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2008年04月02日
私は生きている
私は生きている
“リュウ・ミョンスク”
1988年頃から1991年にかけて金日成政治軍事大学において目撃したという証言があるが、北朝鮮側はこれを「事実無根」と否定している――――
1987年“リュウ・ミョンスク”と夫“会社員キム・チョルジュ”との間に長女“キム・ヘギョン”が誕生。
1987年と言えば北朝鮮工作員“金賢姫”を実行犯としての『大韓航空機爆破事件』が同年11月29日、
大韓航空858便をバンコクに向かう途中のベンガル湾上空を飛行中に時限爆弾を爆発させ墜落――――
乗客・乗員115人全員が死亡又は行方不明とした事件と言う国家テロ勃発した年だった。
金賢姫“キム・ヒョンヒ”1961年生まれと“リュウ・ミョンスク”1964年生まれは3歳違い。
この時“リュウ・ミョンスク”は23歳。
金賢姫の日本人化教育係であったとされる女性“李恩恵”こと田口八重子さん1955年生まれ、事件当時31歳とその特殊機関で接点があったと考えられるのは極めて自然である。
そして同じ拉致被害者であった曽我ひとみ“ミン・ヘギョン”は1959年生まれは“リュウ・ミョンスク”と一時期平壌の特殊機関施設で同居と本人自ら語っている。
リュウ・ミョンスク“私は生きている”
横田めぐみさん――――
当時13歳で北朝鮮の工作員数人によって中学下校通学途中に拉致された。
現在メディア等で公表される“横田めぐみさん”の『その後』は、
韓国人拉致被害者の金英男さんとの結婚(1986年)、そして娘キム・ヘギョンさん出産(1987年出産)。
そして、1993年1月29日、鬱病のため夫に連れられ平壌市スンホ(勝湖)区域49予防院に入院、
その後、 同年3月13日午前、同病院内で散歩中、南寿岩主治医が目を離した間に、着物を裂いて松にかけ首を吊って自殺・・・・・
と、そこまでの“フィクション”しか伝えられてはいない。
1993年と言えば、北朝鮮が日本海、その後の報道では三陸沖に向け“ノドン・ミサイル”を試射(同年5月)した年だ。
横田めぐみさんこと“リュウ・ミョンスク”は13歳で拉致され、それ以降北朝鮮政府、特殊機関によってトップレベルの“工作員”に育成されたのではなかったか。
その意味では極めて流暢に“朝鮮語”を話したとされる“リュウ・ミョンスク”。当然その教育機関においては“中学生”であったということからも北朝鮮政府としては・・・・・・
彼女の素養が極めて優秀であった所から政府機関挙げての“英才教育”を施したと考えるのが自然である。
結果、北朝鮮政府としては“リュウ・ミョンスク”が“母親”になることは北朝鮮国家の大きな損失であると考えるに至った。
13歳だった横田めぐみさんは己の“拉致”という悲運に嘆きつつも次第次第に身の処し方を心に決め、
“北朝鮮”と言う国家を知れば知るほどもう二度とは“横田めぐみ”として祖国、日本には戻れないことを覚悟し、“朝鮮民主主義人民共和国”の人間に・・・・・
しかも、特殊機関、工作員になることを多感なある時期決心したのではなかったか。
同じ拉致被害者である蓮池、地村夫妻。そして曽我ひとみさん、田口八重子さんらと接触を重ねる中でよりいっそうその決心を硬くした・・・・・
ひとつには、そうした状況、環境の中日本政府、政党の自分たち拉致被害者に対するあまりもの冷淡さから無力感に襲われ、
そのことが、“北朝鮮人民”として生涯を送ることの決心をさらに強めたのではないか。
北朝鮮政府は如何に日本政府、あるいは当時の自民党、社会党、共産党国会議員のその“拉致”という犯罪に無関心であるだけでなく・・・・・・
