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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーション  at 

2008年04月22日

バレエ教室の発表会

土曜日19日は優の長女次女のバレエ教室の発表会だった。

前橋市民文化会館の大ホール・・・・・・

バレエなんていうものを観るのは生まれて初めてだったからなんか妙な気分だった。
まず、最初は次女の出番。出番とはいっても8人ほどで踊っているので正直どれがどれだかわからない。
とにかく一番ちびがそれである。だからそれで観るしかなかった・・・・・
今年ぴかぴかの小学一年生、バレエ教室に通い始めて3年目。
とにかく、当人も終わってみたらただ草臥れただけだったようであった。

長女の出番はチャイコフスキーの“くるみ割り人形”の一場面。
これも一番ちびだからそのつもりで観る・・・・・
やはり、次女と同じで習い始めて3年目には違いないがそこはひとつお姉ちゃんである、
さすがそれなりに役をこなしているようだった。

発表会にはおばあちゃんも来た。
母方、つまりわが妻の母なのだが、わが妻の妹が連れてきたようで、その愛らしい曾孫娘の晴れ舞台をことのほか喜んでおられた。

それはまるで時をあわせたかのように、わが長女が夫となるべく男性を伴って僕の前に現れた。
つまりそれは・・・・・“それ”と言うやつだ。

娘たちの発表会の労いもかねて食事をすることになっていた・・・・・・

其処で、

「正式にご挨拶をするべきなんでしょうが、この機会をお借りして・・・・・」

と、その和風レストランの一室でその長女の夫となるべく男性から、

「お許しを・・・・・」

僕、妻、優夫婦と、長女、次女、長男、祖母、妹のシチュエーション・・・・・

祖母、つまりわが妻の母の前で「お許しを」と来た。

「お許しも何もねえだろう・・・・・・
おまえ、俺たちのことを話したのか?」

と、僕はわが長女に尋ねた。
するとすかさずその長女の夫となるべく男性が答えた。

「はい、ちょっと」

わが長女はニヤニヤしているだけ・・・・・

目の前にわが妻の母がいる。

実は今から33年昔のことだが僕は目の前にいるわが妻の母を泣かせてしまっていた。
もちろん今は亡きわが妻の父は激怒で「二度とくるなっ!!」と言われた。

その時にできていたのが今その夫となるべく男性の横でニヤニヤしているのが、祖母、
つまりわが妻の母の前にいるわが長女・・・・・
こんな場面を誰が想像しただろうか。

僕はこの場面、瞬時にその33年昔の出来事がその母を前にして脳裏に駆け巡った。

「いいよいいよ、仲良くしなさい、おたがいが我慢しあってね」

そのわが妻の母は僕の顔を見ながら、ニコニコして・・・・・・

「よかった、よかった」

とつづけた。

わが妻の母はことのほか喜んでいるようであった。

実はわが娘、長女はその母が48歳の時の初孫、
30過ぎても一向に春めいた話のないわが長女、初孫を気にかけていたのだった。

「よかったよかった」はいいが、僕はそのご母堂を目の前にしての心境・・・・・
もちろん、その後、33年昔以降はその母堂を悲しませることもなくきたのだが、
なんていってよいか朝日ビン生の二本目にも一気によいが失せた気分だった。

わが妻はいい気なモンである。わが長女と一緒になってニヤニヤしているのである。

「で、ですが・・・・・実はお腹に・・・・・」

と、その、今となっては婿さんが。

「やっぱりそうか・・・・・
いや、そうじゃなえかと思ってたんだ、なあ優」

と僕は僕の右隣(左隣は婿さん)に、

「優、おまえ4人目できたんじゃねえか。
夢に見たぞ・・・・・お前の三人ともパパは夢に見たんだから・・・・・」

「ぜんぜん、それはないよ・・・・・
パパ、もしかしてそれお姉ちゃんじゃあない。結婚するんだし」

「そうか、あいつか・・・・・」

しかしそんな話も3週間ほど前のこと、すっかり忘れていたのだったが・・・・・

「目出度いことがいっぺんに重なった、おばあちゃん今日は嬉しいよ」

僕が四の五の言う前にその婿さんの話を引き取った。

そこは女系家族、僕のことなどはそっちのけでもうお腹の赤ちゃんの話で盛り上がってる。

「あたしなんて6歳で“叔母ちゃん”デビューだったからなんてえことないよ」

と末娘の玲。

そう言うと、その婿さんに“ママチャリ東京紀行”の話をし出して盛り上がり始めた・・・・・

「パパとNHKの前でドッキング!!」

その話を聞いて祖母は・・・・・

「おばあちゃん知らなかったよ。やめとくれそんな危ないこと・・・・・」

そう言って、僕をにらむのだった。


バレエ発表会の疲れか優の次女は爆睡状態。

いや、僕もいささか酔った。まさかこんな一日になるなんて・・・・・
  


Posted by 昭和24歳  at 17:32Comments(2)

2008年04月22日

サッカリン

サッカリン

自転車の荷台に水色の・・・・・

所々、塗料の剥げた水色の箱に“アイスキャンディー”と書かれている。
これまた幟旗も水色で“アイスキャンディー”・・・と白抜きで。

おじさんが「チリ~ン、チリ~ン」と鐘を鳴らしながら・・・

それは“サッカリン”を水に溶かして凍らせたやつ・・・・・昭和三〇年代初めの真夏の「風物」。

たらたらと、落ちる“アイスキャンディー”の水滴を恨めしく思って、下の方を舐めようとすると、間の悪い時には、
上のほうが「ポトリ」と地面に・・・・・

「あ~っ、僕は何と運の悪い男なのだ」

と、子どもながらに、そう思った「麦藁帽子の夏休み」。

地面に落っこちたアイスキャンディーは見る見るそこにしみ込んでいく。
しばらくするとありんこがアイスキャンディーの黒い染みに集っている。
〈あ~あっ、もったいねぇ〉

