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2010年10月06日
幼子、伊勢崎市でも無理心中?
幼子、伊勢崎市でも無理心中?

母性愛の幻想は母子関係の一方である子供だけでなくもう一方の母親をも苦しめている。母性愛の問題を父親の問題、家族、教育、学校などの問題にまで広げて考えてみる。1995年刊の改訂版。
<数冊読んでますけど、岸田秀って面白いです(昭和24歳)>
民家で親子3人死亡=無理心中か-群馬
2010/10/06-12:32 時事ドットコム
6日午前7時15分ごろ、群馬県伊勢崎市安堀町の外装業小林信孝さん(37)方で、敷地内の事務所で領収書が燃えるぼやがあり、小林さんが県警伊勢崎署に通報、現場を調べていた同署員が、住宅内で妻(35)と小学5年の長男(11)、小学3年の次男(8)の3人が死亡しているのを発見した。妻は首をつった状態で発見されたほか、子供2人には首を絞められたような跡があったことなどから、同署は妻が無理心中を図った可能性があるとみて調べている。
飛び込んできた、母親が子供二人を・・・・・・・
「群馬県伊勢崎市で無理心中」
NHKのお昼のニュースだった。
「なんでこんなことばっかり・・・・・」
カミサンが箸を止めてそういう。
その首つりした状態で発見された母親35歳。
そして、その母親に殺されたと思われる子ども、11歳と8歳。
その母親は、僕らの娘世代。で、殺された子どもたちは孫・・・・・・
なぜこんなことになってしまうのか。
さっき夕方のニュースで報じていたが、「夫は別居」とかだが。
おそらく、いろいろな理由があったんだろうけど。
あまりにも、安易と思われる「死の選択」はこの空気のせい ???
「この空気」って ???
絶望感。
苦しくても生きてゆくこと・・・・・・・
その生きてゆくことを諦めさせる空気、「風潮」はなぜ !!???
社会からの疎外感か・・・・・・
ソレにしてもなにも、幼い子どもまで道連れに、犠牲にすることはないだろうに。
そこに、いいようのない恐怖を感じる。
そして、もう一方では発作的に、わが子を殺害してしまう若い母親。
なにがそうさせるのか、なにがそうさせていまうのか・・・・・・
少子化問題だの、高齢化問題だのをいうが、
もっと違う所に、大きな問題が潜在していうんじゃあないだろうか ???
あなたはどう思いますか、今のこの風潮を。
今日の衆議院代表質問を聴いていても、ただ、与野党が入れ替わっただけの・・・・・・・
全く、人間味の欠片もない質問と答弁。
社会が病んで、壊れてゆくというのに、この空気はナニ ???
幼子、伊勢崎市でも無理心中?

母性愛の幻想は母子関係の一方である子供だけでなくもう一方の母親をも苦しめている。母性愛の問題を父親の問題、家族、教育、学校などの問題にまで広げて考えてみる。1995年刊の改訂版。
<数冊読んでますけど、岸田秀って面白いです(昭和24歳)>
民家で親子3人死亡=無理心中か-群馬
2010/10/06-12:32 時事ドットコム
6日午前7時15分ごろ、群馬県伊勢崎市安堀町の外装業小林信孝さん(37)方で、敷地内の事務所で領収書が燃えるぼやがあり、小林さんが県警伊勢崎署に通報、現場を調べていた同署員が、住宅内で妻(35)と小学5年の長男(11)、小学3年の次男(8)の3人が死亡しているのを発見した。妻は首をつった状態で発見されたほか、子供2人には首を絞められたような跡があったことなどから、同署は妻が無理心中を図った可能性があるとみて調べている。
飛び込んできた、母親が子供二人を・・・・・・・
「群馬県伊勢崎市で無理心中」
NHKのお昼のニュースだった。
「なんでこんなことばっかり・・・・・」
カミサンが箸を止めてそういう。
その首つりした状態で発見された母親35歳。
そして、その母親に殺されたと思われる子ども、11歳と8歳。
その母親は、僕らの娘世代。で、殺された子どもたちは孫・・・・・・
なぜこんなことになってしまうのか。
さっき夕方のニュースで報じていたが、「夫は別居」とかだが。
おそらく、いろいろな理由があったんだろうけど。
あまりにも、安易と思われる「死の選択」はこの空気のせい ???