日本政府はその被害者たちを“棄民”したかのごとく伝えていたのではないか。
そうした日本政府や国会議員の情勢はその全てを、北朝鮮、訪朝時だけではなく日本国内での言動の全てを承知していたのではないか。
そうした中にも蓮池さん、地村さん、そして曽我さん家族はむしろ北朝鮮の事情、とくに経済的事情からの外交交渉で日本に送り返された。
実際、拉致被害者は北朝鮮の国家テロによって、言うなれば如何なる理由があろうとも日本政府の責任として保護されなければならない立場であるにもかかわらず、
その光景は、金正日将軍が小泉首相との対談の中で自ら“拉致”犯罪を認めながらも・・・・・・
「返していただいた」
かのような政府、日本マスコミの論調に落胆を禁じえなかったのではなかったか。
実際、帰国当時は“一時帰国”との報道もあり、当然、当人、拉致被害者たちも“そのつもり”であったに違いない。
北朝鮮政府は当然、帰国させた家族にはこれまでの日本政府、国会議員の国家的犯罪や恥部を全て伝えているだろう。
「拉致はデッチアゲ!!」
と言っていた、社会党の党首らの面々・・・・・
それと、訪朝しては売国的外交を繰り返してきた政府高官、国会議員の惨状を。
横田めぐみさんは既に何度も北朝鮮工作員として日本に入国しているのではないか。
そのことが、北朝鮮政府が“横田めぐみ”は死亡したと、なにが何でも証明しなければならない国家機密なのではないか。
そうであればあるほどに、夫、“キム・チョルジュ氏”に矛盾だらけの“死亡説”を言わせている・・・・・・
その夫、キム・チョルジュ氏の韓国家族を訪朝させてまでもそのこと、“横田めぐみ”さんの死亡説を立証しようとしている。
おそらく“リュウ・ミョンスク”は何度も祖国の地を踏み、ご両親を見ている・・・・・・
もちろん“テレビ報道”も熟知している。
蓮池さんも、地村さんも、そして曽我さんもそのことは十分承知している。
ましてや日本政府もだ。
問題は、どう“横田めぐみ”さんを生き返らせるか・・・・・・
そしてそのことが、はたして“日朝国交正常化”成立にどう様々な意味で可能か。
もしかしたら、横田めぐみさん“リュウ・ミョンスク”、本人がそれを拒んでいるのかも知れない。
夫、“キム・チョルジュ氏”の言葉どおりだとすれば夫婦、恋人同士であったとしても自身の素性は話し合うことはないのだから。
“リュウ・ミョンスク”は北朝鮮のトップレベルの政府高官、あるいは工作員であるとすれば・・・・・・
“横田めぐみ”さんの死亡説は肯ける。
そして“横田めぐみ”さんばかりではない。
“田口八重子さん”や“有本恵子さん”も・・・・・
「私は生きている」
そんな声が聞こえてならない。
しかし、すっかり沙汰闇ですね・・・・・・
“リュウ・ミョンスク”
1988年頃から1991年にかけて金日成政治軍事大学において目撃したという証言があるが、北朝鮮側はこれを「事実無根」と否定している――――
1987年“リュウ・ミョンスク”と夫“会社員キム・チョルジュ”との間に長女“キム・ヘギョン”が誕生。
1987年と言えば北朝鮮工作員“金賢姫”を実行犯としての『大韓航空機爆破事件』が同年11月29日、
大韓航空858便をバンコクに向かう途中のベンガル湾上空を飛行中に時限爆弾を爆発させ墜落――――
乗客・乗員115人全員が死亡又は行方不明とした事件と言う国家テロ勃発した年だった。
金賢姫“キム・ヒョンヒ”1961年生まれと“リュウ・ミョンスク”1964年生まれは3歳違い。
この時“リュウ・ミョンスク”は23歳。
