2008年04月10日

過剰生産経済

過剰生産がこの国を狂わせている。

当然、過剰な食品輸入もこの国の人間の思考を狂わせている。

大量消費・・・・・
実際は30%程度ほどしか消化されていない生産物、輸入物産。

70%が“ゴミ”となっている。

“ミートホープ”のそれも、実際はほとんど人の口に入ることはない。
消費者はただ“安い”という理由だけでそのものに投資、購入する・・・・・・

それらは冷凍庫の中でゴミ、いわゆる“不良債権”になる。
残念ながら、我が家の冷蔵庫の中、冷凍庫の中の半分以上が“不良債権”でゴミ処分される。

この、“ゴミ”となる『不良債権』は考えれば相当な額になっているはずだ・・・・・

過剰生産される自動車、耐久消費財、住宅、等々。

その意味では、そのほとんどは“粗悪品”とみていいだろう。
今日の建売住宅の多くが石油製品のイミテーション木材でその耐久性は精々が20年・・・・・・

このくにのGDP、GNPの半分近くがその過剰生産による“粗大ゴミ”に変質する。
本当はもっと豊かに暮らせるはずなのに・・・・・・

過剰生産される電力、水資源、等々の総合エネルギー。

この国の社会保障までが過剰生産され、140兆円のただ無駄に使われるためだけに強制徴収された年金。
集めるだけ、徴収するだけで敵性に給付する計画なしに・・・・・
もちろん、徴収される国民も無頓着だった。
ただ「お上」がそういうから、それに従っていただけ。

何に使われようが、何処にどう使われようがまるで無関心・・・・・・

この国の経済そのものがとてつもなく巨魁な粗大ゴミ。

それも引き取り手のない・・・・・・

原発などはその改修に国家予算の数倍がそろそろそこに迫る。

総額、240兆円の国家予算・・・・・・

使い道のない“特定財源”が、その意味では“財源”という“粗大ゴミ”に。

全ての国民が幸せな生活を送れるだけの財源があるのに・・・・・

ゴミとなって捨てられている。

もちろん、そのゴミの回収はこの国の特定階層の人間の特権なのだが・・・・・・

  


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2008年04月10日

テケテケ人生

エレキ

それは東京オリンピックも終り、世の中ある意味ではしっとりとしていた時代ではなかったか・・・
僕の生まれ育った街、ここ高崎もそうした静けさの中にあったような気がしていた。

まだ、北関東の奥まったこの地方都市にはベンチャーズもビートルズもそうはなかったし、もちろん「テケテケテケ」も。
僕らもその時代、世代の動物的感、嗅覚かロックンロールのエルビス・プレスリーやら、アメグラのポール・アンカ、二―ル・セダカ、デル・シャノン、
そしてイギリスのクリフリチャード辺りを聴いてワクワクしていた頃だった。

もっとも、テレビでは「ザ・ヒットパレード」で飯田久彦、尾藤イサオ、内田裕也などが日本語に翻訳されたロックンロールを歌い、
そのバックバンドが「寺内タケシとブルージーンズ」であったり、「ブルーコメッツ」であったりしていた頃だった。

今でも鮮明に憶えているのは、東京渋谷に住んでいた従兄の連れられて行った新宿南口、甲州街道沿いの・・・・・・
丁度、明治通りとの角にあった「新宿アシベ」。
そこで聴いたと言うか観たというか、「尾藤イサオ」の「悲しき願い」、ゲーリー・バートン、アニマルズのやつだ。
確か昭和四〇年、バックバンドが「ジャッキー吉川とブルーコメッツ」だった。


ポール・アンカの“ダイアナ”

内田裕也、フランツ・フリーデル、ミッキーカーチス弘田ミエコ、中尾ミエ・・・・・
それらの歌手のバックバンドがその後の「田辺昭知とスパイダーズ」であったり、
「伊藤敏道とリリオリズムエアーズ」であったのではなかったかと思う。
とにかくその当時はいわゆる「ロックバンド」の時代ではなく「ロック歌手」全盛の時代だった。
「新宿アシベ」に「池袋ドラム」はよく、その従兄に連れて行ってもらった。

そうだ、新宿駅西口にあった、名前は忘れたが「ボーリング場」。
それもその頃初めてボーリングと言うものをやった覚えがある。


「ダンスホール」。

当時高崎には「みゆき」そして「社交」、それにあとひとつあったようだが僕の記憶の中にはその「あとひとつ」はない。

僕は高校に上がると、エレキに夢中になってしまった。もちろん「新宿アシベ」の影響やテレビの影響もあったに違いない。
しかし僕はその歌、歌手よりも「バックバンド」に夢中になっていた。

その頃からどうも僕は、僕の家からは徒歩10分くらいの所・・・・・・・
嘉多町の「サカイレコード」で怪しいサウンドがけたたましく流れているのが気になりだしたのだった。
店内を覗くと今まで見た事もないようなギターが天井から後光を射しながら吊る下がっているではないか。
平べったい板に鉄の弦の張ってある、しかも真ん中に何のためかは知らないが長方形の光ったやつがついていて、
それにラジオの摘みのようなものもくっ付いて、電気を付けたり消したりする時のスイッチがついている。

どうやらそれが、「エレキギター」だったのだ。
テレビで見るそれで知ってはいたものの、クレージーキャッツの植木等が弾く分厚いギターとは大分趣を異にしている。
サカイレコードの店内にはなにやらそんなギターを抱えたアメリカ人らしいバンドのポスターが貼ってあった。

アストロノウツ「太陽の彼方へ」と書いてあるそのポスター。

♪テケテケテケ――――ッ♪


アストロノウツ“太陽の彼方”

あの時の衝撃は今でも忘れずに焼きついている。あの音、そして臭いと言うかあの時の空気・・・・・
僕は居ても立っても居られない、欲しくて欲しくて堪らない。
もう頭の中はその「エレキ・ギター」でいっぱいになってしまっていた。

僕は思わず店員のお兄さんに聞いてみた。

「あれはエレキ・ギターって言うんだ」

なんかいつもはダサイお兄さんなのにその時ばっかりはとっても「エライ」人のように見えたから不思議だ。

「このギターはこれだけじゃ音がでないんだぞっ!」

得意そうにお兄さんは僕を覗き込むようにそう言った。

「これはエレキ。要するに、電気で音を出すギターなんだからアンプって言うのが絶対必要なんだ」

〈電気ギター・・・なんだそれ〉僕は思わず胸の中で呟いていた。

そのお兄さん〈ふん〉っといった素振で僕を無視するとその電気ギターを丁寧に磨き始めた。

店の中では「テケテケテケ―――ッ」があっちへ行ったり、こっちは行ったり。

その電気ギター「エレキ」値札には一万二千円と無情にも書かれていた。

なんでも糸巻きの部分に「G」と大きく書かれていた。

〈一万二千円か・・・アルバイト四ヵ月分だなか〉

家に帰ってテレビのスイッチを入れてみた。やっぱり「テケテケテケ―――ッ」と、やっているではないか。
寝ても覚めても「テケテケテケ―――ッ」どうしても欲しくて、欲しくてたまらなくなってきてしまった僕だった。

