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2018年04月03日
高砂町(下)は新興住宅地と職人街。
高砂町(下)は新興住宅地と職人街。

昭和26年春も宵。
高砂町(下)は所謂、「職人街」とでも言うのだろうか。
戦後になって賑やかになって来たその頃の新興住宅地。まあ住宅地とは言っても裏通り、路地は戦後、横丁のことだ。
建付けのあまりよろしくない二軒長屋や、建増し、建増しの、取って付けたようなアパートと言うよりは間貸しがそのほとんどだった。
そんな、良くて六畳一間に、共同炊事場、共同便所の間貸し。下手をするとそこに親子七人、八人と言うのもけして珍しい話ではなかった。
それはもう、五月蝿いの五月蝿くないのと来たら今の「ガキ連中」の比ではない。
洋服の仕立職人、パチンコ屋の店員、繊維問屋の番頭さん、中には「県土木高崎出張所長」なんて言う総勢一〇人家族のような間借り人もいた。
今では県職員、いわゆる公務員ともなれば「エリート」なのだろうが。
そんな高砂町の横丁。表通りには高崎の近郷近在から高崎へ奉公に出て一人前に仕上がり、やがて独立し、店や細工場、工場を構えた明治後期から大正一桁世代が腕を競う、そんな職人街だった。
そうだ―――
そんな職人の中にも紫綬褒章かなんかは知らないが、お宮を作らせたら天下一と言った、そんな名人「匠」もこの横丁には居られた。今では、息子さんが跡を継いではいるが、はたしてどんな物か。お人柄のお噂は聞くが、その腕の実力のほどを耳にすることはない。
もっとも、その跡取職人の兄さん、昭和20年生れで、僕らは町内野球などで随分と世話になった。
まあ、商店街と言ったところで老舗は若い番地から戦時中は栄えたであろう旗屋、肥料屋、酒屋くらいのところだっただろうか。
高砂町を南北に分ける「長野堰」、その西側の末広町まで染物職人が忙しそうにしていた。この界隈、山田町、椿町、九蔵町と古くから商う紺屋が数軒あった。
高砂町一番地は館林財閥の「日清製粉高崎工場」の正門通路と、高崎市立東小学校の裏門のところから始る。
それは、そこ東二条通、辻角の「山田畳店」から始まるのだ。
僕が小学生の頃は日清製粉テニスコートを覗く裏辻までイ草の匂いをさせながら工場は細長く畳表を織っていた。
ここに云う、高砂町の横丁その「山田畳店」から東二条通りを五本辻へ凡そ、2百メートルほどのアヴェニュー、表通りと裏通り、路地をいっているのである。
今はその畳屋の親方の面影は何処にも見えない。
たしか、一男三女がいて長男が辻角で「山田歯科医院」を営んでいた。とっくの昔に閉院している。
僕が小学生低学年の頃は大宮の方へ嫁いだ長女の息子が夏休みともなると「都会」の趣で、大宮だが何故かその頃は「東京の寛(カンちゃん)」と、呼ばれ近所の「ガキ」連中を羨望させていた。たしか、その親方の孫にあたる少年を「寛ちゃん」と呼んでよく遊んだ。
次女は後に、僕等、東小学校の教師として赴任してくるのだが、「山田先生」と畏怖されていたような記憶がある。兎に角あの頃の先生は別に山田先生に限らず「怖かった」。
詳細は知らないがその山田歯科医院と軒を並べ、一時だが一盃飲み屋があった、その隣も「大塚」さんと云う「赤提灯」があったのを憶えている。
昭和30年前後のことだ、朝鮮戦争特需でかつての軍需工場「小島機械、水島鉄工所」それと高砂町五本辻の「魚市場」。夕方ともなると三々五々そこに働く、まあ「寅さん風」に言うなら「労働者諸君」だろう、肉体疲労を癒す為か、精神疲労を癒す為か、ひきも切らない酔客の喧騒が時代を映していた。
その高砂町のとっつきも此度のバブルの崩壊とやらか、先の館林財閥、正田家の「日清製粉高崎工場」も移転、取壊し。そして市街地再開発とやらで、商社「丸紅」と「東京建物」合作の超高層マンション、それも三棟七百世帯と言った夢のような都市計画、哀れにも頓挫。
結局、そこに生まれ育った僕らはお国のためじゃあないが「都市計画ご協力を」で追われるようにしてその横丁を出た。
