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お問い合わせは、 info@gunmawen.net本広告は、30日以上記事の更新がされませんと自動的に掲載されます。 記事が更新された時点で、自動的に破棄されます。2008年01月30日
戦後っ子の雑感。
中学生を刃物で言うことを聞かせ、ズボン、パンツを脱がせて教育したとか言う話し・・・・・・
校長の言葉によれば、熱心な先生が、熱心さが昂じてのあまりだというが。
まあ、その教師、趣味がその辺にあるや否やはともかくだが、
いずれにしても、教育と言う現場でそこの人間崩壊現象はただ事ではない。
ところで、最近思うことは「少人数学級」の弊害。
つまり、西洋人と違って、日本人のDNAには“少人数”で学ぶということは苦痛なのではないだろうか?
なぜなら、西洋人のように徹底した“個人主義”ではない、その人間の精神構造。
よく言われる、「日本人はディベートが苦手だ」とかの話。
悪く言えば、「長いものに巻かれろ」だが、イコール「集団の合議を無意識に尊重する」し、それに従う方が楽チンが、日本人。
つまり日本人にとってのディベート、議論とは「口喧嘩」の類で、下手をすると口論から殴り合いに発展しかねない。
そして、多くを語らない、発言しない、その意味では“大人しい”国民性は、
その中で、実によく物事を観察している。
そして、その集団での決定事項でも、例え自分とその意見が違ってもその集団合議に従う。
それも、「いやな顔ひとつせず」に。
悪く言えば、「面従腹背」だが、そのことで集団的人間関係が損ねることはまずはない。
また、その“集団合議”もけして「独裁的」ではなく、なんとなくそのまとまりにおいてその「集団の平均的利益」に適うという、
西洋人からしてみれば、誠に摩訶不思議な、「自己」のない幼稚な人間社会に映るようだ。
僕の例でいえば、西洋人との話しの中で、
「お前の意見をはっきり言えよ!」
と言われた、その僕の言いっぷりは、決裂覚悟の“喧嘩腰”の物言いになってしまう。
しかし、それが概して西洋人からは歓迎されるのだが、
“喧嘩腰”になってしまった僕としては、その後かなりその西洋人との人間関係に気を使う羽目になる。
つまり、その“集団”に生き、その集団に埋没することに得もいえぬ安心感を覚える日本人の習性は、
少人数学級で、常に自分を意識してなくてはいけない空間は実に“不安”なのではないか。
それに、その教室、少人数であるがため、そこでは教師からも級友からも常に意識されて、
また自分もそれを意識し、悪く言えば監視されているような脅迫感を感じながらの日常、ストレス社会。
その意味では、日本人は大人から子どもまで「集団」の中にもみくちゃになりながら生きることの方が安心できる。
時には、自分を忘れ集団を「ひとつの自分」に置き換え、その集団こそが「自分」であるとの無意識の自覚に安堵する。
現代の核家族化と、一人っ子といった環境にはその集団の中での“安心”はない。
いつも、少人数、一人で、止むを得ず「自分」を常に意識していなければならない。
そうした環境でのいわゆる“他人”との「自己主張」の衝突は、“議論”なのではなく喧嘩、争いに一気に発展してしまう。
つまり、「勝つか負けるか」、「やるか、やられるか」の極端な行動に走る。
昨今の、大人から子どもまでの「キレル」はそうした、ある意味、生温い“集団”がない。
そのことは、先の大戦でも、その戦端においての「日本人の逆ギレ」は、
確かに、欧米の横暴さと理不尽さはあったにしろ、少なくとも徹底しての議論、話し合い、
もちろん、そこで「多くを譲る」にしても、諺「負けるが勝ち」のような判断があれば、かの戦渦は免れたのではないか。
日本共産党がしきりに言うような、欧米並みの「少人数学級」は、
それが今日までの日本人に向けられるとしたら、サイズの合わない高級な服を着せられるようなもので、
結局、ぶかぶかか、窮屈なそれでしかなく、やがてそれが社会に延伸した時、
「他人を思いやることのない」
「家族への思いやりさえもない」
つまり、他人を意識しない、他人の痛みを感じることのない人間になる。
「そんな社会になる」
日本人を創ることになりはしないか。
そもそも、今日の「西洋型民主主義」の“民”とは、“個”の最大限の尊重で、
それの発議が、合議制の基となっている。
日本人の民主主義の“民”とは、「自分を含めた集団」、つまり「みんな」という意味での“民”。
「みんなが同じ」
だいたいを、「みんなに合わせる」習慣。
つまり、日本人のそれは『皆主主義』ではないだろうか。
その意味では、
西洋型の、「まず自己ありき」の、民主主義は・・・・・・・
この日本にあっては、「大衆の分断」ではないか。
その中で、日本人は大きなものを失いかけているような気がしてならない。
校長の言葉によれば、熱心な先生が、熱心さが昂じてのあまりだというが。
まあ、その教師、趣味がその辺にあるや否やはともかくだが、
いずれにしても、教育と言う現場でそこの人間崩壊現象はただ事ではない。
ところで、最近思うことは「少人数学級」の弊害。
つまり、西洋人と違って、日本人のDNAには“少人数”で学ぶということは苦痛なのではないだろうか?
