グンブロ広告
ビジネスライセンス料 3,000円/月
飲食関連事業用 ライセンス 毎日1セット広告 1,600円/月
お問い合わせは、 info@gunmawen.net本広告は、30日以上記事の更新がされませんと自動的に掲載されます。 記事が更新された時点で、自動的に破棄されます。2016年10月13日
団塊世代の「青春の光と影」♪傘がない♪
団塊世代の「青春の光と影」
♪傘がない♪
♪傘がない♪
はっきり言えば僕は「平成」という時代には用はない。
ここの選挙区、その昔は群馬三区「福中戦争」といわれた地にあって、
すでにお隠れだが、谷間のラーメン屋と揶揄された「平成オジサン」がいた。
あの記者会見で新元号を言った“小渕恵三”のそれが「平成」だったとしても、
その平成にはなかなかなじまない。それは年のせいなのだろうか。
また昭和も軍国主義高らかだった戦中戦前のそれも更々用はない。
と言うよりは全く知らない。
「知らぬが仏」と言ったところの戦後のもやしっ子なのかも知れないが・・・・・
とはいうものの「平成」には用ないなどと強がりを言ったところで、
本当のところはその「平成」の方からしてみれば僕ら「団塊世代」、すでに用済みなのかも。
それどころかもうじき「厄介モンのおもちゃつけぇ」かも(;´д`)
なにせ赤いちゃんちゃんこも過ぎた昔なのだからそれはそれで仕方がないことにする。
しかし「平成」と言うのは実にいやらしい時代のような気がしてならない。
そう感じるのは僕だけなんだろうか?
その日常は殺伐としていて新聞、テレビがいうことといえば、
陰惨な犯罪、陰湿な事件のニュース、昨日も兵庫で河川敷にバラバラ死体とテレビが言っている。
かと思えばあいも変わらずの「政治とカネ」の話ばかりで なんとも時代が酸っぱい。
「酸っぱい」のはよろしくない。それは梅雨時のものの饐えたような臭いで、
僕らの子ども時代のような「塩っパイ」、「塩っ辛い」のそれはまるで感じられない。
テレビで見かける政治家なんかはとくべつに酸っぱい臭いがしてならない。
「門前の小僧の手習い」のような詰めのないもの言い。
それにひと目で「嘘」と顔に書いてあるような言い訳と、取ってつけたような自信のなさそうな討議討論。
バカヤローと叱られそうだが、「あんなんなら俺にも出来る」。
といったような手合いの二世、三世の「地盤、看板、鞄」におんぶに抱っこのようなのが・・・・・
「わが国は」とか「国家国民のために」では大きなお世話と、そうも言いたくなる。
あれは昭和四〇年代だっただろうか、井上陽水の歌った「傘がない」という題名のフォークソング。
♪都会では自殺する若者が増えている~♪
と、歌ったやつだ。
僕のように感性に乏しい人間はあの当時昭和四〇年代、その「傘がない」を聴きながら、
「ほんと?」と、疑ってみたりもしたものだったが・・・・・
それが世相の実態だったのかも知れない。
二十歳そこそこではその世相、ベトナム戦争だの平和だの、オイルショックだのよりも、
都会での「孤独死」とか「自殺する若者」は現実、確かに多かったかも知れない。
井上陽水は歌う。
せっかく彼女と会う約束をしたのに、雨が降ってきちまって出かけようにも「傘がない」と。
ならば ♪冷たい雨に~♪ 濡れてでも彼女に会うために ♪行かなくちゃ~君に会いに行かなくちゃ♪
待てよ、でもそんな軟弱なことを言っていて良いのだろうか?世の中これほど大変な時だと言うのに。
「君のこと以外は考えられなくなる、君のこと以外はまるで見えなくなる」
待てよ、そんなことで僕は良いのだろうか?と、自問自答する日々。
ある意味ノンポリで惰眠を貪る中にて、どこかそんな世の中に疑問を感じていた・・・・・
そんなピュアな時代が、僕らの僕等だけの時代だったような気がしてならない。
その意味では、ロックにしろフォークにしろその時代時代の青春の叫び声であるのではないだろうか。
今のそれに、それ、“それが”あるとは思えない。
それは12歳くらいから二十歳そこそこ辺りまでの、非現実と現実との間を春秋する感情の戸惑いと揺れ。