横丁の面影すらない僕の「そこ」―――
しかし、そこにそんな「横丁」があったことすらもう誰も知らないかも知れない。それは「昭和の残像」。
僕らが終われば、それを語る者もなく全てが終わるのだろうか。
高砂町(下)は新興住宅地と職人街。

昭和26年春も宵。
高砂町(下)は所謂、「職人街」とでも言うのだろうか。
戦後になって賑やかになって来たその頃の新興住宅地。まあ住宅地とは言っても裏通り、路地は戦後、横丁のことだ。
建付けのあまりよろしくない二軒長屋や、建増し、建増しの、取って付けたようなアパートと言うよりは間貸しがそのほとんどだった。
そんな、良くて六畳一間に、共同炊事場、共同便所の間貸し。下手をするとそこに親子七人、八人と言うのもけして珍しい話ではなかった。
それはもう、五月蝿いの五月蝿くないのと来たら今の「ガキ連中」の比ではない。
洋服の仕立職人、パチンコ屋の店員、繊維問屋の番頭さん、中には「県土木高崎出張所長」なんて言う総勢一〇人家族のような間借り人もいた。
今では県職員、いわゆる公務員ともなれば「エリート」なのだろうが。
そんな高砂町の横丁。表通りには高崎の近郷近在から高崎へ奉公に出て一人前に仕上がり、やがて独立し、店や細工場、工場を構えた明治後期から大正一桁世代が腕を競う、そんな職人街だった。
そうだ―――
そんな職人の中にも紫綬褒章かなんかは知らないが、お宮を作らせたら天下一と言った、そんな名人「匠」もこの横丁には居られた。今では、息子さんが跡を継いではいるが、はたしてどんな物か。お人柄のお噂は聞くが、その腕の実力のほどを耳にすることはない。
もっとも、その跡取職人の兄さん、昭和20年生れで、僕らは町内野球などで随分と世話になった。
まあ、商店街と言ったところで老舗は若い番地から戦時中は栄えたであろう旗屋、肥料屋、酒屋くらいのところだっただろうか。
高砂町を南北に分ける「長野堰」、その西側の末広町まで染物職人が忙しそうにしていた。この界隈、山田町、椿町、九蔵町と古くから商う紺屋が数軒あった。
高砂町一番地は館林財閥の「日清製粉高崎工場」の正門通路と、高崎市立東小学校の裏門のところから始る。
それは、そこ東二条通、辻角の「山田畳店」から始まるのだ。
僕が小学生の頃は日清製粉テニスコートを覗く裏辻までイ草の匂いをさせながら工場は細長く畳表を織っていた。
ここに云う、高砂町の横丁その「山田畳店」から東二条通りを五本辻へ凡そ、2百メートルほどのアヴェニュー、表通りと裏通り、路地をいっているのである。
今はその畳屋の親方の面影は何処にも見えない。
たしか、一男三女がいて長男が辻角で「山田歯科医院」を営んでいた。とっくの昔に閉院している。
僕が小学生低学年の頃は大宮の方へ嫁いだ長女の息子が夏休みともなると「都会」の趣で、大宮だが何故かその頃は「東京の寛(カンちゃん)」と、呼ばれ近所の「ガキ」連中を羨望させていた。たしか、その親方の孫にあたる少年を「寛ちゃん」と呼んでよく遊んだ。
次女は後に、僕等、東小学校の教師として赴任してくるのだが、「山田先生」と畏怖されていたような記憶がある。兎に角あの頃の先生は別に山田先生に限らず「怖かった」。
詳細は知らないがその山田歯科医院と軒を並べ、一時だが一盃飲み屋があった、その隣も「大塚」さんと云う「赤提灯」があったのを憶えている。
昭和30年前後のことだ、朝鮮戦争特需でかつての軍需工場「小島機械、水島鉄工所」それと高砂町五本辻の「魚市場」。夕方ともなると三々五々そこに働く、まあ「寅さん風」に言うなら「労働者諸君」だろう、肉体疲労を癒す為か、精神疲労を癒す為か、ひきも切らない酔客の喧騒が時代を映していた。
その高砂町のとっつきも此度のバブルの崩壊とやらか、先の館林財閥、正田家の「日清製粉高崎工場」も移転、取壊し。そして市街地再開発とやらで、商社「丸紅」と「東京建物」合作の超高層マンション、それも三棟七百世帯と言った夢のような都市計画、哀れにも頓挫。
結局、そこに生まれ育った僕らはお国のためじゃあないが「都市計画ご協力を」で追われるようにしてその横丁を出た。
