2016年09月12日

満員御礼「9.10 昭和の風コンサート」高崎キネマ横丁

満員御礼「9.10 昭和の風コンサート」高崎キネマ横丁

シニア・パワー炸裂!!


夕方5時・・・・・黄昏です。

すでに電気館前広場、オープンカフェは昔の少年少女で熱気にあふれてた。

昭和42年。あの頃を彷彿とさせるその光景に心は踊り気分が高まる。

50年ぶりに再会し、瞬時にしてよみがえる青春・・・・・

高崎電気館キネマ横丁1Fではレヴューのためのリハーサルがつづいている。

天候にも恵まれてその人だかりはまさに昭和の高崎の復活をそこに見せた。

繰り返すが、高崎市、60歳以上のシニア世代の人口は凡そ9万人超いる。4人に一人だ。

そんな彼らが彩ったあの頃の高崎の街中はと想像すると曲がりかけていた背中もシャンとする。

高度経済成長の始まった昭和から、団塊世代Jr がよちよち歩きだった昭和50年代そこは雑踏の真っただ中にあった。

取材してくれた上毛新聞社の女性記者、聞けばご両親は50歳代の初めだという・・・・・

そんな彼女に、昭和40年代の高崎にはデパートが7つもあって喫茶店が軒を連ね、中央銀座通りはまさに「銀座」。

映画、封切上映館は東宝、東映、松竹、大映、日活とあって、オールナイト館もあった。

僕がそんな話をすると「嘘でしょ!!」と驚きを隠せない様子。

そう、この昭和の風コンサート」本日の主人公、ザ・プラネッツその高崎中央銀座通りにあった「みゆきダンスホール」の看板バンド。

あれから50年問歳月が流れ復活した当時の「不良少年」、さすが、昔取ったキネヅカです。

その演奏は、当時のまま、というより50年という歳月に円熟さを増しまさに「高崎のミックジャガー」が・・・・・・

♪サティスファクション♪


「満足したかい」と歌ってフィナーレを飾った。心地よい昭和の風の中に。

満員御礼「9.10 昭和の風コンサート」高崎キネマ横丁

  


Posted by 昭和24歳  at 16:37Comments(0)

2016年09月12日

路傍の石ころ「トットのおじちゃん」。

路傍の石ころ「トットのおじちゃん」。

昭和37年4月29日・・・・・・・
トットのおじちゃん。


「おまえは橋の下から拾ってきたんだ」

いつも聞き分けのない僕を父も母もからかうようにそう言った・・・・・・

僕は「一人っ子」。あの時代そう言う子供は結構いた。

可笑しなもので両隣が一人っ子なのだ。

そう、両隣とも「橋の下から拾ってきたらしい(笑)。

まだ小学校の二、三年頃だったろうか、よく母の実家、豊岡村引間へ夏休みになると本町三丁目のバス停から室田経由権田行きのバスに母に連れられていった。

「まっちゃんによく似て色白で可愛い子だね・・・まっちゃん、おやげないね」

実母は満津子という名前だった・・・・・・

そこは養母の実家で、つまりはお婆ちゃんのちだが、そのころ、おばあちゃんちは村ではただ一軒の万屋を商っていた。
もちろん農業もやっていて、主に、桃、梅を栽培していた。

「今日泊まっていってもいいだろ、冨美子姉ちゃんと寝るんだ」

お婆ちゃんちには10歳と、8歳違いのお姉ちゃんがいた。

冨美子姉ちゃんは桃原、梅原によく僕を連れて行ってくれ、桃原で採りたての桃を湧き清水に浸しておいて食べる。

なんとも言えない美味しさの「天津」と言った大きくてかたい桃・・・・・・・・
今ではその強烈な酸っぱさが故、品種改良され、その美味さを味わうことはできない。

お婆ちゃんちにはその頃、オート三輪があった。

自転車のハンドルのようなのがついた大きなやつだ。

荷台に、桃とか梅をいっぱいに積んで市場まで持って行くのが僕は楽しみだった。

桃原は今の剣崎の桃が丘一帯にあった・・・・・・

僕が8歳くらいのときにはもう冨美子姉ちゃんは18歳になっていたので多分、自動車の免許は持っていたんだろう。
っていうか、あの時代は警察に行けばくれたんだとか、昭和32年(笑)。