今は全くそれがないような気がしてならない。
というのは僕等、戦後生まれの膨大な塊が何もかもし尽くしてきてしまったからなのだろうかとも。
その昭和という戦後の一時期に発生した「若者文化」。
洋の東西にかかわらず、凡そが音楽も、アートも、舞台も、今あるのはその時代のリメイクでしかない。
ひとつあるとすれば「ニンテンドー」と、この「パソコン」がネオカルチャーなのか。
今のそれは、歌を聴いても、演奏を聴いてもそれはそれは暗闇にうめく夜行性動物のそれ。
けしてそれは嘶きではなく、雄叫びでもない。
それにしか、そうにしか聴こえないのは、僕等世代のなにか、後ろめたさなのか。
その後ろめたさが今日の「傘がない」状態を・・・・・
状況を生んでしまったのではないだろうかと思わずにはいられない。
「都会では・・・自殺する、中高年が増えている」
皮肉だろうか。
あの昭和四〇年代に歌われた「自殺する若者」。そして、その傘がない若者達が、
ぼっとかしたら、あの時代に「自殺しそびれた」出遅れの、間の悪い・・・・・・
平成の自殺する、今は「中高年」なのかも知れない。
「自分のことしか考えられない、自分のことしか見えない」と言いつつ、
「待てよ、そんなことで良いのだろうか」
とは、もうそう思うことすらできなくなってしまったほど疲れきってしまったのか。
少し休むだけで良いのに、ほんの少し自分を見つめなおすだけで良いのに・・・・・
なにも終わってしまうこともないのに。そんなに急いで逝かなくてもいいのに。
いずれにしても、それは僕らが過してきたあの「昭和」という時代は、
目を閉じればあの時代の風景が、音とともに僕の心に「パー」っと広がる。
それはその時代この目で見た連合赤軍「浅間山荘事件」の湧き上がる得体の知れない音。
またここ高崎が舞台となった大久保清「連続婦女暴行殺人事件」のそれを伝える取材ヘリコプターのけたたましい音。
そこに見た昭和の共振する風景と音。
白黒テレビで見た東大安田講堂の放水
国際反戦デー“新宿事件”
連合赤軍「あさま山荘事件」
そこに聞いたそれらの「音」はけして作り物ではなく、それが遠い遠い過去のことであったとしても・・・・・
思想などと言う高邁なものを持ち合わせているはずもない僕らノンポリの三流楽士だったがその時の、その社会の形は、
それのひとつひとつがあの頃の僕等の「これから」を諭すように見せつけてくれていた。
それは夫々に今、高齢者と呼ばれるようになった僕らにあの時代の青春の残像を今日までのそれなりの生き方の中に、
その風景のなかの音鳴りとして心に映す。
そして、それは、そこにはあったその時々の「音鳴り」はいろんなことを僕等に教えてくれていた。
僕らは、僕ら以前のそれも、そしてこれからのそれたちもけして経験する事の出来ないとてつもない時代を 生きてきたのかも知れない。
団塊世代の「青春の光と影」
♪傘がない♪
♪傘がない♪
♪傘がない♪
はっきり言えば僕は「平成」という時代には用はない。
ここの選挙区、その昔は群馬三区「福中戦争」といわれた地にあって、
すでにお隠れだが、谷間のラーメン屋と揶揄された「平成オジサン」がいた。
あの記者会見で新元号を言った“小渕恵三”のそれが「平成」だったとしても、
その平成にはなかなかなじまない。それは年のせいなのだろうか。
また昭和も軍国主義高らかだった戦中戦前のそれも更々用はない。
と言うよりは全く知らない。
「知らぬが仏」と言ったところの戦後のもやしっ子なのかも知れないが・・・・・
とはいうものの「平成」には用ないなどと強がりを言ったところで、
本当のところはその「平成」の方からしてみれば僕ら「団塊世代」、すでに用済みなのかも。
それどころかもうじき「厄介モンのおもちゃつけぇ」かも(;´д`)
なにせ赤いちゃんちゃんこも過ぎた昔なのだからそれはそれで仕方がないことにする。
しかし「平成」と言うのは実にいやらしい時代のような気がしてならない。
そう感じるのは僕だけなんだろうか?