横丁の面影すらない僕の「そこ」―――
しかし、そこにそんな「横丁」があったことすらもう誰も知らないかも知れない。それは「昭和の残像」。
僕らが終われば、それを語る者もなく全てが終わるのだろうか。
高砂町(下)は新興住宅地と職人街。
2018年04月03日
若き日の平成の大勲位
若き日の平成の大勲位

高砂町の(上)は広い・・・・・
(下)に比べたら三倍はあるのではないだろうか。恒例の「毎日元旦駅伝」のある国道356、駒方街道を跨いでもまだ高砂町(上)なのだ。その辺りどちらかと言うと豪邸の立並ぶ「お屋敷町」の趣き。
高砂町(上)には末広町とは背中を合わせてあの平成の大勲位「中曽根康弘元内閣総理大臣」の事務所があり、その大勲位のお建てになった「青雲塾」なる会館もそこにある。
大勲位と言えば、僕が小学校の頃は選挙と言えば高砂町「五本辻」で決まって演説をしていた。
高砂町の五本辻の辻角には渡辺薬局、魚市場、朝日材木店、堀越専売所と煙草屋、確かそこには赤い郵便ポストが立っていて、向いには鰻の寝床のような飯島靴製造所があった。隣にウスイ理容店。
よくは知らないがあの辺りの横丁のスーパースターの趣の当時の大勲位。当時は科学技術庁長官。高崎に「原子力研究所」を作る作らないとかの頃ではなかったか。
それは、今から四五年ほども昔の話だから、大勲位、その時、御年四〇なったかならないか。そんな時代のある選挙の時の話だ。
高砂町五本辻での演説に大勲位―――白塗りだったかクリーム色だったかのスポーツカー「MG」(だと思ったが)に、まさに跨るようにして「白馬の騎士」よろしく颯爽と万雷の拍手歓声の中来た。
「え―――、高砂町、ご町内の皆さん―――」
白っぽい高級な背広に身を包み、背筋をシャンっと伸ばすと、ちょいと顎を引いた風にして白手袋に襷がけでそう切出す。
その襷には「衆議院議員候補中曽根康弘」とある。
まあ子どもの僕らにしてみれば、まだ自動車だって物珍しい時代だって言うのに、なんとスポーツカー、それも「外車」。格好いいのなんのって半端じゃあなかった。しかも身の丈はそん所そこらの横丁の親父よりは頭ひとつデカイ。
マイクロフォンを握らせればあのバリトンがかった、一語一語がはっきりとした物言いに近所のオバサンときた日には「ぽーっと」なっていたようないなかったような(笑)。で、高砂町と言えば、婦人会の「あやめ会」。それは「中曽根康弘ファンクラブ」の趣き。それこそ横丁の玉三郎、と言ったかどうかは知らないが?
横丁、路地裏のご婦人方のアイドルであったことは「間違いない」。
大勲位、お生まれも、お育ちも、高砂町のお隣。末広町の貴公子で、町内、そのご婦人方の中には北小学校当時の同級生も沢山居られたご様子で、横丁のオバサンたちの・・・・・
「やっちゃ―――ん、やっちゃ―――ん」
素敵―――ッ!と、言ったかどうかは知らないが、そうした黄色いお声が耳元に残っている。
きりっとした太い眉毛、目鼻立ちはどう見ても横丁のそれなんかじゃあない。
まあ、大勲位が大勲位だから取巻きの後援者もこの街の名士と言うよりは、ノリノリの当時の「若旦那衆」の趣で、そんな戦後昭和の横丁に、突然として、いきなり大輪の花が咲いたような感じだった。
そうだ、選挙が近くなると金比羅神社で「中曽根康弘通産大臣」の頃だっただろうか、パーティーが。
何度かバンド演奏をやったことがあった。
「キミ、枯葉はできるか?」
ハイ、と答えると・・・・・
「僕は言語で歌うからね」
まさにバリトン、ま、鐘二つってぇところだろうか、平成の大勲位(笑)。
たまにテレビで見る大勲位―――
その大勲位ももう100歳。大分お疲れのご様子。そして、その「あやめ会」ファンクラブの横丁のオバサンたちのほとんどは鬼籍に入ってしまっている。
そしてそんな横丁は・・・今はない。
あの大勲位が若き青年将校と言われた頃の五差路のところひっそりと静まり返っている。
「碓井理容店」もうないようだがそこの「タバコ屋」の赤いポストは時代の移ろいをまだ見届けてるのだろうか?
