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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーション  at 

2016年08月30日

商人、JINSは人のためにあらず。

商人、JINSは人のためにあらず。


まあ、そうなんだろうけど・・・・・
ほんとにそう思ってる?


前橋の17社が純利益の1%を市に寄付、地方創生に一助
 群馬県前橋市などに本社を置く17社の企業は、毎年純利益の1%を寄付することを決定した。最低額は100万円で、前橋市のまちづくりを支援する。同企業家らは「太陽の会」を発足し、民間主導の地方創生を進める。

 太陽の会の発起人は、メガネチェーンJINSを展開するジェイアイエヌ田中仁代表を中心に、自動車販売の富士スバルや、専門学校の中央カレッジグループなど業種を横断した企業の代表らで構成されている。

  市内で事業を展開する企業家は「自分たちの街は自分たちでつくる」という思いから、民間主導でのまちづくりを進めていく。太陽の会仮事務局・ジェイアイエヌ社長室の穴澤武司さんは、「行政と連携しながら、まちづくりを進めていく中で行政への提言も行っていく予定だ」と話した。

 太陽の会は50年後、100年後に生きる次の世代が前橋市を誇れる町にするために資金面での支援も行う。毎年純利益の1%を寄付金として拠出し、前橋市のまちづくりに活用していく。穴澤さんは「具体的なプロジェクトについて現在話し合いが進められている」と話す。

 前橋市は、他の地方都市と同じように少子高齢化や人口減少など様々な課題に直面している。群馬県全体では、2004年に人口がピークを迎えてから、年々人口が減り高齢化率も高くなっている。前橋市内では高齢化率が3割を超える地区もある。生産年齢人口が減少したことで「シャッター商店街」が増加している。

 業種の異なる複数の企業が協力し魅力あるまちづくりができれば、同じ課題を抱える他の地方でも活用できる事例となる。成果が期待される。


>太陽の会の発起人は、メガネチェーンJINSを展開するジェイアイエヌ田中仁代表を中心に、

なにいってるんだか・・・・・(笑)。

ジェイアイエヌとかだが、だったらモールにショップ展開しないで街中の「メガネチェーンJINS」を作ることだな。

作らねぇだろう、シャッター通りなんだから、人がいないんだから・・・・・

>太陽の会は50年後、100年後に生きる次の世代が前橋市を誇れる町にするために資金面での支援も行う。

まあ、自民党の規制緩和で日本中がイオンだらけで、規制しろよ!!

「イオンは街中にしか作れない」っていう条例です。まあ、棟高に作ってもいいけど法人税倍返し(笑)。 

そしたら「駅前イオン」も禁止、中央銀座通りにイオンを作る。

まあ、エキータだか何だか知らないけど、そもそも前橋がアウトなんで駅前もダメ、街中はもっとダメ、ケヤキもアウトかも。

そういうことです。

まあ、「JINS」なんだけど、高崎中銀の「関口メガネ、あの近辺シャッター降りてますけど、出店しませんか?

つまり、JINSとか、言ってることとやってることが真逆で、で、街中を再生って、で、その利益の1%をなににどう使うの?

で、前橋だってデパートみんななくなっちゃって、スズラン以外は・・・・・

スズラン、いい迷惑です。JINS、スズランには入ってないし、スズランにテナントで入れよ街中再生のために。

商人、JINSは人のためにあらず。

  


Posted by 昭和24歳  at 21:29Comments(0)

2016年08月30日

シダックスが終了、当たり前だろ!!

シダックスが終了、当たり前だろ!!



発覚! カラオケ「シダックス」が大量閉店へ
 カラオケチェーン大手、シダックスが8月末に44店を一斉閉店することが東洋経済の取材で明らかになった。同社は今年4月から断続的に閉店を行っており、この8月末までに計52店舗を閉店する計算だ。

【一覧表】 これが閉店リストだ!

 閉店する店舗の中には、2004年に開業し、本社機能が置かれている「渋谷シダックスビレッジクラブ」(渋谷区)も含まれる。会社側によれば、本社機能はそのまま残り、空いたフロアの賃貸などを検討しているという。
<抜粋引用:東洋経済オンライン 8月30日(火)5時0分配信>
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160830-00133591-toyo-bus_all

>この8月末までに計52店舗を閉店する計算だ。

いっそのこと、全部閉めちまえっ!!

