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2020年02月17日
高崎「チュー銀ショッピングモール」だった時代(^-^)
高崎「チュー銀ショッピングモール」だった時代(^-^)

昼間からシャッターを閉ざし、人影が途絶えた商店街。時折見かける人も高齢者ばかり。自己目的と化した行政主導の「地域活性化」では、賑わいを取り戻すことはできない。成功例の模倣や実現不可能な夢物語から卒業し、地域固有の特性・資源に目を向けよ。
スクラップ&ビルドならわかるが...
スクラップ&スクラップドのままでは(^^ゞ
横丁には魚屋があって、米屋が、酒屋が八百屋が、薬局があって、塩専売所があって和菓子屋があって豆腐屋があって、豆屋があって瀬戸物屋があって、床屋があって、自転車屋があって、鶏屋が...
まあ、なんといっても昭和30年代半ば、物資も豊かになってきた頃のこと寺田の肉屋はハイカラだった。
とにかく「肉」なんてぇのは高級食材で、コロッケ5円なんてぇのを初めて食べたのもそんな時代の話。
たしか、寺田のオバサン髪の毛を赤く染めていて、オジサンもシャキッとした、ちょいと背広でも着せたら「紳士」の趣で、当然オバサンもドレスがお似合いで、そういえば、あの当時で「ネックレス」なるものを首にかけていたのを思い出す。
狭い店だったが大きな冷蔵庫の中には「枝肉」だったんだろうか オジサン、何やら、いぶし銀のサーベルのような棒で肉切り包丁を「シャシャ」っと研ぐと、大きな肉の塊を切って豚カツサイズに仕上げこれまた柄のついた鉄の塊でその肉を「トントン」と伸ばし、卵汁につけ、それにパン粉をまぶすと大きな油鍋に「サラッ」と...
するとその油鍋の中で豚カツがきつね色になりながら小躍りするようにして揚がる。
まあ、あの時代コロッケが5円の頃ハムカツが15円、メンチカツが20円、豚カツがたしか60円はしたから、それは結構なご馳走で、親父の給料日になると寺田にお使いに行くのが楽しみだった。
で、その豚カツ、経木に載せられるとたっぷりのキャベツが添えられ、オバチャンが「ボク、ソースかけるかい?」って。
そうなんです、あの時代ほとんどの家庭、庶民のあいだでは「ソース」はハイカラな調味料、まあ、「ソース」を使うなんってぇのはこれも、
たまぁ~におフクロが小麦粉たっぷりの「カレーライス」、それも「カレー粉」の具合の悪い、そういえば、肉は高級品だったから鯨肉だったかもしれない。
まあ、そんなわけで、「ソース」は「カレー」にくらいしか使わなかったし、もっぱら揚げ物といえば「天ぷら」の時代でしたし、「ソース」そのものがハイカラ(笑)。
で、寺田のオバサン、僕が「うん」っていうと、キラキラ輝いたガラスの「ソース差し」で、
まるで豚カツに模様を描くようにして「サラサラ」っとかけるとその経木でたたんで、ヒノキ紐で「キュキュ」っと包むと一丁上がり...
まっ、そんな時代でコロッケは5円だったし友達と遊びながら時々「寺田のコロッケ」を食べた。
そうだ「ソース」っていったら「焼きそば」なんだけど当時の「焼きそば」ってソースかかってた?