若き日の平成の大勲位

高砂町の(上)は広い・・・・・
(下)に比べたら三倍はあるのではないだろうか。恒例の「毎日元旦駅伝」のある国道356、駒方街道を跨いでもまだ高砂町(上)なのだ。その辺りどちらかと言うと豪邸の立並ぶ「お屋敷町」の趣き。
高砂町(上)には末広町とは背中を合わせてあの平成の大勲位「中曽根康弘元内閣総理大臣」の事務所があり、その大勲位のお建てになった「青雲塾」なる会館もそこにある。
大勲位と言えば、僕が小学校の頃は選挙と言えば高砂町「五本辻」で決まって演説をしていた。
高砂町の五本辻の辻角には渡辺薬局、魚市場、朝日材木店、堀越専売所と煙草屋、確かそこには赤い郵便ポストが立っていて、向いには鰻の寝床のような飯島靴製造所があった。隣にウスイ理容店。
よくは知らないがあの辺りの横丁のスーパースターの趣の当時の大勲位。当時は科学技術庁長官。高崎に「原子力研究所」を作る作らないとかの頃ではなかったか。
それは、今から四五年ほども昔の話だから、大勲位、その時、御年四〇なったかならないか。そんな時代のある選挙の時の話だ。
高砂町五本辻での演説に大勲位―――白塗りだったかクリーム色だったかのスポーツカー「MG」(だと思ったが)に、まさに跨るようにして「白馬の騎士」よろしく颯爽と万雷の拍手歓声の中来た。
「え―――、高砂町、ご町内の皆さん―――」
白っぽい高級な背広に身を包み、背筋をシャンっと伸ばすと、ちょいと顎を引いた風にして白手袋に襷がけでそう切出す。
その襷には「衆議院議員候補中曽根康弘」とある。
まあ子どもの僕らにしてみれば、まだ自動車だって物珍しい時代だって言うのに、なんとスポーツカー、それも「外車」。格好いいのなんのって半端じゃあなかった。しかも身の丈はそん所そこらの横丁の親父よりは頭ひとつデカイ。
マイクロフォンを握らせればあのバリトンがかった、一語一語がはっきりとした物言いに近所のオバサンときた日には「ぽーっと」なっていたようないなかったような(笑)。で、高砂町と言えば、婦人会の「あやめ会」。それは「中曽根康弘ファンクラブ」の趣き。それこそ横丁の玉三郎、と言ったかどうかは知らないが?
横丁、路地裏のご婦人方のアイドルであったことは「間違いない」。
大勲位、お生まれも、お育ちも、高砂町のお隣。末広町の貴公子で、町内、そのご婦人方の中には北小学校当時の同級生も沢山居られたご様子で、横丁のオバサンたちの・・・・・
「やっちゃ―――ん、やっちゃ―――ん」
素敵―――ッ!と、言ったかどうかは知らないが、そうした黄色いお声が耳元に残っている。
きりっとした太い眉毛、目鼻立ちはどう見ても横丁のそれなんかじゃあない。
まあ、大勲位が大勲位だから取巻きの後援者もこの街の名士と言うよりは、ノリノリの当時の「若旦那衆」の趣で、そんな戦後昭和の横丁に、突然として、いきなり大輪の花が咲いたような感じだった。
そうだ、選挙が近くなると金比羅神社で「中曽根康弘通産大臣」の頃だっただろうか、パーティーが。
何度かバンド演奏をやったことがあった。
「キミ、枯葉はできるか?」
ハイ、と答えると・・・・・
「僕は言語で歌うからね」
まさにバリトン、ま、鐘二つってぇところだろうか、平成の大勲位(笑)。
たまにテレビで見る大勲位―――
その大勲位ももう100歳。大分お疲れのご様子。そして、その「あやめ会」ファンクラブの横丁のオバサンたちのほとんどは鬼籍に入ってしまっている。
そしてそんな横丁は・・・今はない。
あの大勲位が若き青年将校と言われた頃の五差路のところひっそりと静まり返っている。
「碓井理容店」もうないようだがそこの「タバコ屋」の赤いポストは時代の移ろいをまだ見届けてるのだろうか?
若き日の平成の大勲位