まあそんなわけでカラオケなんて雑音でしかない・・・・・・

最近は「義理拍」もないらしい。行ったことがないんで知らないが。

まあ、カラオケスナックがそうです、まあ、赤の他人の歌なんて、それも聞けたもんじゃあない代物です。

もう40年近い大昔なんだがギョーカイの先輩が「カラオケボックス」を始めたわけです。

走りですね。マッチ箱みたいなやつが6っこくらい。田舎だったもんで自分ちの田んぼ潰して・・・・・

まあ、当時、昭和50年代半ばで珍しかったもんで最初は8トラだったわけです。

で、調子こいてマッチ箱1ダースくらいにして、群馬町にも作っちゃって、BMなんか乗っちゃったりしました。

で、お決まりのパターンで店員の若いオネェちゃんと出来ちゃって、カミさん出て行っちゃて、人生いろいろです。

まあ、昔のカラオケはアナログでしたから手間暇かかっちゃって、結構、資金も、機会もの。

そんなわけで、レーザーから通信カラオケとかですから資本がかかります。

まlる、カラオケって確かにストレスの発散にはなるだろうけど、ヘタクソな歌、聴かされるとストレス溜まります(笑)。

エレキの行商やってたとき同業者がカラオケの海外事業に、ったて、そんなだいそれたもんじゃあないんだけど、小商いだし。

で、カラオケをNAMMショー(全米楽器ショー)に出展するってぇんで、まあ、僕もエレキ出展してたし・・・・・・

ブースの方は現地人に任せて「KARAOKE」のプロモーション、アナハイムのコンヴェンションセンターでお手伝い。

まっ、僕はドサ回りだったけど弾き語りなんか仕事でやっていたもんで洋楽もそこそこ歌えたわけです。

そんなわけで現地人、アメリカ人がコワゴワ遠巻きにする「KARAOKE」で僕が歌っちゃうわけです。英語の歌。

で、アメリカ人て図々しいくせにほとんどのアメリカ人、シャイで人前で歌なんてとても歌えないわけです。

で、僕が歌ってると少し人だかりができて、リクエストなんかが来るわけです。

一番多かったのがプレスリーの「好きにならずにはいられない」でした。で、僕が空で歌える「想い出のサンフランシスコ」コレ受けました(笑)。

そしたら一人の外人が、って、そこはアメリカだから僕が外人なんだけど(笑)。

「ユーは日本の歌手か?」

っていうから、そうだ「ミーは日本の歌手だ、紅白歌合戦にも出てるんだ」というと・・・・・・

「そうだろ、さすが上手いはずだ」とか「ブラボー!!」とか言っちゃって、挙句「サインしてくれ」って(;´д`)

