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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーション  at 

2016年10月07日

団塊世代「戦後ヒストリア」横丁見聞録

団塊世代「戦後ヒストリア」横丁見聞録

まあ、この風情が横丁だね・・・・・

柳川町だってそんな横丁が赤ちょうちんぶら下げてた。
昔ゃあ、電気館の奥りにゃあ「佐武」なんてぇ飲み屋があって(すぐ近くに移転してます。)
愛想の悪い「万作」は閉めちゃったし、もう昔の面影なんてありゃしません。

僕らが子どもの頃、です。

なんとも強面だったのがヒロポン中毒で背中には「般若の刺青」の畳屋の「セーちゃん」。
お噂では数年前にお隠れ遊ばされたとのことだが・・・・・
まだ、戦後の風情が色濃く残る、まあ、ざわざわ、わさわさした時代でした。

僕の「横丁」には「エライ」人は随分と居た・・・

頭の「新井さん」とか、「団子屋のマーボー」に、縄抜けの「真ちゃん」とか・・・
あぼん屋の「ナミチャン」なんて云う人も居た。

戦後は右も左も・・・「エライ」時代だった。

昭和31年、「赤線」が消え・・・ここ「横丁」は北関東きっての「歓楽街」と名を馳せた。
「横丁」の長屋には、「お水」のお姉さんが一方の風情を織り成していた。

「横丁」には、何処の「横丁」にも、コップ酒場があった・・・

大体が、酒屋。今で云うなら「コンビ」の趣、カウンターで飲む、縁台で飲む。
良くは知らないが、何でも「料飲法」という奴で・・・
座らせて、飲ませてはいけない決まりがあったようだが、そんなことはお構いなし、
「エチルアルコホール」のきついのが一杯も入れば「矢でも鉄砲でも持って来い」のご時世。
しかし、いつの世も「お上」てぇ奴は「庶民」には横柄だねぇ。

昭和30年代です・・・

買防でパクラレル、お姉さん、選挙違反でしょっ引かれる、近所のおじさん。、
垣根越しの悪たれ、罵詈雑言、鍋釜が飛び交う夫婦喧嘩・・・それでいて「離縁」なんて云う話は聞くこともない。
6畳一間の長屋に下手をすれば、三世代・・・共同便所に、共同炊事場、共同水道。
疫痢、赤痢、はたけに、田虫・・・チョイト運が悪ければ、トラホームに蓄膿、デキモン問屋。
町医者にしたって、ヤブもヘボもない・・・

国民皆保険がやっと始まる頃だから、医者なんかにはかかる筈もない、殆どが往診。
もっとも、病院たって、別に「医療機器」があるわけじゃあないし、医者もこられても困っただろう。

あの頃、あの時代の「ガキ」だから、僕らの「ジンバラ」は今の「ガキ」の「ジンバラ」とは「ジンバラ」が違う。
考えてみれば、肉こそ食わなかったものの・・・
冷蔵庫と云う物が無かったお陰でいつも、旬の物・・・新鮮な物を食べていたわけだ。

ここ高崎は、内陸、海なし県だから鮮魚は殆ど縁が無い。
秋刀魚、鯖、鯵の開き、鰹のナマリに、鯖の煮付け・・・
佃煮屋も「横丁」には必ず一軒あった、豆腐屋、八百屋は引き売り、納豆屋、卵屋は朝の目覚まし。

牛乳も、搾りたて、野菜も採れたて、梅干、糠漬け、沢庵に白菜漬け・・・
今頃は、チョイト漬き過ぎた、紫紺の「ナス」と口の曲がりそうな「キュウリ」があれば、3杯飯は行ける。
今朝も、そのナスと、大根・・・豆腐と大根の味噌汁でレトロな贅沢三昧。

大型冷蔵庫には・・・賞味期限すれすれの生鮮食品が冷汗かいてやがる。
それにしても「時代」という物は、随分と無駄を作るもんだ。

団塊世代「戦後ヒストリア」横丁見聞録
  


Posted by 昭和24歳  at 16:35Comments(0)

2016年10月07日

団塊世代「青春の光と影」(想い出のサンフランシスコ)

団塊世代「青春の光と影」(想い出のサンフランシスコ)


フランクシナトラ、パットブーン、ブレンダリー

中学3年の時、同級生で「花街の母」をもつハイカラな「小林君」と云うやつが居た。

そいつん家には、蓄音機どころか「ステレオ」なる物があってレコードもぎっしり。どういうわけかオール洋モノ!!