金賢姫の日本人化教育係であったとされる女性“李恩恵”こと田口八重子さん1955年生まれ、事件当時31歳とその特殊機関で接点があったと考えられるのは極めて自然である。
そして同じ拉致被害者であった曽我ひとみ“ミン・ヘギョン”は1959年生まれは“リュウ・ミョンスク”と一時期平壌の特殊機関施設で同居と本人自ら語っている。
リュウ・ミョンスク“私は生きている”
横田めぐみさん――――
当時13歳で北朝鮮の工作員数人によって中学下校通学途中に拉致された。
現在メディア等で公表される“横田めぐみさん”の『その後』は、
韓国人拉致被害者の金英男さんとの結婚(1986年)、そして娘キム・ヘギョンさん出産(1987年出産)。
そして、1993年1月29日、鬱病のため夫に連れられ平壌市スンホ(勝湖)区域49予防院に入院、
その後、 同年3月13日午前、同病院内で散歩中、南寿岩主治医が目を離した間に、着物を裂いて松にかけ首を吊って自殺・・・・・
と、そこまでの“フィクション”しか伝えられてはいない。
1993年と言えば、北朝鮮が日本海、その後の報道では三陸沖に向け“ノドン・ミサイル”を試射(同年5月)した年だ。
横田めぐみさんこと“リュウ・ミョンスク”は13歳で拉致され、それ以降北朝鮮政府、特殊機関によってトップレベルの“工作員”に育成されたのではなかったか。
その意味では極めて流暢に“朝鮮語”を話したとされる“リュウ・ミョンスク”。当然その教育機関においては“中学生”であったということからも北朝鮮政府としては・・・・・・
彼女の素養が極めて優秀であった所から政府機関挙げての“英才教育”を施したと考えるのが自然である。
結果、北朝鮮政府としては“リュウ・ミョンスク”が“母親”になることは北朝鮮国家の大きな損失であると考えるに至った。
13歳だった横田めぐみさんは己の“拉致”という悲運に嘆きつつも次第次第に身の処し方を心に決め、
“北朝鮮”と言う国家を知れば知るほどもう二度とは“横田めぐみ”として祖国、日本には戻れないことを覚悟し、“朝鮮民主主義人民共和国”の人間に・・・・・
しかも、特殊機関、工作員になることを多感なある時期決心したのではなかったか。
同じ拉致被害者である蓮池、地村夫妻。そして曽我ひとみさん、田口八重子さんらと接触を重ねる中でよりいっそうその決心を硬くした・・・・・
ひとつには、そうした状況、環境の中日本政府、政党の自分たち拉致被害者に対するあまりもの冷淡さから無力感に襲われ、
そのことが、“北朝鮮人民”として生涯を送ることの決心をさらに強めたのではないか。
北朝鮮政府は如何に日本政府、あるいは当時の自民党、社会党、共産党国会議員のその“拉致”という犯罪に無関心であるだけでなく・・・・・・
日本政府はその被害者たちを“棄民”したかのごとく伝えていたのではないか。
そうした日本政府や国会議員の情勢はその全てを、北朝鮮、訪朝時だけではなく日本国内での言動の全てを承知していたのではないか。
そうした中にも蓮池さん、地村さん、そして曽我さん家族はむしろ北朝鮮の事情、とくに経済的事情からの外交交渉で日本に送り返された。
実際、拉致被害者は北朝鮮の国家テロによって、言うなれば如何なる理由があろうとも日本政府の責任として保護されなければならない立場であるにもかかわらず、
その光景は、金正日将軍が小泉首相との対談の中で自ら“拉致”犯罪を認めながらも・・・・・・
「返していただいた」
かのような政府、日本マスコミの論調に落胆を禁じえなかったのではなかったか。
実際、帰国当時は“一時帰国”との報道もあり、当然、当人、拉致被害者たちも“そのつもり”であったに違いない。
北朝鮮政府は当然、帰国させた家族にはこれまでの日本政府、国会議員の国家的犯罪や恥部を全て伝えているだろう。
