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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーション  at 

2016年09月01日

昭和、横丁のシキタリ

昭和、横丁のシキタリ


僕の横丁にも、
こんな趣の酒場が数軒・・・



ご案内の高砂町、“地域社会”だなんていうと大袈裟だが・・・・・・
僕が子どもの頃のご近所、“横丁”にはその地域社会というか、“子ども社会”がはっきりとあった。

それは学校とは全く関係のない“子ども”だけの秩序というか“掟”というか、そしてそれを束ねるリーダーがいた。
そしてそこにはそういった不文律の約束された子ども社会があった。
昭和30年代である。ということは戦後未だ10年とちょっとの、まあその頃の大人社会はさぞかし難儀だったろう。
で、僕らの横丁にもすでに「階級社会」が存在していた。
まあ、その横丁、ある意味、戦後、戦災から、そして満州から引き揚げた僕らの親世代20代、30代で騒然としていた。

言ったら、高砂町の表通りは職人街だった。旗屋、畳屋、看板屋、箪笥屋、鍛冶屋、籠屋、建具屋等々・・・・・
それに小売は、米屋、自転車屋、佃煮屋、魚屋、鶏屋、酒屋、薬局、早々駄菓子屋も「長井」、「山盛」、「長谷川」とあった。

その高砂町、ブロードウェイの路地裏が僕らの世界だった。
そこには長屋、間貸、極めつけは畳2畳縦に並べた間貸に親子3人なんていうニューファミリーもあった。
もっとも、ほとんどが6畳一間に親子5人とか、二間ともなると三世代同居なんていうファミリーも。

そんな頃です、その路地裏のとっつきに、大企業「日清製粉高崎工場」の社宅があって、まあ、ブルジョアでした。
その時代、真っ先にその社宅の屋根にはテレビアンテナが林立しましたから。
で、みんな長屋、間借ですから共同水道です。そんな時代に社宅には風呂場まで、キッチンまであってですから階級が違った(笑)。

そんなわけで、子どもはいっぱいいて、しかもこ汚いのばかりで、タムシ、ハタケ、トラホームとデキモン問屋のガキばかり。
そう、そんなガキばかりの路地裏横丁にそのシキタリ、不文律の掟があった。

そんな横丁のガキの取締、ガキ大将は“としおちゃん”

“としおちゃん”は米屋の次男坊でそんなガキ大将のとしおちゃんでも頭の上がらないのが 兄貴で、2つ年上の“ゆきおちゃん”。
で、そのとしおちゃんでもどうにも手におえなかったのがきかん坊で腕白の、 弟の“よしおちゃん”。そして双子の妹もいた。

そんなガキ大将の“としおちゃん”を中心に7人ほどの悪ガキグループが、 僕の地域、横丁にはあった。

後々知るところだが・・・・・・
そのとしおちゃん学校では体格もそれほど勝れているわけではなくどうやら目立たない存在だったとか。
しかし地域、横丁でのとしおちゃんの存在はいわゆる“親分”である。
相撲は強い、喧嘩も他所の横丁の悪ガキとも突貫小僧よろしく先頭を切って戦った。

そんなとしおちゃんの子分、配下には僕をはじめに、“もっちゃん”ともっちゃんの弟の“ノリちゃん”。
で、もっちゃんちのお父さんとお母さんは満洲帰り・・・・・
その頃もっちゃんのお父さんは理由あったらしく蒸発してしまっていて“母子家庭”だった。
そして最近訃報を聞いたがとても野球の上手な“しゅうちゃん”と弟の“てっちゃん”と“まさみちゃん”。
しゅうちゃんちのお父さんは僕の親爺と同じポッポ屋で、なんでも組合活動に奔走していて 横丁では“アカ”と評判だった。