で、サインしてやりました「北島三郎」って。アメリカ人、日本の演歌歌手なって大物だって知らないわけです。

で、40年くらい昔、60歳くらいのドナルド・トランプみたいな顔したモノホンのヤンキーだったから、生きてりゃあ100歳。

多分、死ぬまであの時の僕が「北島三郎」だと思ったままお隠れになったかもしれません。

で、もっと面白いのがそのトランプ似のおっさんん僕が書いたサイン「北島三郎」を見てこういったのです。

「ユー、この絵はなんなんだい?」って。

まあ、アメリカ人てほとんどがカッペですから日本語っていうか、漢字なんて見たことないわけです。

まっ、サインだから少しくずして「北島三郎」って書いたんだけど、「コレ、絵じゃない、日本語の漢字、文字」なんだと説明。

でも、アメリカ人て未だに60%が文盲っていうか識字率です。つまり、話せてもかけない、読めない、ホントです(笑)。

で、僕が「北島三郎」に「KITAJIMA SABURO」ってフリガナふってやると、赤ら顔のトランプ似のおっさん・・・・・

「だから、なんて書いてあるんだ?って聞いてるんだぜ」

まあ、だいたが、日本人だってアルファベットで読んで「キタジマサブロー」くらいなことは小学生だっていいます。

どうやら、アメリカの学校教育には「つづり方教室」はないみたい。まあ、話せりゃあいいんだし。

で、そしたら、大学生風の兄ちゃんが・・・・・・

「ウエストウッドにカラオケレコーディングスタジオがあるから行かないか」って。

そこはUCLAがあったりする学生街、まあガイドブックだとオシャレな学生街とかんだが閑散としてます。

そんな学生街一角のビルに「KARAOKE STUDIO」があるわけです。まあ、日本へ行ったことのある学生が始めたんだとか。

そしたらそこのカラオケで歌って「カセット」に一曲吹き込んで5ドル。

で、僕を連れてった学生風の兄ちゃんが僕のことをスタッフに説明、「北島三郎」っていう日本のスッゲー歌手だとでも。

で録スタに入ると録音ブースからライン越しに「ユー何歌う?」っていうから映画ゴーストの「アンチェインドメロディー」を歌ってやった。

で、帰りにサインを頼まれて「五木ひろし」と書いてやった。アメリカ人は漢字、ひらがなはえにしか思えないらしいから・・・・・

「オーッ、キタジマサブロ、サンキュー、サンキュー」その時のカセット末娘が2歳の頃テープ抜き出しちゃって、思い出の記録が消えました。

ついでだけど、アメリカ人の90%がギター弾けませんからね、コレ、ホント、定説です(笑)。

で、シダックスが終了ですか。所詮が流行りもんだし、フラフープ、ダッコちゃんとおんなじですし。

シダックスが終了、当たり前だろ!!

  


Posted by 昭和24歳  at 12:16Comments(0)

2016年08月30日

僕が物心ついてのえびす講というと・・・・・・

僕が物心ついてのえびす講というと・・・・・・



高崎神社の参道、嘉多町から堰代町の交差点まで所狭しと露店がたった。
そこには決まって神社の入り口にアコーディオンやバイオリンを物悲しそうに奏でる白服の傷痍軍人の姿が必ずあった。
もちろん兵隊帽子を深々と被り、色眼鏡に松葉杖、義足に片腕での演奏と、様々、色々だった。

それをまるで無視するかのように、いや、無視するというよりは忌み嫌い蔑視するようにして、見て見ぬフリをしながら僕の手を引く父母。
いわゆる「傷痍軍人」はそんな父母と同世代。まさに戦争に駆り出されたものと戦災にあった者同士の格差がそこにあった。
戦前、戦中と南方、北支にお国のためと、家族の、国民のためと銃後の守りを信じての末の負傷復員兵。
神国日本「天皇陛下万歳」の出征も敗戦焦土に迎える同世代の目はこうも冷たいものだったのかと今にしてみると思えてならない。

いつだったか派遣村、ホームレスが騒がれていたころ僕は末娘を連れて上野公園、墨田公園を歩いた。
そこにはブルーテント、段ボールハウスが林立しその娘の手を強く引いて見て見ぬフリをしながら通り去る僕はあの昭和30年代・・・・・・
高崎神社のえびす講の風景が思わずフラッシュバックしてなんともいたたまれない気持ちになった。

何れの時代も、それは「傷痍軍人」も、ブルーテントの「ホームレス」のみなさんも、その時代を括る風景としてそこに見る。
まさに時代に作られた「風景」。
それは今にして作られたのではなく、その「ホームレス」の人たちは僕等世代に違いない。

高度成長期、バブル経済。
いや、それ以前の受験戦争、企業戦士といわれた競争社会を生き抜いてきた・・・・・
それが僕ら世代の答えなんだろうか。
こんな答えを得るために僕等は生きてきたのだろうか。
それはいいことだろうか?そんなことでいいんだろうか、そんな気がしてならない。

ふと考えると、ここには月光仮面世代はいなかった。不思議といなかった。あくを懲らしめ正義のために戦うおじさんはいなかった。
そんな月光仮面世代は高度経済成長の下、学生運動に革命戦士を気取った全共闘世代・・・・・
方やノンポリでベンチャーズ、ビートルズに夢中になり我が世の春と謳歌した得体のしれないその時の若者たち。
まあ、昭和40年代が過ぎそれは一つの塊となって核家族、いわゆるニューファミリーの主となりその時代を彩った団塊世代。

そうだ、この国の中枢、政官財、そこには団塊世代をほとんど見ない。世襲を除いては。

そんな団塊世代の僕らはただただ消費した。
エレキもマイカーも、マイホームも昭和10年世代の創造したマーケットの消費者として消費に快楽した。
考えてみればその意味では実に平和な世代だったのかもしれない。

