2008年04月22日
サッカリン
サッカリン
自転車の荷台に水色の・・・・・
所々、塗料の剥げた水色の箱に“アイスキャンディー”と書かれている。
これまた幟旗も水色で“アイスキャンディー”・・・と白抜きで。
おじさんが「チリ~ン、チリ~ン」と鐘を鳴らしながら・・・
それは“サッカリン”を水に溶かして凍らせたやつ・・・・・昭和三〇年代初めの真夏の「風物」。
たらたらと、落ちる“アイスキャンディー”の水滴を恨めしく思って、下の方を舐めようとすると、間の悪い時には、
上のほうが「ポトリ」と地面に・・・・・
「あ~っ、僕は何と運の悪い男なのだ」
と、子どもながらに、そう思った「麦藁帽子の夏休み」。
地面に落っこちたアイスキャンディーは見る見るそこにしみ込んでいく。
しばらくするとありんこがアイスキャンディーの黒い染みに集っている。
〈あ~あっ、もったいねぇ〉
たしか、五円だっただろうか。
やっとの思いで母ちゃんにねだって貰った小遣い。そう簡単にあきらめ切れるものではなかった。
あの頃の「五円」と言えば大金だ。
今ではそこいら辺の駄菓子屋でもアイスキャンディー・・・・・・
もちろん甘味はサッカリンなんかではないが“ガリガリ君”、一本六〇円はする。
なにせ親父の月給が一万円そこそこの頃だろう。
僕は一人っ子みたいなもんだったのでヘマさえしなければ一本丸ごと一人で食えたのだが、
兄弟姉妹三人も四人もいれば一本のアイスキャンディーを喧嘩騒ぎで食わなければならないのだから、
僕の落っことした“アイスキャンディー”がいかに貴重なものであったかがわかる。
味噌おにぎり
そうだ、おやつと云えば・・・・・
夏は、竹の皮で梅干を包んだやつを、よく作ってもらった。
「これ喰え、腹こわさねえぞ・・・・・
」
と、父は庭先の笊に干されたシソの絡まった梅干を、竹の子の皮に「ヒョイ」と包んで。
その時代、横丁と言う横丁でで「ツーーーン」とした梅干の匂いが漂っていた。
昭和三〇年代とは言え、未だどことなく、「戦後」の臭いのする街の風景。
夏休みともなれば近所の同い年同士、七、八人が連れ立って毎日川遊びやら時には近くにある観音山『仙人隠れ』に化石拾い、
沢ガニ捕り、堤防の芝ソリ・・・兎に角遊ぶことには事欠くことはなかった。
そんな時は決まって「味噌ニギリメシ」もちろん梅干入りの。
どう言う訳でいつも味噌ニギリメシだったのかといえば・・・・・あの時代ほとんどの家が麦飯もちろん白米とのミックスだが、
どうやら味噌の粘りが麦飯のツナギになっていたようだ。
それと、茄子、キュウリの糠漬。
「茄子の糠漬」は口ん中を紫にして、中身を穿り返していつまでも、いつまでも食いつづけていた。
腹が減ると、味噌のニギリメシ・・・・・
冬場は、「ジリ焼き」うどん粉に味噌とか、砂糖を少し混ぜて・・・
たまに母親の手が空いたりしていると「炭酸」なんかを入れて、ちょいとフックラさせてくれた。
しかしその炭酸入りの“ジリ焼”、ふっくらするのは良いがその頃のうどん粉が悪いのか炭酸粉が悪いのか、
はたまたオフクロのうどん粉のこね方が拙いのか・・・・・・
よく親父と夕飯かなんかのことで喧嘩をしていたので料理自体がそんなに得意ではなかったようだたのでもしかしたら、
「こねかた」のせいかも知れない。
そのジリ焼に炭酸粉の塊が混ざっていて、それをかじった時の苦いこと苦くないこと大変な思いをしたことを覚えている。
親父が、七輪で「カルメ焼き」なんかもしてくれた。
七輪に真鍮製の柄杓を小さくしたようなお椀状の小鍋。
それをその七輪にかけ、ザラメを入れて小さなすりこ木のようなものでかき混ぜる。
今では、「うどんの手打ち」なんて商売になってるけど、昔は何処ん家も「手打ち」。