「この空気」って ???
絶望感。
苦しくても生きてゆくこと・・・・・・・
その生きてゆくことを諦めさせる空気、「風潮」はなぜ !!???
社会からの疎外感か・・・・・・
ソレにしてもなにも、幼い子どもまで道連れに、犠牲にすることはないだろうに。
そこに、いいようのない恐怖を感じる。
そして、もう一方では発作的に、わが子を殺害してしまう若い母親。
なにがそうさせるのか、なにがそうさせていまうのか・・・・・・
少子化問題だの、高齢化問題だのをいうが、
もっと違う所に、大きな問題が潜在していうんじゃあないだろうか ???
あなたはどう思いますか、今のこの風潮を。
今日の衆議院代表質問を聴いていても、ただ、与野党が入れ替わっただけの・・・・・・・
全く、人間味の欠片もない質問と答弁。
社会が病んで、壊れてゆくというのに、この空気はナニ ???
幼子、伊勢崎市でも無理心中?
2010年10月06日
柳家紫文『芸人の修行』
柳家紫文『芸人の修行』

音曲師 柳家紫文
「稽古の厳しさ自分次第」
私たち芸人は、たいてい師匠にいついて勉強していきます。そういうと「厳しい」というイメージがありますが、実はこの「厳しい」は、自分次第なのです。
もともと自分がこの人と思って入門した師匠。その師匠が人生をかけて得てきた真髄を、縁もゆかりもない弟子が得ることができる、しかもタダなのです。そりゃあ厳しくて当たり前ですし、師匠に役立つことをこちらがやるのも当たり前なこと。こちらは尊敬しているだけに怒られると大変怖いものですが、またうれしいものであったりもする。弟子はそういうものなのです。
私の師匠は柳家紫朝です。今でもよく覚えてるエピソードを披露しましょう。私が入門して1年ほどたった時のことです。師匠の家に行くと、
「昨日稽古した曲、覚えたか?」
「え?」
覚えられるわけない。なにしろ歌舞伎でかける曲は1曲30分以上はある。
「いえ、まだ覚えていません」
「なんで覚えないんだ」
と怖い顔。
「申し訳ありません」
と謝ると、
「おまえもしかして昨日寝てたんじゃあないか?あのなあ、覚えるまで寝ないだろ?」
なにを言おうとしているのかさっぱり分からない。すると師匠はこう言った。
「お前ね、面白い本読んでりゃ寝るのを忘れて読むんじゃないか?お前は三味線が大好きで、これで食っていこうとしてるんだろう。それが1曲も覚えもしないで、平気で寝られるようならプロになんてなれないんだよ」。
後に、ある長唄の家元に、
「こんなことを師匠に言われたんですよ」
とこの話をすると、
「それならボクも全く同じことを言われたよ。みんな言われるんだよ」
と言いながら、自分の経験を話してくれた。
「ボクは通いの内弟子でね。毎朝師匠の家に行って家と庭の掃除をしていたんだ。その時間に必ず稽古に来るおばちゃんがいて『勧進帳』を習っててね。長い曲だから1年くらいかかって覚えてたね。その後にすぐ師匠が『今日からお前も勧進帳をやるぞ』って。『ボクも勧進帳ができる!』ってうれしくてさ。『よろしくお願いいたします』って師匠の前に座ったら『じゃあ弾いてみろ』って言われて。『まだ稽古して頂いていません』って言ったら『1年間なにを聴いていたんだ!1年間聴いてて何もできないやつがプロになれるか!』って怒鳴られてね。そのおばちゃんに稽古をつけながら僕にも稽古をつけてくれてたんだよね、師匠は」
師匠というのは実にありがたいものなのです。
「つまらない仕事もたくさんある。でもつまらないと思ってやったら、芸だけじゃない、人生がつまらないだろ」
と教えてくれた。その師匠は今年泉下に。今は不肖私がいう番に・・・こういうものは言われているうちが良いですね。