たしか、東小学校の正門のところによく来てた屋台の「焼きそば屋」。
これも、ひとつ「5円」で子供の手のひらサイズにカットされた経木に載せられ、青のりをまぶして、爪楊枝で食べる、まあ、少しは「ソース」の味はしていたかもしれないが。
そんなわけで、僕の横丁でさえ「東二条通りショッピングモール」だったんだから、
そら、「チュー銀」ときた日には、まさに「銀座」。まっ、日本中どこにでもあった「それ」。
で、「チュー銀」と言ったら八間道路を田町通りに向かうと「ラメーゾン」高級洋菓子店と、 武田薬品のネオン塔のあった3階建てくらいの「安藤製薬」、そこから始まる。
で、その「ラメーゾン」なんだがそれはそれはハイカラなんてぇもんじゃあない、まあ、横丁の庶民には敷の高いことといったらなかったし、ついぞ、その「ラ・メーゾン」、 子どもの頃には寄せてもらったことはなかった。
まあ、もっとも「ケーキ」と「コーヒー」といったらそれは映画の中の話、まだテレビのなかった時代。
まあ、そんなわけで「チュー銀」という別世界の入口、その「ラメーゾン」と「安藤製薬」を入ると、確か右側にはいわゆる、今で言う「オートクチュール」か「プレタポルテ」かそんな高級婦人洋装店が。
で、その並びにやはり高級紳士服店、テーラードでしょうか「岡田」が幅を利かせていた。
そう、もちろん未だ「藤五」もない時代の話なので、なんといっても「百貨店」といったら、 「うろころ」でしたね。子どもながらに「うろころ」って変な名前だなぁと思いつつも・・・・・
もともとが呉服店とかで、そういやあ当時のオバサンはほとんどが着物だったし、
何かっていうと、おふくろたちは「うろころ」へと急かせていた。
で、まさに銀座4丁目といったところだろうか、その意味では高崎で初めての「デパート」が 「おしゃれデパート」。
そのなんと煌びやかだったことと言ったらなかった。
もちろん、僕ら「ガキ」にはそもそも縁遠かったんだが、10歳年上の姉たちにはそれこそ、「銀座4丁目」そのものだったようだ。
そしてその辻向かいには「純喫茶ナポリ」と、
その30年代、40年代と高崎で「地価」の高いところナンバーワンだった「関口メガネ」に、その隣が「すかや本店」で、まあ、年に一度か二度くらいしか、多分「えびす講」とかで...
盆暮れ正月で親父の機嫌のいいときにしかだったが、確か二階の座敷もあってそれは盛況だった。
まあ、もっとも、横丁の庶民のあいさでは「すかや」といえば「八間道路」のそれだった。
といったように、その「チュー銀」その関口メガネ、おしゃれデパート、純喫茶ナポリの四ツ角を中心に南北に...
いやぁ、それは今の「イオン」なんてぇもんじゃない、賑やかさだった。
そんな中に、映画館「松竹」があり、僕が小学校4年の時にできた「オリオン座」と、僕ら子どもには「禁断の地」だった「柳川町」の中にあった「電気館」。
その「松竹」ではたしか三船敏郎主演の「日本誕生」なんてぇのを親父と見た記憶がある。
そんな「チュー銀ショッピングモール」、「富士屋洋品店」、「正直屋」、「大正堂」等々。
で、「チュー銀ショッピングモール」、南に行くとそこは「専門店街」の趣で、今はなくなっちゃったけど「松屋」の紳士服専門店とか「松原楽器」とか「田中帽子店」とか、カメラの専門店「浅間カメラ」だったか、「らっちゃん」の親父さんの。
和菓子専門店「観音堂」に、同じくその観音堂の並びに今でも頑張って営業してる「木屋新」履物専門店とか。
そういやあ、たしか同級生の家「婦人下着専門店」なんてぇのも後年には。
まあ、それは「高崎」が人口17万人程の時代で、たしか戦後昭和の市町村大合併によるものだったが...
それが今では37万人と「平成の大合併」にもかかわらず、その「チュー銀ショッピングモール」はその面影さえ消え去ろうとしているのは何故?

昼間からシャッターを閉ざし、人影が途絶えた商店街。時折見かける人も高齢者ばかり。自己目的と化した行政主導の「地域活性化」では、賑わいを取り戻すことはできない。成功例の模倣や実現不可能な夢物語から卒業し、地域固有の特性・資源に目を向けよ。
スクラップ&ビルドならわかるが...
