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2011年08月11日
【昭和24歳】夏休みの思い出・・・
【昭和24歳】夏休みの思い出・・・

まっくろに日焼けして、遊びに明け暮れた夏休み。でも9月が近づくと、終わっていない宿題や自由研究、絵日記を思い、決まって憂鬱になったものだ……。そんな“昭和30~40年代の夏休み”を図版・写真で描く決定版!
アイスキャンディー
「ワーーーーーッ、自転車の荷台に水色の・・・」
所々、ペンキの剥げた水色の箱に「アイスキャンディー」と書かれている。
これまた幟旗も水色で「アイスキャンディー」・・・と白抜きで。
おじさんが「チリ~ン、チリ~ン」と鐘を鳴らしながら・・・・・・
「サッカリン」を水に溶かして凍らせたやつ。
昭和三〇年代初めの真夏の「風物」だったソレ。
たらたらと、落ちる「アイスキャンディー」の水滴を恨めしく思って、下の方を舐めようとすると、
間の悪い時には、上のほうが「ポトリ」と地面に・・・・・・
「あ~っ、僕は何と運の悪い男なのだ」
と、子どもながらに、そう思った「麦藁帽子の夏休み」。
地面に落っこちたアイスキャンディーは見る見るそこにしみ込んでいく。
しばらくするとありんこがアイスキャンディーの黒い染みに集っている。
「あ~あっ、もったいねぇ」
たしか、五円だっただろうか。やっとの思いで母にねだって貰った小遣い。
そう簡単にあきらめ切れるものではなかった・・・・・・・
あの頃の「五円」と言えば大金だ。今ではそこいら辺の駄菓子屋でもアイスキャンディー、
もちろん甘味はサッカリンなんかではないが「ガリガリ君」、一本六〇円はするが。
なにせ親父の月給が一万円そこそこの頃だろう。
僕は一人っ子みたいなもんだったのでヘマさえしなければ一本丸ごと一人で食えたのだが、
兄弟姉妹三人も四人もいれば一本のアイスキャンディーを喧嘩騒ぎで食わなければならないのだから、
僕の落っことした「アイスキャンディー」がいかに貴重なものであったかがわかる。
そんな夏休みの思い出・・・・・・
味噌おにぎり
そうだ、あの頃のおやつと云えば・・・・・
夏は、竹の皮で梅干を包んだやつを、よく作ってもらった。
「これ喰え、腹こわさねえぞ・・・」
と、父は庭先の笊に干されたシソの絡まった梅干を、竹の子の皮に「ヒョイ」と包んで。
その時代、横丁と言う横丁でで「ツーーーン」とした梅干の匂いが漂っていた。
昭和三〇年代は未だどことなく、「戦後」の臭いのする街の風景。
夏休みともなれば近所の同い年同士、七、八人が連れ立って毎日川遊びやら。
時には近くにある観音山「仙人隠れ」(千人隠れ)に化石拾い、沢ガニ捕り、堤防の芝ソリ・・・・・・・
兎に角遊ぶことには事欠くことはなかった。
そんな時は決まって「味噌ニギリメシ」、もちろん梅干入りの。
で、どう言う訳でいつも味噌ニギリメシだったのかといえば・・・・・・・
あの時代ほとんどの家が麦飯もちろん白米とのミックスだが、
どうやら味噌の粘りが麦飯のツナギになっていたようだ。
それと、茄子、キュウリの糠漬。
「茄子の糠漬」は口ん中を紫にして、中身を穿り返していつまでも、いつまでも食いつづけていた・・・
腹が減ると、味噌のニギリメシ・・・・・
で、時には、「ジリ焼き」。うどん粉に味噌とか、砂糖を少し混ぜて。
たまに母の手が空いたりしていると「炭酸」なんかを入れて、ちょいとフックラさせてくれた。
しかしその炭酸入りの「ジリ焼」、ふっくらするのは良いがその頃のうどん粉が悪いのか炭酸粉が悪いのか、