紫文師匠、勝手に上毛新聞を引用させていただいちゃいました。スミマセン。
実は僕にも20代の初めにソレに近い経験がありました。けど、ボクは逃げ出しちゃいました。
渋谷の公園通りにあった「ジャンジャン」という、当時ではそのスジの登竜門的な「ハコ」。
当時はライブハウスとは言いませんでした。そんな時代(笑)。
そこの「ハコバン」、「松岡計井子ビートルズを歌う」バックバンドのドラムのオーディションがあって、
応募者は30人以上いたかなぁ、ドラム・・・・・・
課題曲はビートルズの「ゲットバック」で、他のプレイヤーはバリバリのプロ。
で、最後に残った5人の中から、僕が選ばれた。そりゃあもう天にも昇る気分(笑)。
でも、そこが「地獄の一丁目」だったわけです・・・・・・
連日のリハで、滅茶苦茶しごかれる。
「あなたねぇ、やる気あるの !!??? 」
もちろん、主役の「松岡計井子」さんの叱責だ。
「社長、この子使えないわ・・・・・・」
結局2回ライブをやって、クビっていうか現役プロドラマーが来てそのバンドボーイ。
「君、私のとこに住みこまないか ? 」
なぜか、ジャンジャンの社長は僕を気に入ってくれてたみたいで、励ましてくれながらそう言ってくれてた。
その頃ジャンジャンといえば、「雪村いずみ」のレギュラーがアリ、高橋築山、五輪まゆみ、山崎ハコのプログラム毎週。
で、ジャンジャンのハコバンとして「文楽」のロックミュージカル仕立てっていうのがあって・・・・・・・
社長としては僕を何とか使おうと思っていてくれたようだったが、
結局、その文楽は当時売出し中だった宇崎竜童さんのバンドで公演された。
まあ、僕はそのバンドボーイっていうかジャンジャンの下働き、つまり「修行」に耐えきれずある日、逃げ出してしまった。
24歳の時でした。
まあ、そのときたまたま、ギターのオーディションできていたやつと、その後バンドを組んで、今日・・・・・・・
今の職業につながっているっていうのも不思議な縁ですけど。
今朝の上毛新聞、「紫文師匠」を読んで、遠い日のあの挫折と絶望の日々を思い出してます(笑)。
まっ、辛抱のない僕です。楽な方、楽な方へと逃げちゃいました・・・・・・・
たしかに楽して稼げちゃいましたから、あの時代のバンドマン、引く手あまたで。
紫文師匠、頑張ったんですね !!
柳家紫文『芸人の修行』

音曲師 柳家紫文
「稽古の厳しさ自分次第」
私たち芸人は、たいてい師匠にいついて勉強していきます。そういうと「厳しい」というイメージがありますが、実はこの「厳しい」は、自分次第なのです。
もともと自分がこの人と思って入門した師匠。その師匠が人生をかけて得てきた真髄を、縁もゆかりもない弟子が得ることができる、しかもタダなのです。そりゃあ厳しくて当たり前ですし、師匠に役立つことをこちらがやるのも当たり前なこと。こちらは尊敬しているだけに怒られると大変怖いものですが、またうれしいものであったりもする。弟子はそういうものなのです。
私の師匠は柳家紫朝です。今でもよく覚えてるエピソードを披露しましょう。私が入門して1年ほどたった時のことです。師匠の家に行くと、
「昨日稽古した曲、覚えたか?」
「え?」
覚えられるわけない。なにしろ歌舞伎でかける曲は1曲30分以上はある。
「いえ、まだ覚えていません」
「なんで覚えないんだ」
と怖い顔。
「申し訳ありません」
と謝ると、
「おまえもしかして昨日寝てたんじゃあないか?あのなあ、覚えるまで寝ないだろ?」
なにを言おうとしているのかさっぱり分からない。すると師匠はこう言った。
「お前ね、面白い本読んでりゃ寝るのを忘れて読むんじゃないか?お前は三味線が大好きで、これで食っていこうとしてるんだろう。それが1曲も覚えもしないで、平気で寝られるようならプロになんてなれないんだよ」。
