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2017年09月22日
平和への「エンディングノート」
平和への「エンディングノート」

二人の父と二人の母・・・
写真(左)に写るのは僕のいない昭和20年初夏の一葉。
集合写真(左)
前列左は国鉄制服姿のもう一人の父(33歳・当時)、隣は祖母アキ(59歳)と長姉・冨美子(6歳)、伯母・シマと三男・倍行(2歳)、もう一人の母(24歳)とシマ(30歳)の次男・倍知(5歳)・・・・・
後ろが伯母、名前は失念、抱っこしてるのは2歳の長女・イセ子、後ろ左端は次姉、加陽子(2歳)を抱っこする母(28歳)。
従兄の稔(7歳)、義明(7歳)は国民学校の1年生だったのだろうか、この写真にはいない。
そうだ、祖父、与三郎(61歳)もいない。多分、野良仕事か、高崎の市場へでも行ってたんだろうか。
昭和19年3月18日に生まれたという僕のすぐ上の姉が写っていないところを見ると・・・・・
昭和20年7月12日に亡くなったというからその直後のものなのだろうか?
そこにはもう一人の父ともう一人の母が写っているから昭和20年3月10日以降のものなのか、定かではない。
そう、もうひとりの父と母は昭和18年頃は東京の巣鴨に住んでいたと聞いてる。
国鉄職員として東京駅に勤務していた父は東京大空襲、昭和20年3月10日、その時は勤務中だったと言ってた。
そこに写るもう一人の母はその東京大空襲の時命からがら豊岡村へ逃げ帰ってきたという。
そこに写る伯母(もう一人の母の姉・父の母)、シマは渋谷区本町にタイル業を営む森田永吉(伯父)と暮らしていたが・・・・・
空襲が激しくなり、先に生家に疎開していた長男・稔、次男・倍知の所へ18年に生まれたばかりの三男・倍行を背負っての帰郷だった。
右の写真は父、保夫(32歳)、この頃は40代半ばだっただろうかよく僕の高崎の家にもオート三輪を駆ってやってきた。
父はその頃小学3年生くらいだった僕をそのオート三輪にのせて高崎公園にあった武徳殿や鶴見町の市場へ連れて行った。
映画もよく見せてもらった、相撲が大好きだった父に連れられていった「土俵の鬼」(若乃花物語)のことは今でも脳裏に。
そう、姉、冨美子の話では父は柔道の黒帯で、武徳殿では師範だったという。
そう言えば、僕が仕事をしていたキャバレーニュージャパンの前の八百屋、中西のオヤジさんが父のことを知っていて柔道を教わったとか言っていたのを思い出す。
父は、その武徳殿で僕にも柔道をさせようと思ったようだが、僕が泣き虫で逃げ回っていたので諦めたらしい。
そんな父も50歳になると持病の糖尿病が悪化し入退院を繰り返し、長女、冨美子に次男が生まれるとすぐに53歳で高崎国立病院で息を引き取った。
僕が15歳の時で、父、享年53歳。そんな父がエンディングノートを書いていたとしたらそれはどんなものだっただろうか・・・・・
もちろん、もう一人の父もそうだが、最後まで僕には気を遣い大切に育ててくれた。
その、もうひとりの父危篤の知らせを聞いたのがエレキの行商の最中、宿泊先だった金沢市の「都ホテル」。
当時は携帯電話等はなく、営業終了しホテルに着くと既にチェックインカウンターに会社から「父危篤」の一報が。
即、宿泊をキャンセルして北陸道、関越道と乗り継ぎ父、入院先の綿貫病院へと急いだ。
僕を待つかのように、臨終を迎えた。
もちろん、父との思い出よりもう一人の父との思い出の方が数十倍、いや数百倍はあった。
それらの思い出が、その瞬間頭の中をぐるぐると駆け巡った。享年73歳。
そのもう一人の父にとって不肖の息子とのエンディングノートは一体どんなものだったんだろうか?