「拉致はデッチアゲ!!」
と言っていた、社会党の党首らの面々・・・・・
それと、訪朝しては売国的外交を繰り返してきた政府高官、国会議員の惨状を。
横田めぐみさんは既に何度も北朝鮮工作員として日本に入国しているのではないか。
そのことが、北朝鮮政府が“横田めぐみ”は死亡したと、なにが何でも証明しなければならない国家機密なのではないか。
そうであればあるほどに、夫、“キム・チョルジュ氏”に矛盾だらけの“死亡説”を言わせている・・・・・・
その夫、キム・チョルジュ氏の韓国家族を訪朝させてまでもそのこと、“横田めぐみ”さんの死亡説を立証しようとしている。
おそらく“リュウ・ミョンスク”は何度も祖国の地を踏み、ご両親を見ている・・・・・・
もちろん“テレビ報道”も熟知している。
蓮池さんも、地村さんも、そして曽我さんもそのことは十分承知している。
ましてや日本政府もだ。
問題は、どう“横田めぐみ”さんを生き返らせるか・・・・・・
そしてそのことが、はたして“日朝国交正常化”成立にどう様々な意味で可能か。
もしかしたら、横田めぐみさん“リュウ・ミョンスク”、本人がそれを拒んでいるのかも知れない。
夫、“キム・チョルジュ氏”の言葉どおりだとすれば夫婦、恋人同士であったとしても自身の素性は話し合うことはないのだから。
“リュウ・ミョンスク”は北朝鮮のトップレベルの政府高官、あるいは工作員であるとすれば・・・・・・
“横田めぐみ”さんの死亡説は肯ける。
そして“横田めぐみ”さんばかりではない。
“田口八重子さん”や“有本恵子さん”も・・・・・
「私は生きている」
そんな声が聞こえてならない。
しかし、すっかり沙汰闇ですね・・・・・・
2008年04月02日
ママチャリ東京紀行
「ゴールは渋谷の“NHKスタジオパーク”だぞ!」
「わかったっ!!」
4月1日(火)午前4時30分出発。
旅13歳の春休み、ママチャリでの東京渋谷までの一人旅・・・・・・
「つらくなったらすぐにリタイアして帰ってきなさい」
とママ。
実は、綿密に地図上の計画は練ったものの決行すら半信半疑だったし、
完走することはなおさら、
「自転車がパンクしたら電話するから」
そう言うと強風、花冷えのまだ明け白む前の暗闇に向け玲は走り出した。
午後4時を“ゴール時間”に僕は“NHKスタジオパーク”入口前で待つことに・・・・・
期末試験が終わって、中一生活も終わりという頃突然言い出した。
「パパ、春休みどこか行きたい」
「どっかって・・・・・マス釣り、軽井沢、温泉、榛名湖?」
「じゃあなくて、一人で、どこか・・・・・遠くへ行きたい。
部活も、春休み、3日間あるんだ。だからその3日間のうちに・・・・・」
とにかく一人で“群馬県”から出てみたいとか(笑)。
「群馬県から出るのってどのくらいかかる?」
「すぐだよ。自転車で1時間も走ればもう県外だ」
「な~んだ・・・・・じゃあ、どこまで行こうかな・・・・・
東京にしようかな、お姉ちゃんいるし、泊まれるし」
「東京・・・・・100キロあるぞ、100キロ」
「100キロ?100キロって時間どのくらいかかる?」
「そうさなぁ・・・・・・10キロを1時間として10時間・・・・・」
「10キロ1時間?お家からならどのあたりまで?」
「そうさなぁ、前橋なら県民会館あたりまでがちょうど10キロくらいかなぁ・・・・・
ここから往復20キロで2時間。東京だと100キロだから、前橋県民会館を5往復だぞ」
「よ~し、じゃあ、前橋の県民会館まで往復してみて、100キロ走れるかどうか試してみる・・・・・・
できたら東京まで行ってもいい?」
「だって、東京へ行くのはいいけど帰りはどうするの?