はたまた、母のうどん粉のこね方が拙いのか・・・・・・
まあ、そんな母だが、よく親父と夕飯かなんかのことで喧嘩をしていた。
つまり、料理自体がそんなに得意ではなかったようだたのでもしかしたら、
それって、「こねかた」のせいかも知れない。
そのジリ焼に炭酸粉の塊が混ざっていて、それをかじった時の苦いこと苦くないこと、
大変な思いをしたことを覚えている。
親父が、七輪で「カルメ焼き」なんかもしてくれた。
七輪に真鍮製の柄杓を小さくしたようなお椀状の小鍋。
それをその七輪にかけ、ザラメを入れて小さなすりこ木のようなものでかき混ぜる。
ところで、今では、「うどんの手打ち」なんて商売になってるけど、昔はどこん家も「手打ち」。
僕の家にも、今でもあるが「手回し」の「うどん鋤機」。
どうせ、水団なんか食わされた時は「米びつ」空っぽだったんだろうけどね(笑)。
「突貫豆屋」なんて云うのも来た。
大豆を持ってくと、煎餅にしてくれる・・・のとか、今で云う「ポン菓子屋」だ。
米を2合升ぐらい袋に入れてもってくと、
「ドカーーーーン」
と云う爆発音と共に豆菓子にしてくれるやつだ。
紙芝居の、水あめ、べっ甲アメ、ニッキアメ、・・・
10円出すと、水あめを、薄い煎餅と煎餅で挟んでくれる。
「黄金バット」を見ながら時間の経つのを忘れていた。
夏休みの朝
朝は、たまご屋と納豆屋の売り声で・・・よく目を覚ましたもんだ。
そして、魚市場のところでの「ラジオ体操」。
そう云えば3年生くらいまで、毎日のように寝小便をしていたのが恥ずかしい・・・・・
終いには、パンツもなくなっちゃって、姉ちゃんのを穿かされたのにはまいった。
まさかその俺が・・・その僕が、アラカンになってるなんて、信じられない。
でも事実なのだから仕方が無い・・・・・
【昭和24】夏休みの思い出・・・

まっくろに日焼けして、遊びに明け暮れた夏休み。でも9月が近づくと、終わっていない宿題や自由研究、絵日記を思い、決まって憂鬱になったものだ……。そんな“昭和30~40年代の夏休み”を図版・写真で描く決定版!
アイスキャンディー
「ワーーーーーッ、自転車の荷台に水色の・・・」
所々、ペンキの剥げた水色の箱に「アイスキャンディー」と書かれている。
これまた幟旗も水色で「アイスキャンディー」・・・と白抜きで。
おじさんが「チリ~ン、チリ~ン」と鐘を鳴らしながら・・・・・・
「サッカリン」を水に溶かして凍らせたやつ。
昭和三〇年代初めの真夏の「風物」だったソレ。
たらたらと、落ちる「アイスキャンディー」の水滴を恨めしく思って、下の方を舐めようとすると、
間の悪い時には、上のほうが「ポトリ」と地面に・・・・・・
「あ~っ、僕は何と運の悪い男なのだ」
と、子どもながらに、そう思った「麦藁帽子の夏休み」。
地面に落っこちたアイスキャンディーは見る見るそこにしみ込んでいく。
しばらくするとありんこがアイスキャンディーの黒い染みに集っている。
「あ~あっ、もったいねぇ」
たしか、五円だっただろうか。やっとの思いで母にねだって貰った小遣い。
そう簡単にあきらめ切れるものではなかった・・・・・・・
あの頃の「五円」と言えば大金だ。今ではそこいら辺の駄菓子屋でもアイスキャンディー、
もちろん甘味はサッカリンなんかではないが「ガリガリ君」、一本六〇円はするが。
なにせ親父の月給が一万円そこそこの頃だろう。
僕は一人っ子みたいなもんだったのでヘマさえしなければ一本丸ごと一人で食えたのだが、