しかしサカイレコードのそれは「メーカー品」ばっかりで、
ビクター、ナショナル、グヤトーン、テスコなんて云う高級品しか置いてない・・・・・・
値札には、2万円前後が何れも付けられている。これでは、手も足も出ない。

そこで、月賦屋だったが「三和デパート」と云うのが羅漢町にあって、
そこには多分、今にして思えば輸出用の品モンだったんだろうけど7千円台のがあった。

早速、牛乳配達のアルバイト、親父もお袋も兎に角絶対反対だったが、こっちは欲しくて居ても立っても居られない。
1ヶ月3千円のアルバイトだったか。
夜は、学校帰りに「音楽センター」で掃除のアルバイト、一回百円。
なにせ、ラーメンが60円くらいの時代だから今なら、千円だろうか。

ようやく手に入れたエレキギター。アンプはラジオを改造して作った。
兎に角あの「テケテケテケ」が不思議でしょうがなかったし、
「ウウ~~~ン」と云うトレモロアーム。これも僕のには付いていなかったから全くの謎であった。

そうこうしていたある日何処で聞いたのか・・・・・・
マックスのバンドがエレキを弾けるやつをと云うことで人づてに僕の所に十歳も年上の「水野さん」と云う人が誘いに来た。
マックスのバンドは元々「ハワイアン」。
ダンスホールの方でどうしても「アストロノウツ」か「ベンチャーズ」をやれということだったらしい。
もちろん「ダンスホール」なんて云うところは大人の世界か、不良の世界。
学校にでもばれれば一発で停学の憂き目の時代だった。
そこで、当時、「太陽の彼方へ」とか「アパッチ」とか「ダイアモンドヘッド」を弾ける高校生が居ると云うので僕の所へ来たらしい。

“社交ダンスホール」”


ヴェンチャーズ“急がば回れ”

もう連日超満員で土日は芋の子を洗うよう。
二十歳前後のお兄さんお姉さんが殆ど。その時僕は初めて「ヤクザ」(チンピラ)と云う存在を知った。

所謂、「用心棒」って言うやつだ。

それにしても世代世代で夫々それなりの時代があるものだ。
高商の番長主催のクリスマスパーティーとか、上越線「総番」主催のパーティーとか、高崎の「裏番」主催のパーティーとか、
そんな怖いお兄さんが今では好いお爺ちゃん振りを見せているのに出くわす事が在るから可笑しい。

それは僕のエレキ人生の始まりだ。
まさか五十の齢をエレキで食っているとはその時は想像もしなかった。
  


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2008年04月09日

市井の中の蛙・・・ケロッ。

「井の中の蛙」ですが。

僕等がそれなりに道を歩き始めて来た頃から一体、何度あっただろうか・・・
際限なく繰返される、特権者の犯罪汚職。
経済、経済と、経済さえ良ければ何もかもが収まるが如きの今日・・・
程ほどの良さを知らず、嘘八百の虚言を並べ立て跡形もなくこの国は散財して終わった。

この群馬、県所轄の特殊法人「土地公社」が「全国ワースト3」と地方紙に。
塩漬け土地が百数十億円・・・買取価格ではないだろう。
路線価見直しで、二十分の一ほどに値下がりした実勢価格を表の顔に。
各自治体資産には買取価格の「簿価」で・・・
誰が呑み食いしたのかは知らないがそこには「ぺんぺん草」しかない。

敗戦直後、いやっ・・・僕等が子供の頃街中の一等地と云う、一等地が「三国人」の所有。
もちろん今でもそうだが、パチンコ屋、焼肉屋、レストラン。
敗戦直後のインフレで国民大衆全てを使い果たした・・・
換金できる物は全て換金し尽し、それこそ「0」からの出発の大衆。
敗戦がどんなものだったかは僕等は知らないが、「明日がない」は確かだったと想像出来る。

敗戦後、第一回の「総選挙」・・・特権階級は目も眩むような「隠匿物資」でそれこそ大泥棒。
戦時供出で大衆から強奪した金銀、大陸からかっぱらって来た戦利物資。
鼻の利いたヤクザっ崩れの復員兵はドサクサに「軍票」を新円に変え、物資に変え・・・
焼け跡の東京一等地から、箱根、軽井沢、日光の山と云う山をただ同然で買取った。

今の時代・・・あれから僅か50年余り。
時代までを隠匿して、政治家、財閥は奇麗な“フリ”をしている。
イラクを見るまでもなく、敗戦の日本・・・・・
売国の輩が政権を任され、右も左も戦勝国からの賄賂でこの国をほしいままにした。
天然資源もなく、占領した所で米国の世界戦略の基地としての利用価値しかない・・・その意味では偏狭の地。
それが実態のこの国。
何万回、手を洗おうが戦争を始め指導し、国民300万人余を地獄に落とした罪は消えはしない。

事実を報道するはずのメディアさえが、大本営発表を続けた政府機関が「民営化」して化けている。
この国の、軍需産業、商社、ゼネコン・・・戦時政府の「民営化」に他ならない。

国民は干上がり、国家は富裕する・・・
この国が、オブラートに包まれた「独裁国家」であることは「外の目」が証明している。
国家賠償を求めつづける、中国。
北朝鮮は、裏口の賠償金では政治家に半分は抜かれちゃうから、表で賠償しろと。

戦勝国の、国民までが「戦後賠償」を云っている。
アメリカ兵が、英国兵が、賠償しろと国際裁判にまで訴えている。
慰安婦問題に至っては「国内」の偽善者が税金を使って被害者探しをしている。

この国の「被害者」。今日の飢餓に震え、不安に慄く「子供達」には何の救済もない。
之が、経済大国というのなら、そんな国は「ぶっ壊れちまえ」。
黒柳徹子さんが白粉塗りたくってアフリカの子供たちに鬼子母神を振りまく。
やいっ、「徹子の部屋」・・・この国にもアフリカに負けず劣らずの「子供」がいる事を忘れるな。

臭いものに蓋をするほうはいいが、蓋をされる大衆は堪らない。

市井の中の蛙・・・ケロッ。
  


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2008年04月08日

“想い出のサンフランシスコ”




中学3年の頃か、同級生で「花街の母」をもつハイカラな「小林君」と云うやつが居た。
そいつん家には、蓄音機どころか「ステレオ」なる物があった。レコードもぎっしり、どういうわけかオール洋モノ。

フランクシナトラ、パットブーン、ブレンダリー。

それはフォークソングとはこれまた、全く違った世界。
確かに“チューチュートレイン”の二―ルセダカも、ダイアナのポールアンカも良かったが・・・・・

“シナトラ”

・・・・・・それは大人の匂いがした。

別に英語が得意であったわけではない僕だったが、
その“シナトラ”の「想い出のサンフランシスコ」はあっという間に空で覚えてしまった。
「三つ子の魂百まで」・・・・・今でも一語一句覚えている。

小林君は病がちでよく学校を休んだ。色々分けがあったのだろうが「虐め」にもあっていた。
実は小林君は一年ほど休学して「一中」から転向してきた。どうも一中では相当の虐めにあったようだ。