いつかは、僕のエンディングノートとして、もう一人の父との日々を綴ってみたい・・・・・
平和への「エンディングノート」

二人の父と二人の母・・・
写真(左)に写るのは僕のいない昭和20年初夏の一葉。
集合写真(左)
前列左は国鉄制服姿のもう一人の父(33歳・当時)、隣は祖母アキ(59歳)と長姉・冨美子(6歳)、伯母・シマと三男・倍行(2歳)、もう一人の母(24歳)とシマ(30歳)の次男・倍知(5歳)・・・・・
後ろが伯母、名前は失念、抱っこしてるのは2歳の長女・イセ子、後ろ左端は次姉、加陽子(2歳)を抱っこする母(28歳)。
従兄の稔(7歳)、義明(7歳)は国民学校の1年生だったのだろうか、この写真にはいない。
そうだ、祖父、与三郎(61歳)もいない。多分、野良仕事か、高崎の市場へでも行ってたんだろうか。
昭和19年3月18日に生まれたという僕のすぐ上の姉が写っていないところを見ると・・・・・
昭和20年7月12日に亡くなったというからその直後のものなのだろうか?
そこにはもう一人の父ともう一人の母が写っているから昭和20年3月10日以降のものなのか、定かではない。
そう、もうひとりの父と母は昭和18年頃は東京の巣鴨に住んでいたと聞いてる。
国鉄職員として東京駅に勤務していた父は東京大空襲、昭和20年3月10日、その時は勤務中だったと言ってた。
そこに写るもう一人の母はその東京大空襲の時命からがら豊岡村へ逃げ帰ってきたという。
そこに写る伯母(もう一人の母の姉・父の母)、シマは渋谷区本町にタイル業を営む森田永吉(伯父)と暮らしていたが・・・・・
空襲が激しくなり、先に生家に疎開していた長男・稔、次男・倍知の所へ18年に生まれたばかりの三男・倍行を背負っての帰郷だった。
右の写真は父、保夫(32歳)、この頃は40代半ばだっただろうかよく僕の高崎の家にもオート三輪を駆ってやってきた。
父はその頃小学3年生くらいだった僕をそのオート三輪にのせて高崎公園にあった武徳殿や鶴見町の市場へ連れて行った。
映画もよく見せてもらった、相撲が大好きだった父に連れられていった「土俵の鬼」(若乃花物語)のことは今でも脳裏に。
そう、姉、冨美子の話では父は柔道の黒帯で、武徳殿では師範だったという。
そう言えば、僕が仕事をしていたキャバレーニュージャパンの前の八百屋、中西のオヤジさんが父のことを知っていて柔道を教わったとか言っていたのを思い出す。
父は、その武徳殿で僕にも柔道をさせようと思ったようだが、僕が泣き虫で逃げ回っていたので諦めたらしい。
そんな父も50歳になると持病の糖尿病が悪化し入退院を繰り返し、長女、冨美子に次男が生まれるとすぐに53歳で高崎国立病院で息を引き取った。
僕が15歳の時で、父、享年53歳。そんな父がエンディングノートを書いていたとしたらそれはどんなものだっただろうか・・・・・
もちろん、もう一人の父もそうだが、最後まで僕には気を遣い大切に育ててくれた。
その、もうひとりの父危篤の知らせを聞いたのがエレキの行商の最中、宿泊先だった金沢市の「都ホテル」。
当時は携帯電話等はなく、営業終了しホテルに着くと既にチェックインカウンターに会社から「父危篤」の一報が。
即、宿泊をキャンセルして北陸道、関越道と乗り継ぎ父、入院先の綿貫病院へと急いだ。
僕を待つかのように、臨終を迎えた。
もちろん、父との思い出よりもう一人の父との思い出の方が数十倍、いや数百倍はあった。
それらの思い出が、その瞬間頭の中をぐるぐると駆け巡った。享年73歳。
そのもう一人の父にとって不肖の息子とのエンディングノートは一体どんなものだったんだろうか?
いつかは、僕のエンディングノートとして、もう一人の父との日々を綴ってみたい・・・・・
平和への「エンディングノート」