スクラップ&スクラップドのままでは(^^ゞ
横丁には魚屋があって、米屋が、酒屋が八百屋が、薬局があって、塩専売所があって和菓子屋があって豆腐屋があって、豆屋があって瀬戸物屋があって、床屋があって、自転車屋があって、鶏屋が...
まあ、なんといっても昭和30年代半ば、物資も豊かになってきた頃のこと寺田の肉屋はハイカラだった。
とにかく「肉」なんてぇのは高級食材で、コロッケ5円なんてぇのを初めて食べたのもそんな時代の話。
たしか、寺田のオバサン髪の毛を赤く染めていて、オジサンもシャキッとした、ちょいと背広でも着せたら「紳士」の趣で、当然オバサンもドレスがお似合いで、そういえば、あの当時で「ネックレス」なるものを首にかけていたのを思い出す。
狭い店だったが大きな冷蔵庫の中には「枝肉」だったんだろうか オジサン、何やら、いぶし銀のサーベルのような棒で肉切り包丁を「シャシャ」っと研ぐと、大きな肉の塊を切って豚カツサイズに仕上げこれまた柄のついた鉄の塊でその肉を「トントン」と伸ばし、卵汁につけ、それにパン粉をまぶすと大きな油鍋に「サラッ」と...
するとその油鍋の中で豚カツがきつね色になりながら小躍りするようにして揚がる。
まあ、あの時代コロッケが5円の頃ハムカツが15円、メンチカツが20円、豚カツがたしか60円はしたから、それは結構なご馳走で、親父の給料日になると寺田にお使いに行くのが楽しみだった。
で、その豚カツ、経木に載せられるとたっぷりのキャベツが添えられ、オバチャンが「ボク、ソースかけるかい?」って。
そうなんです、あの時代ほとんどの家庭、庶民のあいだでは「ソース」はハイカラな調味料、まあ、「ソース」を使うなんってぇのはこれも、
たまぁ~におフクロが小麦粉たっぷりの「カレーライス」、それも「カレー粉」の具合の悪い、そういえば、肉は高級品だったから鯨肉だったかもしれない。
まあ、そんなわけで、「ソース」は「カレー」にくらいしか使わなかったし、もっぱら揚げ物といえば「天ぷら」の時代でしたし、「ソース」そのものがハイカラ(笑)。
で、寺田のオバサン、僕が「うん」っていうと、キラキラ輝いたガラスの「ソース差し」で、
まるで豚カツに模様を描くようにして「サラサラ」っとかけるとその経木でたたんで、ヒノキ紐で「キュキュ」っと包むと一丁上がり...
まっ、そんな時代でコロッケは5円だったし友達と遊びながら時々「寺田のコロッケ」を食べた。
そうだ「ソース」っていったら「焼きそば」なんだけど当時の「焼きそば」ってソースかかってた?
たしか、東小学校の正門のところによく来てた屋台の「焼きそば屋」。
これも、ひとつ「5円」で子供の手のひらサイズにカットされた経木に載せられ、青のりをまぶして、爪楊枝で食べる、まあ、少しは「ソース」の味はしていたかもしれないが。
そんなわけで、僕の横丁でさえ「東二条通りショッピングモール」だったんだから、
そら、「チュー銀」ときた日には、まさに「銀座」。まっ、日本中どこにでもあった「それ」。
で、「チュー銀」と言ったら八間道路を田町通りに向かうと「ラメーゾン」高級洋菓子店と、 武田薬品のネオン塔のあった3階建てくらいの「安藤製薬」、そこから始まる。
で、その「ラメーゾン」なんだがそれはそれはハイカラなんてぇもんじゃあない、まあ、横丁の庶民には敷の高いことといったらなかったし、ついぞ、その「ラ・メーゾン」、 子どもの頃には寄せてもらったことはなかった。
まあ、もっとも「ケーキ」と「コーヒー」といったらそれは映画の中の話、まだテレビのなかった時代。