小林君は大のプロレスファンで、中でも「力道山」の大ファンだった。
しかし、その年、中学3年の時「力道山」が刺されて死んでしまい、悲嘆に暮れつづけた小林君だった。

その年はいろいろなことがあった・・・・・・
アメリカ大統領JFケネディが暗殺され、ベトナム戦争の煙を見せ始めた「トンキン湾事件」、
ソ連の有人宇宙飛行ガガーリン大佐の「地球は蒼かった」と時代は刻々と移ろいを鮮明にし始めていた頃だった。

何で「想い出のサンフランシスコ」だったんだろうか。しかもフランクシナトラのそれ。 
トニー・ベネット、ブレンダ・リーも歌っていたのだが、やはり一番最初に聴いたからなのだろうか。



昭和五二年一月、僕は仕事を兼ねて初めてのアメリカ旅行をした。
LAでの全米楽器ショー、通称「NAMM」と言われているコンベンションなのだが、
その合い間を縫ってサンフランシスコへ一泊で遊びに行った。

LAからは丁度、東京大阪くらいの距離だろうか、飛行機で小一時間でサンフランシスコのは着いた。
行き当たりばったりのサンフランシスコ・・・・・
ホテルはチャイナタウンの近くに取り、日長、ケーブルカーに楽器屋巡りにと結構楽しんだ。

僕はサンフランシスコのダウンタウンのギターショップで中古の「レスポール」のゴールドトップを買った。
無茶苦茶重たい奴だったが。たしか四〇〇ドルくらいだったと思う。
それでも日本で買えば中古でも三十万円近くはしただろう品物だった。

僕はそのレスポールを抱えてゴールデンゲートブリッジの袂にあるフィッシャーマンズワーフに行った。

やっと夢がかなったと思うと小躍りしたいくらいに気持ちが高ぶった。

♪アイ・レフト・マイハート・・・イン・サンフランシスコ♪

そのレスポールをケースから取り出すと僕はネックに耳を当てながらそう、呟くように唄った。
フィッシャーマンズワーフ名物の茹でたてのクラブを頬張りながら。



「想い出のサンフランシスコ」と言えば、
昭和47年頃、キャバレーニュージャパンのビッグショーで来た「勝新太郎」のそれ。
今までのどの「思い出のサンフランシスコ」よりも絶品だった。

そう言えば、バンドへの「プーチ」も、タダモノではなかった・・・・・

“勝新太郎”

だった・・・・・・



それはそうと、あの、花街の母の「小林君」。今頃どうしているだろうか。

相変わらず、洋楽を楽しんでいるだろうか・・・・・・   


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2008年04月07日

青春の光と影

誰にでもある“青春の光と影”

それとそれの始まりを意識させる誰にでもある・・・・・

「場所」

僕にとってのその場所は・・・・・・・

「赤羽」

高崎から東京に出るには上野までは行かずに「赤羽」で降りる。
赤羽は当時は高崎線と東北本線。
それに京浜東北線が高架を走っていた・・・たしか。

赤羽を降りるとさらに狭い高架通路を渡って木戸で改札を受けて「省線」のホームに出る。
僕等は何故かそれを「省線」と呼んでいた。赤羽と池袋を往復する赤茶けた電車。
窓も椅子も木製のやつでその車内は独特の油臭い匂いがしていた。
しかし僕等にとっては、赤羽のそれこそが「東京」の入口、憧れの匂いだったのだった。

ロックミュージシャン

「夢」などと云う大それたものではないが、いや、傍目には大それた大馬鹿者に映ったかも知れない。
僕の「ロックミュージシャン」。もちろん当時はそんな言葉すらなかった。
ただの「エレキ小僧」、不良のなり損ない・・・・・・・

一五の時からの「エレキバンド」生活、ダンスホールにパーティーに。
そして時は空前の「エレキブーム」。街中で猫も杓子も「テケテケテケ―――」。

「アストロノウツ」の太陽の彼方、「ベンチャーズ」の急がば廻れ。テレビでは連日連夜「エレキ、エレキ」。
終いにはナショナル、ビクターまでが「エレキギター」を作り始めた。
今では努々考えられない時代、さしずめ、「ゲームボーイ」ナショナルブランドで出すようなものだろう。

僕の場合そんな時代の中を、地元ではかなりの売れっ子バンドのドラマーとして過ごしてしまった。
そのお陰で「こんなはずじゃない」の思い過ごし、勘違いが「東京」行きを決めさせてしまった・・・・
とは云うものの、この歳、そろそろ還暦になろうとしているのに未だ「テケテケテケ―――」
もっともそれで食わせてもらっているのだから人生、時には「思い過ごし、勘違い」も満更ではないのかも知れない。

そう―――

あの時代。多かれ少なかれ「横文字稼業」を夢見てその「東京」と云うブランドに同世代が群がった。

「カメラマン、イラストレーター、ファッションデザイナー」

等などである。

既に戦前生まれの服飾デザイナー、イラストレーター、カメラマンが世界に名を成すようになっていた頃。
やはり、ピカイチは「横尾忠則」。
画伯は昭和一一年生まれのようだからあの時代、世代の人たちが戦後生まれ・・・・・・
所謂「戦争を知らない子供たち」の感性を刺激したのだろう。

要するに「超」の付く「一流」はみんなその世代ではないだろうか。黒田清太郎、篠山紀信、山本完斎―――
何れ、焼け跡世代が僕らの夢の「明星」だった。

青春の光と影
  


Posted by 昭和24歳  at 20:54Comments(1)

2008年04月07日

愉快な民主党(笑)。

>「ガソリンスタンド対策法案」「租特透明化法案」を参議院に提出

民主党は“2008/03/21”に同法案を提出していた!!

>4月以降、ガソリンをはじめとする揮発油税等の暫定税率が廃止された場合、
ガソリンスタンドなどの揮発油または軽油の販売業者が、既に暫定税率分を上乗せしたかたちで仕入れた在庫分について、
その暫定税率分を負担することなく価格の引き下げを行えるよう、税の救済措置をとるものであると説明。

>ガソリン税は製造元から出荷の際に課税される蔵出し税であり、
暫定税率が廃止になった場合、全国のガソリンスタンドが負担する額は700億円程度にまで及ぶと明かし、
この法案により、現品を返品せずに書類、伝票上で一度製造場に返品したかたちで処理、
新たに暫定税率分を除く低くなった価格で仕入れたものとみなして税を還付、在庫分について販売業者の負担をなくすことが可能になるとした。


早い話、4月1日以前の在庫の返品を実行すればいいだけの話である。

僕らの商売でも決算時在庫調整するために伝票の“赤黒”はいつものこと・・・・・
もちろん大口取引店だけではなく小口の店でもそういう要請は当然受ける。
もちろん、その場合、商品の移動はない、あくまでも伝票上操作。
それで、税務申告、決算申告する。

当然、石油元売もその返品を受け、財務省には戻り在庫分の税金の還付を受ける。
これは通常の帳簿処理の過程でのことである。
本来ならなにも“新法案”にするほどのことでもない。

商慣行上は当たり前のことではないか(笑)。


>なお、平成元年および9年、揮発油税と同じ蔵出し課税の酒税法改正の際に同様の措置がとられている。

前例主義の法体系・・・・・
このように“前例”がある。

しかし、だとすると、15円そこそこの値下げでお茶を濁しているガソリン販売店は25円分の還付を受けた時は・・・・・・
はたして、消費者にその分も還元するのだろうかな?