なぜなら、西洋人のように徹底した“個人主義”ではない、その人間の精神構造。
よく言われる、「日本人はディベートが苦手だ」とかの話。
悪く言えば、「長いものに巻かれろ」だが、イコール「集団の合議を無意識に尊重する」し、それに従う方が楽チンが、日本人。
つまり日本人にとってのディベート、議論とは「口喧嘩」の類で、下手をすると口論から殴り合いに発展しかねない。
そして、多くを語らない、発言しない、その意味では“大人しい”国民性は、
その中で、実によく物事を観察している。
そして、その集団での決定事項でも、例え自分とその意見が違ってもその集団合議に従う。
それも、「いやな顔ひとつせず」に。
悪く言えば、「面従腹背」だが、そのことで集団的人間関係が損ねることはまずはない。
また、その“集団合議”もけして「独裁的」ではなく、なんとなくそのまとまりにおいてその「集団の平均的利益」に適うという、
西洋人からしてみれば、誠に摩訶不思議な、「自己」のない幼稚な人間社会に映るようだ。
僕の例でいえば、西洋人との話しの中で、
「お前の意見をはっきり言えよ!」
と言われた、その僕の言いっぷりは、決裂覚悟の“喧嘩腰”の物言いになってしまう。
しかし、それが概して西洋人からは歓迎されるのだが、
“喧嘩腰”になってしまった僕としては、その後かなりその西洋人との人間関係に気を使う羽目になる。
つまり、その“集団”に生き、その集団に埋没することに得もいえぬ安心感を覚える日本人の習性は、
少人数学級で、常に自分を意識してなくてはいけない空間は実に“不安”なのではないか。
それに、その教室、少人数であるがため、そこでは教師からも級友からも常に意識されて、
また自分もそれを意識し、悪く言えば監視されているような脅迫感を感じながらの日常、ストレス社会。
その意味では、日本人は大人から子どもまで「集団」の中にもみくちゃになりながら生きることの方が安心できる。
時には、自分を忘れ集団を「ひとつの自分」に置き換え、その集団こそが「自分」であるとの無意識の自覚に安堵する。
現代の核家族化と、一人っ子といった環境にはその集団の中での“安心”はない。
いつも、少人数、一人で、止むを得ず「自分」を常に意識していなければならない。
そうした環境でのいわゆる“他人”との「自己主張」の衝突は、“議論”なのではなく喧嘩、争いに一気に発展してしまう。
つまり、「勝つか負けるか」、「やるか、やられるか」の極端な行動に走る。
昨今の、大人から子どもまでの「キレル」はそうした、ある意味、生温い“集団”がない。
そのことは、先の大戦でも、その戦端においての「日本人の逆ギレ」は、
確かに、欧米の横暴さと理不尽さはあったにしろ、少なくとも徹底しての議論、話し合い、
もちろん、そこで「多くを譲る」にしても、諺「負けるが勝ち」のような判断があれば、かの戦渦は免れたのではないか。
日本共産党がしきりに言うような、欧米並みの「少人数学級」は、
それが今日までの日本人に向けられるとしたら、サイズの合わない高級な服を着せられるようなもので、
結局、ぶかぶかか、窮屈なそれでしかなく、やがてそれが社会に延伸した時、
「他人を思いやることのない」
「家族への思いやりさえもない」
つまり、他人を意識しない、他人の痛みを感じることのない人間になる。
「そんな社会になる」
日本人を創ることになりはしないか。
そもそも、今日の「西洋型民主主義」の“民”とは、“個”の最大限の尊重で、
それの発議が、合議制の基となっている。
日本人の民主主義の“民”とは、「自分を含めた集団」、つまり「みんな」という意味での“民”。
「みんなが同じ」
だいたいを、「みんなに合わせる」習慣。
つまり、日本人のそれは『皆主主義』ではないだろうか。
その意味では、
西洋型の、「まず自己ありき」の、民主主義は・・・・・・・
この日本にあっては、「大衆の分断」ではないか。
その中で、日本人は大きなものを失いかけているような気がしてならない。
2008年01月30日
詐欺“ガソリン暫定税率”課税。
“ガソリン税”
「暫定税率」というサギ商法・・・・・・
経済発展している国ではその交通手段の原動力“ガソリン”には高率な税金がかけられている。
お隣の韓国では「リッター、180円超」だとか。
そのいわゆる“ガソリン税”は・・・・・・