それはフォークソングとはこれまた、全く違った世界がそこにはあった。
確かに、チューチュートレインの二―ルセダカも、ダイアナのポールアンカも良かったが、

「シナトラ」・・・・・それは大人の匂いがした。

別に、英語が得意であったわけではないが・・・・・・・・
その「シナトラ」の「想い出のサンフランシスコ」はあっという間に空で覚えてしまった。
三つ子の魂百まで、今でも一語一句覚えている。



小林君は病がちでよく学校を休んだ。色々分けがあったのだろうが「虐め」にもあっていた。
小林君は一年ほど休学して「一中」から転向してきた。どうも一中では相当の虐めにあったようだ。

小林君は大のプロレスファンで、中でも「力道山」の大ファンだった。
しかし、その年、中学3年の時「力道山」 が刺されて死んでしまい、悲嘆に暮れつづけた小林君だった。

その年はいろいろなことがあった。

何と言ってもアメリカ大統領JFケネディが暗殺された「ダラスの金曜日」 だろう。
そして、ベトナム戦争の煙を見せ始めた「トンキン湾事件」、ソ連の有人宇宙飛行ガガーリン大佐の「地球は蒼かった」と。
時代は刻々と移ろいを鮮明にし始めていた頃だった。



ケーブルカーから望むサンフランシスコ湾と,
アル・カポネが投獄されていたアルカトラズ島


何で「想い出のサンフランシスコ」だったんだろうか・・・・・・・
しかもフランクシナトラのそれ。 ハッキリ言ってシナトラはあまり上手くはない(笑)。
トニー・ベネット、ブレンダ・リーも歌っていたのだがやはり一番最初に聴いたからなのだろうか。



昭和49年1月、僕はエレキの買付を兼ねて初めてのアメリカ旅行をした。
LA、アナハイムでの全米楽器ショー、通称「NAMM」と言われているコンベンション.

その合い間を縫ってサンフランシスコへ一泊で遊びに行った。


↑1977年1月25日“ケーブルカー”でのスナップ
乗り合わせた初老の紳士にお願いした・・・・・


LAXからは丁度、東京大阪くらいの距離、往復で150ドルくらいだったろうか。
安い、いや、まだ1ドルが360円の頃のことだったから5万4千円かなりの出費だった(;´д`)

飛行機は小一時間でサンフランシスコに着いた。
行き当たりばったりのサンフランシスコだったがホテルはチャイナタウンの近くに取り・・・・・・・・
日長、ケーブルカーに楽器屋巡りにと結構楽しんだ。

僕はサンフランシスコのダウンタウンのギターショップで中古の「レスポール」のゴールドトップを買った。
無茶苦茶重たい奴だったが。たしか400ドルくらいだったと思う・・・・・・・
それでも日本で買えば中古でも30万円近くはしただろう代物物だった。

僕はそのレスポールを抱えてゴールデンゲートブリッジの袂にあるフィッシャーマンズワーフに行った。

やっと夢がかなったと思うと小躍りしたいくらいに気持ちが高ぶった・・・・・・


♪アイ・レフト・マイハ~ト・・・イン・サンフランシスコ♪
やっぱりトニー・ベネットですね!!


そのレスポールをケースから取り出すと僕はネックに耳を当てながらそう、呟くように唄った。
フィッシャーマンズワーフ名物の茹でたてのクラブを頬張りながら。

「想い出のサンフランシスコ」と言えば・・・・・・・



キャバレーニュージャパンでドラムを叩いていた時、ビッグショーで来た「勝新太郎」のそれ。
リハーサルは“シーチョー”だったけど、今までのどの「思い出のサンフランシスコ」よりも絶品だった・・・・・・・
そう言えば、バンドへの「プーチ」も、タダモノではなかった。

それはそうと、あの、花街の母の「小林君」、今頃どうしているだろうか?

相変わらず、洋楽を楽しんでいるだろうか・・・・・???

団塊世代「青春の光と影」(想い出のサンフランシスコ)
  


Posted by 昭和24歳  at 09:33Comments(0)

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