  


Posted by 昭和24歳  at 15:24Comments(0)

2008年04月07日

殺伐とする時代

困民党事件

明治中期、負債の利子減免などを要求して騒動を起こした農民組織。
明治14年、松方財政が強行した紙幣整理による不況下で、養蚕、製糸、製茶など農家副業的経営に急激な行詰りをみせた、
関東、中部地方の農民が、負債利子減免、元金年賦償却などを要求して蜂起した。
明治17年の群馬事件や秩父事件にも、自由党員の指導を得て、これらの組織が蜂起している。
実際には自由民権運動ではないが、時代の必然性が生んだ民衆運動であったように思う。借金党。負債党。

群馬事件

明治17年5月、群馬県の自由党員らが・・・・・・
高崎駅開通式に参集する政府高官の襲撃を企てたが、式が延期されたので、警察署、高利貸を襲った事件。
清水永三郎ら指導者は逮捕され、有期徒刑に処された。 それは僕の曾お祖父さんたちの世代でした。
為政者の形はそれから何年経っても変わりません。


民衆は愚かではありません。今日、現代では、見えない「身分制度」の下に社会が作られています。

世襲制は、非競争社会の「政治家・官僚・財界・公務員」。
それらは殆どが戦後の財閥解体、農地解放以後また、元通りの姿に直っています。

高利貸しの世界でも、多くが「大蔵・警察・法務官僚退職者」の受け皿で大衆、民衆の困窮を知ることすらありません。

いいでしょう・・・・・・耳障りの良い「言葉」に酔い、泡沫の「夢」を見るのも。
しかし、それは至極当然に凄惨な時代の到来を予兆しています。図らずも、歴史はそう繰返してます。

極一部の富裕、支配者階級の欲望で、何処でどれほどの人間が阿鼻叫喚しようとも、それは「他人事」。
事の前後は別にしても、この地球上に「世界」があるとしても、近代文明は僅か100年。

その間の科学技術の進歩に惑わされ、如何に人類が慟哭したか・・・・・
そこに思いを馳せる術を先の社会階層に生息する生物は持つはずもないでしょう。

それをあり難く頂こうとする「卑しい」人種がそこに集る。


飛躍に過ぎますが、鳩山に集る「民主党」。

数年前の「音羽御殿のお花見」今に見れば笑うに笑えない様です。



<東京都文京区の鳩山会館で2008年4月4日午後5時31分、北村隆夫撮影>

その昔の鳩山御殿お花見会にはゲストに、共産党の“委員長”、社民党元委員長まで、満面の笑顔で「フォーカス」されてました。
・・・・・・大衆平民困民は堪ったもんではありません(笑)。


60年安保でダレスを羽田から押返した世代の皆さん・・・・・

もう一度思い出してください、あなた達の同期が各界で修羅を創作しているのです・・・・・

世代的に見れば、「敵は我にあり」でしょう。

かつて秘書が秘書がで議員辞職した「加藤紘一」氏も、真贋はともかくとしても「国会へのデモ」に参加した。
とか云っていました。

僕等の世代も、そしてあなた達の世代も、「オトシマエ」をつけるには、残された時間は僅か。

せめて、知ることをお話ください・・・・・

僕等の父母の世代も、知ることを少しづつにも語りはじめてます。

「加害者でありえないはずの被害者」。
一億総国民「懺悔せよ」。とは、一体誰に向けている言葉なのか・・・・・

本来なら、僕等世代も父母の世代の分の「戦後補償」を、今も厳然と威風する「大日本帝国」の“団塊”に突きつけたい。


少年少女の「オヤジ狩り」。

小学生の「援助交際」。

40代中学教諭の教え子「女生徒」への性行為。

親殺し、子殺し・・・・・欲望のままの人殺し。


“殺人”なんて言うからいけないんです。

それは、“人殺し”なんです。
  


Posted by 昭和24歳  at 13:29Comments(0)

2008年04月04日

荒廃する社会

「ある政治家と団体が政治的に利用し、政争の具にしようとしていることは非常に残念だ」

と批判した。

民主党をはじめとする野党の“協定見直し”の主張を「政争の具」と表現したケビン・メア在沖米総領事。

「日本の防衛に貢献するため命を犠牲にする用意がある人に、日本に税金を払う義務を課す主張があるのは不思議だ」

と不快感を示したとか・・・・・・

「最近の事件で地位協定上、問題はない」

とも述べ、運用改善で対応する考えを重ねて示した。

「思いやり予算」の根拠となる特別協定が空白となったことについても、

「安保体制の下で不可欠で、政治的理由で反対するのはふさわしくない」

と民主党をはじめとする野党の姿勢を批判した。

総額2400億円の“思いやり予算”

米軍、米政府に日本政府はその“思いやり予算”の“思いやり”をどう翻訳し説明しているのだろう(笑)。

“思いやり予算”を英語で言うとなんと言うのか?

まずはその“思いやり”だが・・・・・・
この法案提唱者、故・金丸信はそれを「思いやりの精神」とか言ったらしいが、米軍、米政府サイドではその公式文書ではそれを、

“Host Nation Support”(“HNS”Budget)

“駐留軍受け入れ国支援”と、呼んでいるとか。

しかし米軍、米政府に“戦略基地”の占有を許す世界のどの国もそうした、米軍、米政府への直接資金提供はないと。

「日本の防衛に貢献するため命を犠牲にする用意がある人に・・・・・」云々だが、

“日本の防衛に”

それは違うだろう。その前提は大きく違うだろう。

まず、日本と米国は4年間に渡る直接戦争、戦闘をし、結果米国がその戦争に勝利しその戦利として日本国土を軍事的占有しているのではなかったか。
のちに、米ソの軍事覇権争いの“冷戦構造”の下、米軍、米政府の太平洋極東地域の軍事戦略最前線基地として占有(占領)している。

それが事実ではなかったか。

米政府草案の日本国憲法の条文からも、メア在沖米総領事のいう「日本の防衛のため」は真っ赤な嘘である。
その「日本国憲法の精神」から言えば、「武力を持って国際紛争の解決手段を完全放棄した」日本国にまず、“防衛”という文言は見当たらない。

一切の“武器の保有”を憲法が認めていない。

強いて言えば、国際社会性悪説にたって防衛というより防御のために「カギをかう」程度のことしか許されていない。
つまり全ての武力行為、戦争を放棄した「世にも珍しい」、嘘のような「理想の国家」がここ“ニッポン”のはずではなかったか。

そんな“理想国家”に”安全保障条約“締結にもかかわらずに延々と半世紀以上、戦略核基地を置き、
そこを兵站最前線基地として“朝鮮戦争”(安保締結前)、“ベトナム戦争”に“カンボジア紛争”、そして今も“イラン戦争”に・・・・・・

それのどこが、一体全体“日本の防衛”なのか。

そもそもがそれらの戦争は覇権国家“米国”の国益のみのためではないのか。

そのことで、米政府の言う“世界平和”、“世界の安全”などは詭弁というより悪い冗談だとしか言いようがないが。
もっとも、米国の本音では「日本国の防衛」なんてはなからあろうはずがない。
戦争経済を自国経済発展、国益のためとする米国の軍事基地占有(占領)が実はもっともこの国を戦争の危機に貶めているのではなかったか。

もし、米国が普通の精神を持ち合わせているなら、
もし米国が日本との相互安全保障を確立させているというなら、“米国国益”のために占有(占領)する日本国領土内の戦略基地には・・・・・

その占有料を、基地使用料を日本国に支払うのが世界の常識ではないのか。

なぜ、提供する側が「どうぞ使ってください」と「使っていただく料」を払う(笑)。

たしかに、米政府は基地使用料の土地の賃貸料をその地域の地主に支払っている。
しかしそれも日本政府の「使っていただく料」から賄われている。


この国の“社会の荒廃”はその“敗戦”にまでさかのぼる必要がある。

“終戦”ではないのだ!“敗戦”なのだ!!