まあ、そんなわけで「チュー銀」という別世界の入口、その「ラメーゾン」と「安藤製薬」を入ると、確か右側にはいわゆる、今で言う「オートクチュール」か「プレタポルテ」かそんな高級婦人洋装店が。
で、その並びにやはり高級紳士服店、テーラードでしょうか「岡田」が幅を利かせていた。
そう、もちろん未だ「藤五」もない時代の話なので、なんといっても「百貨店」といったら、 「うろころ」でしたね。子どもながらに「うろころ」って変な名前だなぁと思いつつも・・・・・
もともとが呉服店とかで、そういやあ当時のオバサンはほとんどが着物だったし、
何かっていうと、おふくろたちは「うろころ」へと急かせていた。
で、まさに銀座4丁目といったところだろうか、その意味では高崎で初めての「デパート」が 「おしゃれデパート」。
そのなんと煌びやかだったことと言ったらなかった。
もちろん、僕ら「ガキ」にはそもそも縁遠かったんだが、10歳年上の姉たちにはそれこそ、「銀座4丁目」そのものだったようだ。
そしてその辻向かいには「純喫茶ナポリ」と、
その30年代、40年代と高崎で「地価」の高いところナンバーワンだった「関口メガネ」に、その隣が「すかや本店」で、まあ、年に一度か二度くらいしか、多分「えびす講」とかで...
盆暮れ正月で親父の機嫌のいいときにしかだったが、確か二階の座敷もあってそれは盛況だった。
まあ、もっとも、横丁の庶民のあいさでは「すかや」といえば「八間道路」のそれだった。
といったように、その「チュー銀」その関口メガネ、おしゃれデパート、純喫茶ナポリの四ツ角を中心に南北に...
いやぁ、それは今の「イオン」なんてぇもんじゃない、賑やかさだった。
そんな中に、映画館「松竹」があり、僕が小学校4年の時にできた「オリオン座」と、僕ら子どもには「禁断の地」だった「柳川町」の中にあった「電気館」。
その「松竹」ではたしか三船敏郎主演の「日本誕生」なんてぇのを親父と見た記憶がある。
そんな「チュー銀ショッピングモール」、「富士屋洋品店」、「正直屋」、「大正堂」等々。
で、「チュー銀ショッピングモール」、南に行くとそこは「専門店街」の趣で、今はなくなっちゃったけど「松屋」の紳士服専門店とか「松原楽器」とか「田中帽子店」とか、カメラの専門店「浅間カメラ」だったか、「らっちゃん」の親父さんの。
和菓子専門店「観音堂」に、同じくその観音堂の並びに今でも頑張って営業してる「木屋新」履物専門店とか。
そういやあ、たしか同級生の家「婦人下着専門店」なんてぇのも後年には。
まあ、それは「高崎」が人口17万人程の時代で、たしか戦後昭和の市町村大合併によるものだったが...
それが今では37万人と「平成の大合併」にもかかわらず、その「チュー銀ショッピングモール」はその面影さえ消え去ろうとしているのは何故?
2020年02月17日
介護職離れ深刻!!
2009年05月21日
介護職離れ深刻!!

養成学校への若者充足率過去最低の40%
つまり行政は他人事だということだ!!
介護という仕事がいかにキツイか!!
正直、お叱りを覚悟で言えば、いわゆる3Kである!!
そればかりか、3K+Y(安い)だ。
極めて低賃金。しかも、派遣ともなれば何の保証もなくただ過酷な勤務実態だけなのだ。
くどいが、少子化で、教職員数も減少する。
つまり社会構造が大きく変わろうとしているのに、行政の感覚は「介護職」を公的なものとするつもりがない。
小泉構造改革でいう「民間にできることは民間に」とかだが、ならば、「官にできることは官に」。
いや、「官がしなければならないことは官に」ではないのか!?
