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2018年04月29日
4月29日の記事
本日「ザ・プラネッツGSライブ」
4.29(日・祝)PM6:00スタート

オールドボーイズビーアンビシャス!!
なにかの時は元救急隊員が待機してますのでご安心を。
まさに・・・

そうなんです「絶メシ」どころの騒ぎじゃあないんです・・・
肝心の、その「メシ」を食う人が「絶メンになっちゃったら元も子もない。
それどころかそういうマチが「絶マチ」になっちゃったら「絶メシ」もない。
そんなわけで、プラネッツも結成50周年、今や絶滅危惧種ですから(笑)。
リーダーでボーカルの高木賢次郎、ボーカルのケーシー富岡は共に今年72歳と、お年頃です。
そんなわけで、同世代の皆さん、諸先輩の皆さんそして今時の中年の皆さん・・・・・
後学のためにもぜひお越し下さい。コレ、戦後日本のルーツです。
本日「ザ・プラネッツGSライブ」
4.29(日・祝)PM6:00スタート
4.29(日・祝)PM6:00スタート

オールドボーイズビーアンビシャス!!
なにかの時は元救急隊員が待機してますのでご安心を。
まさに・・・

そうなんです「絶メシ」どころの騒ぎじゃあないんです・・・
肝心の、その「メシ」を食う人が「絶メンになっちゃったら元も子もない。
それどころかそういうマチが「絶マチ」になっちゃったら「絶メシ」もない。
そんなわけで、プラネッツも結成50周年、今や絶滅危惧種ですから(笑)。
リーダーでボーカルの高木賢次郎、ボーカルのケーシー富岡は共に今年72歳と、お年頃です。
そんなわけで、同世代の皆さん、諸先輩の皆さんそして今時の中年の皆さん・・・・・
後学のためにもぜひお越し下さい。コレ、戦後日本のルーツです。
本日「ザ・プラネッツGSライブ」
4.29(日・祝)PM6:00スタート
2018年04月29日
【終生】青春に邂逅する(笑)
【終生】青春に邂逅する(笑)

人生とは偶然の連続。
そのひとつ一つ重なりあい道を創る。
僕の前に道はない・・・
「赤羽」
高崎から東京に出るには上野までは行かずに「赤羽」で降りる。赤羽は当時は高崎線と東北本線。それに京浜東北線が高架を走っていた・・・たしか。
赤羽を降りるとさらに狭い高架通路を渡って木戸で改札を受けて「省線」のホームに出る。
僕等は何故かそれを「省線」と呼んでいた。赤羽と池袋を往復する赤茶けた電車。窓も椅子も木製のやつでその車内は独特の油臭い匂いがしていた。
そして池袋に着くと山手線に乗り換え新宿、渋谷だった。
そう、しかし僕等にとっては、それこそが「東京」の入口、憧れの匂いだったのだった。
ロックミュージシャン
「夢」などと云う大それたものではないが、いや、傍目には大それた大馬鹿者に映ったに違いない。
僕の「ロックミュージシャン」。もちろん当時はそんな言葉すらなかった。ただの「エレキ小僧」、不良のなり損ない。
15の時からの「エレキバンド」生活、ダンスホール「社交」に石原の「群観ホテル」のダンスパーティーにと。
そして時は空前の「エレキブーム」。街中で猫も杓子も「テケテケテケ―――」。
「アストロノウツ」の太陽の彼方、「ベンチャーズ」の急がば廻れ。テレビでは連日連夜「エレキ、エレキ」。
終いにはナショナル、ビクターまでが「エレキギター」を作り始めた。
今では努々考えられない時代、さしずめ、「ゲームボーイ」ナショナルブランドで出すようなものだろう。
僕の場合そんな時代の中を、地元ではかなりの売れっ子バンド「ザ・プラネッツ」のドラマーとして過ごしてしまった。
そのお陰で「こんなはずじゃない」の思い過ごし、勘違いが「東京」行きを決めさせてしまった・・・・
とは云うものの、この歳、もうすぐ70になろうとしてるのに、未だ「テケテケテケ―――」(笑)。
しかしそれで食わせてもらっていたのだから人生、時には「思い過ごし、勘違い」も満更ではないのかも知れない。
そう―――
あの時代。多かれ少なかれ「横文字稼業」を夢見てその「東京」と云うブランドに同世代が群がった。
「カメラマン、イラストレーター、ファッションデザイナー」
等などである。
既に戦前生まれの服飾デザイナー、イラストレーター、カメラマンが世界に名を成すようになっていた頃。
やはり、ピカイチは「横尾忠則」。
画伯は昭和一一年生まれのようだからあの時代、世代の人たちが戦後生まれ、所謂「戦争を知らない子供たち」の感性を刺激したのだろう。
要するに「超」の付く「一流」はみんなその世代ではないだろうか。黒田清太郎、篠山紀信、山本寛斎―――
何れ、焼け跡世代が僕らの「明星」だった。
【終生】青春に邂逅する(笑)

