighteen!!!!」って。
「80は時間がくれた歳、18は神様がくれた歳、だから私は、ず~と18歳」。
とっても素敵な女性でした。
僕の大好きな、ローズマリー・クルーニーと、お友達の永遠の少女でした。
53歳当時のロージー↑
永遠の18歳。僕のお友達の「ママ」ですけど。
神に召されたとの訃報が・・・・・
ロージーよりは少し年上、長命でした。18歳のまま神様のもとへ。
ちなみにロージーは1922年生まれ、2002年に。享年74歳・・・・・
↑は1951年、23歳当時のロージー・・・・・
でも、僕の一番好きな曲がコレ↓
Hey there, you with the stars in your eyes
Love never made a fool of you
You used to be too wise
Hey there, you on that high-flyin' cloud
Though he won't throw a crumb to you
You think some day he'll come to you
Better forget him
Him with his nose in the air
He has you dancin' on a string
Break it and he won't care
Won't you take this advice
I hand you like a mother
Or are you not seein' things too clear
Are you too much in love to hear
Is it all goin' in one ear and out the other
How young are you?
~ロージーを聴きながら~秋の夜長にジャズ
2016年10月05日
団塊世代「青春の光と影」(雨に咲く花)
団塊世代「青春の光と影」(雨に咲く花)

「新潟の『香港』ですか?」
僕は歌手、井上ひろしさんに聞いた。
新潟の“香港”とは、新宿“キャバレー風林火山”の姉妹店で新潟ではナンバーワンの規模を誇っていた社交場であった。
「いや、新発田です」
そうか・・・新発田にもあったのだ。そう言えば店の名前は忘れたがたしかヤノピ(ピアノ)の松本さん。
年のころは当時で六〇前後だったがなかなかハイカラな爺、いや、ピアニストだった。
その松本さん、たしか新発田からからここ高崎の“ニュージャパン”に来ていた。
新発田といえば松本さん・・・・・
若い頃は東京でそうとう鳴らしたらしい。
ヤノピの腕は田舎のバーキャレ(キャバレー)では勿体無いほどのグンバツ(抜群)のテクだった。
ビッグバンドと、コンボバンドのチェンジの時の“スターダスト”は今も耳に残っている。
その松本さん、高崎の“ニュージャパン”ができる前は新発田の新宿風林火山のチェーン店にいたといつか言っていたのを思い出した。
井上ひろしさんの待つ電車は上越線。夜行列車ではないから上野発の最終「長岡行き」だろうか。
その頃は“高崎始発の長岡行き”と云うのも一日に二往復くらいはあった。長岡は距離にして160キロくらいだったろうか。
もちろん延々十キロを越える清水トンネル“ループ式トンネル”を縫っての三国越え、
水上から先は流石、日本国有鉄道の誇る“EF60”でも難儀のようで、高崎から長岡までは6時間はかかったようだ。
冬ともなればそれこそ「川端康成」の世界。
「トンネルを抜けたらそこは雪国だった」である。
"三八豪雪”の時は列車は立ち往生、ラッセル車すら身動きできない状態だったと聞く。
何でも長岡あたりでは三メートルを超える積雪があったらしい。
豪雪の季節は別としても・・・・・その当時は新潟へは殆ど夜行列車か、
長岡終着で、多少の時間待ちをして長岡始発で新潟まで行く。結構、旅も一苦労な時代だったようだ。
♪雨に咲く花♪
「新発田へはよく行くんですか」
「そうね。新宿の店、高崎、新潟、新発田と同じ店だから、ゴトシ(仕事)はビータ(旅)になるね。三週間くらいの」
「三週間もですか」
「そっ、このルートだと富山、金沢、福井と北陸を回ってっていう所かな」
昭和30年代にビッグヒット、流行した「雨に咲く花」。
僕はショーがはねるとバンドのスーベ(ベース)弾きの加部と駅近くの「富寿司」に・・・・・
その『雨に咲く花』で一世風靡をした、歌手“井上ひろし”さんを誘った。
衣装かばんにオーケストラ用の譜面と衣装を仕舞、殆どが旅の365日だと云う。
当時の“井上ひろし”さんは、既に“ビッグショー”ではなかったのでジャーマネ(マネージャー)なしの一人旅だ。
『ビッグショー』と言えば・・・・・・
その頃は勝新太郎、鶴田浩二、ジェリー藤男、島倉千代子、都はるみ、流行では小山ルミなんて言うのもあった。
その合間を縫っての一時代昔、かつての“ビッグ”が。
新御三家の三田明、西郷輝彦、橋幸夫の“準ビッグ”。
そして往年の“ビッグ”の井上ひろし、松島アキラ、梶光夫、井沢八郎、守屋ひろし・・・・・
そして森山加代子、中尾ミエ、園まり、伊東ゆかりなどなどと、結構退きもきらずに往年のスターたちが出演していた時代だった。