で、冨美子姉ちゃんの運転で桃原を縦横無尽に走った。

<トットットット・・・・・>

そのオート三輪の排気音が今でも僕の耳に残っている。

おばあちゃんちの伯母ちゃん、つまり僕の実母なのだが、そのおばちゃんは昭和24年から脊椎カリエスでもう10年から床に臥していた。

つまり僕を産むとすぐに病に臥したまま伯母ちゃんはお婆ちゃんちの奥の部屋でずっと寝たきりだった。

僕ら子どもは病気がうつるかもしれないからとその部屋に入れてもらえる事はなかった。

僕の記憶からも、おばちゃんと呼ばされていた実母に逢わせてもらうことはなかった。

おばちゃん、きっと僕の声を聞いてどんなに抱き締めたかったことだろうかと、僕自身子どもをもうけて胸が痛む。

僕が小学校4年の時についにその時はやってきたのだった。

<トットットット・・・>
「あっ、トットのおじちゃんだ」

僕の家の前で、トットットット・・・とその音が止る。

トットのおじちゃんが来るといつも柔道の道場に連れて行ってくれる。
おじちゃんは、武徳殿という高崎公園の中にある武道館で柔道を教えていた。

「おじちゃんは強いんだぞ・・・ほらっ、黒帯だ」

僕にはよく分らなかったが、とにかく強いらしかった。
トットのおじちゃんは映画にもよく連れて行ってくれた・・・・・・

トットのおじちゃんと最後に観た映画は「土俵の鬼・若乃花物語」だった。

まだこの街が砂利道だらけで映画館の前にはその「土俵の鬼・若乃花物語」」の幟がはためいていた。

そして、明治17年生まれのお婆ちゃんが死んだのは僕が小学校3年の時だった。

トットのおじちゃんの機嫌がやけに悪かったのを覚えている。

トットのおじちゃんは酒が一滴も飲めない。
そのせいかどうか、昭和32年、73歳で死んだお婆ちゃんの振舞い酒に賑やかな客が気に入らなかったようで・・・・・
それまでほとんど怒った事のないトットのおじちゃんが、おばあちゃんを丸い棺桶に納める時すごい顔をしていた。

きっと、トットのおじちゃん、色んな思いがあったのかもしれない。お婆ちゃんに。

「あっちへ行ってろっ !!」
と僕を叱った・・・・・


“そういう時代”

僕には昔のことはよく分からない。大正2年生まれ、僕と同じ丑年だ「トットのおじちゃん」は。

明治17年申年のお祖父ちゃんは日清、日露戦争へ高崎十五連隊から出兵したと聞いていた。

大正2年。

一体どんな時代だったのだろうか。
欧州の戦争で好況に沸く皇国「日本」。そして昭和に入って「世界恐慌」から、太平洋戦争。

「トットのおじちゃん」

束の間の青春だったのかも知れない。

「トットのおじちゃん」は毎日のように高崎の僕の家にきていた。

<トットットット・・・>

と排気音を鳴らしながら・・・・・・

僕が小学校3年の頃には丸ハンドルの「マツダ」のオート三輪に替えていた。

僕はその「オート三輪」が自慢だった。

当時、昭和32年頃にオート三輪なんて言うのがあるなんて高崎では珍しかったからだ。

「トットのおじちゃん」は僕が学校から帰るのを待ってましたとばかりに・・・・・・・

そのオート三輪に僕を乗せて市場やお得意さんを回った。

「マルヨさんには似てねえな・・・」
「ああっ、オッカア似だからな」


トットのおじちゃんは目配せをするようにいつも小声でそう言った・・・僕に聞こえないように。

ずっと不思議に思っていたが、僕にはそのことが何のことだかはあまり分からなかった。

と言うより、知りたくなかったのかも知れない。

「マルヨさん、今度バナナとモヤシこっちに廻してくんねえかい」
「モヤシはいいが、バナナは統制かかってるしな」


マルヨとは、トットのおじちゃんの市場での屋号、仲買もやっていたのでみんながそう呼んだ。

よくは知らないが戦友とかがこの地域のバナナの権利を持っていて相当いい商売をしていたらしい。
もともとその戦友、今風に言えばベンチャー企業化か、モヤシの製造を始め・・・・・・・・
そのモヤシを作るときの蒸気かなんかで青いバナナを蒸すんだと言っていた。

ホントにそうだったかどうかは分からない、あくまでも僕のおぼろ気な記憶である。

そんなことが昭和34年くらいまで毎日のように続いただろうか。

ある日、母とトットのおじちゃんが喧嘩をしていた。

喧嘩とは言っても兄と妹の口喧嘩のレベルだったんだろうが・・・・・・・

それにトットのおじちゃんは母の小言を全く相手にしていなかった。

何せ9歳も年が離れてる・・・母、38歳、トットのおじちゃん47歳なのだから。

「あんまり・・・この子、連れまわさないでよ。お父ちゃんが最近煩くて」

どうやら、トットのおじちゃんがしょっちゅう僕を何かと言っては連れて歩くのが父には面白くないらしい。

父は、実に生真面目な国鉄の職員・・・ほとんど僕の顔をまともに見たことがない。寝顔ぐらいじゃあないだろうか。

今にして思えば、僕が「なつかなかった」のかも知れない。

その父との思い出は生涯たったの2回・・・・・・

父の兄、叔父が亡くなった時に父の実家、静岡県沼津に行った時。
蒸気機関車で丹名トンネルをくぐって顔を煤で真っ黒にして、それを父が手拭で拭いてくれたこと・・・・・・
沼津の海では父の見事な泳ぎっぷりに驚いたこと。