今日のこの国の“社会の荒廃”は日米開戦を命令し、無条件降伏文書に調印した・・・・・・
その時の、そのままの政治が今日もこの国を為政しているからに他ならない。

つまり、見せかけは独立、復興はしたが、日本政府は未だ“無条件降伏”のまま。

たしかに大都会には超高層ビルが林立し、高速道路が、新幹線がと世界の先進を繕うが、
その“真実”は敗戦直後の社会荒廃のまま。
なぜなら、その高速道路も新幹線も米軍の空爆で一瞬にして虐殺、消し去られた10数万人の屍の上にあるから。

六本木ヒルズも赤坂サカスも、隅田川沿いの超高層億ションも・・・・・・
灼熱の隅田川に喚きもがきながら絶命した空爆罹災者の魂が眺める。
そんな国が平和であるはずがない。

若い母親が幼子を殺さなければならない社会。
そんな戦時体験者から医療を奪う無条件降伏政府。

すべてが“偽装平和”の上にあるからだ・・・・・・

  


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2008年04月03日

“おかあさんはあたたかい”

ガソリン暫定税率期限切れの4月1日の朝・・・・・
玲の後を追うため近くのガソリンスタンドで、リッター147円(セルフ)で念のため20リッターを給油。

いつも給油しているそのセルフスタンドには張り紙で、

「まだ在庫がありますので値下げ“25円”は4月5日からの販売にさせていただきます」

と、あった。

高崎、倉賀野・・・・・新町、県境に近いスタンドではなんとリッター127円の看板・・・・・・
しまった!!と思いながらも神流川の鉄橋を渡り埼玉県に入るとすぐのGSでは149円、それが籠原あたりまで続く。

結局、埼玉県内も東京もガソリン価格はマチマチだった・・・・・
帰路、新大宮バイパスの“コーナン”の看板は124円、そこで満タンにしてなんとなく得した気分(笑)。

ところで、久々に国道17号を走った。
なんと埼玉県北部の本庄までバイパスが通っているではないか。

“道路特定財源問題”

大宮バイパスは国道16号にぶつかったところで途切れているが、広軌道路の16号を宮原まで、そこから17号上尾バイパス・・・・・・
吹上の手前で熊谷バイパスに。そこからは熊谷バイパス、深谷バイパス、その深谷市東部でなんと17号が二手に分かれる。
つまり国道17号線が二本。一本は高崎方面まで、もう一本は前橋方面まで、こちらのほうは“上武国道”で利根川を渡り群馬県に・・・・・・
そして高崎方面へのそれは本庄市のてまえで国道17号に合流する。

真っ暗闇でその景観はまったく見えなかったが、完成すれば上下盛土4車線のバイパス。

上武国道の17号線は伊勢崎市で高速道路“北関東道”に接続し、もう一方の17号線は関越自動車道に平行している。

夜間、9時前後だったがそこを通る車両はまばらしかない。

それにしても都内も、埼玉県も僕が知る限り30年前から延々と工事が続いている。
その新大宮バイパスにしてもまだ完成しているわけではないし、熊谷バイパスも、深谷バイパスも・・・・・

ガソリン税の暫定税率分が廃止になるとその工事は中断するというのだろうか。
しかし、30年間も“工事中”・・・・・
その間、関越道、上信越道は完成し、北関東道も平成21年度中には東北道と関越道が接続するとか。

道路財源の一般財源化・・・・・・

今朝のニュースでも八戸で小4、9歳の男の子が母親の手で殺害された。

「収入がなく、将来が不安になってやった」などと母親の供述・・・・・

“おかあさんはあたたかい”

と、慕う母親の手で命を絶たれた・・・・・・

母親は将来が不安だというが、その西山拓海君、いっぱい夢があったろうに。
もっと、もっと、いっぱい、そんな“あたたかい”お母さんに抱きしめてもらいたかったろうに・・・・・
お母さんに甘えたかったろうに、その“ふわふわ”で、“ぷにょぷにょ”のほっぺでホオ擦りしてほしかっただろうに。

先進五カ国で社会保障費は最低、国の医療費負担は最低、児童手当は最低・・・・・

日本に医療費(社会保障費)31兆円のうち、地方税・国税で賄っているのは10兆円にすぎない。
他の20兆円は窓口負担と保険料などである。

後期高齢者医療保険といって、戦後あの苦難の時代に少年期、青年期を国家の犠牲にされた国民に平然と何の意味の制裁か。

財源難を言いながら、公共事業には80兆円、米軍への思いやり予算といいながら強請られての2400億円。
日本政府、その“米軍思いやり予算”と日本国の将来を託す子供への思いやり予算“児童手当”総額2600億円とほぼ同額・・・・・
それどころか、給油特措法、テロ特措法への戦争協賛金が年間あの手この手で?兆円。

これは一体どういうことなのか?

くどいが、後期高齢者医療制度や、障害者自立支援法という国民への制裁法。

普通の国民が壊れてゆく・・・・・


おかあさん

  青森県八戸市立美保野小学校2年

       西山 拓海


おかあさんは
どこでもふわふわ

ほっぺは ぷにょぷにょ
ふくらはぎは ぽよぽよ
ふとももは ぼよん
うでは もちもち
おなかは 小人さんが
トランポリンをしたら
とおくへとんでいくくらい
はずんでいる

おかあさんは
とってもやわらかい
ぼくがさわったら
あたたかい 気もちいい
ベッドになってくれる

<産経新聞引用>

冥福を祈る。
  


Posted by 昭和24歳  at 16:03Comments(4)

2008年04月02日

私は生きている

私は生きている

“リュウ・ミョンスク”

1988年頃から1991年にかけて金日成政治軍事大学において目撃したという証言があるが、北朝鮮側はこれを「事実無根」と否定している――――

1987年“リュウ・ミョンスク”と夫“会社員キム・チョルジュ”との間に長女“キム・ヘギョン”が誕生。

1987年と言えば北朝鮮工作員“金賢姫”を実行犯としての『大韓航空機爆破事件』が同年11月29日、
大韓航空858便をバンコクに向かう途中のベンガル湾上空を飛行中に時限爆弾を爆発させ墜落――――
乗客・乗員115人全員が死亡又は行方不明とした事件と言う国家テロ勃発した年だった。