人生とは偶然の連続。
そのひとつ一つ重なりあい道を創る。
僕の前に道はない・・・
「赤羽」
高崎から東京に出るには上野までは行かずに「赤羽」で降りる。赤羽は当時は高崎線と東北本線。それに京浜東北線が高架を走っていた・・・たしか。
赤羽を降りるとさらに狭い高架通路を渡って木戸で改札を受けて「省線」のホームに出る。
僕等は何故かそれを「省線」と呼んでいた。赤羽と池袋を往復する赤茶けた電車。窓も椅子も木製のやつでその車内は独特の油臭い匂いがしていた。
そして池袋に着くと山手線に乗り換え新宿、渋谷だった。
そう、しかし僕等にとっては、それこそが「東京」の入口、憧れの匂いだったのだった。
ロックミュージシャン
「夢」などと云う大それたものではないが、いや、傍目には大それた大馬鹿者に映ったに違いない。
僕の「ロックミュージシャン」。もちろん当時はそんな言葉すらなかった。ただの「エレキ小僧」、不良のなり損ない。
15の時からの「エレキバンド」生活、ダンスホール「社交」に石原の「群観ホテル」のダンスパーティーにと。
そして時は空前の「エレキブーム」。街中で猫も杓子も「テケテケテケ―――」。
「アストロノウツ」の太陽の彼方、「ベンチャーズ」の急がば廻れ。テレビでは連日連夜「エレキ、エレキ」。
終いにはナショナル、ビクターまでが「エレキギター」を作り始めた。
今では努々考えられない時代、さしずめ、「ゲームボーイ」ナショナルブランドで出すようなものだろう。
僕の場合そんな時代の中を、地元ではかなりの売れっ子バンド「ザ・プラネッツ」のドラマーとして過ごしてしまった。
そのお陰で「こんなはずじゃない」の思い過ごし、勘違いが「東京」行きを決めさせてしまった・・・・
とは云うものの、この歳、もうすぐ70になろうとしてるのに、未だ「テケテケテケ―――」(笑)。
しかしそれで食わせてもらっていたのだから人生、時には「思い過ごし、勘違い」も満更ではないのかも知れない。
そう―――
あの時代。多かれ少なかれ「横文字稼業」を夢見てその「東京」と云うブランドに同世代が群がった。
「カメラマン、イラストレーター、ファッションデザイナー」
等などである。
既に戦前生まれの服飾デザイナー、イラストレーター、カメラマンが世界に名を成すようになっていた頃。
やはり、ピカイチは「横尾忠則」。
画伯は昭和一一年生まれのようだからあの時代、世代の人たちが戦後生まれ、所謂「戦争を知らない子供たち」の感性を刺激したのだろう。
要するに「超」の付く「一流」はみんなその世代ではないだろうか。黒田清太郎、篠山紀信、山本寛斎―――
何れ、焼け跡世代が僕らの「明星」だった。
【終生】青春に邂逅する(笑)