たしか、五円だっただろうか。
やっとの思いで母ちゃんにねだって貰った小遣い。そう簡単にあきらめ切れるものではなかった。
あの頃の「五円」と言えば大金だ。

今ではそこいら辺の駄菓子屋でもアイスキャンディー・・・・・・
もちろん甘味はサッカリンなんかではないが“ガリガリ君”、一本六〇円はする。

なにせ親父の月給が一万円そこそこの頃だろう。
僕は一人っ子みたいなもんだったのでヘマさえしなければ一本丸ごと一人で食えたのだが、
兄弟姉妹三人も四人もいれば一本のアイスキャンディーを喧嘩騒ぎで食わなければならないのだから、
僕の落っことした“アイスキャンディー”がいかに貴重なものであったかがわかる。



味噌おにぎり

そうだ、おやつと云えば・・・・・
夏は、竹の皮で梅干を包んだやつを、よく作ってもらった。

「これ喰え、腹こわさねえぞ・・・・・

と、父は庭先の笊に干されたシソの絡まった梅干を、竹の子の皮に「ヒョイ」と包んで。

その時代、横丁と言う横丁でで「ツーーーン」とした梅干の匂いが漂っていた。
昭和三〇年代とは言え、未だどことなく、「戦後」の臭いのする街の風景。
夏休みともなれば近所の同い年同士、七、八人が連れ立って毎日川遊びやら時には近くにある観音山『仙人隠れ』に化石拾い、
沢ガニ捕り、堤防の芝ソリ・・・兎に角遊ぶことには事欠くことはなかった。

そんな時は決まって「味噌ニギリメシ」もちろん梅干入りの。
どう言う訳でいつも味噌ニギリメシだったのかといえば・・・・・あの時代ほとんどの家が麦飯もちろん白米とのミックスだが、
どうやら味噌の粘りが麦飯のツナギになっていたようだ。
それと、茄子、キュウリの糠漬。
「茄子の糠漬」は口ん中を紫にして、中身を穿り返していつまでも、いつまでも食いつづけていた。

腹が減ると、味噌のニギリメシ・・・・・
冬場は、「ジリ焼き」うどん粉に味噌とか、砂糖を少し混ぜて・・・
たまに母親の手が空いたりしていると「炭酸」なんかを入れて、ちょいとフックラさせてくれた。
しかしその炭酸入りの“ジリ焼”、ふっくらするのは良いがその頃のうどん粉が悪いのか炭酸粉が悪いのか、
はたまたオフクロのうどん粉のこね方が拙いのか・・・・・・

よく親父と夕飯かなんかのことで喧嘩をしていたので料理自体がそんなに得意ではなかったようだたのでもしかしたら、
「こねかた」のせいかも知れない。
そのジリ焼に炭酸粉の塊が混ざっていて、それをかじった時の苦いこと苦くないこと大変な思いをしたことを覚えている。

親父が、七輪で「カルメ焼き」なんかもしてくれた。
七輪に真鍮製の柄杓を小さくしたようなお椀状の小鍋。
それをその七輪にかけ、ザラメを入れて小さなすりこ木のようなものでかき混ぜる。
今では、「うどんの手打ち」なんて商売になってるけど、昔は何処ん家も「手打ち」。
僕の家にも今でもあるが、手回しの「うどん鋤機」。

どうせ、水団なんか食わされた時は「米びつ」空っぽだったんだろうね(笑)。

「突貫豆屋」なんて云うのも来た。
大豆を持ってくと、煎餅にしてくれる・・・のとか、今で云う「ポン菓子屋」。
米を2合升ぐらい袋に入れてもってくと「ドカーーーーン」と云う音と共に豆菓子にしてくれる。

小学校の遠足には戦前戦中も戦後も、そして現代も『佐久間のドロップ』・・・・・あの缶のやつだ。
野坂昭如の『ほたるの墓』。セツ子が死ぬまで放さなかった『佐久間のドロップ』。
戦後しばらくは砂糖は統制品。きっと高かたんだろうけど、遠足にはいつもそれをねだった・・・・・・

おまけ付のグリコのキャラメル、森永ミルクキャラメル、もちろん佐久間のドロップもだが、駄菓子屋には売ってなかった。
神田だったろうか、太陽堂だったろうか・・・・・・

紙芝居の、水あめ、べっ甲アメ、ニッキアメ。

紙芝居の小父さん、5円出すと水あめを、薄い煎餅と煎餅で挟んでくれる。
『黄金バット』を見ながら時間の経つのを忘れていた・・・・・

でも、不思議と・・・・・紙芝居屋のおじさん、決まって“色めがね”をかけていたように憶えている。
今にして思えば、その紙芝居屋のおじさん、他人に知られたくない過去があったのかな・・・

朝は、卵屋と納豆屋の売り声で・・・よく目を覚ましたもんだ。
そう云えば3年生くらいまで、毎日のように寝小便をしていたのが恥ずかしい・・・・・

まさかその・・・その僕が、59歳になってるなんて、信じられない。でも事実なのだから仕方が無い。

ゆっくり、マッタリ・・・急がず生きよう・・・


  


Posted by 昭和24歳  at 04:18Comments(2)

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