2018年04月03日
若き日の平成の大勲位
若き日の平成の大勲位

高砂町の(上)は広い・・・・・
(下)に比べたら三倍はあるのではないだろうか。恒例の「毎日元旦駅伝」のある国道356、駒方街道を跨いでもまだ高砂町(上)なのだ。その辺りどちらかと言うと豪邸の立並ぶ「お屋敷町」の趣き。
高砂町(上)には末広町とは背中を合わせてあの平成の大勲位「中曽根康弘元内閣総理大臣」の事務所があり、その大勲位のお建てになった「青雲塾」なる会館もそこにある。
大勲位と言えば、僕が小学校の頃は選挙と言えば高砂町「五本辻」で決まって演説をしていた。
高砂町の五本辻の辻角には渡辺薬局、魚市場、朝日材木店、堀越専売所と煙草屋、確かそこには赤い郵便ポストが立っていて、向いには鰻の寝床のような飯島靴製造所があった。隣にウスイ理容店。
よくは知らないがあの辺りの横丁のスーパースターの趣の当時の大勲位。当時は科学技術庁長官。高崎に「原子力研究所」を作る作らないとかの頃ではなかったか。
それは、今から四五年ほども昔の話だから、大勲位、その時、御年四〇なったかならないか。そんな時代のある選挙の時の話だ。
高砂町五本辻での演説に大勲位―――白塗りだったかクリーム色だったかのスポーツカー「MG」(だと思ったが)に、まさに跨るようにして「白馬の騎士」よろしく颯爽と万雷の拍手歓声の中来た。
「え―――、高砂町、ご町内の皆さん―――」
白っぽい高級な背広に身を包み、背筋をシャンっと伸ばすと、ちょいと顎を引いた風にして白手袋に襷がけでそう切出す。
その襷には「衆議院議員候補中曽根康弘」とある。
まあ子どもの僕らにしてみれば、まだ自動車だって物珍しい時代だって言うのに、なんとスポーツカー、それも「外車」。格好いいのなんのって半端じゃあなかった。しかも身の丈はそん所そこらの横丁の親父よりは頭ひとつデカイ。
マイクロフォンを握らせればあのバリトンがかった、一語一語がはっきりとした物言いに近所のオバサンときた日には「ぽーっと」なっていたようないなかったような(笑)。で、高砂町と言えば、婦人会の「あやめ会」。それは「中曽根康弘ファンクラブ」の趣き。それこそ横丁の玉三郎、と言ったかどうかは知らないが?
横丁、路地裏のご婦人方のアイドルであったことは「間違いない」。
大勲位、お生まれも、お育ちも、高砂町のお隣。末広町の貴公子で、町内、そのご婦人方の中には北小学校当時の同級生も沢山居られたご様子で、横丁のオバサンたちの・・・・・
「やっちゃ―――ん、やっちゃ―――ん」
素敵―――ッ!と、言ったかどうかは知らないが、そうした黄色いお声が耳元に残っている。
きりっとした太い眉毛、目鼻立ちはどう見ても横丁のそれなんかじゃあない。
まあ、大勲位が大勲位だから取巻きの後援者もこの街の名士と言うよりは、ノリノリの当時の「若旦那衆」の趣で、そんな戦後昭和の横丁に、突然として、いきなり大輪の花が咲いたような感じだった。
そうだ、選挙が近くなると金比羅神社で「中曽根康弘通産大臣」の頃だっただろうか、パーティーが。
何度かバンド演奏をやったことがあった。
「キミ、枯葉はできるか?」
ハイ、と答えると・・・・・
「僕は言語で歌うからね」
まさにバリトン、ま、鐘二つってぇところだろうか、平成の大勲位(笑)。
たまにテレビで見る大勲位―――
その大勲位ももう100歳。大分お疲れのご様子。そして、その「あやめ会」ファンクラブの横丁のオバサンたちのほとんどは鬼籍に入ってしまっている。
そしてそんな横丁は・・・今はない。
あの大勲位が若き青年将校と言われた頃の五差路のところひっそりと静まり返っている。
「碓井理容店」もうないようだがそこの「タバコ屋」の赤いポストは時代の移ろいをまだ見届けてるのだろうか?