僕の家にも今でもあるが、手回しの「うどん鋤機」。
どうせ、水団なんか食わされた時は「米びつ」空っぽだったんだろうね(笑)。
「突貫豆屋」なんて云うのも来た。
大豆を持ってくと、煎餅にしてくれる・・・のとか、今で云う「ポン菓子屋」。
米を2合升ぐらい袋に入れてもってくと「ドカーーーーン」と云う音と共に豆菓子にしてくれる。
小学校の遠足には戦前戦中も戦後も、そして現代も『佐久間のドロップ』・・・・・あの缶のやつだ。
野坂昭如の『ほたるの墓』。セツ子が死ぬまで放さなかった『佐久間のドロップ』。
戦後しばらくは砂糖は統制品。きっと高かたんだろうけど、遠足にはいつもそれをねだった・・・・・・
おまけ付のグリコのキャラメル、森永ミルクキャラメル、もちろん佐久間のドロップもだが、駄菓子屋には売ってなかった。
神田だったろうか、太陽堂だったろうか・・・・・・
紙芝居の、水あめ、べっ甲アメ、ニッキアメ。
紙芝居の小父さん、5円出すと水あめを、薄い煎餅と煎餅で挟んでくれる。
『黄金バット』を見ながら時間の経つのを忘れていた・・・・・
でも、不思議と・・・・・紙芝居屋のおじさん、決まって“色めがね”をかけていたように憶えている。
今にして思えば、その紙芝居屋のおじさん、他人に知られたくない過去があったのかな・・・
朝は、卵屋と納豆屋の売り声で・・・よく目を覚ましたもんだ。
そう云えば3年生くらいまで、毎日のように寝小便をしていたのが恥ずかしい・・・・・
まさかその・・・その僕が、59歳になってるなんて、信じられない。でも事実なのだから仕方が無い。
ゆっくり、マッタリ・・・急がず生きよう・・・
自転車の荷台に水色の・・・・・
所々、塗料の剥げた水色の箱に“アイスキャンディー”と書かれている。
これまた幟旗も水色で“アイスキャンディー”・・・と白抜きで。
おじさんが「チリ~ン、チリ~ン」と鐘を鳴らしながら・・・
それは“サッカリン”を水に溶かして凍らせたやつ・・・・・昭和三〇年代初めの真夏の「風物」。
たらたらと、落ちる“アイスキャンディー”の水滴を恨めしく思って、下の方を舐めようとすると、間の悪い時には、
上のほうが「ポトリ」と地面に・・・・・
「あ~っ、僕は何と運の悪い男なのだ」
と、子どもながらに、そう思った「麦藁帽子の夏休み」。
地面に落っこちたアイスキャンディーは見る見るそこにしみ込んでいく。
しばらくするとありんこがアイスキャンディーの黒い染みに集っている。
〈あ~あっ、もったいねぇ〉
たしか、五円だっただろうか。
やっとの思いで母ちゃんにねだって貰った小遣い。そう簡単にあきらめ切れるものではなかった。
あの頃の「五円」と言えば大金だ。
今ではそこいら辺の駄菓子屋でもアイスキャンディー・・・・・・
もちろん甘味はサッカリンなんかではないが“ガリガリ君”、一本六〇円はする。
なにせ親父の月給が一万円そこそこの頃だろう。
僕は一人っ子みたいなもんだったのでヘマさえしなければ一本丸ごと一人で食えたのだが、
兄弟姉妹三人も四人もいれば一本のアイスキャンディーを喧嘩騒ぎで食わなければならないのだから、
僕の落っことした“アイスキャンディー”がいかに貴重なものであったかがわかる。
味噌おにぎり
そうだ、おやつと云えば・・・・・
夏は、竹の皮で梅干を包んだやつを、よく作ってもらった。
「これ喰え、腹こわさねえぞ・・・・・
」
と、父は庭先の笊に干されたシソの絡まった梅干を、竹の子の皮に「ヒョイ」と包んで。
その時代、横丁と言う横丁でで「ツーーーン」とした梅干の匂いが漂っていた。
昭和三〇年代とは言え、未だどことなく、「戦後」の臭いのする街の風景。
夏休みともなれば近所の同い年同士、七、八人が連れ立って毎日川遊びやら時には近くにある観音山『仙人隠れ』に化石拾い、