帰りを考えたら往復200キロだぞ、200キロ、しんどくないかぁ?」
「帰りは、パパ、迎えに来てよ車で・・・・・・」
まあそんなこんなでまず前橋の県民会館往復で“東京自転車旅行”の可能性を確かめることにした。
自宅から県民会館までの走行路をネットで検索して約10キロ・・・・・
その翌日、部活から帰ると実行した。
「きつくなかったよ。ちょうど往復2時間・・・・・
これを4往復か。だいじょうぶ、できる、パパ、行っていいでしょ東京」
「よし、いいよ。そのかわり目的地を決めて時間もちゃんと決めてその通り実行できるなら・・・・・」
「わかった。パパ、地図作って東京までの」
目的地を東京都庁にしたいと玲は言ったが、あのあたり無茶苦茶道がややこしいし、
それに高速道路の入出路も入り組んでいてとてもじゃあないが自転車じゃあ危険。
そこで、わかりやすいといえばわかりやすい渋谷の“NHK”、代々木公園入口、渋谷公会堂の交差点のところ、
“NHKスタジオパーク”入口前にした。

高崎-倉賀野-新町-本庄-深谷-熊谷-吹上-桶川-鴻巣-上尾-大宮-浦和-戸田
-板橋-東中野-初台-渋谷
ほぼ10キロごとに地図をプリントアウトしてチェック。

午前4時半に玲は出発。
その3時間後僕は車で出発、玲の道順をなぞることにした。
もしかしたら籠原あたりの中仙道沿いでくたびれてへたりこんでいるいたししているのではないかということを期待して(笑)。
新町の自衛隊前、神保原、本庄、深谷、そして籠原・・・・・
ここいらが40キロ地点で午前4時半から4時間。車の時計は8時半、
TBSラジオの大沢悠里がなにやら話し始めている・・・・・どうやら無事通過しているらしい。
熊谷駅前、ものすごい強風で人気もまばら・・・・・・
行田を過ぎて旧中山道を吹上方面に行く、吹上市街地、なぜか渋滞・・・・・
すると数十メートル先に見かけた“ママチャリ”が走っている!!
玲だ!!
しかし渋滞。見失ってしまった。
旧中山道を大宮までは走ることにしていた。吹上まで約58キロ。
娘、玲の姿を発見しただけでも一安心だった。
鴻巣あたりで渋滞も解けて道順を追ったが玲の姿は見つからない。
上尾の駅前で家に電話したが、
「ぜんぜん電話ないよ」と、ママ。
宮原、大宮西口。ここで写真をとるとか言っていたから15分ほど駅前で待つが見えない。
浦和県庁前、もうすぐ戸田橋。20分ほど戸田橋で待つが・・・・・
僕は心配になって浦和方面にきた道を引き返すが・・・・・・
するとママから電話、「今大宮に着いた」って。
そうか、それじゃあ戸田橋のところで待つことにしようと戸田橋まで引き返すが、
依然としてもう50分も待つのに見えない。また引き返す・・・・・
蕨から東京外環近くで発見!!
そのまま見守る・・・・・戸田橋を渡る玲、颯爽と走っているではないか・・・・・
志村坂下、板橋本町を・・・・・
板橋本町、板橋ジャンクション下で旧中山道から山手通りへ入ることになっている。
その交差点で待つ玲、そして僕は山手通りへ向かうために直進路に、横断路が青、直進は赤・・・・・
僕は地下道で山手通りに出て路側で玲を待つが10分待っても、20分待っても・・・・・・
多分もう山手通りを渋谷方面に向かっているのだろう・・・・・
その山手通りは工事渋滞がひどく、それにその路側を走る玲を見つけるのもとてもじゃあないが無理。
ママに電話して、「玲から電話があったらNHK前で待っているから」って言っとくように伝言。
東中野駅のところでしばし待つが、来ない。
初台、巨大なNTT東日本本社を見上げつつ待つが来ない・・・・・・
甲州街道を代々木方面に下る。やはり工事渋滞は続く。午後3時山手通りを井の頭通りに左折。
渋谷区役所前、NHK正門、代々木公園入口に到着待つこと30分。渋谷公会堂の時計は4時を指している。
相変わらず路駐無法地帯に上手くもぐりこみその交差点を行ったり来たり・・・・・
ママに電話、「電話ないよ。もうすぐ着くんじゃあないの」と至って平然。
「へぇ、玲、東京に着いたんだ。すごいじゃない!!」
と、心配するどころか感激までしている様子。
「オイオイ、そんなこと言って、このまま来なかったらどうするんだ」