その日常は殺伐としていて新聞、テレビがいうことといえば、
陰惨な犯罪、陰湿な事件のニュース、昨日も兵庫で河川敷にバラバラ死体とテレビが言っている。
かと思えばあいも変わらずの「政治とカネ」の話ばかりで なんとも時代が酸っぱい。
「酸っぱい」のはよろしくない。それは梅雨時のものの饐えたような臭いで、
僕らの子ども時代のような「塩っパイ」、「塩っ辛い」のそれはまるで感じられない。
テレビで見かける政治家なんかはとくべつに酸っぱい臭いがしてならない。
「門前の小僧の手習い」のような詰めのないもの言い。
それにひと目で「嘘」と顔に書いてあるような言い訳と、取ってつけたような自信のなさそうな討議討論。
バカヤローと叱られそうだが、「あんなんなら俺にも出来る」。
といったような手合いの二世、三世の「地盤、看板、鞄」におんぶに抱っこのようなのが・・・・・
「わが国は」とか「国家国民のために」では大きなお世話と、そうも言いたくなる。
あれは昭和四〇年代だっただろうか、井上陽水の歌った「傘がない」という題名のフォークソング。
♪都会では自殺する若者が増えている~♪
と、歌ったやつだ。
僕のように感性に乏しい人間はあの当時昭和四〇年代、その「傘がない」を聴きながら、
「ほんと?」と、疑ってみたりもしたものだったが・・・・・
それが世相の実態だったのかも知れない。
二十歳そこそこではその世相、ベトナム戦争だの平和だの、オイルショックだのよりも、
都会での「孤独死」とか「自殺する若者」は現実、確かに多かったかも知れない。
井上陽水は歌う。
せっかく彼女と会う約束をしたのに、雨が降ってきちまって出かけようにも「傘がない」と。
ならば ♪冷たい雨に~♪ 濡れてでも彼女に会うために ♪行かなくちゃ~君に会いに行かなくちゃ♪
待てよ、でもそんな軟弱なことを言っていて良いのだろうか?世の中これほど大変な時だと言うのに。
「君のこと以外は考えられなくなる、君のこと以外はまるで見えなくなる」
待てよ、そんなことで僕は良いのだろうか?と、自問自答する日々。
ある意味ノンポリで惰眠を貪る中にて、どこかそんな世の中に疑問を感じていた・・・・・
そんなピュアな時代が、僕らの僕等だけの時代だったような気がしてならない。
その意味では、ロックにしろフォークにしろその時代時代の青春の叫び声であるのではないだろうか。
今のそれに、それ、“それが”あるとは思えない。
それは12歳くらいから二十歳そこそこ辺りまでの、非現実と現実との間を春秋する感情の戸惑いと揺れ。
今は全くそれがないような気がしてならない。
というのは僕等、戦後生まれの膨大な塊が何もかもし尽くしてきてしまったからなのだろうかとも。
その昭和という戦後の一時期に発生した「若者文化」。