兄弟姉妹三人も四人もいれば一本のアイスキャンディーを喧嘩騒ぎで食わなければならないのだから、
僕の落っことした「アイスキャンディー」がいかに貴重なものであったかがわかる。
そんな夏休みの思い出・・・・・・
味噌おにぎり
そうだ、あの頃のおやつと云えば・・・・・
夏は、竹の皮で梅干を包んだやつを、よく作ってもらった。
「これ喰え、腹こわさねえぞ・・・」
と、父は庭先の笊に干されたシソの絡まった梅干を、竹の子の皮に「ヒョイ」と包んで。
その時代、横丁と言う横丁でで「ツーーーン」とした梅干の匂いが漂っていた。
昭和三〇年代は未だどことなく、「戦後」の臭いのする街の風景。
夏休みともなれば近所の同い年同士、七、八人が連れ立って毎日川遊びやら。
時には近くにある観音山「仙人隠れ」(千人隠れ)に化石拾い、沢ガニ捕り、堤防の芝ソリ・・・・・・・
兎に角遊ぶことには事欠くことはなかった。
そんな時は決まって「味噌ニギリメシ」、もちろん梅干入りの。
で、どう言う訳でいつも味噌ニギリメシだったのかといえば・・・・・・・
あの時代ほとんどの家が麦飯もちろん白米とのミックスだが、
どうやら味噌の粘りが麦飯のツナギになっていたようだ。
それと、茄子、キュウリの糠漬。
「茄子の糠漬」は口ん中を紫にして、中身を穿り返していつまでも、いつまでも食いつづけていた・・・
腹が減ると、味噌のニギリメシ・・・・・
で、時には、「ジリ焼き」。うどん粉に味噌とか、砂糖を少し混ぜて。
たまに母の手が空いたりしていると「炭酸」なんかを入れて、ちょいとフックラさせてくれた。
しかしその炭酸入りの「ジリ焼」、ふっくらするのは良いがその頃のうどん粉が悪いのか炭酸粉が悪いのか、
はたまた、母のうどん粉のこね方が拙いのか・・・・・・
まあ、そんな母だが、よく親父と夕飯かなんかのことで喧嘩をしていた。
つまり、料理自体がそんなに得意ではなかったようだたのでもしかしたら、
それって、「こねかた」のせいかも知れない。
そのジリ焼に炭酸粉の塊が混ざっていて、それをかじった時の苦いこと苦くないこと、
大変な思いをしたことを覚えている。
親父が、七輪で「カルメ焼き」なんかもしてくれた。
七輪に真鍮製の柄杓を小さくしたようなお椀状の小鍋。
それをその七輪にかけ、ザラメを入れて小さなすりこ木のようなものでかき混ぜる。
ところで、今では、「うどんの手打ち」なんて商売になってるけど、昔はどこん家も「手打ち」。
僕の家にも、今でもあるが「手回し」の「うどん鋤機」。
どうせ、水団なんか食わされた時は「米びつ」空っぽだったんだろうけどね(笑)。
「突貫豆屋」なんて云うのも来た。
大豆を持ってくと、煎餅にしてくれる・・・のとか、今で云う「ポン菓子屋」だ。
米を2合升ぐらい袋に入れてもってくと、
「ドカーーーーン」
と云う爆発音と共に豆菓子にしてくれるやつだ。
紙芝居の、水あめ、べっ甲アメ、ニッキアメ、・・・
10円出すと、水あめを、薄い煎餅と煎餅で挟んでくれる。
「黄金バット」を見ながら時間の経つのを忘れていた。
夏休みの朝
朝は、たまご屋と納豆屋の売り声で・・・よく目を覚ましたもんだ。
そして、魚市場のところでの「ラジオ体操」。
そう云えば3年生くらいまで、毎日のように寝小便をしていたのが恥ずかしい・・・・・
終いには、パンツもなくなっちゃって、姉ちゃんのを穿かされたのにはまいった。
まさかその俺が・・・その僕が、アラカンになってるなんて、信じられない。
でも事実なのだから仕方が無い・・・・・
【昭和24】夏休みの思い出・・・