若き日の平成の大勲位

高砂町の(上)は広い・・・・・
(下)に比べたら三倍はあるのではないだろうか。恒例の「毎日元旦駅伝」のある国道356、駒方街道を跨いでもまだ高砂町(上)なのだ。その辺りどちらかと言うと豪邸の立並ぶ「お屋敷町」の趣き。
高砂町(上)には末広町とは背中を合わせてあの平成の大勲位「中曽根康弘元内閣総理大臣」の事務所があり、その大勲位のお建てになった「青雲塾」なる会館もそこにある。
大勲位と言えば、僕が小学校の頃は選挙と言えば高砂町「五本辻」で決まって演説をしていた。
高砂町の五本辻の辻角には渡辺薬局、魚市場、朝日材木店、堀越専売所と煙草屋、確かそこには赤い郵便ポストが立っていて、向いには鰻の寝床のような飯島靴製造所があった。隣にウスイ理容店。
よくは知らないがあの辺りの横丁のスーパースターの趣の当時の大勲位。当時は科学技術庁長官。高崎に「原子力研究所」を作る作らないとかの頃ではなかったか。
それは、今から四五年ほども昔の話だから、大勲位、その時、御年四〇なったかならないか。そんな時代のある選挙の時の話だ。
高砂町五本辻での演説に大勲位―――白塗りだったかクリーム色だったかのスポーツカー「MG」(だと思ったが)に、まさに跨るようにして「白馬の騎士」よろしく颯爽と万雷の拍手歓声の中来た。
「え―――、高砂町、ご町内の皆さん―――」
白っぽい高級な背広に身を包み、背筋をシャンっと伸ばすと、ちょいと顎を引いた風にして白手袋に襷がけでそう切出す。
その襷には「衆議院議員候補中曽根康弘」とある。
まあ子どもの僕らにしてみれば、まだ自動車だって物珍しい時代だって言うのに、なんとスポーツカー、それも「外車」。格好いいのなんのって半端じゃあなかった。しかも身の丈はそん所そこらの横丁の親父よりは頭ひとつデカイ。
マイクロフォンを握らせればあのバリトンがかった、一語一語がはっきりとした物言いに近所のオバサンときた日には「ぽーっと」なっていたようないなかったような(笑)。で、高砂町と言えば、婦人会の「あやめ会」。それは「中曽根康弘ファンクラブ」の趣き。それこそ横丁の玉三郎、と言ったかどうかは知らないが?
横丁、路地裏のご婦人方のアイドルであったことは「間違いない」。
大勲位、お生まれも、お育ちも、高砂町のお隣。末広町の貴公子で、町内、そのご婦人方の中には北小学校当時の同級生も沢山居られたご様子で、横丁のオバサンたちの・・・・・
「やっちゃ―――ん、やっちゃ―――ん」
素敵―――ッ!と、言ったかどうかは知らないが、そうした黄色いお声が耳元に残っている。
きりっとした太い眉毛、目鼻立ちはどう見ても横丁のそれなんかじゃあない。
まあ、大勲位が大勲位だから取巻きの後援者もこの街の名士と言うよりは、ノリノリの当時の「若旦那衆」の趣で、そんな戦後昭和の横丁に、突然として、いきなり大輪の花が咲いたような感じだった。
そうだ、選挙が近くなると金比羅神社で「中曽根康弘通産大臣」の頃だっただろうか、パーティーが。
何度かバンド演奏をやったことがあった。
「キミ、枯葉はできるか?」
ハイ、と答えると・・・・・
「僕は言語で歌うからね」
まさにバリトン、ま、鐘二つってぇところだろうか、平成の大勲位(笑)。
たまにテレビで見る大勲位―――
その大勲位ももう100歳。大分お疲れのご様子。そして、その「あやめ会」ファンクラブの横丁のオバサンたちのほとんどは鬼籍に入ってしまっている。
そしてそんな横丁は・・・今はない。
あの大勲位が若き青年将校と言われた頃の五差路のところひっそりと静まり返っている。
「碓井理容店」もうないようだがそこの「タバコ屋」の赤いポストは時代の移ろいをまだ見届けてるのだろうか?
若き日の平成の大勲位
Posted by 昭和24歳
at 13:11
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