洋の東西にかかわらず、凡そが音楽も、アートも、舞台も、今あるのはその時代のリメイクでしかない。
ひとつあるとすれば「ニンテンドー」と、この「パソコン」がネオカルチャーなのか。
今のそれは、歌を聴いても、演奏を聴いてもそれはそれは暗闇にうめく夜行性動物のそれ。
けしてそれは嘶きではなく、雄叫びでもない。
それにしか、そうにしか聴こえないのは、僕等世代のなにか、後ろめたさなのか。
その後ろめたさが今日の「傘がない」状態を・・・・・
状況を生んでしまったのではないだろうかと思わずにはいられない。
「都会では・・・自殺する、中高年が増えている」
皮肉だろうか。
あの昭和四〇年代に歌われた「自殺する若者」。そして、その傘がない若者達が、
ぼっとかしたら、あの時代に「自殺しそびれた」出遅れの、間の悪い・・・・・・
平成の自殺する、今は「中高年」なのかも知れない。
「自分のことしか考えられない、自分のことしか見えない」と言いつつ、
「待てよ、そんなことで良いのだろうか」
とは、もうそう思うことすらできなくなってしまったほど疲れきってしまったのか。
少し休むだけで良いのに、ほんの少し自分を見つめなおすだけで良いのに・・・・・
なにも終わってしまうこともないのに。そんなに急いで逝かなくてもいいのに。
いずれにしても、それは僕らが過してきたあの「昭和」という時代は、
目を閉じればあの時代の風景が、音とともに僕の心に「パー」っと広がる。
それはその時代この目で見た連合赤軍「浅間山荘事件」の湧き上がる得体の知れない音。
またここ高崎が舞台となった大久保清「連続婦女暴行殺人事件」のそれを伝える取材ヘリコプターのけたたましい音。
そこに見た昭和の共振する風景と音。
白黒テレビで見た東大安田講堂の放水
国際反戦デー“新宿事件”
連合赤軍「あさま山荘事件」
そこに聞いたそれらの「音」はけして作り物ではなく、それが遠い遠い過去のことであったとしても・・・・・
思想などと言う高邁なものを持ち合わせているはずもない僕らノンポリの三流楽士だったがその時の、その社会の形は、
それのひとつひとつがあの頃の僕等の「これから」を諭すように見せつけてくれていた。
それは夫々に今、高齢者と呼ばれるようになった僕らにあの時代の青春の残像を今日までのそれなりの生き方の中に、
その風景のなかの音鳴りとして心に映す。
そして、それは、そこにはあったその時々の「音鳴り」はいろんなことを僕等に教えてくれていた。
僕らは、僕ら以前のそれも、そしてこれからのそれたちもけして経験する事の出来ないとてつもない時代を 生きてきたのかも知れない。
団塊世代の「青春の光と影」
♪傘がない♪
2016年10月13日
団塊世代の「横丁ミシュラン」☆☆
団塊世代の「横丁ミシュラン」☆☆
↑目白の「丸長の「つけそば」お試しあれ!