「だいじょうぶよ、迷子になれば電話くるから、そしてらそこまで迎えに行ってやって」
そういえば、ママも玲も血液型はB型だった。
とうとう、渋谷公会堂の時計は4時半・・・・・・
すると、NHKセンター下交差点のほうから玲が・・・・・・
「遅かったじゃないか・・・・・・」
「えっ、なんで、だいたい時間通りじゃない。ほら4時45分。
山手通り行き過ぎて東大駒場のところまで行っちゃった。こんなところに東大あったんだ」
「迷子になったんじゃあないかと心配したぞ」
「大丈夫だよ。地図どおりにちゃんと来れたから・・・・・
パパ、お腹すいた。あっ、たこ焼き食べたい!!」
自転車を車に積み込む。
「パパ、原宿ってどこ?」
「すぐそこだよ。寄ってくか?つまんねえぞ・・・・・」
「いいよ、寄ってく、話の種だよ」
原宿駅前路上Pに駐車、Jウォークで竹下通りに・・・・・
キディランドに寄ったがあまりの混雑にすぐ出る。表参道をブラリ。
「ただ人が多いだけで、高崎祭りと変わりないね。
パパ、お腹すいたよ。早くあのラーメン食べにいこ」
東京の三大ラーメン!!
もちろん僕の独断と偏見だが。
目白の“丸長”、早稲田の“えぞ菊”、そして恵比寿の“香月”
その三軒とも玲は何度か行ったことがある・・・・・
“丸長”は3時までの営業だし、“めのこ”、それとも“かづき”?
「“えぞ菊”がいい!!」
と言うことで、明治通りを新宿方面に・・・・・・
「へぇ、東京にも高島屋ってあったんだ、あっビックカメラもある。あっ都庁だ、都庁!!
写真撮ったんだ、都庁!!」
「なんだ、寄り道していて遅くなったのか・・・・・」
「埼玉アリーナも撮っちゃった(笑)」
つまり僕の心配をよそに当人、結構一人旅を楽しんだのだった。
高田馬場二丁目交差点を右折、左側にカウンターだけの小さな“えぞ菊”。
「あたし、味噌ラーメン。パパは?」
「そうだなぁ、野菜大盛りの味噌ラーメンにしよっかな!!」
時計はすでに7時を回っていた・・・・・
「パパ、家には何時頃着く?」
そう聞くと玲は寝息を立て始めていた。
それにしても、“高崎-東京”、自転車でよく走ったな。
「友達に話したら、誰も信じなかったけど・・・・・
でも、本当に東京まで自転車で行けたらなんか・・・・・自信になる・・・・・
それに、部活の筋トレにもなるしね」
そう言っていた玲・・・・・・
中一の春休み、きっといい思い出づくりになったろう。
「わかったっ!!」
4月1日(火)午前4時30分出発。
旅13歳の春休み、ママチャリでの東京渋谷までの一人旅・・・・・・
「つらくなったらすぐにリタイアして帰ってきなさい」
とママ。
実は、綿密に地図上の計画は練ったものの決行すら半信半疑だったし、
完走することはなおさら、
「自転車がパンクしたら電話するから」
そう言うと強風、花冷えのまだ明け白む前の暗闇に向け玲は走り出した。
午後4時を“ゴール時間”に僕は“NHKスタジオパーク”入口前で待つことに・・・・・
期末試験が終わって、中一生活も終わりという頃突然言い出した。
「パパ、春休みどこか行きたい」
「どっかって・・・・・マス釣り、軽井沢、温泉、榛名湖?」
「じゃあなくて、一人で、どこか・・・・・遠くへ行きたい。
部活も、春休み、3日間あるんだ。だからその3日間のうちに・・・・・」
とにかく一人で“群馬県”から出てみたいとか(笑)。
「群馬県から出るのってどのくらいかかる?」
「すぐだよ。自転車で1時間も走ればもう県外だ」
「な~んだ・・・・・じゃあ、どこまで行こうかな・・・・・
東京にしようかな、お姉ちゃんいるし、泊まれるし」
「東京・・・・・100キロあるぞ、100キロ」
「100キロ?100キロって時間どのくらいかかる?」
「そうさなぁ・・・・・・10キロを1時間として10時間・・・・・」
「10キロ1時間?お家からならどのあたりまで?」
「そうさなぁ、前橋なら県民会館あたりまでがちょうど10キロくらいかなぁ・・・・・
ここから往復20キロで2時間。東京だと100キロだから、前橋県民会館を5往復だぞ」
「よ~し、じゃあ、前橋の県民会館まで往復してみて、100キロ走れるかどうか試してみる・・・・・・
できたら東京まで行ってもいい?」
「だって、東京へ行くのはいいけど帰りはどうするの?