しかし“井上ひろし”。流石売れた流行歌手である。着ている物も相当に上等で、テレビで見た時のままの姿。
多分僕より8つほど年上だろうから三十のとま口ではなかっただろうか・・・・・・
ショーのステージもいたって気品があり、ホステスのお姉さん達も十代そこそこの頃は熱烈のファンだったに違いない。
バックで演奏する僕等にもその溜息は漏れ伝わってきた。
“井上ひろし”さんはそれきりだったが、同時期少し送れて『湖愁』で大ヒットを飛ばした・・・・・・・
“スピッツ”のニックネームの“松島アキラ”さんは何度か看板付きの『ショー』で来ていた。
♪湖愁♪
時代の大歌手を見送りながら“昭和”の高崎駅にそのイントロが過ぎった。
薄煙のような霧雨・・・・・・
まさに「雨に咲く花」のようなとばりが蒼くかすかにゆれていた。
♪およばぬこととあきらめました
だけど恋しいあの人よ
ままになるなら今一度
ひと目だけでも逢いたいの♪
昭和47年、それは晩秋の夜更け・・・・・
団塊世代「青春の光と影」(雨に咲く花)

「新潟の『香港』ですか?」
僕は歌手、井上ひろしさんに聞いた。
新潟の“香港”とは、新宿“キャバレー風林火山”の姉妹店で新潟ではナンバーワンの規模を誇っていた社交場であった。
「いや、新発田です」
そうか・・・新発田にもあったのだ。そう言えば店の名前は忘れたがたしかヤノピ(ピアノ)の松本さん。
年のころは当時で六〇前後だったがなかなかハイカラな爺、いや、ピアニストだった。
その松本さん、たしか新発田からからここ高崎の“ニュージャパン”に来ていた。
新発田といえば松本さん・・・・・
若い頃は東京でそうとう鳴らしたらしい。
ヤノピの腕は田舎のバーキャレ(キャバレー)では勿体無いほどのグンバツ(抜群)のテクだった。
ビッグバンドと、コンボバンドのチェンジの時の“スターダスト”は今も耳に残っている。
その松本さん、高崎の“ニュージャパン”ができる前は新発田の新宿風林火山のチェーン店にいたといつか言っていたのを思い出した。
井上ひろしさんの待つ電車は上越線。夜行列車ではないから上野発の最終「長岡行き」だろうか。
その頃は“高崎始発の長岡行き”と云うのも一日に二往復くらいはあった。長岡は距離にして160キロくらいだったろうか。
もちろん延々十キロを越える清水トンネル“ループ式トンネル”を縫っての三国越え、
水上から先は流石、日本国有鉄道の誇る“EF60”でも難儀のようで、高崎から長岡までは6時間はかかったようだ。
冬ともなればそれこそ「川端康成」の世界。
「トンネルを抜けたらそこは雪国だった」である。
"三八豪雪”の時は列車は立ち往生、ラッセル車すら身動きできない状態だったと聞く。
何でも長岡あたりでは三メートルを超える積雪があったらしい。
豪雪の季節は別としても・・・・・その当時は新潟へは殆ど夜行列車か、
長岡終着で、多少の時間待ちをして長岡始発で新潟まで行く。結構、旅も一苦労な時代だったようだ。
♪雨に咲く花♪
「新発田へはよく行くんですか」
「そうね。新宿の店、高崎、新潟、新発田と同じ店だから、ゴトシ(仕事)はビータ(旅)になるね。三週間くらいの」
「三週間もですか」
「そっ、このルートだと富山、金沢、福井と北陸を回ってっていう所かな」
昭和30年代にビッグヒット、流行した「雨に咲く花」。
僕はショーがはねるとバンドのスーベ(ベース)弾きの加部と駅近くの「富寿司」に・・・・・
その『雨に咲く花』で一世風靡をした、歌手“井上ひろし”さんを誘った。
衣装かばんにオーケストラ用の譜面と衣装を仕舞、殆どが旅の365日だと云う。
当時の“井上ひろし”さんは、既に“ビッグショー”ではなかったのでジャーマネ(マネージャー)なしの一人旅だ。
『ビッグショー』と言えば・・・・・・
その頃は勝新太郎、鶴田浩二、ジェリー藤男、島倉千代子、都はるみ、流行では小山ルミなんて言うのもあった。
その合間を縫っての一時代昔、かつての“ビッグ”が。
新御三家の三田明、西郷輝彦、橋幸夫の“準ビッグ”。
そして往年の“ビッグ”の井上ひろし、松島アキラ、梶光夫、井沢八郎、守屋ひろし・・・・・
そして森山加代子、中尾ミエ、園まり、伊東ゆかりなどなどと、結構退きもきらずに往年のスターたちが出演していた時代だった。
しかし“井上ひろし”。流石売れた流行歌手である。着ている物も相当に上等で、テレビで見た時のままの姿。
多分僕より8つほど年上だろうから三十のとま口ではなかっただろうか・・・・・・
ショーのステージもいたって気品があり、ホステスのお姉さん達も十代そこそこの頃は熱烈のファンだったに違いない。
バックで演奏する僕等にもその溜息は漏れ伝わってきた。
“井上ひろし”さんはそれきりだったが、同時期少し送れて『湖愁』で大ヒットを飛ばした・・・・・・・
“スピッツ”のニックネームの“松島アキラ”さんは何度か看板付きの『ショー』で来ていた。
♪湖愁♪
時代の大歌手を見送りながら“昭和”の高崎駅にそのイントロが過ぎった。
薄煙のような霧雨・・・・・・
まさに「雨に咲く花」のようなとばりが蒼くかすかにゆれていた。
♪およばぬこととあきらめました
だけど恋しいあの人よ
ままになるなら今一度
ひと目だけでも逢いたいの♪
昭和47年、それは晩秋の夜更け・・・・・
団塊世代「青春の光と影」(雨に咲く花)