2009年01月28日

哲学堂が泣いている・・・・・

哲学堂が泣いている・・・・・





科学技術の発展や世界的な交流の拡大は、私たちの認識を大きく広げています。
しかし、情報が多くなり知識が増えれば増えるほど、それを整理し、人がより良く賢明に生きあうにはどうしたらよいかを学び合う対話の場、集団学習の場が必要です。
優れた哲学、本物の情報を持っている方々との生きた対話が必要です。
どう生きたらいいのか、どう考えたらもっと賢明に生きることができるのか。
世界を、人間をもっと深く知りたい。理想を現実に変える生きた知恵が欲しい。
そんな方がいらしたらぜひ哲学堂の門を叩いて下さい。

哲学とは、私たちが、私たちの社会に賢明に生きようとする願望の学問です。
高崎哲学堂は、現在の政治や教育の手の届かないことを勉強する高崎の寺子屋です。



今朝の上毛新聞・・・・・

どうやらご案内の“哲学堂”の首が回らなくなってきているらしい。
財団の“哲学堂”としてはその設立に対し基金1億2,400万円に対し金融機関からの借り入れ“約2億円”がママならない状態で・・・・・
ついては、高崎市に・・・・というより財団としてはそのつもりだとの報道でした。

時代の趨勢、栄枯盛衰でしょうか昨年はその“哲学堂”の開祖井上房一郎翁が元社長の創業足掛120年とかの上場企業“井上工業”が倒産・・・・・
井上工業といえば観音様、観音様といえば井上工業。まあ明治のころに高崎で実業家として大成功をおさめた“井上保三郎翁”が昭和11年に建立とか。

日清・日露戦争では高崎十五連隊から多くの若者が出兵そして戦死。その供養の意をこめて“井上保三郎翁”が建立し「高崎市に寄贈」・・・・昭和11年?。
改めて「けっこう新しい」と思ってしまった・・・・・
現在は“慈眼院”の境内となっているが、実はその“慈眼院”は昭和16年に“白衣観音”の足下に移転とか(チャッカリしてます)。

まあ、詳らかではないが、儲けたんですね“井上保三郎”翁!!

だって、昭和11年といえば、“二二六事件”で首都東京、戒厳令とか・・・・・
翌年の昭和12年には“日中戦争”が、14年にはヨーロッパを発端に“第二次世界大戦”勃発し。
そして“昭和20年までの太平洋戦争となる。

で、その“井上保三郎”翁が建立の昭和11年、今世間で騒がれている「アメリカ発の世界恐慌」がたしか昭和3年?
そんな時代に、「莫大な資材を投じて」って言う話なんだから・・・・・

まあ、“井上工業”って、「土建屋」なんだし、「土建屋」といえば“公共事業”で、
大正時代の第一次世界大戦では漁夫の利で官営産業が大儲け、で、多分としか言いようがないんだけど・・・・・
大正10年の“関東大震災”でこの辺りの土建屋、材木屋は相当オイシイ思いをしたとか。つまり「復興ビジネス」です(笑)。

そうでもなけりゃあ、「莫大な資産を投じて」寄進なんてできるわけない・・・・・
つまり、そんな、戦争とか大震災とかでの“ビジネス”での蓄財。
まあ、当時、今太閤といわれた“田中角栄元首相”がその井上工業の東京、上野支店で給仕、駆け出し・・・・・
まあ、元田中首相に先見の明があって土建の井上工業門を叩いたのか、そこで土建業(公共事業)の旨みを知ったのか?
だからって、それがどうしたっていう意味で言ってるんじゃあないんですけど、そうに聞こえますか?(笑)。

それにしても、そう「栄枯盛衰」って言う話なんですが・・・・・

その“哲学堂”です。

「現在の政治や教育の手の届かないことを勉強する高崎の寺子屋です。」


“高崎の寺子屋”をたったの2億円で高崎市に「何とかしてくれ」っていうことになっちまった・・・・・
まあ、松浦市長も20年から高崎市の“大統領”やってんだから、そのくらいの“寺子屋”の一つや二つ、面倒見なさい、「私財を投じて」!!(笑)
だって、“白依観音”もらっちゃたんですから・・・・・
多分、これって今造ったらきっと「10億、20億円」じゃあきかないんじゃあないの!!???