後に、ある長唄の家元に、
「こんなことを師匠に言われたんですよ」
とこの話をすると、
「それならボクも全く同じことを言われたよ。みんな言われるんだよ」
と言いながら、自分の経験を話してくれた。
「ボクは通いの内弟子でね。毎朝師匠の家に行って家と庭の掃除をしていたんだ。その時間に必ず稽古に来るおばちゃんがいて『勧進帳』を習っててね。長い曲だから1年くらいかかって覚えてたね。その後にすぐ師匠が『今日からお前も勧進帳をやるぞ』って。『ボクも勧進帳ができる!』ってうれしくてさ。『よろしくお願いいたします』って師匠の前に座ったら『じゃあ弾いてみろ』って言われて。『まだ稽古して頂いていません』って言ったら『1年間なにを聴いていたんだ!1年間聴いてて何もできないやつがプロになれるか!』って怒鳴られてね。そのおばちゃんに稽古をつけながら僕にも稽古をつけてくれてたんだよね、師匠は」
師匠というのは実にありがたいものなのです。
「つまらない仕事もたくさんある。でもつまらないと思ってやったら、芸だけじゃない、人生がつまらないだろ」
と教えてくれた。その師匠は今年泉下に。今は不肖私がいう番に・・・こういうものは言われているうちが良いですね。
紫文師匠、勝手に上毛新聞を引用させていただいちゃいました。スミマセン。
実は僕にも20代の初めにソレに近い経験がありました。けど、ボクは逃げ出しちゃいました。
渋谷の公園通りにあった「ジャンジャン」という、当時ではそのスジの登竜門的な「ハコ」。
当時はライブハウスとは言いませんでした。そんな時代(笑)。
そこの「ハコバン」、「松岡計井子ビートルズを歌う」バックバンドのドラムのオーディションがあって、
応募者は30人以上いたかなぁ、ドラム・・・・・・
課題曲はビートルズの「ゲットバック」で、他のプレイヤーはバリバリのプロ。
で、最後に残った5人の中から、僕が選ばれた。そりゃあもう天にも昇る気分(笑)。
でも、そこが「地獄の一丁目」だったわけです・・・・・・
連日のリハで、滅茶苦茶しごかれる。
「あなたねぇ、やる気あるの !!??? 」
もちろん、主役の「松岡計井子」さんの叱責だ。
「社長、この子使えないわ・・・・・・」
結局2回ライブをやって、クビっていうか現役プロドラマーが来てそのバンドボーイ。
「君、私のとこに住みこまないか ? 」
なぜか、ジャンジャンの社長は僕を気に入ってくれてたみたいで、励ましてくれながらそう言ってくれてた。
その頃ジャンジャンといえば、「雪村いずみ」のレギュラーがアリ、高橋築山、五輪まゆみ、山崎ハコのプログラム毎週。
で、ジャンジャンのハコバンとして「文楽」のロックミュージカル仕立てっていうのがあって・・・・・・・
社長としては僕を何とか使おうと思っていてくれたようだったが、
結局、その文楽は当時売出し中だった宇崎竜童さんのバンドで公演された。
まあ、僕はそのバンドボーイっていうかジャンジャンの下働き、つまり「修行」に耐えきれずある日、逃げ出してしまった。
24歳の時でした。
まあ、そのときたまたま、ギターのオーディションできていたやつと、その後バンドを組んで、今日・・・・・・・
今の職業につながっているっていうのも不思議な縁ですけど。
今朝の上毛新聞、「紫文師匠」を読んで、遠い日のあの挫折と絶望の日々を思い出してます(笑)。
まっ、辛抱のない僕です。楽な方、楽な方へと逃げちゃいました・・・・・・・
たしかに楽して稼げちゃいましたから、あの時代のバンドマン、引く手あまたで。
紫文師匠、頑張ったんですね !!
柳家紫文『芸人の修行』