僕の「マズ・ウマ」・・・
「マズ・ウマ」の定義。
そんな「定義」などと恰好をつけたもんではないが、僕はそう決めている。
不味そうなんだけど・・・美味い。
「なんだそりゃ」
と訝る向きもあるかも知れないが、まさに「不味そうで美味い」。
つまり「不味そう」というのは「味」ということではない。
それは、店構えそのものは極々当たり前で、いわゆるフツーの食堂、そんな趣のそれ。
で、入ってクリビツテンギョー、うめえのうまくねぇの・・・・・
そんな店がどこの街にもひとつやふたつある。
もちろん昨日今日始まったそれではないことも「マズ・ウマ」のていぎなのだが。
ところでどうでもいいことだけど僕ら世代はその必然性に育ってきた。
「終戦」と云う言葉を急いで忘れようとしている大人たちの生活文化の中・・・・・
文化と言うほどのものではないが。
「駄菓子屋」に「お好み焼屋」は、僕ら戦後っ子にとって、その「マズ・ウマ」が日常そのものであった。
着色料、添加物たっぷりの駄菓子、「ソースイカ」、衛生も糸瓜もないサッカリンたっぷりの「舐め紙」ってぇのも。
そして極めつけの芸術作品でありながらも、小学校の門前で小汚いガキ連中を相手に屋台で商っていた「お新粉」屋。
新粉を色とりどりに捏ねて、鶏だの兎だのとそれでこしらえてくれるそれだ。
戦前は何処かの和菓子職人だったのだろうかものの見事な芸術作品が瞬く間に仕上がる。
「腹壊すからそんなもん食うんじゃあねえ」
と、親たちは呆れていたが、下校時ともなるとそのガキ連中(僕等)が、テカテカのお下がりの「詰襟」と下駄に足袋で、
「5円玉」握り締めて目を輝かせてお新粉屋のオジサンの屋台に集った。
丁度、配給も終わって、そろそろ米穀台帳なしに米が買える、昭和33年頃だっただろうか。
そのお新粉屋の屋台と入替わり立ち代りに、焼きそば屋、飴細工屋、針金細工屋が露天を張った。
そうだ、僕の「マズ・ウマ」の原点ははそこにあったのだ。
終戦、まだ干支がひと回りした頃の時代の話・・・・・
「夜泣きラーメン、食堂」なんて云ったら、盆暮れあるかないかの「御馳走」。今ではとても想像はつかないが。
朝飯を炊くにしたって「竃」に炭を熾して薪をくべる。電気釜なんて言うのはそれからしばらくしてから。
秋刀魚、煮もの、味噌汁は「七輪」。昔は良かった。よかったか悪かったかは人それぞれだが(笑)。
家族団欒の食事とか何とか言ったってあの頃はそれこそ家中、ちいちゃなちゃぶ台を囲んで喧嘩騒ぎで飯を食う。
兄弟姉妹の四、五人もいようもんならわずかなオカズを取りっこで親父の怒鳴り声とオフクロの小言が耐えることがなかった。
オヤジがイッパイ入って不機嫌にでもなろうもんなら「ちゃぶ台返し」が始まる「家族団欒。
しかし、あの時代を懐かしがるなんて言うのはずいぶんと勝手な話で、
まあ、僕ら子どもで世間の様子には頓着はなかったが・・・・・・
朝鮮動乱も片付いたか片付かないかのそんな頃で、下手をすれば、また「戦争」かなんて言う物騒な時代だったらしい。
内風呂なんてある家は当然向こう三軒両隣あるはずもない。そんな時代、銭湯も老若男女、大衆の社交場だった。
おのおのが貧乏比べを笑い飛ばしていた「愉快」な時代だった。
便所は、汲み取り式。肥溜め屋が野菜の肥料集めに一軒一軒回ってく。
梅雨近くになると、役所の消毒車(自動車ではない、リアカー)に消毒液噴霧ポンプを積んで、
これまた一軒一軒消毒して周る。
蝿帳に蝿取紙、蚊帳に蚊取り線香。「停電」なんて日常茶飯事。
子供がコンメ喰ってあたって腹痛起こして死んじまったり、イボ、ハタケ、タムシ、10円ハゲ。
鼻水はたらたら、シモヤケ、アカギレ、今のママ友が見たら卒倒してしまいそうな健康状態の僕等だった。
