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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーション  at 

2008年04月08日

“想い出のサンフランシスコ”




中学3年の頃か、同級生で「花街の母」をもつハイカラな「小林君」と云うやつが居た。
そいつん家には、蓄音機どころか「ステレオ」なる物があった。レコードもぎっしり、どういうわけかオール洋モノ。

フランクシナトラ、パットブーン、ブレンダリー。

それはフォークソングとはこれまた、全く違った世界。
確かに“チューチュートレイン”の二―ルセダカも、ダイアナのポールアンカも良かったが・・・・・

“シナトラ”

・・・・・・それは大人の匂いがした。

別に英語が得意であったわけではない僕だったが、
その“シナトラ”の「想い出のサンフランシスコ」はあっという間に空で覚えてしまった。
「三つ子の魂百まで」・・・・・今でも一語一句覚えている。

小林君は病がちでよく学校を休んだ。色々分けがあったのだろうが「虐め」にもあっていた。
実は小林君は一年ほど休学して「一中」から転向してきた。どうも一中では相当の虐めにあったようだ。

小林君は大のプロレスファンで、中でも「力道山」の大ファンだった。
しかし、その年、中学3年の時「力道山」が刺されて死んでしまい、悲嘆に暮れつづけた小林君だった。

その年はいろいろなことがあった・・・・・・
アメリカ大統領JFケネディが暗殺され、ベトナム戦争の煙を見せ始めた「トンキン湾事件」、
ソ連の有人宇宙飛行ガガーリン大佐の「地球は蒼かった」と時代は刻々と移ろいを鮮明にし始めていた頃だった。

何で「想い出のサンフランシスコ」だったんだろうか。しかもフランクシナトラのそれ。 
トニー・ベネット、ブレンダ・リーも歌っていたのだが、やはり一番最初に聴いたからなのだろうか。



昭和五二年一月、僕は仕事を兼ねて初めてのアメリカ旅行をした。
LAでの全米楽器ショー、通称「NAMM」と言われているコンベンションなのだが、
その合い間を縫ってサンフランシスコへ一泊で遊びに行った。

LAからは丁度、東京大阪くらいの距離だろうか、飛行機で小一時間でサンフランシスコのは着いた。
行き当たりばったりのサンフランシスコ・・・・・
ホテルはチャイナタウンの近くに取り、日長、ケーブルカーに楽器屋巡りにと結構楽しんだ。

僕はサンフランシスコのダウンタウンのギターショップで中古の「レスポール」のゴールドトップを買った。
無茶苦茶重たい奴だったが。たしか四〇〇ドルくらいだったと思う。
それでも日本で買えば中古でも三十万円近くはしただろう品物だった。

僕はそのレスポールを抱えてゴールデンゲートブリッジの袂にあるフィッシャーマンズワーフに行った。

やっと夢がかなったと思うと小躍りしたいくらいに気持ちが高ぶった。

♪アイ・レフト・マイハート・・・イン・サンフランシスコ♪

そのレスポールをケースから取り出すと僕はネックに耳を当てながらそう、呟くように唄った。
フィッシャーマンズワーフ名物の茹でたてのクラブを頬張りながら。



「想い出のサンフランシスコ」と言えば、
昭和47年頃、キャバレーニュージャパンのビッグショーで来た「勝新太郎」のそれ。
今までのどの「思い出のサンフランシスコ」よりも絶品だった。

そう言えば、バンドへの「プーチ」も、タダモノではなかった・・・・・

“勝新太郎”

だった・・・・・・



それはそうと、あの、花街の母の「小林君」。今頃どうしているだろうか。

相変わらず、洋楽を楽しんでいるだろうか・・・・・・   


Posted by 昭和24歳  at 19:22Comments(0)

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