というより、ガソリンの値段はイギリスなどは1リッターあたり、やはり勧告と同じくらいの「180円」とか、「190円」とか。
当然、それらの国でも“ガソリン税”は高税率・・・・・
しかし、『高速道路』は無料か、もしくは低料金です。
100km走行当たりの国別高速道路の料金
日本 2,610円
イギリス 無料
フランス 633円
ドイツ 無料
イタリア 438~522円
スペイン 553円
アメリカ(CA) 無料
当然、エネルギー政策としての課税はある・・・・・・
しかし、日本のように、「間接税」で、それを「特別会計」にして、“道路関連”にのみの『特定財源』としている国はない。
フランスやイタリアがその徴収料金で全ての高速道路サービスをまかなっているかどうかは分からないが、
日本の“旧道路公団”のように、料金徴収、また高速道路を利用した営業収益の年間収入が「3兆円」からあるのに・・・・・・
「それはそれで」旧道路公団の“ファミリー企業”と旧道路公団で山分けしてしまう。
そういう国家事業体をほかの国には見ない。
つまり、その旧道路公団・・・・・・
それ自体が、国民の財産であったはずのものが“民営化”で株主のもの、私物化となった。
そしてその20数兆円の負債だけが、国民負担(笑)。
もちろん、その前例が旧日本国有鉄道も、今では“JR”とされ、私物化、株主のもの・・・・・・
50兆円超の負債だけが国民負担。
また、日本電電公社の民営化もそうだった。
日本電電公社には負債はない。超優良事業体が、電話料金が競争に晒されないのでサービスが悪いとか、料金が高いとかで民営化。
たしかに、固定電話の通話料は「回線のリセールで」、国策の偽装民営電話会社を工作し、その結果、
あたかも競争がそこにあるかのように見せかけ、通話料を安く見せかけたが、今では、その固定電話の利用者激減、
結局、固定電話の不採算を携帯電話利用料で穴埋めさせているインチキ・・・・・・
もっぱら、これも国家サギ商法で結果、“携帯電話各社”のバカ高い利用料金は国民生活を確実に圧迫している。
さらに、法律に定められていた『電話債権』、施設負担金の5000万回線分、約4兆円ほどの「国民の資産」、有形のものを“ゼロ”にして盗んだ。
さらに、そこには民営化後の国家サギ、『NTT株』放出。最高値一株300万円超をつけたものが今では50万円前後と・・・・・・
さらに、郵政民営化もその実態は、『郵貯・簡保』の「財投不良債権」を国民負担に・・・・・・
そして、今回の『道路特定財源』の原資となっているガソリンの間接税、さらに言い換えれば、
「ガソリン流通、消費に特化された『売上税』」。
それを、「暫定、暫定」といいすでに40年から徴税し続けている。
つまりそれは、
『暫定』という“偽装”。
さらに、政府与党のいう「今後10年間の暫定税率」では、暫定どころか『恒久税率』ではなかったのか・・・・・・
政府、町村官房長官の言い草が国民を馬鹿にしている(笑)。
「暫定税率をカットしてガソリン価格を下げれば、車によるCO2排出が増え、日本は環境に後ろ向きと批判される」
との発言。
屁理屈もほどほどにしないといけない。それなら・・・・・・
「ガソリン暫定税率を維持して道路をどんどんつくれば、車利用者を増やしCO2排出増につながる」
という理屈も通るのではないか。理屈など何とでもつけられるのである。
その『ガソリン税』は政府与党の“政治的談合”の為の裏ガネで、
その選挙時の票集めのために、向こう10年、少なくともその10年間道路工事、
“公共事業”に巣食う、既得権益集団に政府与党、すでに『約束手形』を振り出してしまっているからだ。
ということは、その『約束手形』を『空手形』にすれば“自由民主党”の代議士は当選できない・・・・・・
さらに、それを実質差配する“官僚”は表の「国会審議」を経ない、『特別会計』という“裏ガネ”。
その身分保障の生涯資金でもある“税”を失ってしまうからに他ならない。
つまり、政府与党政治家、官僚の「私利私欲」のための『暫定税率』。
死んでも、譲れない事情がそこにある(笑)。
つまり、その財源を手放してしまえば、政治家は「政治生命」を失い、官僚は、夢の「第二の人生」をうしなうことになるからだ。
『国民生活』など、そこには毛頭ない!!(笑)。
「暫定税率」というサギ商法・・・・・・
経済発展している国ではその交通手段の原動力“ガソリン”には高率な税金がかけられている。