もちろん、よっぽどでなければ「医者」なんて行かない・・・と云うより、当時は殆どが「往診」。
ベーごま、めんこ、が子ども達の経済養成所で、 如何にして勝つか、如何にして身上を残すか・・・・・
「ベーごま」では、持ち駒で一番強いのを「身上丸」と云って財産にしていた。
そんな連中、戦後っ子が、勝負強かったはずなのに今では・・・その「経済」も、落ち目。
いや、いいところはいいんだろうが、我が国の閣下、ちょうど60年安保のご時世ベーゴマどころではなかった。
もっとも、下々の生活感覚なんて想像の埒外だったに違いない。
まあ、今、閣僚席、永田町に生息する「霊長類」にはそうした体験、そうした時代的経験は無かったのでは。
その昔、「田名部元農水大臣」がいつか国会で云っていたとおり「今の政治家には商売、勝負に経験が無い」と。
貧乏人とは、庶民大衆とは遊ぶことはまかりならんと言われ、 子どものうちから金勘定するなんて品が悪いとかいわれ・・・・・
そしたら、大人になってから「労働」もせずに「金勘定」ばっかしているのだから何おか況やだが。
チョイトずれてしまったが、僕の街の「マズ・ウマ」も2軒。
ヤキトリ屋「ささき」と、ラーメン屋「可楽」。両方ともかなりの年季だ・・・・・
未だ、その名残は僕を「癒す」のに十分な「味」と「風情」がある。
東京では、目白の「丸長」。ラーメン屋だが・・・その手の「雑誌」に載ることはない(最近載ってしまった)。
それどころか繁盛しすぎて店構え、その「マズ・ウマ」ではなくなってしまった(;´д`)
後は、恵比寿の「酒蔵」・・・行ったものでしかわからない風情がある。あった。
「あった」ということは、今はもうそれはない。
何れも、負けず、劣らぬ、天下一品の「マズ・ウマ」。
戦後っ子「団塊世代」の心の空腹を十分に満たしてくれること請け合い・・・・・
団塊世代の「横丁ミシュラン」☆☆
↑目白の「丸長の「つけそば」お試しあれ!
僕の「マズ・ウマ」・・・
「マズ・ウマ」の定義。
そんな「定義」などと恰好をつけたもんではないが、僕はそう決めている。
不味そうなんだけど・・・美味い。
「なんだそりゃ」
と訝る向きもあるかも知れないが、まさに「不味そうで美味い」。
つまり「不味そう」というのは「味」ということではない。
それは、店構えそのものは極々当たり前で、いわゆるフツーの食堂、そんな趣のそれ。
で、入ってクリビツテンギョー、うめえのうまくねぇの・・・・・
そんな店がどこの街にもひとつやふたつある。
もちろん昨日今日始まったそれではないことも「マズ・ウマ」のていぎなのだが。
ところでどうでもいいことだけど僕ら世代はその必然性に育ってきた。
「終戦」と云う言葉を急いで忘れようとしている大人たちの生活文化の中・・・・・
文化と言うほどのものではないが。
「駄菓子屋」に「お好み焼屋」は、僕ら戦後っ子にとって、その「マズ・ウマ」が日常そのものであった。
着色料、添加物たっぷりの駄菓子、「ソースイカ」、衛生も糸瓜もないサッカリンたっぷりの「舐め紙」ってぇのも。
そして極めつけの芸術作品でありながらも、小学校の門前で小汚いガキ連中を相手に屋台で商っていた「お新粉」屋。
新粉を色とりどりに捏ねて、鶏だの兎だのとそれでこしらえてくれるそれだ。
戦前は何処かの和菓子職人だったのだろうかものの見事な芸術作品が瞬く間に仕上がる。
「腹壊すからそんなもん食うんじゃあねえ」
と、親たちは呆れていたが、下校時ともなるとそのガキ連中(僕等)が、テカテカのお下がりの「詰襟」と下駄に足袋で、
「5円玉」握り締めて目を輝かせてお新粉屋のオジサンの屋台に集った。
丁度、配給も終わって、そろそろ米穀台帳なしに米が買える、昭和33年頃だっただろうか。
そのお新粉屋の屋台と入替わり立ち代りに、焼きそば屋、飴細工屋、針金細工屋が露天を張った。