父は最期まで僕にはどことなく遠慮がちだった。

そしてそんな父は、同年代の「トットのおじちゃん」に嫉妬していたのかも知れない。

母と、トットのおじちゃんとの喧嘩。トットのおじちゃんはいつも最後にぼっそっと。

「テメエの子、かわいがっちゃあ悪いかッ !??」

そんな時僕はいつもキューッっと胸の奥が痛くなるのを、今でも覚えている。
そしてそれはついにやってきた。

「おまえはお父ちゃんの子じゃあないんだ」

トットのおじちゃんと父との口論のあとだった。

それにしても、あの時代の人たち、僕ら世代もそうだったけど、戦災孤児、生き別れ、混血児 etc........
その時代に翻弄されたのは、生まれた時代が悪かったのか。

ソレを思うと今の僕たちは数万倍幸せなはず。

今でも、トットのおじちゃんにも、父にも時々、夢で逢っている。
 
今度いつ逢えるかな・・・・・・・・

トットのおじちゃん  


Posted by 昭和24歳  at 10:17Comments(0)

2016年09月12日

「民進党?」ジャスコがイオンになっただけ(笑)。

「民進党?」ジャスコがイオンになっただけ(笑)。


猪突猛進、反省なし、思慮なし・・・・・
こういう女は嫌われます(笑)。


蓮舫代表代行「説明足りないなら、しっかりする」、疑惑を重ねて否定 「一つの中国」論にも言及
 民進党の蓮舫代表代行は11日、東京都内で行われた党代表選(15日投開票)の共同記者会見で、日本国籍と台湾籍のいわゆる「二重国籍」疑惑を重ねて否定し、「私の説明に足りないところがあるなら、党内にも、国民にもしっかり説明させていただきたい」と述べた。

 蓮舫氏は「日本の国籍を取得し、3度の国政選挙で選ばれて、わが国のために働いている。日本の法律のもとで、二重国籍疑惑そのものがないことは明確にさせていただきたい」と強調した。

 また日本が台湾を国家として承認していない現状を踏まえ、「『一つの中国』論で言ったときに、二重国籍と(いう言葉を)メディアの方が使われることにびっくりしている」とも述べた。

産経ニュース2016.9.11 20:37更新
http://www.sankei.com/politics/news/160911/plt1609110014-n1.html

>「私の説明に足りないところがあるなら、党内にも、国民にもしっかり説明させていただきたい」と述べた。

別にいいと思うよ。所詮が闇鍋政党なんだし「民進党」って。

どこの誰だか知らないけれど、誰もがみんな知らない・・・・・

岡田だって本籍自民党だけど、田中派(角栄)だったから出世の見込み内から風見鶏、猫の目。

共産党とは綱領どうのこうの言ってるけど菅直人はどっちかっていうと、左巻きだし。

やめちゃった鳩山ユッキーだって本籍自民党、で、岡田と一緒で田中派。

まあ、田中派の世襲は小沢一郎だったんだけど本家が崩壊しちゃいましたからご案内の通りです。

で、筋書きなら「小沢首相」だったんだろうけど、よっぽどの、イケない事情があったんですね、もう終わりですし。

「山本太郎と仲間たち」って、漫画です(笑)。

で、前原だって日本新党、細川護熙、これも田中派ですから本籍自民党・・・・・

松野も世襲三世でまあ、自民党が本籍ですから、あとは雑魚同然でキャンキャン吠えてるだけ。

それにしても民進党とかなんだが余程人材いないんですね。まあ、政権交代なんてないだろうから、人材いらないけど。

そんなわけで、帰化したんなら「レンホー」なんつう名前変えなくちゃあ、「村田蓮舫」なんだって。

まあ、公文書には通名はアウトだから「村田蓮舫」って書いてるんだろうけど、例えば、絶対ないけど・・・・・

民進党政権になって日本の首相が「レンホー」じゃあ洒落にならないです。

「民進党?」ジャスコがイオンになっただけ(笑)。


  


Posted by 昭和24歳  at 04:47Comments(0)

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