金賢姫“キム・ヒョンヒ”1961年生まれと“リュウ・ミョンスク”1964年生まれは3歳違い。
この時“リュウ・ミョンスク”は23歳。
金賢姫の日本人化教育係であったとされる女性“李恩恵”こと田口八重子さん1955年生まれ、事件当時31歳とその特殊機関で接点があったと考えられるのは極めて自然である。
そして同じ拉致被害者であった曽我ひとみ“ミン・ヘギョン”は1959年生まれは“リュウ・ミョンスク”と一時期平壌の特殊機関施設で同居と本人自ら語っている。

リュウ・ミョンスク“私は生きている”

横田めぐみさん――――

当時13歳で北朝鮮の工作員数人によって中学下校通学途中に拉致された。

現在メディア等で公表される“横田めぐみさん”の『その後』は、
韓国人拉致被害者の金英男さんとの結婚(1986年)、そして娘キム・ヘギョンさん出産(1987年出産)。
そして、1993年1月29日、鬱病のため夫に連れられ平壌市スンホ(勝湖)区域49予防院に入院、
その後、 同年3月13日午前、同病院内で散歩中、南寿岩主治医が目を離した間に、着物を裂いて松にかけ首を吊って自殺・・・・・

と、そこまでの“フィクション”しか伝えられてはいない。

1993年と言えば、北朝鮮が日本海、その後の報道では三陸沖に向け“ノドン・ミサイル”を試射(同年5月)した年だ。

横田めぐみさんこと“リュウ・ミョンスク”は13歳で拉致され、それ以降北朝鮮政府、特殊機関によってトップレベルの“工作員”に育成されたのではなかったか。
その意味では極めて流暢に“朝鮮語”を話したとされる“リュウ・ミョンスク”。当然その教育機関においては“中学生”であったということからも北朝鮮政府としては・・・・・・
彼女の素養が極めて優秀であった所から政府機関挙げての“英才教育”を施したと考えるのが自然である。

結果、北朝鮮政府としては“リュウ・ミョンスク”が“母親”になることは北朝鮮国家の大きな損失であると考えるに至った。
13歳だった横田めぐみさんは己の“拉致”という悲運に嘆きつつも次第次第に身の処し方を心に決め、
“北朝鮮”と言う国家を知れば知るほどもう二度とは“横田めぐみ”として祖国、日本には戻れないことを覚悟し、“朝鮮民主主義人民共和国”の人間に・・・・・
しかも、特殊機関、工作員になることを多感なある時期決心したのではなかったか。

同じ拉致被害者である蓮池、地村夫妻。そして曽我ひとみさん、田口八重子さんらと接触を重ねる中でよりいっそうその決心を硬くした・・・・・

ひとつには、そうした状況、環境の中日本政府、政党の自分たち拉致被害者に対するあまりもの冷淡さから無力感に襲われ、
そのことが、“北朝鮮人民”として生涯を送ることの決心をさらに強めたのではないか。

北朝鮮政府は如何に日本政府、あるいは当時の自民党、社会党、共産党国会議員のその“拉致”という犯罪に無関心であるだけでなく・・・・・・
日本政府はその被害者たちを“棄民”したかのごとく伝えていたのではないか。

そうした日本政府や国会議員の情勢はその全てを、北朝鮮、訪朝時だけではなく日本国内での言動の全てを承知していたのではないか。
そうした中にも蓮池さん、地村さん、そして曽我さん家族はむしろ北朝鮮の事情、とくに経済的事情からの外交交渉で日本に送り返された。
実際、拉致被害者は北朝鮮の国家テロによって、言うなれば如何なる理由があろうとも日本政府の責任として保護されなければならない立場であるにもかかわらず、
その光景は、金正日将軍が小泉首相との対談の中で自ら“拉致”犯罪を認めながらも・・・・・・

「返していただいた」

かのような政府、日本マスコミの論調に落胆を禁じえなかったのではなかったか。
実際、帰国当時は“一時帰国”との報道もあり、当然、当人、拉致被害者たちも“そのつもり”であったに違いない。

北朝鮮政府は当然、帰国させた家族にはこれまでの日本政府、国会議員の国家的犯罪や恥部を全て伝えているだろう。

「拉致はデッチアゲ!!」

と言っていた、社会党の党首らの面々・・・・・
それと、訪朝しては売国的外交を繰り返してきた政府高官、国会議員の惨状を。

横田めぐみさんは既に何度も北朝鮮工作員として日本に入国しているのではないか。

そのことが、北朝鮮政府が“横田めぐみ”は死亡したと、なにが何でも証明しなければならない国家機密なのではないか。
そうであればあるほどに、夫、“キム・チョルジュ氏”に矛盾だらけの“死亡説”を言わせている・・・・・・
その夫、キム・チョルジュ氏の韓国家族を訪朝させてまでもそのこと、“横田めぐみ”さんの死亡説を立証しようとしている。

おそらく“リュウ・ミョンスク”は何度も祖国の地を踏み、ご両親を見ている・・・・・・
もちろん“テレビ報道”も熟知している。

蓮池さんも、地村さんも、そして曽我さんもそのことは十分承知している。
ましてや日本政府もだ。

問題は、どう“横田めぐみ”さんを生き返らせるか・・・・・・
そしてそのことが、はたして“日朝国交正常化”成立にどう様々な意味で可能か。

もしかしたら、横田めぐみさん“リュウ・ミョンスク”、本人がそれを拒んでいるのかも知れない。

夫、“キム・チョルジュ氏”の言葉どおりだとすれば夫婦、恋人同士であったとしても自身の素性は話し合うことはないのだから。

“リュウ・ミョンスク”は北朝鮮のトップレベルの政府高官、あるいは工作員であるとすれば・・・・・・
“横田めぐみ”さんの死亡説は肯ける。

そして“横田めぐみ”さんばかりではない。
“田口八重子さん”や“有本恵子さん”も・・・・・

「私は生きている」

そんな声が聞こえてならない。

しかし、すっかり沙汰闇ですね・・・・・・

  


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2008年04月02日

ママチャリ東京紀行

「ゴールは渋谷の“NHKスタジオパーク”だぞ!」

「わかったっ!!」

4月1日(火)午前4時30分出発。

旅13歳の春休み、ママチャリでの東京渋谷までの一人旅・・・・・・

「つらくなったらすぐにリタイアして帰ってきなさい」

とママ。
実は、綿密に地図上の計画は練ったものの決行すら半信半疑だったし、
完走することはなおさら、

「自転車がパンクしたら電話するから」

そう言うと強風、花冷えのまだ明け白む前の暗闇に向け玲は走り出した。

午後4時を“ゴール時間”に僕は“NHKスタジオパーク”入口前で待つことに・・・・・


期末試験が終わって、中一生活も終わりという頃突然言い出した。

「パパ、春休みどこか行きたい」

「どっかって・・・・・マス釣り、軽井沢、温泉、榛名湖?」

「じゃあなくて、一人で、どこか・・・・・遠くへ行きたい。
部活も、春休み、3日間あるんだ。だからその3日間のうちに・・・・・」

とにかく一人で“群馬県”から出てみたいとか(笑)。

「群馬県から出るのってどのくらいかかる?」

「すぐだよ。自転車で1時間も走ればもう県外だ」

「な~んだ・・・・・じゃあ、どこまで行こうかな・・・・・
東京にしようかな、お姉ちゃんいるし、泊まれるし」

「東京・・・・・100キロあるぞ、100キロ」

「100キロ?100キロって時間どのくらいかかる?」

「そうさなぁ・・・・・・10キロを1時間として10時間・・・・・」

「10キロ1時間?お家からならどのあたりまで?」

「そうさなぁ、前橋なら県民会館あたりまでがちょうど10キロくらいかなぁ・・・・・
ここから往復20キロで2時間。東京だと100キロだから、前橋県民会館を5往復だぞ」