それに、としおちゃんの家の前の鶏屋の“セーちゃん”と弟の“まもるちゃん”。

そうそう、そのとしおちゃんの兄貴分の鍛冶屋の“ひろしちゃん。ひろしちゃんは横丁の”先代のガキ大将だった。

まだまだいた、高いところに登るのが大好きだった越沢の“じゅんちゃんとか、

山田の“マーちゃん”、”田端の“マーちゃん”、鈴木の“マーちゃん”、塚越の“マーちゃん”、尾崎の“マーちゃん”と・・・・・
とにかくそこは“マーちゃん”だらけの横丁だった。
ミシン屋の“ひろしちゃん”、関根の“ケンチャン”、湯浅の“一郎ちゃん”夜泣きそばの“もりや”、額田の“たっちゃん”、
箪笥屋の“あきおちゃん”、樋口の“ケンチャン”、長井の“あきらちゃん”、山盛の“としおちゃん”・・・・・
そんなガキ連中、全部がほぼ同い年が20人からいた。てなわけで、まず、学校の同級生と遊ぶことはなかった。

ビー球、メンコ、ベーゴマ、相撲、かくれんぼう・・・・・・・

とにかく遊ぶことには欠く事はなかった。

兄弟のいなかった僕だったが、学校でのつまらないことなんかはそんな横丁の喧騒に何もかも忘れ思い切り遊びまくった。
時には喧嘩をし、そんなときはそのガキ大将の“としおちゃん”が仲裁する。
そしてあるときはそんなとしおちゃんに食って掛かって殴られて・・・・・今では笑い話だが。

たしかに学校ではイジメもあったし、喧嘩をしたりとか嫌なこともあった。

まあ、やはり学校というところはひとつの「比較社会」。 良くも悪くも、いわゆる“デキル”という部分での競争社会の側面だ。
それでもそんな一人一人の同級生が家に帰れば夫々に“横丁”があった。
不文律の“子ども”の“子ども”による“子どもの”ための地域社会が厳然と存在していた。

今はそんな横丁がない。
子ども社会がない。
大人になるための準備のための社会がない・・・・・・

過日、『昭和35年度卒業高崎市立東小学校の同窓会』があった。

「これだけ人数がいても俺たちの中から市議、県議とかって誰もいねぇねぁ」

誰かがそんなことを言い出した・・・・・

よく見ると同窓会の面々、いずれも違わぬ横丁の悪ガキの趣(笑)。
もちろんそうでないそれなりの良家の子女もいないわけではなかったが・・・・・・
子ども社会という貴重な体験をしてきた戦後っ子。
どうやら、生きるうえでの知恵が自然にはぐくまれてきたようだ。

そしてそれはけして後付けの悪知恵ではない。

「だって、おめぇ、選挙に出てペコペコ頭下げて、作り笑いして、
皆さんのために頑張りますとか、腹にもないことを言って、そんなこと俺たちにできるわけねえだろぅ?」

そう言われてみると政治の社会は“学校”のようなもの。競走社会、ある種それは戦場だ。

けして横丁ではない。

学校だけで、成績の優劣だけで、点数だけで“情”を一切排除した社会育ちの、そんな面々が「国民のため」とかであるから片腹痛い。

まあ、今日では、学校での部活がその横丁の役割を果たしてきているんだろう・・・・・・
部活を通して先輩後輩、そんな社会で生きる術を知る。まさか、政治に部活があるわけじゃあないどろうが、

いや、あるかも知れない「裏国対」とか「お座敷政治」でのガキ大将とか(笑)。

健全な子ども社会が将来の明るい社会づくりに、 まあ、健全とは言ってもいろんな意味でのそれだが。
少子化の昨今、学業の競争社会でははたしてこの国は立ち上がれるのか。

安倍さんは横丁は知りませんね・・・・・・

まあ、生まれて絹の産着、銀のスプーンで、乳母に添い寝されてたわけですから。

昭和、横丁のシキタリ
  


Posted by 昭和24歳  at 09:36Comments(0)

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