沢ガニ捕り、堤防の芝ソリ・・・兎に角遊ぶことには事欠くことはなかった。
そんな時は決まって「味噌ニギリメシ」もちろん梅干入りの。
どう言う訳でいつも味噌ニギリメシだったのかといえば・・・・・あの時代ほとんどの家が麦飯もちろん白米とのミックスだが、
どうやら味噌の粘りが麦飯のツナギになっていたようだ。
それと、茄子、キュウリの糠漬。
「茄子の糠漬」は口ん中を紫にして、中身を穿り返していつまでも、いつまでも食いつづけていた。
腹が減ると、味噌のニギリメシ・・・・・
冬場は、「ジリ焼き」うどん粉に味噌とか、砂糖を少し混ぜて・・・
たまに母親の手が空いたりしていると「炭酸」なんかを入れて、ちょいとフックラさせてくれた。
しかしその炭酸入りの“ジリ焼”、ふっくらするのは良いがその頃のうどん粉が悪いのか炭酸粉が悪いのか、
はたまたオフクロのうどん粉のこね方が拙いのか・・・・・・
よく親父と夕飯かなんかのことで喧嘩をしていたので料理自体がそんなに得意ではなかったようだたのでもしかしたら、
「こねかた」のせいかも知れない。
そのジリ焼に炭酸粉の塊が混ざっていて、それをかじった時の苦いこと苦くないこと大変な思いをしたことを覚えている。
親父が、七輪で「カルメ焼き」なんかもしてくれた。
七輪に真鍮製の柄杓を小さくしたようなお椀状の小鍋。
それをその七輪にかけ、ザラメを入れて小さなすりこ木のようなものでかき混ぜる。
今では、「うどんの手打ち」なんて商売になってるけど、昔は何処ん家も「手打ち」。
僕の家にも今でもあるが、手回しの「うどん鋤機」。
どうせ、水団なんか食わされた時は「米びつ」空っぽだったんだろうね(笑)。
「突貫豆屋」なんて云うのも来た。
大豆を持ってくと、煎餅にしてくれる・・・のとか、今で云う「ポン菓子屋」。
米を2合升ぐらい袋に入れてもってくと「ドカーーーーン」と云う音と共に豆菓子にしてくれる。
小学校の遠足には戦前戦中も戦後も、そして現代も『佐久間のドロップ』・・・・・あの缶のやつだ。
野坂昭如の『ほたるの墓』。セツ子が死ぬまで放さなかった『佐久間のドロップ』。
戦後しばらくは砂糖は統制品。きっと高かたんだろうけど、遠足にはいつもそれをねだった・・・・・・
おまけ付のグリコのキャラメル、森永ミルクキャラメル、もちろん佐久間のドロップもだが、駄菓子屋には売ってなかった。
神田だったろうか、太陽堂だったろうか・・・・・・
紙芝居の、水あめ、べっ甲アメ、ニッキアメ。
紙芝居の小父さん、5円出すと水あめを、薄い煎餅と煎餅で挟んでくれる。
『黄金バット』を見ながら時間の経つのを忘れていた・・・・・
でも、不思議と・・・・・紙芝居屋のおじさん、決まって“色めがね”をかけていたように憶えている。
今にして思えば、その紙芝居屋のおじさん、他人に知られたくない過去があったのかな・・・
朝は、卵屋と納豆屋の売り声で・・・よく目を覚ましたもんだ。
そう云えば3年生くらいまで、毎日のように寝小便をしていたのが恥ずかしい・・・・・
まさかその・・・その僕が、59歳になってるなんて、信じられない。でも事実なのだから仕方が無い。
ゆっくり、マッタリ・・・急がず生きよう・・・
Posted by 昭和24歳
at 04:18
│Comments(2)
おにぎりを持って、山菜取りをかねて・・・帰りは観音様のところの知り合いのお見せによって・・・味噌おでんが美味しかったぁ~!!!
そして、納豆屋さん・・・日曜日の朝、‘なっといかがでしょうか~ん’色黒の小さなおばあちゃんが籠を持って売りに来てました・・・!子供の頃の大切な思い出の一つです・・・!
僕の家の近くで卵を仕入れて、竹でできた乳母車に納豆と卵をいっぱいのせて。
今でも目に浮びます(笑)。