「よ~し、じゃあ、前橋の県民会館まで往復してみて、100キロ走れるかどうか試してみる・・・・・・
できたら東京まで行ってもいい?」

「だって、東京へ行くのはいいけど帰りはどうするの?
帰りを考えたら往復200キロだぞ、200キロ、しんどくないかぁ?」

「帰りは、パパ、迎えに来てよ車で・・・・・・」

まあそんなこんなでまず前橋の県民会館往復で“東京自転車旅行”の可能性を確かめることにした。
自宅から県民会館までの走行路をネットで検索して約10キロ・・・・・
その翌日、部活から帰ると実行した。

「きつくなかったよ。ちょうど往復2時間・・・・・
これを4往復か。だいじょうぶ、できる、パパ、行っていいでしょ東京」

「よし、いいよ。そのかわり目的地を決めて時間もちゃんと決めてその通り実行できるなら・・・・・」

「わかった。パパ、地図作って東京までの」

目的地を東京都庁にしたいと玲は言ったが、あのあたり無茶苦茶道がややこしいし、
それに高速道路の入出路も入り組んでいてとてもじゃあないが自転車じゃあ危険。
そこで、わかりやすいといえばわかりやすい渋谷の“NHK”、代々木公園入口、渋谷公会堂の交差点のところ、

“NHKスタジオパーク”入口前にした。



高崎-倉賀野-新町-本庄-深谷-熊谷-吹上-桶川-鴻巣-上尾-大宮-浦和-戸田
-板橋-東中野-初台-渋谷
ほぼ10キロごとに地図をプリントアウトしてチェック。



午前4時半に玲は出発。
その3時間後僕は車で出発、玲の道順をなぞることにした。
もしかしたら籠原あたりの中仙道沿いでくたびれてへたりこんでいるいたししているのではないかということを期待して(笑)。

新町の自衛隊前、神保原、本庄、深谷、そして籠原・・・・・
ここいらが40キロ地点で午前4時半から4時間。車の時計は8時半、
TBSラジオの大沢悠里がなにやら話し始めている・・・・・どうやら無事通過しているらしい。

熊谷駅前、ものすごい強風で人気もまばら・・・・・・
行田を過ぎて旧中山道を吹上方面に行く、吹上市街地、なぜか渋滞・・・・・
すると数十メートル先に見かけた“ママチャリ”が走っている!!
玲だ!!
しかし渋滞。見失ってしまった。

旧中山道を大宮までは走ることにしていた。吹上まで約58キロ。
娘、玲の姿を発見しただけでも一安心だった。

鴻巣あたりで渋滞も解けて道順を追ったが玲の姿は見つからない。
上尾の駅前で家に電話したが、

「ぜんぜん電話ないよ」と、ママ。

宮原、大宮西口。ここで写真をとるとか言っていたから15分ほど駅前で待つが見えない。
浦和県庁前、もうすぐ戸田橋。20分ほど戸田橋で待つが・・・・・
僕は心配になって浦和方面にきた道を引き返すが・・・・・・


するとママから電話、「今大宮に着いた」って。

そうか、それじゃあ戸田橋のところで待つことにしようと戸田橋まで引き返すが、
依然としてもう50分も待つのに見えない。また引き返す・・・・・

蕨から東京外環近くで発見!!
そのまま見守る・・・・・戸田橋を渡る玲、颯爽と走っているではないか・・・・・
志村坂下、板橋本町を・・・・・

板橋本町、板橋ジャンクション下で旧中山道から山手通りへ入ることになっている。
その交差点で待つ玲、そして僕は山手通りへ向かうために直進路に、横断路が青、直進は赤・・・・・
僕は地下道で山手通りに出て路側で玲を待つが10分待っても、20分待っても・・・・・・

多分もう山手通りを渋谷方面に向かっているのだろう・・・・・
その山手通りは工事渋滞がひどく、それにその路側を走る玲を見つけるのもとてもじゃあないが無理。
ママに電話して、「玲から電話があったらNHK前で待っているから」って言っとくように伝言。

東中野駅のところでしばし待つが、来ない。
初台、巨大なNTT東日本本社を見上げつつ待つが来ない・・・・・・

甲州街道を代々木方面に下る。やはり工事渋滞は続く。午後3時山手通りを井の頭通りに左折。
渋谷区役所前、NHK正門、代々木公園入口に到着待つこと30分。渋谷公会堂の時計は4時を指している。
相変わらず路駐無法地帯に上手くもぐりこみその交差点を行ったり来たり・・・・・

ママに電話、「電話ないよ。もうすぐ着くんじゃあないの」と至って平然。

「へぇ、玲、東京に着いたんだ。すごいじゃない!!」

と、心配するどころか感激までしている様子。

「オイオイ、そんなこと言って、このまま来なかったらどうするんだ」

「だいじょうぶよ、迷子になれば電話くるから、そしてらそこまで迎えに行ってやって」

そういえば、ママも玲も血液型はB型だった。

とうとう、渋谷公会堂の時計は4時半・・・・・・

すると、NHKセンター下交差点のほうから玲が・・・・・・

「遅かったじゃないか・・・・・・」

「えっ、なんで、だいたい時間通りじゃない。ほら4時45分。
山手通り行き過ぎて東大駒場のところまで行っちゃった。こんなところに東大あったんだ」

「迷子になったんじゃあないかと心配したぞ」

「大丈夫だよ。地図どおりにちゃんと来れたから・・・・・
パパ、お腹すいた。あっ、たこ焼き食べたい!!」

自転車を車に積み込む。

「パパ、原宿ってどこ?」

「すぐそこだよ。寄ってくか?つまんねえぞ・・・・・」

「いいよ、寄ってく、話の種だよ」

原宿駅前路上Pに駐車、Jウォークで竹下通りに・・・・・
キディランドに寄ったがあまりの混雑にすぐ出る。表参道をブラリ。

「ただ人が多いだけで、高崎祭りと変わりないね。
パパ、お腹すいたよ。早くあのラーメン食べにいこ」

東京の三大ラーメン!!

もちろん僕の独断と偏見だが。

目白の“丸長”、早稲田の“えぞ菊”、そして恵比寿の“香月”

その三軒とも玲は何度か行ったことがある・・・・・
“丸長”は3時までの営業だし、“めのこ”、それとも“かづき”?