そうだ、僕の「マズ・ウマ」の原点ははそこにあったのだ。
終戦、まだ干支がひと回りした頃の時代の話・・・・・
「夜泣きラーメン、食堂」なんて云ったら、盆暮れあるかないかの「御馳走」。今ではとても想像はつかないが。
朝飯を炊くにしたって「竃」に炭を熾して薪をくべる。電気釜なんて言うのはそれからしばらくしてから。
秋刀魚、煮もの、味噌汁は「七輪」。昔は良かった。よかったか悪かったかは人それぞれだが(笑)。
家族団欒の食事とか何とか言ったってあの頃はそれこそ家中、ちいちゃなちゃぶ台を囲んで喧嘩騒ぎで飯を食う。
兄弟姉妹の四、五人もいようもんならわずかなオカズを取りっこで親父の怒鳴り声とオフクロの小言が耐えることがなかった。
オヤジがイッパイ入って不機嫌にでもなろうもんなら「ちゃぶ台返し」が始まる「家族団欒。
しかし、あの時代を懐かしがるなんて言うのはずいぶんと勝手な話で、
まあ、僕ら子どもで世間の様子には頓着はなかったが・・・・・・
朝鮮動乱も片付いたか片付かないかのそんな頃で、下手をすれば、また「戦争」かなんて言う物騒な時代だったらしい。
内風呂なんてある家は当然向こう三軒両隣あるはずもない。そんな時代、銭湯も老若男女、大衆の社交場だった。
おのおのが貧乏比べを笑い飛ばしていた「愉快」な時代だった。
便所は、汲み取り式。肥溜め屋が野菜の肥料集めに一軒一軒回ってく。
梅雨近くになると、役所の消毒車(自動車ではない、リアカー)に消毒液噴霧ポンプを積んで、
これまた一軒一軒消毒して周る。
蝿帳に蝿取紙、蚊帳に蚊取り線香。「停電」なんて日常茶飯事。
子供がコンメ喰ってあたって腹痛起こして死んじまったり、イボ、ハタケ、タムシ、10円ハゲ。
鼻水はたらたら、シモヤケ、アカギレ、今のママ友が見たら卒倒してしまいそうな健康状態の僕等だった。
もちろん、よっぽどでなければ「医者」なんて行かない・・・と云うより、当時は殆どが「往診」。
ベーごま、めんこ、が子ども達の経済養成所で、 如何にして勝つか、如何にして身上を残すか・・・・・
「ベーごま」では、持ち駒で一番強いのを「身上丸」と云って財産にしていた。
そんな連中、戦後っ子が、勝負強かったはずなのに今では・・・その「経済」も、落ち目。
いや、いいところはいいんだろうが、我が国の閣下、ちょうど60年安保のご時世ベーゴマどころではなかった。
もっとも、下々の生活感覚なんて想像の埒外だったに違いない。
まあ、今、閣僚席、永田町に生息する「霊長類」にはそうした体験、そうした時代的経験は無かったのでは。
その昔、「田名部元農水大臣」がいつか国会で云っていたとおり「今の政治家には商売、勝負に経験が無い」と。
貧乏人とは、庶民大衆とは遊ぶことはまかりならんと言われ、 子どものうちから金勘定するなんて品が悪いとかいわれ・・・・・
そしたら、大人になってから「労働」もせずに「金勘定」ばっかしているのだから何おか況やだが。
チョイトずれてしまったが、僕の街の「マズ・ウマ」も2軒。
ヤキトリ屋「ささき」と、ラーメン屋「可楽」。両方ともかなりの年季だ・・・・・
未だ、その名残は僕を「癒す」のに十分な「味」と「風情」がある。
東京では、目白の「丸長」。ラーメン屋だが・・・その手の「雑誌」に載ることはない(最近載ってしまった)。
それどころか繁盛しすぎて店構え、その「マズ・ウマ」ではなくなってしまった(;´д`)
後は、恵比寿の「酒蔵」・・・行ったものでしかわからない風情がある。あった。
「あった」ということは、今はもうそれはない。
何れも、負けず、劣らぬ、天下一品の「マズ・ウマ」。
戦後っ子「団塊世代」の心の空腹を十分に満たしてくれること請け合い・・・・・
団塊世代の「横丁ミシュラン」☆☆