帰りを考えたら往復200キロだぞ、200キロ、しんどくないかぁ?」
「帰りは、パパ、迎えに来てよ車で・・・・・・」
まあそんなこんなでまず前橋の県民会館往復で“東京自転車旅行”の可能性を確かめることにした。
自宅から県民会館までの走行路をネットで検索して約10キロ・・・・・
その翌日、部活から帰ると実行した。
「きつくなかったよ。ちょうど往復2時間・・・・・
これを4往復か。だいじょうぶ、できる、パパ、行っていいでしょ東京」
「よし、いいよ。そのかわり目的地を決めて時間もちゃんと決めてその通り実行できるなら・・・・・」
「わかった。パパ、地図作って東京までの」
目的地を東京都庁にしたいと玲は言ったが、あのあたり無茶苦茶道がややこしいし、
それに高速道路の入出路も入り組んでいてとてもじゃあないが自転車じゃあ危険。
そこで、わかりやすいといえばわかりやすい渋谷の“NHK”、代々木公園入口、渋谷公会堂の交差点のところ、
“NHKスタジオパーク”入口前にした。

高崎-倉賀野-新町-本庄-深谷-熊谷-吹上-桶川-鴻巣-上尾-大宮-浦和-戸田
-板橋-東中野-初台-渋谷
ほぼ10キロごとに地図をプリントアウトしてチェック。

午前4時半に玲は出発。
その3時間後僕は車で出発、玲の道順をなぞることにした。
もしかしたら籠原あたりの中仙道沿いでくたびれてへたりこんでいるいたししているのではないかということを期待して(笑)。
新町の自衛隊前、神保原、本庄、深谷、そして籠原・・・・・
ここいらが40キロ地点で午前4時半から4時間。車の時計は8時半、
TBSラジオの大沢悠里がなにやら話し始めている・・・・・どうやら無事通過しているらしい。
熊谷駅前、ものすごい強風で人気もまばら・・・・・・
行田を過ぎて旧中山道を吹上方面に行く、吹上市街地、なぜか渋滞・・・・・
すると数十メートル先に見かけた“ママチャリ”が走っている!!
玲だ!!
しかし渋滞。見失ってしまった。
旧中山道を大宮までは走ることにしていた。吹上まで約58キロ。
娘、玲の姿を発見しただけでも一安心だった。
鴻巣あたりで渋滞も解けて道順を追ったが玲の姿は見つからない。
上尾の駅前で家に電話したが、
「ぜんぜん電話ないよ」と、ママ。
宮原、大宮西口。ここで写真をとるとか言っていたから15分ほど駅前で待つが見えない。
浦和県庁前、もうすぐ戸田橋。20分ほど戸田橋で待つが・・・・・
僕は心配になって浦和方面にきた道を引き返すが・・・・・・
するとママから電話、「今大宮に着いた」って。
そうか、それじゃあ戸田橋のところで待つことにしようと戸田橋まで引き返すが、
依然としてもう50分も待つのに見えない。また引き返す・・・・・
蕨から東京外環近くで発見!!