なぜなら、介護保険等、すべて税金で賄っているからではないか。
そしてこれからも、来る、本格的高齢化社会を見据え、社会保障のための消費税増税を言う。
それを、民間に丸投げして「補助金行政」で、現実の「介護社会」が保てるわけがない。
国、地方公務員、みなし公務員の年間総人件費は60兆円とも70兆円とも言われている。
その平均が、700万円とも、800万円とも言われている。
ところがどうだ、補助金行政で丸投げされた介護職はその平均は300万円はおろか、
200万円台のパートタイムだという現実まで指摘されている。
今日の参議院予算委員会でも、介護職に13000円ほどの加算処置をマスゾエ厚労大臣は言っていたが、
そもそもが、政府、行政の認識がその程度なのだから...
「安心、安全」そして「豊かな」高齢社会など絵に描いたモチでしかない。
それでいて、介護保険料は年々アップしていく仕組み、さらに消費税増税を言いう始末。
現在の膨大な予算を、介護職、高齢化社会に転用すればいいだけの話ではないか。
将来に向けて、志の持てる職業であるべきではないのか。
立派な介護士になりたい!!
立派なヘルパーになりたい!!
そんな思いになってもらうのが本当ではないのか。
それが、生活が苦しい、結婚もできない、将来の夢も持てない。
それでは「老老介護」とおなじ、「貧貧介護」ということになってしまう。
挙句、それらの介護費用を安く上げようと、発展途上国から介護士、看護士をなどという国民を蔑ろにした政策を平然と執る政府、行政。
雇用不安で、いくらでも人材はいるというのにである。
やはり国民が政府を選ぶ時なのかも知れない。
このままでは、この政府に国民は殺されてしまう...
介護職離れ深刻!!
介護職離れ深刻!!

養成学校への若者充足率過去最低の40%
つまり行政は他人事だということだ!!
介護という仕事がいかにキツイか!!
正直、お叱りを覚悟で言えば、いわゆる3Kである!!
そればかりか、3K+Y(安い)だ。
極めて低賃金。しかも、派遣ともなれば何の保証もなくただ過酷な勤務実態だけなのだ。
くどいが、少子化で、教職員数も減少する。
つまり社会構造が大きく変わろうとしているのに、行政の感覚は「介護職」を公的なものとするつもりがない。
小泉構造改革でいう「民間にできることは民間に」とかだが、ならば、「官にできることは官に」。
いや、「官がしなければならないことは官に」ではないのか!?
なぜなら、介護保険等、すべて税金で賄っているからではないか。
そしてこれからも、来る、本格的高齢化社会を見据え、社会保障のための消費税増税を言う。
それを、民間に丸投げして「補助金行政」で、現実の「介護社会」が保てるわけがない。
国、地方公務員、みなし公務員の年間総人件費は60兆円とも70兆円とも言われている。
その平均が、700万円とも、800万円とも言われている。
ところがどうだ、補助金行政で丸投げされた介護職はその平均は300万円はおろか、
200万円台のパートタイムだという現実まで指摘されている。
今日の参議院予算委員会でも、介護職に13000円ほどの加算処置をマスゾエ厚労大臣は言っていたが、
そもそもが、政府、行政の認識がその程度なのだから...
「安心、安全」そして「豊かな」高齢社会など絵に描いたモチでしかない。
それでいて、介護保険料は年々アップしていく仕組み、さらに消費税増税を言いう始末。
現在の膨大な予算を、介護職、高齢化社会に転用すればいいだけの話ではないか。
将来に向けて、志の持てる職業であるべきではないのか。
立派な介護士になりたい!!
立派なヘルパーになりたい!!
そんな思いになってもらうのが本当ではないのか。
それが、生活が苦しい、結婚もできない、将来の夢も持てない。
それでは「老老介護」とおなじ、「貧貧介護」ということになってしまう。
挙句、それらの介護費用を安く上げようと、発展途上国から介護士、看護士をなどという国民を蔑ろにした政策を平然と執る政府、行政。
雇用不安で、いくらでも人材はいるというのにである。
やはり国民が政府を選ぶ時なのかも知れない。
このままでは、この政府に国民は殺されてしまう...
介護職離れ深刻!!