お隣の韓国では「リッター、180円超」だとか。
そのいわゆる“ガソリン税”は・・・・・・
というより、ガソリンの値段はイギリスなどは1リッターあたり、やはり勧告と同じくらいの「180円」とか、「190円」とか。
当然、それらの国でも“ガソリン税”は高税率・・・・・
しかし、『高速道路』は無料か、もしくは低料金です。
100km走行当たりの国別高速道路の料金
日本 2,610円
イギリス 無料
フランス 633円
ドイツ 無料
イタリア 438~522円
スペイン 553円
アメリカ(CA) 無料
当然、エネルギー政策としての課税はある・・・・・・
しかし、日本のように、「間接税」で、それを「特別会計」にして、“道路関連”にのみの『特定財源』としている国はない。
フランスやイタリアがその徴収料金で全ての高速道路サービスをまかなっているかどうかは分からないが、
日本の“旧道路公団”のように、料金徴収、また高速道路を利用した営業収益の年間収入が「3兆円」からあるのに・・・・・・
「それはそれで」旧道路公団の“ファミリー企業”と旧道路公団で山分けしてしまう。
そういう国家事業体をほかの国には見ない。
つまり、その旧道路公団・・・・・・
それ自体が、国民の財産であったはずのものが“民営化”で株主のもの、私物化となった。
そしてその20数兆円の負債だけが、国民負担(笑)。
もちろん、その前例が旧日本国有鉄道も、今では“JR”とされ、私物化、株主のもの・・・・・・
50兆円超の負債だけが国民負担。
また、日本電電公社の民営化もそうだった。
日本電電公社には負債はない。超優良事業体が、電話料金が競争に晒されないのでサービスが悪いとか、料金が高いとかで民営化。
たしかに、固定電話の通話料は「回線のリセールで」、国策の偽装民営電話会社を工作し、その結果、
あたかも競争がそこにあるかのように見せかけ、通話料を安く見せかけたが、今では、その固定電話の利用者激減、
結局、固定電話の不採算を携帯電話利用料で穴埋めさせているインチキ・・・・・・
もっぱら、これも国家サギ商法で結果、“携帯電話各社”のバカ高い利用料金は国民生活を確実に圧迫している。
さらに、法律に定められていた『電話債権』、施設負担金の5000万回線分、約4兆円ほどの「国民の資産」、有形のものを“ゼロ”にして盗んだ。
さらに、そこには民営化後の国家サギ、『NTT株』放出。最高値一株300万円超をつけたものが今では50万円前後と・・・・・・
さらに、郵政民営化もその実態は、『郵貯・簡保』の「財投不良債権」を国民負担に・・・・・・
そして、今回の『道路特定財源』の原資となっているガソリンの間接税、さらに言い換えれば、
「ガソリン流通、消費に特化された『売上税』」。
それを、「暫定、暫定」といいすでに40年から徴税し続けている。
つまりそれは、
『暫定』という“偽装”。
さらに、政府与党のいう「今後10年間の暫定税率」では、暫定どころか『恒久税率』ではなかったのか・・・・・・
政府、町村官房長官の言い草が国民を馬鹿にしている(笑)。
「暫定税率をカットしてガソリン価格を下げれば、車によるCO2排出が増え、日本は環境に後ろ向きと批判される」
との発言。
屁理屈もほどほどにしないといけない。それなら・・・・・・
「ガソリン暫定税率を維持して道路をどんどんつくれば、車利用者を増やしCO2排出増につながる」
という理屈も通るのではないか。理屈など何とでもつけられるのである。
その『ガソリン税』は政府与党の“政治的談合”の為の裏ガネで、
その選挙時の票集めのために、向こう10年、少なくともその10年間道路工事、
“公共事業”に巣食う、既得権益集団に政府与党、すでに『約束手形』を振り出してしまっているからだ。
ということは、その『約束手形』を『空手形』にすれば“自由民主党”の代議士は当選できない・・・・・・
さらに、それを実質差配する“官僚”は表の「国会審議」を経ない、『特別会計』という“裏ガネ”。
その身分保障の生涯資金でもある“税”を失ってしまうからに他ならない。
つまり、政府与党政治家、官僚の「私利私欲」のための『暫定税率』。
死んでも、譲れない事情がそこにある(笑)。
つまり、その財源を手放してしまえば、政治家は「政治生命」を失い、官僚は、夢の「第二の人生」をうしなうことになるからだ。
『国民生活』など、そこには毛頭ない!!(笑)。