まあ、たったの“2億円”じゃあないですか・・・・・・
なんとか面倒見た方がいいんじゃあないですか(笑)。

ところで、その“寺子屋”だっていう“哲学堂”なんですけど、
僕もあまり知りませんでしたし、これまで全く素通りだったんですけど、ついこの間知り合いがその“哲学堂”で「情念のライブ」って言うのをやりましたんで、
つい、行ってしまったんですけど、まあ、「そうなんだ」っていう感じで「だから?」っていう印象が強かったんですけど・・・・・

まあ、「高崎の寺子屋」っていう割には下々には認知されてないんじゃあないですかが実感で、
そういうわけでは高崎の下々、庶民にとっては「どうでもいい話」のように思ってしまうんだけど・・・・・

まあ、それでも異空間であることは確かです。
まあ、南小(哲学堂の隣)も短学級で児童生徒数も少ない“限界小学校”だし、まっ、東小、中央小と城南小に上手い具合に統合させちゃって・・・・・
“南小”と“哲学堂”とでその哲学堂の森も活かして“公園”にしちゃうなんて言うのどうだろうか。

また、公売になんて言うことにでもなって・・・・・
わけの分かんない“ァパ”とか“東横”とかみたいな業者が落札してあそこが“マンション”なんて言うことにも!!???

まあ、せっかくの“哲学堂”で“哲学”をなんていう話ですが、この高崎市は都市再開発とかで「哲学もヘチマもない」状態・・・・・
さぞや、観音様の足下で銅像となってこの高崎市を見下ろしている“井上保三郎”翁はさぞやお嘆きでは。

で、“白衣観音”の“観音山”なんだけど・・・・・この観音山の由来はその“白依観音”とは何の関係もないとかです。
なんでもその“観音山”は高崎駅から観音通りを聖石橋から真っ直ぐ行った突き当りの観音山の中腹にある“清水寺”、
これ「キヨミズデラ」じゃあなく「セイスイジ」だそうで、因みに漢字変換間違えないでください・・・・・(笑)。
その歴史は古い!無茶苦茶古いんですね!!驚きです!!!

どのくらい古いかっていうと『坂上田村麻呂』・・・・“綾小路きみまろ”の又従兄弟ではありません・・・・・
なんと、西暦“808年”っていうから、つまり平安時代の取っつきにその“まろ”様が「蝦夷征討」のために京都の清水寺から開基のお噂。
まあ、それがお噂通りか疑う理由もないのでその通りだとすると1200年前からここにあったとかですから・・・・・

それにしてもその時代この辺りは“蝦夷地”だったんですね。
ということは、僕は先祖はその“ナントカまろ”に征討された“蝦夷人”つまり子孫(笑)。
どうりで僕は眉毛が濃くて太くて髭が濃くていわゆる“蝦夷人”ぽいっ・・・・・

まあ、この辺り5世紀、6世紀の古墳やら住居遺跡でいっぱいだから、
もしかしたらその時代、桓武天皇の命令かなんかで滅ぼされたか東北、北海道、つまり白河以北に追いやられ、そして蝦夷地・・・・・

“高崎の寺子屋”

「現在の政治や教育の手の届かないことを勉強する高崎の寺子屋です。」

の、すすめですから、まあ、“哲学堂”どうなることやらはともかくとして、
みなさん遠慮なくそこに集い、あれやこれや話しませんか・・・・・


「哲学堂で笑いましょう!!」

哲学堂で“寄席”なんて言うのもいいですね。
今度JAZZライブでもやりましょうか・・・・・


「オーーーイ、吉野さん聞いてるーーーーー!!???」  


Posted by 昭和24歳  at 14:25Comments(8)

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