「“えぞ菊”がいい!!」

と言うことで、明治通りを新宿方面に・・・・・・

「へぇ、東京にも高島屋ってあったんだ、あっビックカメラもある。あっ都庁だ、都庁!!
写真撮ったんだ、都庁!!」

「なんだ、寄り道していて遅くなったのか・・・・・」

「埼玉アリーナも撮っちゃった(笑)」

つまり僕の心配をよそに当人、結構一人旅を楽しんだのだった。

高田馬場二丁目交差点を右折、左側にカウンターだけの小さな“えぞ菊”。

「あたし、味噌ラーメン。パパは?」

「そうだなぁ、野菜大盛りの味噌ラーメンにしよっかな!!」

時計はすでに7時を回っていた・・・・・

「パパ、家には何時頃着く?」

そう聞くと玲は寝息を立て始めていた。

それにしても、“高崎-東京”、自転車でよく走ったな。

「友達に話したら、誰も信じなかったけど・・・・・
でも、本当に東京まで自転車で行けたらなんか・・・・・自信になる・・・・・
それに、部活の筋トレにもなるしね」

そう言っていた玲・・・・・・

中一の春休み、きっといい思い出づくりになったろう。
  


Posted by 昭和24歳  at 16:30Comments(5)

2008年04月01日

上州人気質

昭和の“市町村合併”

昭和三十年代の市町村合併で高崎市もずいぶんと大きくなった・・・・・・
それまではたしか人口六万人くらいではなかっただろうか。

高崎の北部、小鳥あたりは群馬郡六郷村。豊岡、八幡は碓氷郡・・・・・
そして多野郡片岡村、多野郡八幡村、佐波郡岩鼻村・・・大類も、飯塚も、江木も群馬郡ではなかったか。
因みに僕なんぞも戸籍簿は「碓氷郡豊岡村字引間・・・」とあるから可笑しい。

どっぷりと「下町」の街・・・「高崎」。
元はと言えば高崎は城下町で、糸偏の商人は信州や、果ては近江あたりから。
材木商は上越下越、薬は越中と相場は決まっていたようだ。
所謂、「高崎」は城下町として栄えた人造都市。

「カカア天下と空っ風」、上州名物には違いは無いが、痩せた土地で養蚕中心の農業・・・・・
「百姓」が高崎人、上州人の正真正銘である。
戦後は、横丁と言う横丁・・・職人街であった。
鍛冶屋、表具屋、竹屋、畳屋・・・畳屋と云えば、大方が「山田」。
先にも書いたが、それこそ「なんでだろ~~~」となるが、未だそれは謎のままだ(笑)。

年を追うごとに「殺風景」になる。時には、古き「高崎」を訪ねるのも面白い。
本来、この街にはこの街の形あっただろうに・・・・・
賛否はあろうが、二一階建ての絢爛な「庁舎」がこのご時世恨めしいと感じるのは僕だけだろうか。

ところでここ、上州はその昔はこの一帯を南限に「アイヌ民族」が居住したそうです。
僕なんか、その「DNA」そのもので、極めて太くて濃い「眉毛」、茶色い瞳に赤毛、そして髭は硬くて真っ黒。
聞くところによると(本当か嘘かは眉唾だが)、
それら先住民族と、朝鮮半島からの渡来民族の融合が土着型「上州人」と・・・・・・
それは、地名の由来を紐解けばかなりの信憑性で見て取れます。かと言って、その証拠を見せろと言われても困るのだが。

まあなんといってもここ上州は“災害”というものがほとんどない。
それ故にどうも土着型上州人は“のんきもの”・・・・・・
それは僕だけかもしれないけれど、なんというか、その“上州人気質”というものはある種、緊張感に欠けているいるのではと。

「僕だけかもしれないけれど」

やはりその理由としては、ご案内の自然災害が・・・・・
僕自身、59年からここに生きてきて、その自然災害に痛めつけられた覚えがない。

台風もどういうわけか遠慮がち。もちろん大雪も山間部を除いては関東平野の最北部までほとんどない。
まあ、海がないわけだからそういった気象からの災害は地形からもないのかもしれない。

上州人・・・・・・

あまり抑揚の無い語り口と開放的で豪放な「男衆」の気質。昔から、男衆のする仕事は無かったようです。
機織にしろ、養蚕にしろ女子の仕事でしたし、精々が出来上がった製品を町に運ぶくらいがいいところ。
後は、博打か・・・それは冗談ですが、
江戸の時代から今日に至るまで「博徒」ヤクザの発祥は上州とか言われ、国定忠治、大前田栄五郎。
詳しくは知りませんがその辺りの話は事欠かないようです。
近代でも、秩父事件、群馬事件とその殆んどが上州、武州の百姓の男衆の仕業だったらしい。

上州人・・・・・

極めて開放的で人間関係に拘りを持ちません。
来るものは拒まず、去るものは追わずと言うか、やっぱり根っからの上州人「呑気な父さん」。
分かり易く言えばお人好しの苦労知らずが昔からの謂れであったようです。
しかし戦国時代も終り(大分古い話だが)―――
この街、高崎が城下町を成し、商人があちらこちらから移り住むようになってからはその様相、徐々に変化してきたようだ。

豊臣、安土桃山も末期、大阪夏の陣も引けると、
ここ高崎は(その頃は高崎と言ったか)宿場町として栄え、小間物屋、米穀商・・・・・・
それらの商人が遠くは近江、越中、信州信濃から江戸への中間点として商業を起こし、

人造都市「小江戸」に生まれ変わったようだ。

二一世紀の現代ここ高崎の街で商う人々はそうした商人の末裔で、
元々一五〇〇年代、箕輪城から高崎に城が移築されるまで何も無かった所のようです。
もっとも古くは岩鼻、大類、木部などには屋敷城があり、
当然、安中、松井田、箕輪と言ったように上杉、武田の領地であったとか無かったとか。
また、織田信長の息子が甘楽郡の小幡城主で戦乱も終焉し、その「一五六〇年」頃に関ヶ原も終ってますから・・・・・・
あの時代の百年にこの高崎も仕上がったような物ではないでしょうか。

まあ、話はあちこちに飛びますが、上州人気質というか、“高崎人気質”
根っからの高崎っ子は、その昭和三〇年の頃の市町村合併で「高崎市民」となった・・・・・・
高崎駅を中心に5キロ圏内の百姓家の小倅、小娘が言うなれば「上州人」ではないだろうか。

何かあるとすぐに「矢でも鉄砲でも持って来やがれっ」って云う、短気で、呑気で、泣虫な「上州男気質」、
何分に癖がよろしくない。
その分と言うわけではないが、「上州女」はしっかりとしていて働き者でつまらないことには余りくよくよしない。
がしかし、一度こうと決め込んだら矢鱈滅多羅、梃子でも動かないし、曲がった臍はなかなかそう簡単には元には戻らない。
僕のところなんかはその見本が息をしているようなもので、ぼくも近在「百姓の小倅」、カミサンも「百姓の小娘」。

僕なんぞは、外じゃあ威張ってるくせに、家の中では滅法気の小さいトホホな上州男児で、
「かかあ天下」とは、よく言ったものと自分自身に感心するやら、呆れるやら・・・

でも、上州人少なくなりました。
と言うのも、高崎競馬、前橋競輪、桐生競艇、そして伊勢崎オートも売上はがた落ち、すってんてんな上州人です。
静かな高崎・・・・・新もん好きだけど、ややっこしいのはどうも苦手のようです・・・・・

“上州人気質”
  


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