校内暴力も、家庭内暴力もそのほとんどが昭和10年台世代のこどもたちだった。
ニュースを騒がせるのは「子殺し、親殺し事件」や、得体の知れぬ「猟奇殺人事件」も団塊世代より一回り上の世代の子供たち。

「サカキバラセイト」も「ミヤザキツトム」もそう・・・・・・

僕ら戦後世代には「夢」があった。

それは「戦争を知らない子どもたち」と歌われ・・・・・・・
その意味では極めて「幸せな」な時代を過した世界でもまれな時代に生まれ育ったからではないだろうか。
 
まあ、それはそれにしても何もなかったせいなのかも知れない。
たしかに何もなかった。

テレビどころの話ではない。ラジオだって物心つくころでさえそう記憶はないし、オモチャや、ゲームがあるわけでもない。
毎日は学校の校庭で、原っぱで、横丁で汗まみれ、泥まみれで仲間同士遊ぶしかなかった。

履物はズックなどは上等な物で、正月にやっと買ってもらえるくらいで、普段はゴム草履か下駄。
靴下なんていう洒落た物はなく「足袋」それも幾重にも継ぎ当てをしたような代物で、真冬だって素足に草履、下駄なんていうのも珍しくはなかった。 真冬はしもやけ、アカギレ、青ん洟垂らしたり、ハタケにタムシなど等。
着るものといえばお下がりのズボンに詰襟のツンツルテンのテッカテカで汚いの汚くないのと今時のパパやママが見たら目をむいてひっくり返ってしまうかも知れない。
このところテレビで良く流してるお隣の「地上の楽園」の子ども達さながらのよう。

それは今に言う、〈あの頃は良かった〉などといった代物ではない、それしかなかったのだ。
それは時代そのものが貧しく、それまでの軍国主義、富国強兵一辺倒時代から解放された親世代の安堵感・・・・・・・
その中にも明日をも知れぬといった不安な毎日を暮らしたに過ぎなかったのだろうが。

しかし僕等、子ども達には「夢」があった。とてつもなくデッカイ夢をもてた。
それは敗戦による自由解放、民主主義のお陰なのだろうか。おそらく物不足の中にもその時代、初めて手にした自由。
大人たちは雑誌を読み漁り、僕等子どもたちは次々と発刊される「少年王、冒険王、漫画王、少年画報」。
そしてそれらに連載される月光仮面、赤胴鈴の助、はては二一世紀の現代を予測する鉄腕アトム、等々、正義、正義、正義のオンパレード。

やがて、ラジオ、映画から。

そして、それは白黒テレビの西部劇に、アメリカ製のホームドラマに、そして洋楽のヒットパレードに夢中になる頃になると、
夢は外国へ行くこと、自動車を乗り回すこと、自分のなりたいものになると言う将来未来を描くこと。
しかしそれはけして手の届くことのない叶うことのない「夢また夢」の毎日だった。
それでも僕等は夢を追いかけて、求め続けた。

はたしてそれが今はあるだろうか・・・・・・
僕らが夢にと描いていたことが今ではそれがいとも簡単に「手品」のように叶ってしまう。
しかし、その「夢」は掴むのではなく買う「夢」。じっくりと時間をかけて、心から願ってのそれではない「お金で買う夢」。
自分で想像した夢ではなく誰かが拵えた売り物の夢。

僕の言う夢とは小学生が見るような夢ではない。
女の子なら看護婦さんになりたいとか、ケーキ屋さんになりたいとか・・・・・・・・
男の子ならパイロットとか野球選手、サッカーの選手とかのことではない。

やはりそれは一五、六で見る夢。それは「自分」探しの夢。

まさか僕自身、その時には自分が67歳になるなどとは「努々」思いもしなかったがその一五、六で見た夢。

それは、その夢はまるであのころ押入れの中で見た「幻灯写真」のように、今僕に話しかけてくる。

考える必要のない社会。情報を創る仮想な社会。人と触れ合わない社会。

やはり、コンビニで住民票が取れる社会のとうらいってどうしたものだろうかと・・・・・

手間暇のいらない社会は、人を必要としない社会。

商店街でえびす講のイベントで和太鼓、カラオケ大会はうるさいからやめてくれなんだそうだ。

そういう社会って、如何なものか、アベちゃんに聞いてみよう。

僕が物心ついてのえびす講というと・・・・・・



  


Posted by 昭和24歳  at 03:10Comments(0)

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