そのまま見守る・・・・・戸田橋を渡る玲、颯爽と走っているではないか・・・・・
志村坂下、板橋本町を・・・・・
板橋本町、板橋ジャンクション下で旧中山道から山手通りへ入ることになっている。
その交差点で待つ玲、そして僕は山手通りへ向かうために直進路に、横断路が青、直進は赤・・・・・
僕は地下道で山手通りに出て路側で玲を待つが10分待っても、20分待っても・・・・・・
多分もう山手通りを渋谷方面に向かっているのだろう・・・・・
その山手通りは工事渋滞がひどく、それにその路側を走る玲を見つけるのもとてもじゃあないが無理。
ママに電話して、「玲から電話があったらNHK前で待っているから」って言っとくように伝言。
東中野駅のところでしばし待つが、来ない。
初台、巨大なNTT東日本本社を見上げつつ待つが来ない・・・・・・
甲州街道を代々木方面に下る。やはり工事渋滞は続く。午後3時山手通りを井の頭通りに左折。
渋谷区役所前、NHK正門、代々木公園入口に到着待つこと30分。渋谷公会堂の時計は4時を指している。
相変わらず路駐無法地帯に上手くもぐりこみその交差点を行ったり来たり・・・・・
ママに電話、「電話ないよ。もうすぐ着くんじゃあないの」と至って平然。
「へぇ、玲、東京に着いたんだ。すごいじゃない!!」
と、心配するどころか感激までしている様子。
「オイオイ、そんなこと言って、このまま来なかったらどうするんだ」
「だいじょうぶよ、迷子になれば電話くるから、そしてらそこまで迎えに行ってやって」
そういえば、ママも玲も血液型はB型だった。
とうとう、渋谷公会堂の時計は4時半・・・・・・
すると、NHKセンター下交差点のほうから玲が・・・・・・
「遅かったじゃないか・・・・・・」
「えっ、なんで、だいたい時間通りじゃない。ほら4時45分。
山手通り行き過ぎて東大駒場のところまで行っちゃった。こんなところに東大あったんだ」
「迷子になったんじゃあないかと心配したぞ」
「大丈夫だよ。地図どおりにちゃんと来れたから・・・・・
パパ、お腹すいた。あっ、たこ焼き食べたい!!」
自転車を車に積み込む。
「パパ、原宿ってどこ?」
「すぐそこだよ。寄ってくか?つまんねえぞ・・・・・」
「いいよ、寄ってく、話の種だよ」
原宿駅前路上Pに駐車、Jウォークで竹下通りに・・・・・
キディランドに寄ったがあまりの混雑にすぐ出る。表参道をブラリ。
「ただ人が多いだけで、高崎祭りと変わりないね。
パパ、お腹すいたよ。早くあのラーメン食べにいこ」
東京の三大ラーメン!!
もちろん僕の独断と偏見だが。
目白の“丸長”、早稲田の“えぞ菊”、そして恵比寿の“香月”
その三軒とも玲は何度か行ったことがある・・・・・
“丸長”は3時までの営業だし、“めのこ”、それとも“かづき”?
「“えぞ菊”がいい!!」
と言うことで、明治通りを新宿方面に・・・・・・
「へぇ、東京にも高島屋ってあったんだ、あっビックカメラもある。あっ都庁だ、都庁!!
写真撮ったんだ、都庁!!」
「なんだ、寄り道していて遅くなったのか・・・・・」
「埼玉アリーナも撮っちゃった(笑)」
つまり僕の心配をよそに当人、結構一人旅を楽しんだのだった。
高田馬場二丁目交差点を右折、左側にカウンターだけの小さな“えぞ菊”。
「あたし、味噌ラーメン。パパは?」
「そうだなぁ、野菜大盛りの味噌ラーメンにしよっかな!!」
時計はすでに7時を回っていた・・・・・
「パパ、家には何時頃着く?」
そう聞くと玲は寝息を立て始めていた。
それにしても、“高崎-東京”、自転車でよく走ったな。
「友達に話したら、誰も信じなかったけど・・・・・
でも、本当に東京まで自転車で行けたらなんか・・・・・自信になる・・・・・
それに、部活の筋トレにもなるしね」
そう言っていた玲・・・・・・
中一の春休み、きっといい思い出づくりになったろう。